果てしなく、遠い夢……
 失くしたものの大きさは、失くさなければ気がつかない……
 これで良いのかなんて、今も分からない……
 生きる意味なんて……
 それでも生きた意味なら……
 たとえそばにいなくても……
 いつも信じている……
 たとえ離れても、幸せが祈れるのなら……
 きっとこの調べは、空高く響いてくれる…… 

Tales of WILL Episode5
彼の夢 彼女の空

1

 ベージュ色のレンガが敷き詰められている円形の広場。それはこの街、ウィルを縦断する大通りのちょうど真ん中、入り口からまっすぐ北上したところにある。広場の中央にある大きな噴水が、こんこんと水を高く噴き上げる。広場の周囲には、低木が植えてあり、茂みになっている。
 ここには、さまざまな人々が集まってくる。恋人たちはベンチで肩を寄せ合い、旅人は木陰に腰を落ち着かせる。幼い子どもたちは広場を駆け回り、老夫婦がゆっくりとした足取りで通り過ぎていく。そんな人々をお客に、手作りの雑貨を売る露店や道化師姿の街頭パフォーマーの周りはちょっとした人だかりが出来ている。
 そんな活気溢れる広場の片隅。賑やかな場所から少し離れたところで、ラスティは自分の描いた絵を売っていた。薄らと伸びたあごひげをいじりながら、小さな木製の椅子に座って、そんな人々を眺める。それに飽きることはなかったが、肝心の客は随分長いこと来ていない。
 不意にラスティは腰に痛みを覚えて、立ち上がった。身長の合わないこの椅子に、長時間座りすぎたようだ。決して椅子が低いわけではないが、ラスティの背が高すぎるのだ。息を吐きながら、大きく体を伸ばす。見上げた秋空は雲が多く、なんとも言えず重たかった。
「もう、秋なんだよな……」
 無情な時の流れを感じずにはいられなかった。
 肌寒い風が、随分伸びたこげ茶色の髪を揺らした。
 溜め息混じりに目線を、自分の絵に落とす。油彩画が白いシーツの上に並んでいる。大きいものから小さいものまである。どれも丁寧に描いた。この街を描いたものが多いのは、ラスティがこの街並みが好きだからだ。坂と階段の多いこの街は、ラスティに様々な顔を見せてくれた。他には果物を描いたものや空想を描いた作品もある。
 足を止めて見ていってくれる客は多いが、買ってくれる客は皆無だった。今日に限っては、足を止めてくれる客もいない。
 ラスティは深く息を吐いた。
「帰るか……」
 まだ昼下がりだが、今のここにいるよりも、アトリエで描きかけの絵に向かっている方が建設的に思える。
 誰も好きこのんでこんなところで売っているわけではない。ラスティとて、画商の所へ売り込みに行かないわけではない。が、無名の画家など門前払いを食らうだけだった。せめてここで、売れないまでも、誰かの目に触れれば、まだ日の目はあると思うのだが――。
 絵を片付けようと、手近な一枚を手に取る。
「これは売れて欲しいんだけどな」
 自分でもなかなかの出来だと思う。大きさとしては、それ程大きいわけではない。普通の部屋に飾るくらいなら、ちょうど良い大きさである。構図は、森の泉にユニコーンが水を飲みにやって来ているというものである。決して技術が画家として劣るわけでもない。値段も決して高くはない。というか、画商の売るものとは比較にならないほど、安い。
「何が悪いのか――」
 と、自分の絵を眺めていたラスティの視界の端に、十歳くらいの男の子がこっちに走ってくるのが見えた。何ごとだろう? かなりの懸命に走っている。しかも誰かに追われているのか、後ろをしきりに気にしている。
「待ちなさーい!」
 ラスティはその少年の後方、声の聞こえてきた方へ視線を走らせた。男の子と同い年くらいの女の子が、彼を追って、階段を上ってきた。
「追いかけっこか。子どもは無邪気でいいねぇ。こっちは明日食べていけるかどうかさえ分からないんだから」
 夢を追いかけているといえば聞こえはいいかもしれないが、その現実は絵が売れなければ、明日も解からないただの貧乏人でしかない。そんな自分の状況にラスティは、幾度となく溜め息をついてきた。それでも、そうそうあきらめきれない。
「このままだと、そろそろ仕事を探さないとな」
 嘆息しながら思う。現実は厳しい、と。
 ラスティは男の子に背を向けて、手にしていた空想画を専用の袋に入れる。
「誰がつかまるかよ! このノロマ!」
 後ろから、女の子を小馬鹿にした男の子の声が聞こえる。
 仲がよろしいことで――絵をそれぞれ袋に入れながら、ラスティは口元を緩める。
「うわぁっ!」
「ん?」
 男の子の驚いた声に、反射的にラスティは振り向く。足がもつれたのか、男の子は勢いそのままにこちらに向かって体勢を崩して、転ぼうとしていた。瞬間、嫌な予感がした。すぐそこ、つまり男の子が転ぶその先には、まだ片付けていない絵があるのだ。
 ラスティの目の前で、男の子が絵に向かって突っ込でいく。
「お、おい! やめて――」
 ラスティはどうすることもできないまま、はっきりと嫌な音を聴いた。目の前に広がる光景は、無残に散らばり、破れた何枚もの作品たち。
「ああぁぁぁ!」
 ラスティの叫びは言葉にならない。
「痛ぇ……」
 その真ん中で、痛みで顔を歪めて男の子が立ち上がる。短く太い黒髪をたて、活発そうな印象だ。纏っていたグレイのジャケットは埃で汚れ、穿いていたズボンは膝までしかなかったため、剥き出しの膝を擦りむいて血がにじみ出ていた。
「何だ、これ?」
 男の子が散乱した絵の中から一枚取り上げる。自分が何に突っ込んだのか、わかっていないようだ。
「絵? って、こんなことしてる場合じゃない! 逃げないと――」
 男の子が絵を投げようとする。
「ち、ちょっと待て!」
 が、一瞬遅かった。男の子がねじった体が開くと同時に、彼の手から絵が離れていく。
「うあ! 俺の絵が!」
 渾身の思いで描いた絵が、くるくる回りながら、自分の横を飛んでいく。ラスティは思わず振り返って走り出そうとした。だが、行けなかった。
「ジャーック!」
 さっきの女の子がすぐそこまで来ていたのだ。絵を目で追うと、広場を囲んでいる茂みの中に落ちていった。
「一体、何なんだよ……?」
 もはや、目を覆いたくなるような状況だった。足元に汚れ、破れた絵が散乱していた。渾身の想いで描いた絵は売れるどころか、人目に触れることも叶わない。
 ラスティは溜め息混じりに、女の子と男の子を交互に見た。二人ともラスティの腰くらいしかなく、ラスティが目の前で対峙していた。
「今日という今日は、許さないからね!」
