サンタクロースの名前を知らない
    

「サンタクロースって信じます?」
 クリスマス間近のある日、いたずらっ子のように彼女がいきなりそう聞いてきた。別に、彼女といっても付き合っているような関係じゃない。赤の他人ってほど、無関係でもない。かといって、友達ってほど親しいわけでもない。ただの客とウエイトレス、ここによく来るから自然と仲が良くなった。声を掛けてきたのは、確か彼女の方からだった気がする。ちなみに、名前は未だに知らない。
「サンタクロースねぇ……」
 俺はコーヒーのカップをゆっくりソーサーに置く。七歳くらいの自分に返ろうとしたところで、あることに気がついた。だから、そいつを指摘してやる。
「それは、いつぐらいまでサンタクロースを信じてたってことか?」
「そういうことじゃなくて、文字通りサンタクロースを信じるかってことですよぉ」
 彼女が胸の前でトレイを抱える。着ている白いタートルネックのセーターに濃紺のジーンズは彼女の私服だろう。その上に店の「タイムレス」というロゴの付いた白いエプロンを身につけている。
 彼女はローテーブルを挟んで俺の前に座る。興味津々といった感じだ。
「サンタクロースって言われても……」
 店内を見渡すと、俺以外の客がいなくなっている。暇な彼女に付き合ってやるのも悪くはない。
「そうだな。そりゃ子どもの頃は、トナカイに乗ってサンタクロースがプレゼントを持って、煙突から入って来ると思ってた。でも、うちは煙突がないから、どうやって入るんだろうって。そこはどんな子どもでも思うんだろうけど」
「それで、今でも信じてる?」
 彼女が身を乗り出してくる。何がそんなに楽しいんだ? たかが、サンタクロースだろう。
「二十五にもなって信じてるわけないだろ。七歳くらいで気がついたよ。サンタは親父だって」
 どうやってそのことを知ったのかは憶えていない。友達がそう言ったからの気もするし、夜中、親父が枕もとにプレゼントを置いていたところを見たような気もする。
「何だつまらない。夢がないんですね」
 彼女は心底残念そうに溜め息を吐く。俯いた拍子に、長い栗毛色の髪が揺れた。
「何? 信じてんの?」
 彼女のあまりの落胆振りに思わず、小馬鹿にしたように言葉が口をついた。
「私だって、別にトナカイに乗って、赤い衣装を着たサンタクロースがいるなんて思わないですよ」
 彼女の口調が少しばかりむきになっている。少々怒らせてしまってようだ。
「そんなんじゃなくて、なんて言うか……そう、幸運をくれるっていう意味で、サンタクロースは信じてるんですよ」
 自分の言葉に「うんうん」と彼女は頷く。
「ああ、そういう意味ならサンタクロースはいるかもな」
 反省の意味も込めて、軽く同意する。
「でしょ! でしょ! ねっ! ねっ!」
 何がそんなにうれしいんだ? ちょっと同意しただけなんだが……。彼女を喜びっぷりを見ながら俺はコーヒーを飲み干す。
「まぁ、本当にサンタクロースがいるなら、俺にも幸せをくれないかね?」
「サンタクロースは信じる人にしか、幸せをくれないんですよ」
「そんなもんか?」
「そんなもんです」
 苦笑する俺に、彼女は楽しそうににっこり笑う。
「仮にサンタクロースが本当にいるとして、どんな奴なんだろうな?」
「え?」
 伝票を持って立ち上がって俺に、彼女はきょとんとした表情を浮かべた。それと同時に店のドアが開いて、新しい客が入ってくる。
「あ、いらっしゃいませ」
 彼女は立ち上がって、新しい客の方に行ってしまった。俺も会計に向かう。
「何名様ですか? 三名様ですね。では、こちらへ」
 背中から接客する彼女の声が聞こえる。俺は五百円玉をサイフから取り出す。カウンターからマスターが出てきて、レジに立つ。
「オリジナルブレンドですね。五百円になります」
「マスターはサンタクロースって信じる?」
 手にしていた五百円玉をマスターに渡しながら、なんとなく聞いてみた。
「ええ、信じてますよ」
「ふーん」
 少し意外だった。でも詳しくは聞かなかった。
「ごちそうさまでした」
「どうもありがとうございました」
 俺は、元はどんな色だったのかもわからない、塗装のはげた木製のドアを開けて外へ出た。時計は六時を回って、辺りはすでに暗い。街灯に照らされて、息が白く染まって散っていった。
『サンタクロースが本当にいるとして、どんな奴なんだろうな?』
 自分で言った言葉を反芻してみる。
 本当にあの赤と白の格好でトナカイに乗ってるとは思えないし、そんな子どももじみてるとも思えない。って、何本気で考えてるんだ!
「サンタクロースなんているわけないだろ」
 自分でそういって、その考えを打ち消す。
「ったく、これもあいつ影響か?」
 彼女の顔が一瞬脳裏に浮かんだ。
 いるわけない、サンタクロースなんて。
 もう一度、心の中で吐き捨てて、歩くスピードを上げた。
 街はクリスマス一色。クリスマスイルミネーションで、赤や青、黄ときらびやかに飾られたアーケード。サンタクロースの格好をした客引きに、ティッシュ配り。そして、見たくはないが、カップルが嫌でも目に入る。
 今年は一人なんだろうな。
 去年別れた彼女、美咲の顔が脳裏をよぎる。正確にはファインダー越しの美咲の淋しそうな顔だ。美咲と別れて以来、カメラを触るのはやめた。
『カメラ越しじゃないと私を見てくれないの?』
 美咲の別れ際の言葉だ。シャッターを押した時に、美咲が吐いた。その瞬間、気がついた。どこを行くにもカメラを持っていた自分が、どれだけ美咲を傷つけていたのか。ファインダー越しに気づいていはいたんだ。美咲がいつのまにか、淋しそうな顔しかしなくなった。当時俺は、片っ端から何でも写真に収めていた。中でも、美咲の笑顔を撮りたかったから、その一瞬を逃さないように――『カメラは光を収めるんだ。だから、俺はこいつで、その人が一瞬浮かべる表情の放つ光を撮りたいんだ』いつもそう思ってた。それがいつのまにか、淋しそうな写真しか撮れなくなった。結局、何も分かってなかったんだな。俺は美咲を引き止めなかった。いつのまにか、最後のフィルムはまだカメラに入ったままだ。
 風が強くなったので、開けていた黒のロングコートを締める。すぐ隣を通り過ぎていく車のヘッドライトが道を明るく照らしては、また暗くなる。ただそれの繰り返し。
 美咲と別れたあと、別に誰とも付き合わなかったわけじゃない。五人ほど付き合った。どの女ともすぐにそれなりの関係を持ったが、どの女とも長くは続かなかった。名前はもう忘れた。携帯にさえ残っちゃいない。女たちの肢体が脳裏をよぎるが、結局、それが誰の体なのかわからない。女なら誰でも良かった。別れを切り出すのは、いつも女の方だな。そう思うと何故か笑えた。俺はいつも別に引き止めなかった。
 温かそうな光の中に入ったのに気がついて、その方を見てみる。ちょうどジュエリーショップの入り口で、ウインドウから光が溢れて、その中に自分がいた。クリスマスセール、クリスマス限定だそうだ。店内に一組のカップルが見えた。
 思わず溜め息が出た。
 俺には関係ないな。何が悲しくてこんなところで、足を止めなくちゃならないんだか。もしサンタクロースがいるなら、この状況をどうにかして欲しいもんだ。別に彼女が欲しいってわけでもないけど。
 空を見上げても、そこに月も星も見えなかった。

 アパートのさび付いた階段を上ろうと足を上げたときに、携帯がなった。着信は雅弘からだ。雅弘とは中学時代からの腐れ縁で、中学、高校、大学と同じ学校で、何かにつけて俺のことを気にかけてくれる奴だ。最近は音沙汰がなかった。俺は階段を上りながら、電話に出た。
「はい。もしもし」
『久しぶり。半年ぶりか。元気にしてる?』
「まぁ、それなりにな。お前は?」
『まぁ、ぼちぼちかな。それで、今何してる? 相変わらず?』
「悪かったな。用がないなら切るぞ」
 雅弘の言葉に思わず、カッとなる。
『待て待て。お前に頼みたいことがあるんだよ。飯でも食いながらどうだ? どうせまだだろう?』
「電話じゃだめなのか?」
 部屋のある二階まで上る。なんとなく誰とも会う気分じゃなかった。
『ちょっと長くなりそうなんでな。お前にとっても悪い話じゃないんだ。お前んとこの近くにファミレスがあったろ? そこでいいか。奢ってやるよ』
「……分かったよ」
 雅弘の最後の言葉に激しく惹かれた自分が情けない。
『じゃあ、後で』
「ああ」
 俺は電話を切って、階段を下りた。
 ファミレスまでは歩いて十分の距離だ。住宅が立ち並んで、やっと車一台が通れる狭い道を歩く。街灯がぽつ、ぽつとしかないこの道をよく美咲と歩いた。
 美咲とは大学の写真サークルで知り合った。体の線が細くて、身長もこれといって高いわけではなかった。ただ表情がころころ変わる奴で、笑ったり、頬を膨らませたり、眉を吊り上げて文句を言われたり――と、俺はそこで足を止めた。
 何だって、美咲のことを、今更……そう、今更、何思い出してんだ俺は。未練たらしい。女なんて腐るほどいるんだ。腐るほど……。
 一度大きく息を吐いて、再び歩き始める。
 それにしても、雅弘の頼みって何だ? 
