明美

 ネクタイをだらしなく緩めた拓弥は、無人駅の改札をうなだれたまま出た。これからマンションに帰ることを考えると、溜め息がついて出た。足取りが重い。同じ電車を下りた人々はいつのまにか散っていて、拓弥だけがぽつんと一人その場に取り残されていた。拓弥はぼんやり顔をあげると、道の向こうに帰宅を急ぐスーツ姿の男性の姿が目に入った。あの人たちにきっと家族が待ってくれているんだろうな、拓弥は足早にの去り行く背中にそんな考えが浮かんだ。
「やっぱり俺が悪いのか」
 そう呟いて、拓弥は重い足で疲れきった体を運ぶ。寒い北風に、コートを襟を立てると、昨日のやり取りが思い出された。
 七歳も違う妻の明美が、拓弥にぶち切れたのだ。きっかけはディナーに行く予定を、残業に残業が重なったせいで、すっぽかしてしまったのだ。
 拓弥が帰宅した途端、クッションを投げつけられた。その次に飛んできたのは、白い花瓶。拓弥のスーツは水で濡れてしまった。花瓶が割れなかったのは幸いか。
『明美、仕事だから――』
 しょうがないだろう、と拓弥が言おうしたら、それよりも早く明美が叩きつける。
『仕事と言えば、何だって許してもらえると思ってるんでしょう!』
 さすがにこの言葉は、響いた。脳ミソが揺れるというのは、こういう感じなのかもしれなかった。拓弥が何も言い返せずにいたら、明美は皿を床に叩きつけてしまった。
『私がどれくらい我慢しているのか、分かる? どんなに頑張っているか、分かる?』
 明美は手当たり次第に、手元にあるものを投げつけてくる。半狂乱になっていた明美に、拓弥はかけるべき言葉を見つけられなかった。
「俺が甘えすぎてたよな」
 マンションまでがこんなに遠いのは、初めてだった。
 拓弥は二十六歳。明美は三十三歳。結婚して、三年。明美は姉さん女房で、完全に拓弥を尻に敷いていたが、それでも拓弥を必死に支えていた。別に二人でいることに明美がいらだっているわけではない。多分、どちらかと言えば、幸せであったと思う。いやその自信を拓弥は持っていた。
「そう思っていたのは、俺だけだったのかな?」
 二人の間に子どもができないとわかったのは、結婚して一年半程してからのことだった。
『子どもができなくても、俺たちは幸せになれるよ』
 泣く明美にそう言ってみせたことを、拓弥は今でもはっきりと憶えている。それから、まもなく明美が、密かに不妊治療を始めたことも――。なんとなくギクシャクしてしまった。ちょっとずつ歯車がずれた。
「結局、明美の気持ちを分かってやれてなかったんだろうな。明美を気遣うつもりで、あのとき傷つけてしまったんだろうな」
 なぜ子どもが欲しいのか、男だから、俺はもしかしたら一生分かってやれないのかもしれない。そう思ったら、無性に明美を遠く感じられてしまった。
 拓弥の脳裏に離婚の二文字がよぎる。薄暗い部屋でダイニングテーブルに離婚届が一枚だけ置かれて、明美は何も言わないで、向かいに座ったまま――妙な想像だけが働く。これくらいで、と思いながら、これくらいではないのだ。
 そこまで思ったときに、拓弥は謝りたくなって、ポケットから携帯を取り出した。マンションまでもうすぐそこだった。帰ってから、直接謝るべきか、いや、一刻も早く謝るべきか、一瞬、躊躇する。けれど今すぐ謝りたい――拓弥はそう思った。が、いざ携帯を手にすると、電話にするか、メールにするか迷ってしまう。そう思っていると、携帯の画面の端に、メール受信のサインが見えた。
 誰だ? そう思ったのも一瞬、携帯にはすぐに鳴った。
「明美?」
 届いたメールが明美からだった。一体何だ? 何が書かれているのか? 最悪の言葉が拓弥の脳裏をよぎる。それでも急かすように、携帯のランプが光る。
「見ないのは、いけないんだろうな……」
 拓弥は思い切って、携帯のボタンを押した。
 明美からのメールが、広がっていく。
『昨日はごめんなさい。あなたが一生懸命に働いていることも分からないで、本当にごめんなさい。私は、あなたの子どもが欲しいけど、同じくらいあなたも大事だから……。私を許してください。あなたに会って、謝りたいです。だから、早く帰ってきてください』
 拓弥は走り出していた。マンションの前の道路まで迎えに来てくれていた明美が見えた。
 俺は馬鹿だ。大馬鹿だ。何も分かっちゃいなかった。謝るべきは俺なのに。
 拓弥は胸が熱くなって行くのを感じていた。走りながら、俺はなんて声をかけたらいんだろう? それでも、足は止まらない。
 気が付くと息を切らせたまま、拓弥は明美を抱きしめていた。

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