 一体何があったというのか? ピンクのドレス姿の女の子の顔は真っ赤で、その愛らしい顔に付いている眉は逆立っていた。腰に手をあて、ジャックという男の子を、その大きな茶色の瞳で覗き込むように睨みつける。
「落ち着けって、アンジェ。つい出来心で……」
 ジャックという男の子は、怯えながらも、両手をかざし、アンジェという女の子をなだめようとするが――。
「出来心で、スカートめくりなんてしないでよ!」
 それを聞いたラスティは、頭が痛くなった。
「そんな理由で俺の絵は投げられたのか……」
 ぼやかずにはいられない。さすがのラスティも、この子たちに一言言いたい。「どうしてくれるんだ!」と。が、次の瞬間、アンジェの行動にラスティは言葉を失った。アンジェが足元にあった絵に手を伸ばしたのだ。さっきジャックが転んだときに、散らばった一枚である。
「お、おい!」
 これからアンジェが、何をしようとしているのかは、誰にでも予想できる。ラスティは制止しようとするが、それより早くアンジェが絵を手に取り、
「この変態!」
 アンジェの怒りと共に、絵は振り上げられ――。
「うわっ!」
 ジャックの悲鳴と共に、ラスティは思わず目を閉じた。
「ハイ。そこまでにして」
「きゃっ」
 鈴の鳴るような透き通った声と、アンジェの小さな悲鳴がラスティの耳に届いた。
 目を開くと、そこにはアンジェの右手首を、華奢な女性がその細い腕で掴んでいた。癖のないセミロングの黒髪が揺れた。
 絵はまだアンジェの手の中にある。とりあえずラスティはそのことにホッと胸をなでおろす。
「ファリア」
 ラスティは、恋人の名前を呼んだ。ラスティの言葉に反応するように、ファリアが微笑む。ファリアの小さな顔の大きな茶色の瞳が、嬉しそうに揺れていた。
「何ですか、おばさん? ジャックの味方なんですか?」
 アンジェが振り向いて、ファリアをキッと睨み上げる。おばさんに反応したのだろう。ファリアの顔が一瞬引きつった。
「別にその男の子の味方をする気はないわ。ただ、あなたの持っている絵は、この人が心を込めて描いたものよ。返しなさい」
「あ」
 ファリアの剣幕ためか、それとも悪いことしようとしていたのに気がついたのか、アンジェは急にしおらしくなった。頭に上っていた血が下がったのだろう。ファリアに掴まれた腕の力が抜けて、アンジェは俯いた。ファリアがアンジェから手を離す。
「ごめんなさい」
 アンジェが絵をファリアに渡した。
「そこ! 逃げない!」
 突然、ファリアが言葉を投げた。その先に、ラスティも視線を投げてみると、
「うっ!」
 少し離れたところで、ジャックがビクッと肩を震わせた。
 まったく、なんて奴だ――子どもとはいえ、この状況で逃げようとするジャックにラスティは腹立たしさを覚えた。
「女の子を置いて、一人だけ逃げる気か?」
「ち、ちがう。俺はあんたらじゃなくて、アンジェから――」
「言い訳しない!」
 ファリアの有無を言わせない言い方に、ジャックは気圧される。
「うぅぅぅ……」
 今度は後ろから嗚咽が聞こえてきた。ラスティが振り向くと、アンジェが俯いたまま身体を震わせていた。怒りが薄れて、悔しさと悲しさがこみ上げてきたのだろう。ポタ、ポタと、涙がベージュのレンガの上に落ちた。
 いつの世も男は女の涙に弱いものだ。
 ジャックもその例にもれない。さすがに気まずさを感じているようだ。もっとも、その場にいるラスティでさえ、少なからず気まずいものを感じずにはいられない。
「わ、悪かったよ、アンジェ……」
 どうしようもない感じでジャックが、ラスティの目の前を通りすぎて、アンジェの元へ近づいていった。
 ファリアも、ラスティの傍へやってくる。手には二枚の絵があった。
「はい、ラスティ。あとこれも、一応拾っといたわよ」
「これは……?」
 ラスティはどういうことか分からないまま、ファリアから二枚の絵を受け取る。どうやら、あとの一枚はジャックが投げた絵のようだ。
「ラスティ探してたら、男の子がちょうど絵投げちゃったのを見たから」
「そっか。ありがとう。でも、これじゃな……」
 ラスティは拾ってもらった絵をファリアに見せる。
「それじゃね……」
 絵はすでに破れて、汚れて、ぼろぼろの状態だった。修復しようにも、こんな状態ではやりようがなかった。
「この中から、どれだけまともな絵が残ってるんだろう?」
 ラスティは受け取った絵を横に置いて、散らばった絵の中から、一枚適当に取ってみた。
 言葉にならない。ラスティは放り投げたくなる衝動を押さえ込んで、深く、深く溜め息を吐いた。
「バカッ!」
 ラスティの後ろから、叫び声と一緒にパチンッと乾いた音が響いた。
「これで許してあげる」
 振り向くと、ジャックが赤くした左の頬を痛そうにさすっていた。アンジェは涙目で頬を膨らませていた。
「あっちは、仲直りがすんだみたいね」
「そうか?」
 ファリアの言葉に、ラスティは首をかしげる。もっとも後腐れはなさそうではあるが。
 子ども二人と目が合う。照れている感じが、なんとも子どもらしくて愛らしい。すると、ジャックとアンジェから、
『ごめんなさい!』
 と、声をそろえて深く謝られてしまった。ラスティはファリアと顔を見合わせる。
 どうも絵のことを言っているようだが、もう過ぎたことだ。子どものやってしまったことだ。どっちにして絵は元通りには戻らない。
 ラスティは、悪いけど頼むと、ファリアの肩を二度ポンポンと叩いて、自分は散らかった絵を片付けることした。
「あんまり、喧嘩しちゃだめよ。男の子なら、女の子を泣かせるようなことをしたらだめなんだから」
 ファリアが二人をなだめる声が、ラスティの耳に入ってくる。
 ファリアは自分の気持ちをよく分かってくれている。子どものしてしまったことに、いちいち責任を取らせようなどとは、ラスティはまったく考えていない。まして、二人の様子を見れば、反省しているのは良く分かる。それ以上言うのは酷というものだ。かといって、ラスティ自身、子どもの前で上手く対応できる自信もない。
 仕方ないか。運が悪かったんだ。
 ラスティはもう一度、深く溜め息を吐いた。
「うん、分かったよ。もっと仲良くする」
 ラスティに、どこかすっきりしたジャックの声が届いた。
「あ、そうだ」
 ファリアが思い出したように言った。
「私はまだ二十三歳のお姉さんだからね」
 やっぱりおばさんと言われたのを気にしてたのか……。
 ラスティは苦笑した。
「バイバイ、お姉さん! お兄さんも、バイバイ!」
「バイバイ!」
 ジャックとアンジェの声に振り返ってみると、二人は手を繋いで、もう一方の手を振っていた。
「仲良くしろよ」
 ラスティもその小さなカップルに手を振った。横目でファリアを見ると、満足そうな笑みを浮かべていた。