 大抵は、俺が雅弘に何かにつけて、頼むことが多い。特に大学時代は代返からレポートもまで、雅弘がいなかったら卒業できなかったんじゃないかと思うほどだ。その雅弘が俺に頼むこと――まぁ、行けば分かるか。嫌なら断わればいいさ。
 国道に出て道なりの歩道を歩くと、黄色に赤いロゴの大きな看板が目に入る。全国にチェーン店のあるファミレスだ。
 ファミレスに入って店内を見渡す。結構な客入りで、家族連れがほとんどだった。雅弘はすでに来ていて、窓際に座っていた。最初からここにいたんじゃないかと、そんな考えが一瞬頭の中をよぎって、思わず苦笑した。雅弘もすぐに俺に気がついて、手を軽く挙げた。相変わらず、人の良さそうな顔をしている。
「仕事の帰りか?」
 俺はソファに座りながら、雅弘のグレイのスーツ姿を見てそう尋ねた。
「そうだよ。まぁ、ウインターシーズンだから、それなりに忙しいんだ」
「忙しいっていうのは、それなりに良いことだろ」
「そうなんだけど、これでも今日は早いんだ。いつもなら、十一時とかそんな時間だからな」
 そう言いながらも、雅弘の充実した顔を見ると、ちくりと胸が痛い。
「それで、お前が俺に頼みごとなんて珍しいな。一体何だ?」
「まぁ、それは飯でも食いながら話すよ。ボーナスも少ないながら入ったしな。遠慮しなくていいぞ」
 どうも無理難題を吹っかけられそうな気がする。
 ウエイトレスが「ごゆっくりどうぞ」とメニューと水を持ってきてくれた。ついでとばかりに雅弘が生ビールを注文する。
「お前も飲むだろう?」
 雅弘の言葉に俺は頷く。
「じゃあ、二つ」
 ウエイトレスが「かしこまりました」と軽く頭を下げて、離れていった。
 水を一口飲んでから、メニューを開く。以前、来たときとメニューが変わっている。前、どんなメニューがあったのかは憶えていないけど……そう言えば、最近ここには来てなかったな。大学時代は部屋から近かったから、よくレポート書いたり、サークルの連中と合宿がどうとやってたっけ。
「決まった?」
 雅弘に呼びかけられて、物思いをやめる。
「ん? ああ」
 生返事をすると、さっきのウエイトレスがちょうど中ジョッキを持ってきていた。
「ご注文はおきまりでしょうか?」
「じゃあ、南蛮定食を」
 先に雅弘が注文する。
「じゃあ、俺は……ブラックペッパーハンバーグの洋セットを」
 慌てて目に付いた料理を言う。
「以上でよろしいでしょうか」
「はい」
 雅弘が返事をする。俺はろくに選んでなかったので、それで本当に良かったのか少しばかり思案する。ウエイトレスが「ご注文を繰り返します」とマニュアルっぽく、注文を繰り返す。替えるなら今か、とちらっと思ったけれど、まぁいいか、とメニューをウエイトレスに渡した。
「昔はサークルでよく来てたっけ」
 雅弘が懐かしそうな顔を浮かべた。
「そうだな」
 なんともなしに、ジョッキをぶつけて、一口。心地よい苦味が口の中に広がる。
「最近も来てるの?」
「いや、全然。今は喫茶店か」
「何てとこ?」
「『タイムレス』っていうんだけどさ、このコーヒーが美味いんだ。久しぶりに良い味のコーヒーに出会ったね」
「前からコーヒーが好きだったよね」
「まぁな。コーヒーは専門店で飲まないとだめだ。軽食もやってるようなところは、コーヒーは適当。下手すると、バイトが淹れてるからな。そんなもんに金を出せるか」
「ランチの方が儲かるし、客も来るから、経営上仕方ないんじゃないの?」
「そうだとしても、それはコーヒーを楽しみにする客への冒涜だ」
 そこで、雅弘が楽しそうに笑う。
「何だよ?」
 なんとなく恥ずかしくなる。
「いや、前にも同じこと言ってたよ」
「どうせ、成長してねぇよ」
 口を尖らせると、雅弘が声をあげて笑った。
「そういう意味で言ったんじゃないんだけどね」
「大体、インスタントコーヒーを飲めなくしたのは誰なのさ?」
 雅弘が恨めしそうな目線を向ける。そこでウエイトレスが、セットのスープとサラダを持ってきてくれた。
「それはコーヒーの味がわかるようになったのさ」
 俺はコーヒーを豆で取り寄せて、いつも淹れるときにミルで豆を荒挽きしてペーパードリップで淹れている。それで雅弘が俺の部屋に来るたびに、わざわざそうやってコーヒーを出してやっていると、あるとき、雅弘が自分の部屋で淹れたインスタントコーヒーが不味くて、とても飲めたもんじゃなかったらしい。それ以来、雅弘はインスタントコーヒーがダメになった。
「おかげ様で、会社でもインスタントを飲まないのは俺だけだよ」
「それだけコーヒーってのは奥深いんだ。インスタントコーヒーなんてまずくて飲めたもんじゃない」
「仕方なく、会社じゃ紅茶を飲んでるよ」
 あまりにも残念そうに雅弘が言うもんだから、思わず笑ってしまった。
「じゃあ、先に食べるな」
「どうぞ」
 スープから先に手をつける。
「美味い?」
 雅弘の言葉に少し首を傾ける。
「薄い」
「頼まなくて、正解だね」
「お前の奢りだろ?」
「あ」
 雅弘が口をぽーかんと開けた間抜けな顔をする。
「おいおい。忘れんなよ」
 俺がスープとサラダを食べ終わる頃、ウエイトレスが料理を持ってきてくれた。
「やっと俺も食べれる。腹減ってたんだよ。いただきます」
 俺もハンバーグをナイフで切って、フォークで口に入れる。
「ここって、こんな味だったっけ?」
「こんなもんだったろ?」
「もっと美味しかった気がしたんだけど。うーん……?」
「お前が最近美味いの食って、舌が肥えたんじゃねぇか?」
「美味しいものばっかり食べれるほど、給料は貰ってないよ」
 俺は食べることに意識を向ける。雅弘はしばらく首を傾げて食べていたが、そのうち黙った。
「それで、頼みって何だ?」
 お互いに料理をほとんど食べ終えて、追加した生ビールがきたところで聞いてみた。
「ちょっと待って」
 雅弘が、ビールをゴクッゴクッと二口飲む。一体、何を言うつもりなんだ? 雅弘の態度に思わず、身構える。
「今年の一月に、仕事を辞めたのは知ってるんだけど、それで今、何か仕事をしてる?」
「なんでそんなことを聞くんだ?」
 いくら雅弘でも、ぶしつけで腹が立った。
「いいから、答えて」
 雅弘からじっと見据えられる。妙な迫力があった。
「分かったよ。コンビニのバイトでなんとか生活してるよ」
 雅弘のその迫力に押されて、悔し紛れに答えていた。二十五にもなって、フリーターじゃさすがに社会的に誉められたもんじゃない。雅弘は仕事を辞めたといったが、正しくは解雇された。最後の一切れを、大きく口を開けてほおばる。
「そう……」
 そのまま、しばらく考え込むように雅弘は黙り込んで、再びジョッキをあおった。
「うちの会社でカメラマンをする気はない?」
 口の中のハンバーグが一瞬の詰まりそうになる。
「今度、うちの会社で、ある企画が持ち上がったんだ。それでカメラマンがいるんだ。やってみない?」
 なんとかビールで、ハンバーグを流し込む。
「そ、そんなもんはプロに頼めよ」
 そう返すのがやっとだった。
「プロは金が掛かるからって、上から即却下されたよ」
「別に写真なんて誰が撮っても同じだろう」
「そういう問題じゃないだろう」
 そう言う雅弘の顔は、すっかりビジネスマンの顔になっていた。
「だったら、お前がやればいいだろ。お前だって、写真やってたしさ」
「企画で必要な写真は俺じゃ無理なんだよ。いるのはポートレートなんだ。それはお前の方が得意だろ」