 もうじき夜の闇が近づこうとする頃――ラスティはファリアに連れられて、小洒落たレストラン『青い翼』にやってきていた。
「まさか、こんなところに来るなんてな」
 そう、ラスティは店内を見渡した。
 薄暗い店内は、レンガ造りで高級感で溢れている。ちょうど夕食時ということで、ほとんどのテーブルが埋まっていた。もっとも、そのほとんどは豊かそうな人種ばかりだ。日頃着ないジャケットにベストとそれなりに盛装したつもりだが、自分がどうも浮いている気がしてならない。
「大丈夫よ。誰も気にしないから」
 辺りを見渡していると、ファリアが可笑しそうに笑った。テーブルの真ん中に置かれた、小さなランプの灯が揺れる。そのランプの明かりに照らされたファリアが、妙に艶やかに見えて仕方がない。それは淡い黄色のイブニングドレスのせいかもしれない。
「でも、一体なんだってこんなところに?」
「それはね。じゃーん、誕生日おめでとう!」
 ファリアが顔を輝かせて、綺麗に青と白のチェックの紙で包装されたプレゼントをラスティの目の前に出してきた。
「誕生日は――」
 ファリアの幸せそうな顔を見て、ラスティは残りの言葉を飲み込む。
 言うべきじゃないな。誕生日がいつかなんて、どうでもいいだろう。勘違いなんて誰にでもある。
 ラスティは笑顔を作って受け取る。中身は長めの筒と何か大きめの箱のようだ。
「ありがとう。それに俺も一度ファリアとこんなところに来たかったしさ」
「ラスティ……ありがと」
 ファリアが切なく見えた。
「気にするなよ。開けてもいい?」
 気を取り直して、プレゼントを見る。ファリアが得意げに笑った。
「ふふーん。開けてみて、開けてみて」
「これは――」
 中に入っていたものは、今のラスティでは手の届かない高級な筆のセットと、良い色と評判の油彩絵の具のセットだった。若手の画家なら喉から手が出るほど欲しがる一品である。
「どう? 気に入ってくれた?」
 ファリアが下からラスティを覗き込んできた。照れているのか、ファリアの頬がほんのり赤く染まっている。
「当たり前じゃないか! こんないいもんどうしたんだよ?」
「前に画材を見て回ったときに、欲しがってたのを思い出してね」
「本当? ありがとう! でも、高かっただろう?」
「いいよ。別に使い道のないお金だったし。絵のことは良く分からないけど、ラスティに喜んでもらえて嬉しい」
 ファリアが自分のことにように、嬉しそうな笑みを浮かべた。
 ラスティは筆を一本取り出してみる。
「すごい! これなら、凄い絵が描けそうだ!」
 このシンプルで持ちやすいデザインといい、筆先の絶妙な柔らかさといい、一級品であることは疑い様がない。
「ラスティ、子供みたい」
 ファリアがぷっとふきだす。
「いや、だってさ……」
 ラスティは自分でも顔が赤くなるのがわかった。これ以上笑われないように、ラスティは筆を仕舞うと、話題を変える。
「ところで、どんな料理が出てくるんだ?」
「えっとねぇ――」
 ファリアが楽しそうな声で、出てくる料理について説明し始める。その愛らしい口から発せられる声の一言一言を、ラスティは楽しそうに頬づえをつきながら聞いていた。
「ラスティ、聞いてる?」
「あぁ、ちゃんと聞いてるよ」
 ラスティは水の入ったグラスを口に運んだ。
「私の顔に、何かついてる?」
 ファリアが首を傾げてみせる。
「いや、そういうんじゃなくてさ」
「何か、私の顔ばっかり見てない?」
「さあね。っと、料理が来たみたいだ」
 ラスティはそうはぐらかしたが、本当はファリアのことだけを見ていた。明るく楽しそうに話すファリアをランプ越しに見ていると、切なくなる。
「あ、本当だ。楽しみだね」
 スープを運んでくるウェイターを見て、ファリアが瞳を輝かせた。
 こんなファリアを見ると、ラスティは素直に普通の女の子なんだと思う。美味しいものや可愛いものに心が動かされる、本当に普通の素敵な女の子なんだ、と。
 ウェイターがすっと洗練された身のこなしで、「かぼちゃの冷たいスープです」と、スープを置いていく。スープはかぼちゃが色鮮やかで、浮いている刻みパセリの緑が映えていた。
「美味しそうだね。どんな味かな?」
 ファリアは嬉しそうな笑みを浮かべて、たまらない感じだ。
 ラスティとファリアが「いただきます」と脇にあるスプーンを取ろうと手を伸ばしたとき、パチパチパチ……と周りの客達から拍手が巻き起こった。
「何?」
 ファリアがきょろきょろと、店内を見渡した。ラスティも同じように見回してみる。タキシード姿の男が一人、片手にヴァイオリンをもって一礼していた。
「何か始まるんですか?」
 ラスティは近くにいたウエイターに尋ねる。
「これから、当店の専属のヴァイオリン弾きによる演奏が始まるんです。お食事よりこちらを楽しみに来てくださる方も多いんですよ」
 ウエイターの説明を聞いているうちに、演奏が始まる。
 ヴァイオリンの旋律が店内に響き渡る。
「いい曲だね……」
 スープをすすって、ファリアが夢心地のような表情を浮かべる。
「なんて曲か、知ってるの?」
 ラスティはそんなファリアの見て尋ねた。
「初めて聴くから、曲名は分からないよ。でもね、この曲を聴いてると元気が出てこない?」
 ファリアが嬉しそうに笑った。
 ラスティもそう思う。心の奥から何か湧き上がってくる感じがする。どこか優しく、それでいて勇気づけてくれる。
「空だって飛べたりしてね」
「ははは、空か」
 ファリアのあまりの突拍子のなさに思わず、おかしくてラスティは声を上げてしまった。
「何よ。笑わなくたっていいじゃない。私はそんな気がしたのよ」
 ファリアが頬を膨らませる。
「ごめん、ごめん。ファリアがそんなこと言ったの初めてだからさ。空を飛んでみたいんだ?」
「そういうわけじゃないけど……。何て言うのかな? この曲聴いてたらそんな気分になっただけ。私なんかでも、空が飛べるんじゃないかって。青い空の下で、自由に飛ぶの。ラスティも隣で一緒に飛んでるの。きっと心地良いんだろうな」
「そっか……。そういうのも楽しそうだな……」
「でしょう。きっと楽しいよ」
 ファリアが屈託のない笑顔を浮かべて、ラスティは胸が切なくなるのを感じずにはいられなかった。
 今くらい、ファリアのそんな夢を一緒に見てもいいだろう。
 
 楽しい夕食も終わろうとしている。
 ヴァイオリンは穏やかに、ゆったりとした曲を奏でる。
 最後のデザートはこの店自慢のチーズケーキだった。いい感じに茶色の焦げ目がついた表面に、クリーム色の生地。底はクッキー生地で出来ている。