「確かにそうだったけど……」
「それに俺は統括しなくちゃいけないし」
「へぇ〜」
 雅弘を一瞥する。なるほどね。言いたいことがはっきりした。
「企画の責任者ってやつか。随分な出世だな。それで、必要なスタッフが俺だって? 別にお前から仕事を貰わなくちゃいけないほど、落ちぶれちゃいねぇよ」
 なんだって、俺はこんなにイラついてるんだ? 一気にビールを飲み干す。
「そんなんじゃない。お前に同情して、仕事をやれるほど仕事は余ってない。俺はお前の腕と才能を買ってるから言ってるんだ」
「止めてくれ! 俺はお前の思っているような、そんな奴じゃない!」
 思わず声を荒げてしまって、はっとする。
「悪い……」
「別にいいよ」
 雅弘は落ち着いていた。
「写真はもう辞めたんだよ。この一年カメラに触ってもないんだ」
 だから、そんな話するな。俺は俯いて強く拳を握っていた。
「なあ。本気で言ってるんだ。受けてみないか? 才能のあるお前がこのまま埋もれてるのは、見過ごせないんだ」
 雅弘が真剣そのものの目を俺に向ける。
「買い被りだって。俺はそんな大した奴じゃない」
 俺は席を立つ。これ以上、ここにはいれない。胸が痛い。
「話はこれで終わりだろう?」
「なあ、考えてみてくれよ」
 俺はサイフを取り出す。
「おい。ここは俺が出すって」
 雅弘の言葉を遮って、五千円札をテーブルに置いた。
「話を持ってきてくれたのは、うれしい。でもな、お前の頼みが聞けないんだから、奢ってもらえない。これで足りるだろう?」
「よせって」
 雅弘が五千円を返そうとする。
「じゃあな」
 俺は雅弘に背を向けて、逃げるようにファミレスをあとにした。
 しばらくして、雅弘から『今日の件、考えてみてくれ』と来たが、俺は返信しなかった。
 その日はなかなか眠れなかった。 

 変な夢を見た。俺はカメラを持って、美咲を撮っていた。何か話した気もするけど、よく憶えていない。きっと、昨日の雅弘の話のせいだろう。
 ベッドからもぞもぞと顔を出して、掛け時計を見る。すでに、十時になろうとしていた。ベッドから起きて、カーテンを開ける。眩しい光が部屋の中を満たしていく。外は晴れていても、俺の心はどんより曇っていた。部屋の片隅に置いてある扉の付いたダークブラウンの大きな本棚を見つめる。そこには今まで、いや去年まで撮り溜めてきたアルバムとカメラが眠っている。俺が好きだった写真はポートレートだった。別に風景写真が嫌いというわけではなくて、人の一瞬一瞬の表情を撮るのが好きだった。
 雅弘があんな話を持ってくるから……もう写真は辞めたんだ。
 そう心の中で呟いて、エアコンをつける。
「コーヒーでも飲むか……」
 ほとんど自働的に体が動いた。コーヒーポットに水を入れて、沸かす。次に冷凍庫からコーヒー豆を取り出して、専用スプーンですくって、豆をミルに入れる。豆を冷凍庫に戻して、ミルを挽いていく。挽き終わると、サーバーとドリッパー、ペーパーフィルターを用意する。フィルターに今挽いたコーヒーの粉を入れれば準備が完了する。お湯が沸いたところで、お湯をフィルターにそっと注いで、粉全体を蒸らしていく。蒸らし終わったら、あとは細くお湯を回しながらいれていけば、独特の香りを漂わせて、美味いコーヒーが入る。コーヒーカップをお湯で暖めて置くことも忘れない。カップの中のお湯を捨てて、サーバーからコーヒーをカップに注ぐ。
 俺は丸いコーヒーテーブルにカップを置いて、椅子に腰掛けた。香りを楽しみながら、一口啜る。体の中が温まって行くのを感じる。
 顔を挙げると、どうしても本棚が目に入る。心の中のなんとも言えない何かが沸き立つ。
「何なんだ。昨日から一体?」
 ほとんど叫ぶような感じで、立ち上がって本棚の前に行く。そして、一年ぶりに扉を開あけた。棚の最上段で、黒光りするカメラが目に入る。大学時代バイトで金を貯めて買った、唯一のカメラだ。隣にはレンズが三つ置いてある。埃かぶっていると思っていたが、扉のおかげでそんなことはなかった。残りの四段にずらりとアルバムが並ぶ。カメラに触ろうと思ったが、手を止めてアルバムを取リ出す。
 コーヒーテーブルの上にアルバムを広げる。一年前なら俺の隣に美咲が座って、コーヒーを飲みながら一緒に新しい写真を眺めた。
「ちょうど、ここに……」
 もう座る人のいない椅子が隣にあった。
 アルバムは写真を撮り始めたばかりで、撮るのが楽しくて仕方なかった頃だった。サークルの合宿で、海に行ったときの奴だ。浜辺でスイカ割をする後輩。花火を向ける先輩から逃げる後輩。旅館で酔いつぶれた雅弘。さりげなく撮った女性陣の水着姿。みんなでバーベーキューをしている奴もあった――俺が美咲のことを好きになったのもこの合宿だった。
 雅弘が朝日を撮りに行くって言うもんだから、俺は四時半に叩き起こされて、雅弘とカメラを持って浜辺へ向かった。そのときたまたま、白のTシャツに、ジーンズというラフな格好で美咲が浜辺にいた。他のみんなより早く目が覚めて散歩をしていたそうだ。俺たちが来るなんて思ってなかったらしく驚いていた。雅弘がさっそくその一瞬を逃すまいと、水平線にカメラを向けるその横で、俺たちは肩を並べて浜辺を歩いた。そのとき何を話したのかは憶えていない。取りとめもないことだったような気がする。それで、せっかく来たんだし、何枚か撮っておこうということになって、何枚か朝日を撮った。その後冗談半分で、カメラを美咲に向けた。美咲はそのことに気がついてなかった。朝日をバックに、穏やかに美咲は微笑んでいた。朝日を浴びて、美咲が輝く。波の音も聞こえない、何もかもが止まった、そんな感覚に陥って、俺はシャッターを切った。次の瞬間、俺は美咲のことが好きになっていた。
 最高の一枚――俺は思い出して、その一枚を探してアルバムをめくる。だが、どこにもない。
「別の奴か? ……確か美咲を撮った奴は、別に作ったっけ」
 確か美咲を撮ったり、一緒に写った写真は、俺が選別して専用のアルバムを作った。
「どこだ?」
 片っ端からアルバムを引っ張り出すが、見当たらない。出てくるのは、旅行先で撮った子どもの写真だったり、祭りの写真とかそういったものばかりだった。肝心の美咲の写真も、別れる頃の写真しかなかった。無表情だったり、悲しそうな美咲を見るたびに、胸が痛い。
「いつから、美咲はこんな表情を見せるようになったんだ? ……いや、俺がこんな表情しかさせなかっただけか……」
 だからこそ、あの写真が見たい。いや、せめて、美咲が笑っている写真が見たい。俺の前で笑っていたアルバムがどこかにあるはずだった。
 夢中になって、残ってるアルバムを引っ張り出す。一度見たアルバムも、再度確認する。結局見つからなかった。美咲が持っていったのかとも思ったが、別れてから、俺たちは一度偶然会っただけだし、ろくに話もしていないのでそれはありえなかった。
「どこにあんだよ?」
 本棚すでに空になって、床のいたるところにアルバムが散らばっている。椅子に座ると、空腹を感じた。いつのまにか、日が暮れていた。溜め息を吐いて、コーヒーを飲む。すでに酸化して、冷めきって不味かった。悲しげな目線を送る美咲の写真が目に入る。
「そんな目で見るなよ。ったく、なんで俺は、こんな写真ばっか、撮ったんだよ? 自分の馬鹿さ加減が、恨めしいよ」
 何故かと目頭が熱くなる。
「こんな写真、撮らなきゃよかったんだ。撮らなきゃ……」