 フォークで一口食べてみると、ほのかな甘味が、ラスティの口の中いっぱいに広がった。
「ラスティ、お願いがあるんだけど」
 ファリアがフォークで切ったチーズケーキを口の中に運ぶ。
「何?」
 ラスティはフォークを置いて、コーヒー飲んだ。
 ファリアがチーズケーキを飲み込んで、覗き込んで、
「えっとね。私を描いて欲しいなって……」
 ファリアは恥ずかしそうに照れ笑いを浮かべた。
「なんでまた? 今は、今度出展しようと思ってる風景画が――」
 じっと見つめてくるファリアに、ラスティは残りの言葉が言えなかった。確かに今度画家仲間と開く、展覧会用の新作を描いている。だが――。
「分かったよ。明日からやってみよう。それでいい?」
「本当? 絶対だよ」
 ファリア大きく声を上げた。
「ああ、約束だ」
「へへへ……。約束、約束」
 子どものように嬉しそうに喜ぶファリアを見て、これでいいと自分に言い聞かせる。画家仲間には悪いが、今は自分の出来ることをファリアのためにやってやりたい。
 二口目のチーズケーキをラスティは口の中に運んだ。そのおいしさ十分に味わう。
「おいしいね」
 口にフォークの先をくわえて、満足そうに微笑む。
 ヴァイオリニストがアンコールに応えて、再び最初の曲を奏で始める。
 ファリアもそれに気がついたようで、瞳を閉じて聞こえてくる旋律に耳を傾けている。身体を左右に揺らして、頭の中では、青い空の下で、自由に飛んでいるのだろう。とても楽しそうな表情で、それがラスティには分かった。
 しばらくヴァイオリンの旋律以外何も聞こえない、静かな時間が過ぎていく。
「また来ようね。ここ」
 不意に、ファリアが瞳を開けて笑った。
「ああ。そうだな」
「約束だからね」
「ああ、約束だ」
 ファリアが満足そうに微笑む。
 ラスティはチーズケーキの最後の一口を食べると、ファリアに出来る限り優しく微笑んでみせた。

 ラスティのアトリエ兼自宅は、この街の大通りから東に入った居住区域の端にある。こじんまりとした木造のアパートで、二階の二部屋を借りている。二部屋は繋がっていて、一方をアトリエとして絵を描き、もう一方の部屋で生活している。
 ラスティはちょうど画材の買出しから帰ってきたところだ。画材の入った麻袋を抱えてアトリエのドアを開けると、中から絵の具の独特の匂いが、ラスティの鼻腔を刺激した。
 アトリエの中は薄暗く、小さな窓が唯一の明かりだった。床はアトリエとしているだけあって、赤や青、黄などさまざまな絵の具でよごれている。部屋の中央には、真っ白のキャンバスが三脚に置かれ、その前にはラスティの座るイスが置いてある。部屋の隅には、何枚もの大小さまざまなキャンバスが乾燥棚に置かれていた。その脇に画材用の棚が並んでいる。
「おかえり」
 西にある窓から射し込む陽射しに照らされて、ファリアがイスに座って笑顔で迎えてくれた。
「ただいま。もう来てたんだ。教えてくれたら、買い物のついでに迎えにいったのに」
 ラスティは買ってきた画材を部屋の隅のテーブルに置く。今日はファリアの肖像画を描く予定だ。
 背中越しに「そこまではいいよ」とファリアの遠慮した声が聞こえた。ファリアは大通りをはさんで、ラスティの住む東地区とは反対の西地区に一人暮しだ。
 ラスティはそこであることに気がついた。見渡してみると、アトリエが妙に片付いているのだ。いつもはアトリエ中に散らかしてある絵の具や筆、顔料、パレットといった、絵を描くために必要な道具が、なぜか画材用の棚に綺麗に整頓されている。今朝、ラスティが出て行った状態とは明らかに片付いている。
 ラスティはすぐにあることに思い至って、
「また、片付けてくれたんだ。ありがとう」
「うん。悪いかなと思ったけど片付けたんだ。ラスティは片付けるのなかなかしないから、誰かがやってあげないと」
 恥ずかしそうに「えへへへ……」とファリアが笑った。
「そうすると俺は、お前を綺麗に描かなくちゃいけないわけだ」
「そうそう。綺麗に描いてね」
 ファリアが楽しそうに笑った。
「あ、そうだ。絵が何枚か見当たらないんだけど、知らない?」
 今まで描いてきた絵の中で出来の良いものが、数点見あたらないのだ。ファリアが部屋を片付けたというので聞いてみる。
「私もラスティの絵を全部確認してるわけじゃないから……。あのときに持っていったとかじゃないの?」
 あのとき――ジャックが転んだときのことだ。思い出したくもない。
「いや、それより前からないと思うんだ。あの、広場を描いた奴とかなんだけど」
「あれね。ラスティが気に入ってた絵だよね。分かった。今度探しておくね」
「ありがとう。でも無理するなよ。俺も探してみるから」
 ここのどこかにあるのは確かなのだ。そのうち見つかるだろう。
「それじゃ、早速始めようか?」
 ラスティは、ファリアからプレゼントされた真新しい筆や、コンテ、大きめのキャンバスを準備した。
「ねぇ、まさか裸とか言わないよね」
「言わないよ」
 ラスティはファリアの心配に苦笑した。
「一応女の子としては、聞いておかないとね」
「そっちが良かった?」
「バカッ!」
 ほんの少し残念そうに聞こえたのは、ラスティの気のせいに違いない。
「そこの椅子に座って」
「ここでいいの?」
 ファリアが椅子に座ると、窓から差し込んでくる光が当たる。
「向きは部屋の隅のほうを見て――もう少し上。そこでいいよ」
 ラスティは少し上を向いて、どこか祈りを捧げるような感じを出してみた。窓から射し込む陽射しが、ファリアの顔に光と影を作り出す。
「この姿勢って意外と疲れるのね」
「あんまり動かないでくれ」
 ラスティは白いパネルに向かって、デッサンを描き出す。時折、筆を立てて距離を測る。柔らかいタッチの黒線がキャンバスに描かれていく。
「そう言えば、どうして画家になろうと思ったの?」
 ファリアがそのままの姿勢で、聞いてきた。
「どうしてって聞かれても……」
 ラスティはデッサンを止めた。
「子どもの頃から絵は好きだったし……絵が売れないっていうのは、まぁ困るし……世間から画家として認められたい? うーん……」
 しばらく考える。なぜ画家なのか? 絵が売れるに越したことはないが、売れることが重要なのか? 別に今のように職を転々としながらでも、絵は描き続けたい。その道を選ぶ理由――。
「多分答えにはならないだろうけど……絵を描いていないと生きていけないからじゃないかな……」
 そう言ったとき、自分の中の確かなものに触れた気がした。
「生きていけない?」
 ファリアが顔をしかめたのが分かる。
「絵を描かなくなったら、俺が俺でいられなくなる気がしてさ。自分がなくなるみたいで……」