 涙が頬を伝って落ちていく。そして唐突に、はっきり気がついた。
「まだ美咲のことが……」
 そこから先は嗚咽になって、言葉にならなかった。 

「酷い顔してますね。何かあったんですか?」
 バイトの帰りに、俺は『タイムレス』でコーヒーを飲んでいた。部屋はまだ、アルバムが散らかったままだ。その部屋にいるのは辛い。
「酷い顔?」
「ええ、彼女に振られたって感じで暗いですよ」
 カウンター越しにいつもの彼女が話し掛ける。
「まぁね」
「ええっ! 本当に振られたんですか?」
 彼女が本当に驚いたので、俺は思わず苦笑した。
「似たようなもんだけど、別に振られたわけじゃない。だいたい、振ってくれるような人もいない」
 そう口にしたら、不思議と少し楽になった気がした。
「それにしても、いつも元気だな」
 所構わず笑顔を振り撒いてる。そんな感じだ。
「これでも、バイト三つ掛け持ちして、大変なんですよ。さっきまで、カラオケでバイトしてくたくたですよ。でもだからって、暗い顔してたら、もっと暗くなるでしょ?」
「そういうのも一理あるな。だからって、とても俺には真似できないな」
 溜め息が吐いて出た。
「本当に大丈夫ですか?」
 彼女の心配そうに覗き込まれる。思わず彼女に何もかも話したくなった。
「洗いざらいぶちまけた方が楽になるかもな」
 でも、精一杯強がってみた。
「そうですか? 私でいいなら、聞きますよ」
「興味本位だろ?」
 大人の男のプライドって奴だ。そう簡単に、女に弱いところは見せられない。
「まぁ、半分くらいは」
「正直だな」
 だけど、彼女なら話すのも悪くない。いや、聞いて欲しい。
「もう半分は心配なんですよ」
「はいはい」
 俺はコーヒー一口飲んだ。
「簡単に言えば、一年越しに振られたようなもんだ」
 彼女は意味がわからないと言った表情をしている。
「ちょうど去年の今ごろ、付き合っていた彼女と別れたんだ。好きだったけど、彼女の気持ちが、もう俺にないことにとっくにう気がついていたから、俺は引き止めなかったんだ。それが昨日、どれだけ好きだったか気がついたんだ。だから、一年後しに振られた気がしてるんだ」
「悲しいですね。そういうのって」
「ああ。自分が嫌になりそうだよ。彼女のことを好きになったのは、サークルの合宿のとき。写真サークルなんだけど、俺の親友が朝日を撮るんだって、朝っぱらから浜辺に行ったとき、何でか知らないけどたまたま彼女が散歩してて、俺は朝日をバックに彼女を撮ったんだ。そのとき好きになったんだ。でも、その写真が見つからないんだ。どこを探してもない。うちにあるはずなんだけどさ」
 何、話してるんだ俺は? こんな喫茶店のウエイトレスに。
 ここが喫茶店で、話している相手が名前も知らないウエイトレスであることに気がつく。自分のやっていることが、唐突に馬鹿馬鹿しく思えて仕方ない。思わず苦笑してしまう。それでも、言葉が止まらない。
「カメラは光を収めるんだ。だから、あいつが一瞬浮かべた表情が、放つ光を撮りたかったんだ。彼女が別れるときに、『カメラ越しじゃない私をちゃんと見て』って言ったんだ。結局、写真にばっかにこだわって、大事なものが見えてなかった。残ってるは、彼女の淋しそうな写真ばっか。撮らなきゃいいのにさ。しかも、笑顔の写真もどこかに行っちまってるときた。写真なんか辞めて正解だよ」
 聞いていた彼女のことなんて気にしてなかったから、支離滅裂だったかもしれない。
「どうして写真辞めたんですか? 辞めることなんてないでしょう?」
「いいんだよ、別に」
 なぜ、彼女が怒っているのは分からない。
「だって、関係ないじゃないですか。その人は『私を見て』って言ったんでしょ? だったら、見てあげればいいじゃないですか? 好きな写真を辞めるのはおかしいですよ」
 なんだって、こんなに一生懸命なんだ? いいじゃないか。関係ないだろ。
「そうかもしれな――」
 冷静に切り返そうとするが、彼女は逆に激しく、捲くし立ててくる。
「そうなんです! それなのに写真を辞めたなんて、彼女が苦しむかもしれないですよ。自分のせいで辞めたって。だいたい辞めたのを彼女に振られたせいにしないでください。やるべきことは、写真を辞めることじゃなくて、ちゃんと彼女を見てあげることだったんじゃないですか? 写真を辞めるから振られたんですよ」
 思わず唖然と彼女の顔を見てしまっていた。
「確かに、そうだったのかもしれないな……」
 いつもなら、お前に何が分かるんだと、返していたかもしれない。でも、彼女の妙な確信めいた言葉が不思議と納得できた。
「すいません。生意気言って」
 彼女が可愛らしく舌を少し出して、謝る。
「ありがとう。少し気が晴れた。写真くらい続けた方がいいかもな。少し考えてみるよ」
「写真見つかるといいですね」
「そうだな。サンタクロースでもプレゼントしてくれないかね」
 冗談で言ってみると、彼女は真面目な顔をして言う。
「サンタクロースは信じてる人にしか、プレゼントをくれませんよ」
「良い子にしてないともらえなかったんじゃないのか?」
「それは、サンタクロースを信じてる素直な子どもが良い子なだけです。良い子だからって、信じてなかったら、もらえないんです。いるでしょ? 良い子だけど、サンタクロースを信じてない子どもって」
「ああ。そう言われると、そんな子どももいるような気がする」
「その点、私は信じてるから、プレゼントがあるんです」
 彼女が自信たっぷりに胸を張る。不思議とサンタクロースを信じてみたくなる。
「なら、俺もサンタクロースを信じてみるか」
「それがいいですよ」
 彼女が満面の笑みを浮かべた。

 部屋に帰って、早速アルバムを片付ける。
 美咲の写真はあれだけ探したんだから、これ以上探しても多分見つからないだろう。肝心のアルバムが見当たらないのだ。それくらいの分別はある。
「サンタクロースにでも期待するか」
 半分本気で、半分冗談。
「そのうちひょっこり出てくるだろ」
 床に座って、一冊アルバムを手を取る。中を開くと、子どもが泥だらけになって笑っている写真や、農家のおばあちゃんの笑顔があった。どれも、俺がその人たちと一緒に触れ合う中で撮ることができた写真だった。ただ闇雲に撮って、撮れる写真じゃない。自分の思う本当の一枚が撮れた喜びは、何ものにも代えられなかった。
「こんな大事なことも忘れてたんだな」
 アルバムを閉じて、棚に収める。一番上にあるカメラを見上げながら、次のアルバムを取る。
 そこにる人と触れ合って、同じ空気を吸って、同じ目線になったとき、その人を撮る。俺はやっぱり、写真が好きなんだな。だけど……美咲……。
 開いたアルバムに入って美咲の写真が目に入って、思わず手にしていたアルバムを落としてしまった。
「やっちまったか」
 アルバムに入っていた写真が、一気に飛び出してしまった。溜め息を吐きならが、写真を取ろうとした瞬間、唐突に思い出した。
 確か美咲が、俺が作った専用のアルバムを見せたとき、誰かに見られるかもしれないのが恥ずかしいからって――。
「そうだった。確か一つのポケットに、二枚入れたんだ!」
 何で忘れてたんだ。美咲が自分で見るのも恥ずかしがって、簡単に見られないようにしてた。だから、見るときは上の写真を抜けば――俺はすぐに記憶の中のアルバムを探す。確か赤いアルバムだったはずだ。結構分厚いやつで――あった!
 すぐにアルバムを開くと、確かに一つのポケットに二枚入っている。上の写真を抜くと、美咲がそこにいた。
「あった……」
 美咲がサークルの部屋の中で笑っていた。大きく口を開けて笑っていた。
 片っ端から、アルバムの写真を抜いていく。一枚抜くごとに美咲との思い出がフラッシュバックしていく。
 料理をしてくれている写真、成人式の振袖姿、酔っ払って俺に絡んでいる写真、幸せそうに昼寝している写真、カラオケで熱唱している写真――俺たちはいつも同じ時間を過ごしてきた。俺はいつもカメラを手にしていたんだ。
「俺は何を勘違いしてたんだ。彼女の言う通りだ。俺は美咲をあのときカメラを通して好きになって、俺たちの間にはいつもカメラを通して繋がっていた。なのに、辞めちまったら、その意味がなくなる。……今ごろ気がつくなんて、俺って奴は、思っていた以上に馬鹿だ」
 写真をめくる。どれだけ大事だったのか、言葉にならない。何をやってたんだ俺は……。涙がとめどなく溢れた。
 全て写真をめくる。それでもあの一枚だけは見当たらなかった。
「不思議なもんだな。あの時はあれほど探していたのに、今はもう気にならないなんてさ」
 アルバムを閉じて、立ち上がる。そして黒光りするカメラを手にする。一年振りだというのに、やけに手に馴染んだ。ファインダー越しに覗く世界は、どこか懐かしくて、どこか新鮮だった。

「雅弘か? この前の話まだ有効か?」
『やる気になったのか?』
 電話越しに雅弘が興奮しているのが分かる。
「まぁな」
 この前のことを考えると、少し恥ずかしかった。
『本当か! どういう心境の変化なんだ?』
「少しいろいろあったんだよ。今、バイトを辞めてきたから、今更無理だなんていうなよ」
『言わないって。だったら、今からうちの会社に来れないか?』
「いや、今から行くところがあるんだ」
『ん、そうか。年内に一度来てくれればそれでいい。来年になったら本格的に活動を始めるからな』
「そうか。分かった。じゃあ、よろしく頼む」
『こっちこそよろしく頼む』
 俺は電話を切って、タイムレスに向かう。カメラを手にして。
「いっらしゃいませ」
 ドアを開けると彼女が案内してくれた。
「君のおかげで、吹っ切ることができたよ」
 彼女にカメラを見せる。
「そうですか。本当に良かったですね」
 彼女が笑った。自分のことのように喜んでくれているようで、嬉しい。
「写真の方は?」
「ほとんど見つかったよ」
 どうやって見つかったのか、教えてやると、
「それくらい憶えてないと、ダメですよ」
「そうだな。反省する」
 自然と笑みがこぼれた。
「でも、ほとんどって?」
「もういいんだよ」
 知りたかったことは、全部あのアルバムの中にあった。美咲はきっと俺と同じ時間を、同じところで過ごしたかったんだと思う。それを俺が、ファインダー越しに遠くから見てた――あの一枚は多分俺へのあてつけで美咲が、持っていったんだろう。
「一枚撮ってやろうか?」
 他に客がいないことを幸いと、提案する。
「良いんですか?」
「別にいいよ。復帰の一枚目なんだから、綺麗に写れよ」
「それは私の台詞です。綺麗に撮ってくださいよ」
 お互いに笑いながら、俺はシャッターを切った。
「マスターも、一緒にどうですか?」
 彼女がマスターを呼ぶ。
「僕はいいよ」
 軽く手を振るマスターを俺は撮る。
「後で持ってきますね」
「おいおい」
 マスターが苦笑を浮かべた。
「じゃあ、今度は並んで」
 彼女をマスターの横に並ばせる。
「だから僕はいいって。苦手なんだよ、写真は」
「早くしないと、お客さんが来ちゃいますよ」
 そう言いながら、彼女はマスターの腕にしがみつく。緊張して直立不動のマスターと、にっこり笑ってウインクまでする彼女。カウンター越しに、その一瞬に浮かべた表情が放つ光を収める。親子ほど年齢の違う、二人らしい一枚になった。
「ところで、ご注文は?」
 マスターが疲れきった様子で尋ねる。俺は笑って答えた。
「いつもの」
「かしこまりました」
 マスターがカウンターの中でコーヒーを淹れ始める。
「ところで、またその彼女と再会したら、どうするんですか?」
 彼女が俺の隣に座ってきた。
「そうだな。もう一度、告白するんじゃないか? 付き合っている人がいないってのが条件で」
「本当に?」
 彼女がじっと俺の顔を覗きこんでくるもんだから、少し慌てる。
「な、何だよ」
「携帯で呼び出すのは?」
「アドレスがないよ。やけに、食いつくな。君には関係ないだろう」
「それもそうですね。すいません」
「ま、いいけどね」
 彼女が頭を下げるもんだから、こっちが悪いことしている気分だ。
 マスターがすっとコーヒーを出してくれた。俺はマスターに軽く頭を下げて、早速一口飲む。
「そう言えば、クリスマスイブはどうされてるんですか?」
「別に予定なんか無いからな……こいつで街の様子でも撮るか。一年間撮ってこなかったから、今めちゃくちゃ撮りたいんだ」
 俺はカメラを持ち上げて見せる。
「ちょっとお願いがあるんですけど」
 彼女が話しづらそうな表情をする。
「何?」
 彼女から立ち直るきっかけをもらったから、多少のことは聞いてあげたくなる。
「あの、港公園で、イブ限定のイルミネーションを飾るそうなんですよ。それは撮ってきてもらえません?」
「彼氏と行って、撮ればいいだろ?」
「彼氏なんていませんよ」
 彼女が少しむっとしたようすになる。
「そりゃ、失敬」
 正直、かなり意外だった。この子に彼氏がいないというのは、世の男は何を見てるんだ?
「それに、ちょっと行かなくちゃいけないところがあるんですよ」
「だからって、一人身の俺に、そんなカップルだらけのところに行けというのか?」
「タダでとは言いませんよ。今日のコーヒー代、奢りますよ」
 一瞬、心が激しく揺れ動いた。
「注文した後で、言われてもね」
 さりげなく強がる。
「じゃあ、その写真をくれるときも奢りますよ」
 これ以上、俺は反論できなかった。なんだって、俺は奢るってのにこうも弱いんだろ?