 ラスティは再び手を動かし始めた。
「よく分からないよ」
「あんまりうまく言えないけど、鳥は飛ばないと生きていけないだろう? それと同じで、俺は絵を描いていないと、生きていけないんだ」
 自分でも何を言っているのかよく分からない。ファリアにうまく伝わったのかさえも、自信がない。
「なんとなく、分かる気がするよ。なんとなくね」
「そっか……」
 その言葉にラスティは不思議と、心が熱くなるのを感じずにはいられなかった。
 しばらく、無言で時間が過ぎていく。
 ファリアをじっと見つめながら、ラスティはあることに気がついた。普通、モデルというものは、長時間同じ姿勢を保ち続けるため、かなり疲労してまう。それはモデルの表情を見ていれば容易に分かることだ。それがファリアはどうだろう。もうかれこれ描き始めて一時間は経とうとしているというのに、表情は疲れているどころか、むしろ楽しげに見えてしまう。
「どうかした?」
「何が?」
 ファリアの声の調子も、どこか気分の良いように聞こえる。
「楽しそうにしてるからさ?」
「うん。楽しいし、うれしい。最初は緊張してたけどね。だって、ラスティが一生懸命私を描いてくれてるじゃない。そしたら、どんな絵が出来るのかわくわくしてきちゃって」
「え?」
 ラスティは間の抜けた声とともに、思わず顔が熱くなった。見ているのはラスティにだけではなかったのである。ファリアもじっと、ラスティを見ていたのだ。そんなことは、頭の中にはまったくなくて、妙に恥ずかしい。
「どうかしたの? 顔赤いよ」
「なんでもないよ」
 そこでラスティは、光の感じが変わってきたことに気がついて、コンテを置いた。
「今日はもうやめよう」
「私はまだ大丈夫だよ」
 ファリアが姿勢を崩して、反論する。
「いや、光の加減がもう限界なんだ。それにあんまり無理しない方がいい。モデルはかなり疲れるから」
 窓から射し込んでくる西日も、描き始めた頃と比べると、明らかに強くなっている。そうなると、顔の陰影や距離感が変わってくるので、これ以上は難しいのだ。それに、まだ大丈夫というファリアも、実は疲れているに違いないのだ。
「もう、仕方ないなぁ」
 ファリアがイスから立ち上がって、身体を伸ばした。
「で、どんな感じ? 私、綺麗に描けてる?」
「描きかけだから見ないで。まぁ、少しデッサンが狂ってるから、今度修正する」
 ラスティはファリアが絵を見るより早く、それに布をかけて見えなくしてしまう。
「けち! いいじゃない、少しくらい見せてくれたって」
 ファリアが頬を膨らませた。
 描きかけの絵を見せないのは、ラスティの画家としてのプライドだ。こればかりはいくらファリアの頼みといえど、譲れない。
「出来たらな」
 そうラスティは仕方なく苦笑を浮かべる。
 そのときドアをノックする音がした。
「誰か来たみたいだ」
 ラスティは「はい」と返事をして、玄関へ向かった。
 ドアを開けると、そこには右目に片眼鏡をした鼻のやけに高い男が立っていた。歳はラスティよりも二回りくらい上の四十代中ばくらいだろう。鼻の下には切りそろえられたひげを生やして、髪は綺麗に後ろに寝かせている。黒のフロックコートをまとい、黒塗りのステッキ手にして、貴族かブルジョアを思わせた。
「あなたが、ラスティさんですか?」
 男性の丁寧な物言いには、それ相応の風格がある。ラスティにこういった上流階級と縁があるはずもなく、戸惑わずにはいられない。
「え、ええ。そうですが……?」
「初めまして。私、クラウディオと申します。突然の訪問まことに申し訳ありません」
 クラウディオと名乗った男性は、そう深く頭を下げる。これにはさすがにラスティも驚いた。まさかこんな人が、庶民の自分に頭を下げるなんて思いもよらなかった。
「率直に言います。あなたに絵を描いて頂きたいのです」
 ラスティは一瞬理解出来なかった。
「も、もう一度言って頂けますか?」
 声が震えていた。
「あなたに絵を描いて頂きたいのですよ」
 ラスティの頭の中で、彼の言葉が何度もリフレインする。
「わ、私に絵を……?」
 信じられなかった。ラスティは懸命に落ち着きを装おうとしたが、余計足が震えた。落ち着け。ここで妙なことでも言おうものなら、せっかくの仕事が、ご破算になってしまう。
 クラウディオが大きく頷き、
「ええ、そうです。どんなものを描いて頂くかというと、ワインのラベルです。ここでは長くなりそうですから、よろしければ、明日私の屋敷の方に来て頂けないでしょうか? 詳しいこともそこで、お話いたします」
「え、お屋敷にですか? よ、喜んでうかがいます」
 まさか、屋敷にまで呼ばれることになろうとは、思いもしなかった。
「家は、ここから北の――」
 クラウディオがここから屋敷までを細かに説明する。難しいことはなく、ラスティはすぐに覚えることができた。
「分かりました。明日の午後、うかがわせてもらいます」
「それでは、また明日」
 クラウディオが深く頭を下げて帰っていく。ラスティは呆然とドアが閉まる音を聞いていた。
「絵の仕事……。初めての……」
 そう呟く。ゆっくり事実を認識していく。
「ラスティ?」
 ファリアが後ろに立っていた。
「ファリアーッ!」
 思わずラスティはファリアを抱きしめていた。
「な、なに?」
 困惑するファリアをよそに、ラスティは空高く駆け上る気持ちで叫んでいた。

 翌日の昼下がり。空は薄く曇っていた。太陽も雲に隠れて見えない。
 ラスティは昨日言われた屋敷の前に立っていた。目の前には、壁が白く上品な大きな屋敷がある。ただそれはどちらかと言えば、ラスティに教会を連想させる。
 ラスティは玄関のベルを鳴らした。ほとんど待つことなく、ドアが開いく。が、目の前には誰もいない。白い壁に挟まれた赤い絨毯の廊下が続いているだけだ。
「どうなって――」
「こっちです」
 下から聞き覚えのある声が聞こえた。足元を見てみると、ピンクのドレス姿の小さな女の子がラスティを見上げていた。
 女の子と目が合ったまま、一瞬時間が止まる。
「あ、あなたはあのときの!」
「き、君は、あのときの!」
 名前は確か、アンジェといったか。まさかこんなところでも会おうは夢にも思っていなかったのだが、
「アンジェ? おじさんがお客様が来たら、部屋に案内――」
 さらに聞き覚えのある声が、聞こえてきて、ラスティは嫌な予感がした。
「あ、あんたは!」
 顔をあげると、その予感は見事に的中した。そこには短い黒髪をたてた男の子――ジャックが立っていた。
「まさか、絵を弁償させに来たんじゃないだろうな! 卑怯だぞ! あの時は何も言わなかったくせに!」
 ジャックが睨みかかってくる。
「あんな絵に払う金はねぇからな!」
 ラスティは頭が痛くなった。まさかこんな子どもに、自分の絵をけなされるなど思ってもみなかった。
 せめて、ちゃんと見てから言ってくれ。心の内で溜め息を吐く。
「そんなことはしないよ。今日はクラウディオさんに呼ばれたんだよ」
 出来るだけ優しく二人に声をかけた。とはいえ、表情が引きつっているのは気のせいではないだろう。
「それでは、お父様が呼ばれた画家というのは、あなたなんですか!」
 アンジェの悲鳴にも似た叫びが、耳に痛い。
 どうして、そんなに驚く? 俺じゃいけないのか? ――画家としてのプライドはもはやぼろぼろだった。ラスティは思わず泣きそうになりながら、二人に聞いてみる。
「そうだろうね。それで、クラウディオさんはどこに?」
「こっちだよ。ついて来て」
 ジャックが背を向けて走り出す。
「あ、ジャック待ってよ」
 そのあとを、アンジェも追いかけていく。
「おい、走らないでくれ。俺を誰が案内してくれるんだよ?」
 言葉も空しく、二人が止まることはなかった。結局、ラスティも走るしかなかった。広そうな屋敷だ。二人を見失うわけにはいかない。
 小さな背中を追いかけて、廊下を駆けていく。突き当たりを曲がり、階段を一段飛ばしで駆け上がっていく。二階の三番目の部屋の前で、二人がラスティを待っていた。
 日頃の運動不足が祟ったのか、ラスティは肩で息をする。胸が少し苦しい。ジャックが勝ち誇った笑みを浮かべて、
「情けないなー。これくらいで」
 こんなことで勝ち誇るな、と思わないでもないが、所詮は子どもの言うことと、感情をぐっと抑える。それより、今はそれどころではない。呼吸を整えなければ。
 アンジェが扉をノックすると、中から「はい」と返ってきた。アンジェが彼女の頭より少しだけ高いところにあるドアノブを回して、扉を開ける。
「お父様、お客さまを連れてきました」
 連れてきてもらった憶えはない。俺は君らを追いかけてきたんだが……。
 乱れた息を無理矢理押さえ込みながら、ラスティは心の中でそう毒づいた。
「通してくれ」
「どうぞ」
 アンジェに通された一室は、正面に大きな窓のある日当たりが良く広い。その陽射しを背に浴びるように、黒塗りの机が置かれ、クラウディオがその机に座っていた。
「よくいらっしゃいました。ラスティさん」
 クラウディオが席を立って、「こちらへ」と部屋の中央にあるソファーにラスティは座らされた。彼自身も、テーブルをはさんだ向かいのソファーに腰を下ろす。
 ラスティはきょろきょろと、部屋の中を見渡した。左手の壁には天井まである大きなキャビネットが三つ並んでいる。ガラス戸越しに見てみると、壷や陶器の人形、帆船など、間違いなく高価と思える調度品が並べられている。これだけでも、クラウディオがかなりの資産家であるのが見てとれた。
「何かおもしろい物はありますかな?」
「い、いえ。このようなところに招かれたのは初めてで。すいません」
 辺り構わず見渡されるのは、あまり気分の良いものではない。クラウディオの言葉に、思わず自分の失態を知って、ラスティは自分を恥じた。
「いえいえ、一向に構いませんよ。そんなに緊張なさらないで」
 クラウディオが金持ちらしからぬ態度で、柔らかく微笑む。ラスティもそれに安心して、幾分か緊張が解けた。
「ところでラスティさんは、紅茶とコーヒーは、どちらが好みですかね? 用意させますよ」
「ありがとうございます。それではお言葉に甘えて、コーヒーを」
「アンジェ、すまないがコーヒーを淹れてきておくれ。先日、良い豆が入ったんですよ」
 クラウディオがにっこり笑った。入り口に立っていたアンジェは、「はい」と返事をして出て行く。
「娘のアンジェです。屋敷で使用人を使うのは、どうも私の性に合わなくて」
 それでわざわざ自分で家まできたのか。ラスティの疑問が一つ解消された。
 昨日は興奮していて気がつかなかったが、わざわざ無名の画家の元に来るのは、自ら足を運ぶなんて、考えてみれば不思議でたまらなかった。もっとも、こんな資産家が自分のようなものを、用もなく相手にもするまいとも考えたのだが。
「さて、早速本題に入りましょう」
「確か、ワインのラベルを描いて欲しいということでしたよね」
「ええ、そうです。私は父の代から郊外にある葡萄園を営み、その葡萄でワインを作ってきました。今年も、もちろん出荷します。ですが、今年出荷する物の中の十年間熟成したものは、一品物なんです。十年前の葡萄の出来は、それはもう素晴らしいものでした。おそらく私のこれまでの人生の中で、最高の物だと自負しております。しかも、アンジェが生まれた年で、私にとっても思い出深いものがある」
 クラウディオの顔に喜びが滲みでる。この日をきっと心待ちにしていたのだろう。
「そこで、どうせなら一生の思い出になるものにしたい。そしてワインを多くの人に買って頂きたいのですよ。そこで何か手は無いかと思案していたところに、そのワインだけの特別なラベルを描いてもらおうと思ったのですよ」
 興奮を抑えられないのだろう。クラウディオが右手を強く握り締めていた。
 意図することは良く分かる。ワインを買う客は、最初から味ではなく、その色や産地で決めるものである。そこにもう一つ絵というイメージを加えることで、より多くの利益が見込める。印刷技術の向上で、最近はそうやってより多くの売れているものも少なくないと聞く。しかし、絵を依頼し、さら印刷するために、より費用がかかってしまうのも、また事実である。まして、確実に売り上げに直結するものなのか、いささかの疑問がないわけではない。他のラベルと比べて見劣りすれば、反対に売り利上げに響くケースもあるだろう。そう考えると、引き受ける責任は重い。よほど今回のワインに自信があるか――ここでラスティにある疑問が湧いた。
 どうして俺なんだ? 俺より巧く有名な画家は大勢いるはずなのに……。
 しかしそれを口にするのは、今は止めておいた。せっかくのチャンスなのだ。妙なことを言って、つぶしたくはない。
「わかりました。それで、そのワインはもう?」
「ええ。こちらです」
 クラウディオが棚のガラス戸を開けて、二本のワインを取り出した。一本が血のように紅い赤ワイン。もう一本が、ほんのりと淡く色付いた透明感のある白ワインだ。当然ラベルはない。
「どちらかをアンジェの誕生日に開けるつもりなんです。まぁ、何を食べるかで変わりますがね」
 クラウディオの顔が緩んだ。娘の成長と、それとともにあったワイン。なんとも言えない幸せがあるのだろう。それにしても一口くらい、あの子も飲むのだろうか? 