 クリスマスイブ――。
 俺がサンタクロースがいないと思うのは、小学生の頃、「サンタクロースがいる」って言うと、「お前まだいるって思ってるのかよ」って、馬鹿にされるからだった。本当にサンタクロースはいないのかもしれない。でも、別に今日くらい信じてみても、悪くない。今日、何か良いことがあれば、それはきっとサンタクロースのおかげだ。そうに違いない。
 夕暮れ時、街のクリスマスムードも最高潮に達していた。街は一体どこにこんなに人がいたのかわからないくらいに、人で溢れている。今日は平日というに、仕事はどうしたんだ? それくらい人が、特に、やたらとカップルが目に入る。そんな中、男同士でいる連中を見つけると「俺だけじゃないんだ」と親近感が沸く。
 クリスマスソングがどこからともなく聞こえてくる。大手ケーキ店では、この寒空の下で路上販売をしている。どうせ売れ残って明日になれば安くなる。有名フライドチキン店では『一時間ほどお待ちください』とのことだった。
 路上で絵を描く男性を見つけた。二十歳くらいだろう。帽子を目深にかぶって、ダークブラウンのファーのついたブルゾンに両手を突っ込んで、折りたたみの小さな椅子に膝掛けをして、寒そうに座っている。彼の前にあるスケッチブックには『クリスマスの記念に、似顔絵はいかがですか?』と書かれている。足元の黒いシートの上には、笑顔の芸能人の肖像画が置かれている。鉛筆描きだが、特徴をよく捉えていて、本当に写実的だ。その彼と目が合う。
「お兄さん、一枚どうですか?」
 目を細めたさわやかな笑顔に思いも寄らず、引かれてしまう。
「いくら?」
「そうですね大きさにもよりますけど、B5なら二百円、A4なら三百円ですね」
「どれくらいで終わるの?」
 こうも寒いと、じっとしておくのも一苦労だ。そんなにかからないのなら、描いてもらうのも、面白いかもしれない。
「そうですね。大体で十分くらいですね」
「それくらいならいいね。じゃあ、B5で」
「ありがとうございます。じゃあ、こちらに座ってください」
 彼が自分から斜めの位置のところへ椅子を用意する。
「あと、こちらもどうぞ。寒いでしょうから」
「どうも」
 椅子に座ると、彼が膝掛けを手渡してくれた。
「それで、向きはどうしましょうか?」
「そうだな。正面はなんだし、斜めから」
「わかしました」
 彼も座って、早速書き始める。
「似顔絵をやられて、長いんですか?」
 書き終わるまでじっとしておくのも、時間がもったいない。せっかくなので、いろいろ聞いてみる。
「そうですね。まだ半年くらいですね」
「いつもは何を? 学生?」
「ええ。美大で学生やってますよ」
 通りすぎていく人が、物珍しげに俺を見て行く。結構恥ずかしいな……。
「あんまり恥ずかしがらなくても大丈夫ですよ」
「え?」
 見透かされた気がして、驚いた。
「似顔絵を描いてると思う人って少ないんですよ。最近気がついたんですけど」
「そんなもんですか?」
「ええ。下に絵があるじゃないですか。こうやって話してると、それを見てるお客にしか思われないみたいで。それに、まじまじと見て描いてるわけではないですから」
「あ、なるほど」
 思わず、笑ってしまった。これは新しい発見だ。意外と堂々としていた方が良いらしい。変に緊張なんかして、まったく動かない方が、恥ずかしい。そういうことだろう。さっきの通行人も俺ではなく、どうせ、じっと見ているわけでもないのだ。さすが美大生といったところか。そう思うと、なんとなくリラックスできた。
「お兄さんは今日は独りなんですか?」
「ええ、まぁ」
「お互い辛いですね」
 そりゃ彼女が居れば、こんな寒空の下で絵なんて描いてないだろう。
「それは言わないでおきましょうよ」
「それもそうですね」
 その場限りの妙な親近感が沸いてきて、笑えた。
「はい。出来ましたよ」
「早いですね。まだ五分くらいじゃないですか?」
「いかがですか?」
 二百円を渡して、スケッチを受け取る。自分の似顔絵を見るというのも恥ずかしいもんだ。
「何か、男前に描いてません?」
「ほーんの少しだけ」
 彼が左目をつぶらせて、親指と人差し指がくっつくか、くっつかないくらい近づける。
「なら、女性はどんな感じなんですか?」
「そうですね。五割増しくらいで」
 思わず、笑ってしまう。
「クリスマスだから、さらに五割増しにしては?」
「それじゃ、別人になりますよ」
「そりゃ、そうだ」
 二人で大笑い。こんな楽しい気分は久しぶりだ。
「そうだ。写真いいですか? 人専門で撮ってるんですよ」
 似顔絵をバックにしまう。そして代わりにカメラを取り出して、軽く彼の前で「どうですか」といった感じで見せる。
「今度焼き回しして、持ってきますから」
「いいですよ」
 俺は電源を入れて、ファインダーを彼に向け、ピントを合わせる。彼はひょっとこのように、何か言いたそうな感じで口を前に突き出して、明後日の方向を見て、「さあ、撮ってくれ」といわんばかりに、小刻みに頷いた。
「それじゃ」
 俺はすぐにシャッターを押した。
「何かはずかしいですね」
 彼が笑う。その無防備な笑顔も頂く。
「不意打ちじゃないですか、今の?」
「そういうのがいいんですよ」
 彼は観念したように笑った。
「それじゃ、最後に」
 変に力も入っていない、自然体の彼が撮れた。
「他に、どんな絵を描くんですか?」
 カメラをバックに仕舞いながら、興味本位で聞いてみる。
「見てみますか?」
 彼が別のスケッチブックを横に置いていたバッグから取り出す。
「ちゃんとしている奴は大学に置いてるんで、いつも雑多に鉛筆で描いてる奴ですけど」
「どうも」
 彼からそのスケッチブックを受け取って、早速開く。
 俺が今まで描いてきたものが、はっきり言ってゴミ、いやむしろ、絵に対する冒涜のように見える。男も女も、木も花も、建物も、鉛筆の濃淡だけでこうも描けるものなのか? 俺には一生かかっても出来ない。まl正直、こういうのを見ると、絵ってのは才能だと、つくづく思うね。俺にはそんな才能が、もともとない。技術云々もあるには違いないだろうけど、どうもほとんど遺伝で決まる気がする。一輪の花を描くにしても、子どもの頃から、そうなんだけど、どうして同じものを描いてるはずなのに、こうも差がでるのか不思議でならない。上手い奴は昔から上手い。下手な奴は一生下手で、そこそこにしか上手くならない。上手い奴が下手な奴に教えても、下手な奴のどこが悪いのか、結局上手い奴にはそれが無意識にできてしまって、何でそれができないのか分からないから、上達ぶりも微々たるものなんだよな。
 次のページをめくったところで、手が止まった。
「これは?」
 彼にスケッチブックを見せる。
「ついさっきまで、そこのブティックに居た人ですよ。暇だったので。男の人を描くより――」
「美咲……」
 反射的に呟いていた。
「知り合いなんですか?」
「どこへ行った?」
 全身が興奮していくのを感じる。
「えっと、この通りを向こうに……」
「ありがとう!」
 俺は彼の指す方へ体が自然に走り出していた。
 美咲! 
 大きくストライドを取って、一気に街中を駆けていく。何人かの通行人が俺を振り返っていく。そんな人ごみの中から俺は美咲を懸命に探す。この人ごみの中からでも、俺は美咲を見つけ出す自信があった。正面で買い物袋をさげたおばさんが、驚いた顔をする。瞬時に左右を見る。右だ! 左からは誰か歩いてきていた。スピードを落とさないまま、俺はおばさんにぶつかる二メートル手前で右に避ける。危うくバランスを崩しそうになるのを、どうにかこらえて、そのまま駆け抜けていく。時々振り返ってみるが、美咲はいない。彼女が居そうな店を覗くがその姿はない。
 会って、何を言う?
 そう思った瞬間、足が止まった。一気に息をぜぇぜぇと吐く。
 会ったところで、一体何を……?
 その場でへたり込みたくなるのを必死に我慢して、歩を進める。
 いつか、ばったり街の中であったときに美咲は言った。
『今度街の中で会っても、声は掛けないで』
 凄く悲しそうな顔で――俺はただ近況が知りたかっただけだった。元気なのかとか、新しい彼氏とか、そういった――俺に会うのはそんなに辛いのか?
 止めよう。どうせ、見つからないんだ。どうせ……。
 足が完全に止まる。
 それに、あいつとの約束もあるしな。そうだ、港の公園に行かないとな。
 辺りはすっかり暗くなっていた。俺は一度だけその先を見て、来た道を引き返した。俯いたまま、顔は上げなかった。

 港公園は海沿った長い曲がりくねった並木道が入り口になって、芝生の広がる広場があって、そして同じように並木道を通れば、向こう側に出ることができる。枝にはクリアな無色から、赤や白、青に緑まで、イルミネーションが交互に明滅して、それは幻想的だった。ここを歩くだけでも、思い出になる気がした。もちろん隣に共に歩いてくれる人がいるという前提で。
 歩道を抜けただだっ広い広場には、思いのほか人がいなかった。正確にはほとんど人がいない。
 この寒い中、イルミネーションを見に来る奴もいないか。カップルはホテルか、その辺だよな。
 時間まで、あと三十分ほどだ。ベストポジションを探したが、結局、どんなものなのかわからないので、点いてから探そう。公園全体に海が見渡せるベンチを一人陣取る。
 それにしても、ここをどうやって飾るんだ?