 ラスティはテーブルに置かれたワイン見つめた。
「ラスティさん、お酒は飲まれますか?」
「いえ、それが全く」
 以前、ものは試しにと安いワインを飲んだことがあったが、不味い上に、悪酔いしただけで終わってしまった。それ以来、酒は飲む気にならない。金を無駄にするだけと思っている。
「そりゃあ、人生の半分を楽しめないのと同じですよ。美味い酒を飲む。これが人生を楽しむ秘訣です。無理にとは言いませんが、これを期に、少したしなめられては?」
 悪気はないのだろうけど、金持ちらしい考え方だ。ラスティは内心苦笑した。酒を楽しむといっても、飲める飲めないに関わらず、不味い粗悪品が多い上に、上級品は庶民がそうそう手の届くものではないのだ。そんなことを彼は知らないのだろう。
 そこで、コンコンとドアをノックする音が響いた。
「コーヒーをお持ちしました」
 アンジェがトレイを運んできてくれた。
「この子の淹れてくれるコーヒーは美味しいんですよ」
 クラウディオが、そう教えてくれる。実際、コーヒーの濃厚な芳香が部屋の中を漂って、ラスティの鼻を刺激する。
「どうぞ」
 アンジェがコーヒーに砂糖、ミルクとテーブルに丁寧に置く。
「ありがとう」
 そうラスティは微笑んでみたが、用件はそれだけといった感じで、アンジェはさっさと出て行ってしまった。
「申し訳ありません。普段はもっと愛想が良いのですが……。ワインがこういう時期でして、それで妻が農園の方に行ってしまって、しばらく留守にしているのが、どうもつまらないらしくて」
 クラウディオは困ったように、アンジェの背中を見送っていた。
 自分に愛想のない理由は、そういうことではなくて、おそらくは広場での一件が原因なように思える。クラウディオの耳に、そのことが届くかもしれない。それが気になって仕方がない、といったところだろう。しかしそれは、ジャックとアンジェのために言わないでおこう。
「そういえばもう一人、男の子がいましたが?」
「ジャックのことですね。ジャックの父親とは旧知の仲でして、家族ぐるみで付き合いがあるんです。とくにジャックとアンジェは仲が良くて、昔からよく遊んでますよ。この前は、アンジェがジャックを追いかけてましたよ」
 クラウディオがにこやかに微笑んでいるが、ラスティは笑えない。せっかく忘れかけていた惨劇が、思い起こされてしまう。
 その結果、俺の絵が駄目になったわけで――。
 そんなラスティの心など、クラウディオは知る由もなく、話を続けた。
「ところで、肝心の返事をまだ聞いておりませんでしたな。受けてもらえますか?」
「ええ、それはもう、よろこんで」
 ラスティはそうは言うものの、心なしか声に力が入らない。
 絵の仕事がもらえるのは、ラスティにとって願ったり叶ったりなのだが、駄目になった絵のことが浮かんで、嬉しいんだが、虚しいんだか、よく分からない。とはいえ、これも何かの縁なのかもしれない。
「ありがとうございます」
 クラウディオが深々と頭を下げた。それに合わせて、ラスティも「こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げた。
 責任は重大だが、やってみよう。これはチャンスなのだから。
 それからどんな絵を、何枚ほど描けば良いのか、その大きさについて意見を聞いた。実際は、石版画の一変種である転写紙の技法を用いる。専用の特殊な紙に油彩クレヨンで描いた絵を、石版に転写し、平版印刷するのだ。つまり石版画になるということだったが、大きな問題はなさそうだった。

 子どものエネルギーとは、もの凄い。
 ラスティはあきれてものが言えなかった。出鼻をくじかれるとはまさにこのことだ。
 ファリアは丸イスに腰掛けて、壁にもたれて楽しそうに笑っていた。
 絵の具も、キャンバスもタダではないのだ。もちろん、筆も――。
 アトリエは、さながら嵐の真っ只中。
 床も壁もキャンバスではない。
 せっかくファリアが掃除してくれたというのに、これでは何の意味もない。
 ラベルの仕事をもらって初日。
 どうやってここ、つまりアトリエを知ったかはラスティには分からないが、昼下がりに突然小さな訪問者が現れた。ジャックとアンジェである。
 二人とも床に座って、好き勝手に見よう見まねで、貸した画材で絵を描いていたのだが――ジャックがアンジェのキャンバスに青い絵の具をつけたのがことの発端だった。
「ジャック、またやったわね!」
 キッとジャックをアンジェが睨みつける。
「ふん。下手な絵を描く奴が悪いんだよ。だりゃ!」
 ジャックがさらに赤の絵の具を筆にべったりとつけて、アンジェのキャンバスに向けて思いっきり振るう。絵の具は当然アンジェのキャンバスといわず、床に壁に飛び散っていく。
 二人のキャンバスは、ただ何色もの絵の具が複雑に混ざり合って、すでに何を描いていたのか分かったものではない。もっとも、これはこれで、芸術なのかもしれないが。
 ラスティに止める気力はない。というか、最初からその気がない。子どもの気の済むまでやらせた方が良さそうだ。問題は、それがいつになるのか分からないことだ。
「あんたなんかこうよ!」
 アンジェが筆についていた黄の絵の具で、ジャックに頬を一線。
「何を!」
 今度は、ジャックがアンジェの額から鼻の頭にかけて筆を振る。
「本当にこの子たちは、仲が良いのか?」
 壁際のイスに座るファリアの横で、溜め息混じりにラスティはうめいた。
「とっても仲良いじゃない。子どもなんて、みんなこうでしょう」
 ラスティとは対照的に、フェリアは本当に楽しそうにジャックとアンジェを見ていた。
「ごめんな。本当はお前を描いてあげたいんだけど……」
「仕方ないよ。お仕事だもんね。画家はラスティの夢でしょ? そっちを優先して。私はまだ大丈夫だから気にしないで」
 ファリアの手が、ラスティの手に絡んでくる。その手をしっかり離さないようにラスティは強く握る。
「今日くらいは二人っきりでいたかったんでけどな……」
「こういうのも、たまには良いじゃない?」
 上目遣いのファリアと目が合った。ラスティは肩をすくめて、
「この前の例があるし。こっちは気が気じゃないよ。どっちにしても、筆なんか持たせるんじゃなかった」
 犬同士の喧嘩のように、ジャックとアンジェはアトリエの真ん中で、互いに睨みあっている。お互いに、左手にパレット、右手に筆を持って構えている。さながら、筆が剣、パレットが盾といったところか。
 先に動いたのは、ジャックだった。緑のの絵の具をすばやく筆につけると、そのままアンジェの顔をめがけて、筆を突き出す。が、アンジェはそれを、パレットで簡単に防ぐ。