 広場の周辺の木々にも、もちろん並木道と同じイルミネーションで飾られている。しかし、これ以上はどうあがいても無理だろう。何か持ってこないと……あの道じゃ大したものは運べないしな。
 空を見上げると、星がいくつか瞬いていた。
 ヘリで空から? いくらなんでも金のかけすぎってやつだ。
 カメラをバックの中から取り出して、首にかける。あとは、イルミネーションが点灯してからで良いだろう。楽しみなのは楽しみなんだけど、こうも寒いと。
 体を小さくしていると携帯がなった。こんな時間に一体誰だよ? もうすぐ、イブからクリスマスになるっていうのに、暇な奴だ。サブディスプレイを見て確認すると、雅弘からだ。
「はい。もしもし?」
『あ、俺だけど。起きてる?』
「ああ。せっかくのイブに何用だ?」
 少し嫌味を言ってやる。
『どうせ、一人だろ』
「悪かったな」
 受話器ごしで、雅弘の笑い声が聞こえた。
「用が無いなら、切るぞ」
『待て待て。元旦何してる?』
「暇だよ。家でテレビでも見てんじゃねぇのか?」
 そう答える自分が悲しい。
『初日の出でも撮りに行かない? 泊りがけでさ』
「いいねぇ。男二人で、むさ苦しく行くとしよう」
『なら、決まりな。詳しいことが決まったら、連絡する』
「その辺はまかせる」
『まかせとけ。じゃ、お疲れ』
「お疲れさん」
 携帯を切る。来年はいい年な気がする。それにしても、こんな時間に電話する用件でもないだろう。思い立ったら、即ってのは、雅弘らしいか。
 コートのポケットから、カイロ代わりに買っていた缶コーヒーを取り出す。軽く振ってやる。まだ十分に温かい。前かがみにそれを両手で持って、はあぁと息を吹きかける。遠くにシーサイドホテルのイルミネーションが見えた。あとは何も無かった。海も空も何も無い。あるのは、華やかに明滅を繰り返すイルミネーションだけ。
 こうしてみると、空しいもんだな……。
 今の自分の状況とも相まって、笑おうとしたら、顔がつっぱて痛かった。手の中の缶コーヒーを開けようとプルタブに手をつける。
「透?」
 いきなり呼びかけられて、手が止まった。聞き憶えのある声だった。声のした隣のベンチを見た。
「なんで、こんなところに?」
「そういう美咲だって……」
 見つめ合う。変な感じがした。
「私は今日限定で、イルミネーションが見れるからって」
「俺だって、そうだよ」
 お互いに目を逸らして、しばらく何も話さなかった。
「また、写真始めたの?」
「ん? ああ。昨日からまた始めた」
 俺は怖くて美咲を見れなかった。
「嬉しい」
 意外だった。
「なんで?」
「だって、私、透の写真好きだから」
「ちょっと待てよ。別れた原因は俺が写真ばっかり撮るからじゃないのか?」
 俺は美咲を見る。美咲は海とも空とも分からない暗闇を見ているようで、でもその横顔は微笑んでいるようにも見えた。
「違うわよ。透は私の全部を撮ろうとしてたでしょ。嬉しいときも、悲しいときも。それはいいのよ。でも、それで私のこと、全部分かった気になられるのは、嫌なのよ。分かる?」
「ああ。今なら分かる」
 あの頃、ファインダー越しに勝手に分かりきっていた。
「前、一度だけ会ったことあるでしょ。そのとき、写真やってないの知ってて、凄く悲しかった。誤解されてるのも嫌だったし、私たちは透の写真を通じて付き合ったんだから、それを辞めたら、付き合ったこともなかったことになりそうで」
 だからか。
「本当に何もわかっちゃいなかったんだな。俺は」
「それで、もう声もかけないでなんて……傷ついた?」
「ついさっきまで、忘れてた」
「よかった」
 ほっとしたのが伝わる。
「この前、アルバムを見てたら、美咲の写真だけ、いいのがなかったんだ」
「どうせ、二枚いっしょに入れたのを忘れるだけでしょ」
「なんで分かるんだ?」
「思い込みが激しいのと忘れっぽいのは、透の専売特許でしょ?」
「俺ってそんな奴なのか?」
 美咲が声を上げて笑う。
「そのことを知ってないと、透とは付き合えないわよ」
「自信、無くしそう」
「良いところは沢山あるんだけどな」
「どこだよ?」
「教えてあげない」
 美咲が含みのある笑みを浮かべる。俺の好きな美咲がそこにいた。
「今、付き合っている人は?」
 思い切って聞いてみる。
「イブに一人でこんなところにいる人に聞かないでよ」
「だったら」
 俺はベンチから立ち上がって、美咲の前に立った。心臓がどくどくと強く速くなっていくのが分かる。言うなら今しかない。
「もう一度、付き合わないか? やり直したいんだ」
 真剣に美咲の顔を見る。大きな瞳が揺れて、その顔からは何も読み取れない。
「今、好きな人がいるの」
 ああ、そうか。それ以上の感情は湧かなかった。全ては遅かったんだ。自分のツケを払ったんだろう。胸が少し痛いけど、どこかすっきりした。
「どうしても忘れられないの。その人はねぇ、思い込みが激しくて、忘れっぽいの。だから、私がいないと多分ダメなのよ」
 美咲がいたずらっ子のような顔で見上げている。
「また、思い込んでたでしょ。振られたって」
「なんでもお見通しかよ」
 美咲の目の端が滲んでいた。
「ずっと会いたかったけど、怖かった」
 美咲も立ち上がって、俺に抱きついてくる。
「俺からカメラを取ったら何も残らないからな」
 結局はそういうことだ。
「だからって、またカメラだけっていうのは、嫌よ」
「はいはい」
「今日、出会えたことをサンタクロースに感謝しないとね」
 思わず俺は吹き出す。
「え? 何か変なこと言った?」
 美咲が見上げてくる。
「いや、美咲らしいなと思って」
 俺は声を上げて笑った。
「笑うな」
 美咲が頬を膨らませた。
「今日くらい、サンタクロースに感謝してもいいか」
「うわっ。透らしくない!」
「別にいいじゃん」
「ますますらしくない」
「成長したんだろ。それより、何かしたい。せっかくのイブだ」
 腕時計を見る。
「あと二分で終わるけど」
「イルミネーションもあと二分だけど……あ、透缶コーヒー持ってる」
「俺が持ってるのがそんな珍しいか?」
 すでに人肌程度の缶コーヒー。俺を良く知っている奴がこの光景を見ると、驚くのは間違いない。
「確かに珍しいけど、そういう意味じゃなくて、乾杯しよ。私も持ってるし」
 美咲がポケットから缶コーヒーを取り出して、俺に見せる。
「飲めるようになったんだ?」
 雅弘よろしく、美咲も同じく俺のおかげでコーヒーの味が分かった。
「カイロの代わりです。でも冷めちゃった」
「それは仕方ない。にしても、缶コーヒーで乾杯するの? 本気で?」
「本気よ。ほらほら」
 溜め息混じりでプルタブに指をかけて開ける。
「せめて、シャンパンとかでやりたい」
「私はこういうのも好きだけよ」
 美咲もプルタブを開けた。
「それじゃ」
 美咲が軽く缶コーヒーを掲げる。俺もそれに合わせる。
「メリー! クリスマス!」
「メリークリスマス」
 カンッとシャンパングラスの響きには程遠い、鈍い音がした。コーヒーはぬるくて、甘ったるくて、いつもの味とは程遠かったけど、美味かった。
「あ!」
「どうした?」
「後ろ! 後ろ!」
 言われるがままに、後ろを振り返る。そこには、大型のクルーザーがクリスマスイルミネーションの光を放ちながら、悠然とすぐそこを港へ向けて航行していた。
「これか!」
 何と言えばいいのか、言葉が見つからない。
「光の船みたい……」
 美咲が見惚れたように声を上げた。確かに光の船といった感じだ。至るところに電飾が飾られている。広い甲板には、トナカイのオブジェが電飾で輝いていた。
「あ。写真、撮らないと」
 気がついたように口にしていた。
「じゃあ、私も一緒に撮って」
「了解」
 二枚ほど船だけを撮って、美咲をファインダーに入れる。その中で、美咲は笑っていた。俺は込み上げてくるものを感じながら、ゆっくりとシャッターを押した。
「ねぇ、一緒に写ろ」
「三脚立ててる時間はないだろ?」
「自分撮りの要領でいいんじゃない?」
「それじゃ上手く撮れない」
「いいじゃない、それでも」
「オーケー」
 光の船はもうじき、公園から見えなくなる。急いで、俺は美咲の隣に並んだ。船が写るような角度を予測してカメラを自分たちに向けた。
「それじゃ、いい?」
 半押しにして、オートフォーカスでピントを合わせる。多分ピンぼけか、顔だけだろうなんて、ほとんど期待せずに俺はシャッターを押した。
「上手く撮れたかな?」
 美咲が楽しそうに笑う。
「あまり期待しない方がいい」
 俺はそれもついでとシャッターを押した。
 二人で光の船を見送った。
「今、どんな気分?」
 美咲が聞いてきた。
「一年間ケンカしてた彼女と仲直りした最高の気分」
「その間、何人と浮気したの? 怒らないから言いなさい」
 どちらかともなく、自然と歩き出した。肩を並べて。
「確か、五人」
「うわっ」
 美咲が呆れた声を上げた。
「前からもてたのは知ってたけど……浮気はダメだからね」
「そういう美咲は?」
「えー私は……言わないとダメ?」
 並木道を歩くと、光に囲まれているようだった。
「ダメ」
「えーと……」
 もっとこの時間が続けばいい。これ以上はいくらなんでも、サンタクロースでも無理だろうけど。
「ふたり」
 そう言った美咲の声は、恥ずかしそうでか細かった。

 大晦日――。
「いっしゃいませ」
 ドアを開いて聞こえてきた声は、は聞きなれた声じゃなかった。
「彼女連れ? 珍しいね」
 カウンターの中でマスターが茶化す。もう日付も代わろうとする時間で、他に客はいない。
「いいじゃないですか。それより、この前の写真できたんで、持って来ましたよ」
 カウンター席に座る。美咲も当然その隣に座る。
「あれ、あの子は?」
「辞めたよ」
「え!」
 予想もしなかった言葉だった。
「僕も辞めるときまで知らなかったんだけど、なんでも弟君がずっと重い病気で、その治療にアメリカに行ってるんだけど、年明けにも手術らしくて、それに付き添うための旅費を貯めるためにバイトをしてたんだって」
「一言もそんなことは」
 信じられなかった。そんな重い理由があったなんて。サンタクロースを真剣に信じてた彼女が、なんとなく分かる。
「明るくて、働き者の良い子だったんだけど。でも弟君が良くなるといいね」
「ほんと、そうですね」
 そう言いながら、あまりに楽観的なことは分かっていた。アメリカで手術するということが、どういうことか。相当重いことは予想がつく。だから、バイトを掛け持ちして、彼女はアメリカに行くんだ。
『暗い顔してたら、もっと暗くなるでしょ?』
 彼女が言った言葉が思い出される。俺にはとても真似が出来ない。
「それじゃ、これどうします?」
 現像したばかりの写真をカウンターの上に置く。明るく、楽しそうな彼女がそこにはいた。
「あ、この子」
 今まで黙っていた美咲が突然声を上げた。
「どうした?」
「この子、私も知ってる」
「は?」
 思わず変な声が出た。
「友達に連れて行ってもらったバーで働いてたよ。イブの港公園のことを教えてくれたのも、この子だったし」
「俺のことも話した?」
「酔ってたから、あんまり覚えてないけど、去年何か勘違いしてる彼氏と別れたくらいは話したかも。公園もこの子があんまり進めるものだから、行ってみたんだよね」
 ああ、そういうことか。パズルのピースがはまった気がした。
 いつかの妙な彼女の言葉はきっと、美咲から聞いていたことだったんだろう。だからあんなに一生懸命で、妙な確信があったのか。
「やられた」
「どうしたの?」
 事の顛末を美咲に話してやる。
「だから、俺たちはあそこで、会ったんだよ」
「あの子らしいね。おせっかいやきだし」
 マスターが口を挟んだ。
「なんか、ありがとうの一言くらい言いたいな」
 美咲が淋しそうに言った。
「また、そのうちひょっこり会える気もするけどな」
 根拠はないけど、そんな気がした。
「これはどこかに飾らせてもらうとして、ご注文は?」
「いつもの」
「私は、ブレンドをお願いします」
「かしこまりました」
 マスターは写真を置いて、奥へ行った。
「この子っていつもサンタクロース信じてた」
「そうだな」
「弟さん、良くなるといいね」
「まったくだ。ファインダーは何も写しちゃくれない」
 ここで撮った彼女の写真を見て、そう思う。彼女が望んだ光の船の写真を添える。
「でもいい顔で笑ってる」
「そうだな」
 きっと希望をもっているんだろう。そう思えた。
 不意に入り口のドアが開いた。入ってきたのは雅弘だった。
「ここだここだ」
「こんな穴場的なところを待ち合わせに指定するなよ」
 雅弘が俺の隣に座る。美咲とは俺を挟んだ格好だ。
「ここのコーヒーが美味いんだ」
「そうか」
 ここに雅弘が来たのは、これから初日の出を三人で拝みに行くためだ。
「本当に私も一緒でいいの?」
 美咲が心配そうに言ってくる。
「それは俺が気にすることだよ。二人の邪魔にならないか」
「私はいいんだけど」
「男だけで、むさ苦しく行きたくない」
 俺が混ぜっ返す。
「むさ苦しく男だけで行こうと言ったのは誰だっけ?」
 半眼で雅弘が俺を見る。
「知らないね」
 なんとなく、大学時代に戻った気がした。
「俺も早く彼女が欲しいよ」
「紹介してあげようか?」
「ぜひ」
 美咲の誘いに、雅弘が餌をもらう飼い犬のように目を輝かせる。
「この子、誰? 可愛いね」
 雅弘が写真の彼女を指差す。
「えっと、彼女は……」
 名前も知らないことに改めて気がつく。だけど、唐突に彼女を表すのに、これ以上ない言葉が見つかった。
「サンタクロースだ」
「はぁ?」
「な、美咲」
「そうだね。うん。サンタクロースだね」
 美咲も嬉しそうに頷く。
「二人して、何か気持ち悪いな。俺をはめようとしてない?」
「いや、全然」
「うん」
 二人して首を横に振る。
「ほんとに?」
 雅弘が疑い眼差しを向けてくる。
「ほんとだって」
「名前とかは?」
「知らん」
「あ、私も知らなかったな。そう言えば」
「おい!」
「いや、すっとぼけてるように聞こえるかもしれないけど、本当だって」
 あんまり言うと、雅弘が切れそうだ。
「じゃあ、何を知ってるんだよ?」
「ここで働いてたけど、この前辞めて、今、闘病中の弟を見舞いにアメリカに言ってる」
 我ながら作り話のような話だ。
「そんな作り話みたいなことが、そうそうあるわけがない」
 ほら、全く信じちゃいない。
「写真を良く見ろ。ここで撮ってあるだろ?」
「あ」
「アメリカのことは、マスターにでも確かめろ」
 ちょうどいいタイミングで、マスターが来てくれた。
「呼びましたか? こちらがブレンドになります。こちらが――」
「この子はここで働いていたんですか?」
 美咲と俺にコーヒーを出すマスターに雅弘が食って掛かる。
「ええ。まぁ」
 マスターが少し困った顔を浮かべた。
「あ、美味しい」
 美咲が隣で呟いた。
「だろ。この味は家じゃ出せないんだ」
「透が通うのも分かるね」
 隣のことは放っておいて、ゆっくり二人でコーヒーを味わう。こうやって、美咲とまたコーヒーが飲めることが嬉しい。
「彼女、サンタクロースに会えたかな?」
「あれだけ信じてたんだ。少し遅れて、白衣のサンタクロースに会ってるだろ。背と鼻がやたらと高くて、青い目をしたサンタクロースに」
「そうだね」
 俺たちは同時にコーヒーを啜った。
 これから見に行く初日の出には、こんなことを祈ろうと思う。
 いつか彼女がここに戻ってきますように、と。
 そして、戻ってきたときには、こう言ってやる。
 サンタクロースはいる。
 この写真を見せて、俺たちのはこんな奴だった。
 お前の会ったサンタクロースはどんな奴だったか、聞かせてくれないか、と。

サンタクロースの名前を知らない‘nd

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