「ばればれなのよ。えいっ!」
 アンジェが反撃とばかりに、ジャックの右頬から額へ手首のスナップを利かせて、丸く黄の絵の具をつける。
「っくしょう! この!」
 ジャックが負けじと、さらに黒の絵の具を多量に筆に塗りつけて横に振るう。絵の具はアンジェめがけて飛んでいく。
「この服、お気に入りだったんだからね!」
 ピンクのドレスに、絵の具が黒く染みを作る。
「そっちがその気なら、こっちは!」
 こんな小さな女の子でも、女は怒らすと、怖い。ラスティは心底思う。
「おい、アンジェ! それはヤバイだろ!」
 アンジェが捨て身と言わんばかりに、左手のパレットを正面に持ち直して、そのまま、ジャックに突っ込んだのである。ジャックが避けようと左右を見たが、狭いアトリエなので、避けるようなスペースはない。そのまま、べチャッと嫌な音を立てて、アンジェのパレットはジャックの服に壮大に色を塗った。
「ふん! 思い知った!」
 パレットが落ちるの同時に、アンジェが勝ち誇ったような表所を浮かべる。
 とはいえ、ジャックがこのままで済ますはずもない。
「アンジェーッ!」
 ついに、ジャックもキレたようだ。
「な、なによ。ジャックが悪いんでしょ。あんたが先に――」
 ジャックの迫力にアンジェがあとづさる。
 さすがにこれ以上放っておくと、取っ組み合いの喧嘩になりかねない。正直うんざりしていたところだし、頃合だろう。ラスティは、つかつかとにらみ合う二人に歩み寄ると、問答無用で両拳を二人の頭にそれぞれたたきつけた。
「いい加減にしないか! 君らは俺の邪魔をしにきたのか? まわりを見てみろ!」
 声にならない悲鳴をあげて、ジャックもアンジェも、床の上で転がってもだえている。撒き散らした絵の具が二人の服についていくが、二人にはいい薬だろう。このままでは、いつまで喧嘩しているのか分かったものではない。二人から、パレットと筆を取り上げる。
「こんなに床も壁も汚して。ほら、顔洗って、掃除だ! 掃除!」
 ジャックとアンジェが、頭をさすりながら立ち上がる。二人の何か言いたげな目とラスティの目があう。それをラスティは、有無を言わさず睨み返した。しぶしぶ、二人は黙って生活部屋の洗い場に向かった。
「お兄ちゃんみたいだね。ラスティは」
「そりゃないだろう……」
 ラスティは肩をすくめようとしたが――。
「このさっきはよくも!」
「なによっ!」
 洗い場からジャックとアンジェの声が轟いた。
「休む暇がないね、お兄ちゃん」
 ファリアは楽しくて仕方がないようだった。
「まったく……」
 この日結局、まったく依頼された絵は進まなかった。

 三週間が経った。
 季節は秋から冬になろうとしている。クラウディオの言った締め切りが近づいていた。
 描きかけのブドウを前に、ラスティの腕は動かない。やる気が空回りしているのか、それともプレッシャーなのか、思うように描けない。
「ちくしょう!」
 ラスティは気に食わなくて、紙を破り捨てる。もう何枚無駄にしたのか分からない。
 ジャックとアンジェは昨日まで毎日遊びに来ていたが、一週間前から遊びに来ても、ファリアが気を使ってくれて、二人の相手をしていた。それが、今日はどういう風の吹き回しなのか、遊びにさえ来ていない。クラウディオが咎めたのかもしれない。おかげで、集中できるというものだが――。
「ラスティ、少し休んだら?」
 心配そうにファリアがラスティを覗き込む。
「いや、いい……」
 ラスティは髪をかきむしり、頭を抱えた。
「何日も寝てないんでしょう?」
「うるさい!」
 思わず、怒鳴ってファリアを睨みつけてしまう。
「ご、ごめん。そんなつもりはじゃないんだ」
 ファリアにそんな自分を見られたくなくて、背を向けるとラスティは俯いて顔をしかめた。
「うん。分かってる。分かってるよ」
 突然、ファリアが後ろから抱きしめてくれる。背中からファリアの体温が伝わる。
「私の鼓動が聞こえる?」
「ああ、聞こえるよ」
 規則正しい鼓動が、ラスティを落ち着かせてくれる。
「焦らなくて良いんだよ。大丈夫だから。私だって、まだいるから」
 ファリアの優しさが、ただ、痛かった。なんでこんなにも焦っていたのだろう。ファリアに心配させまいとして、心配させていた。そんな自分が恨めしい。まだ大丈夫だと、まだ大丈夫なんだと、そう自分に言い聞かせる。
「ねぇ。ちょっと出かけよう? 今日はこんなにいい天気なんだし。そんなんじゃ、良い絵も描けないよ」
 ファリアがラスティの手を取って、引っ張る。
「お、おい――」
「いいから、行くよ!」
 ファリアが笑ってみせた。窓から射し込む光に白い肌が反射して、とても儚げだった。ラスティは思わず目頭が熱くなって、空いた手で思わず押さえた。

「空が高いね」
 ラスティとファリアは、いつも絵を売りに来ている広場のベンチに、並んで座っていた。ファリアが雲一つない青い秋空を仰いでいる。吹く風も穏やかで、寒くはない。
「そう、だな」
 ファリアと同じように、ラスティも空を仰いだ。
「空だって飛べそうな気がするよ」
「翼でもあれば、飛べるかもな」
 こんなにゆっくりした時間を味わうのは、久しぶりだった。ここにくると、いつも絵のことを考えた。何を次に描くのか? どんな絵にするのか? 隣には、いつもファリアがいた。起きていたいのに、今は瞼が重い。
 ラスティの耳にどこかで聞いたメロディが入ってきた。横を見ると、ファリアが鼻歌を歌っていた。
「それは……?」
「少し前ラスティと一緒にレストランに行ったでしょ? そのときの流れてた曲だよ。あのヴァイオリン弾きの人、たまにここでヴァイオリンを弾いて練習してるんだよ。この前、ここでジャックとアンジェと遊んでたら、偶然会ってびっくりしちゃった。それでね、弾いてもらうようにお願いしたんだ」
 ファリアは嬉しそうにまた鼻歌を続けた。
 心地よかった。いつまでこうしていたかった。いつまでも――。
「ラスティならきっと出来るよ。ううん。ラスティにしかできないんだよ……」
「ファリア?」
「今はゆっくり休んで……」
 ファリアはまた鼻歌を始めた。
 穏やかな時間の中で、いつしか、ラスティは瞼をやけに重く感じて、そのまま眠りに落ちていく。
「私は……そばに……祈って……」
 ファリアが何か言ったけれど、ラスティには聞こえなかった。

 夢をみた。
 ラスティは美術館で個展を開いていた。
 多くの人がラスティの絵を見に美術館を訪れていた。
 ラスティの隣にはファリアがいた。
 長年の夢が叶っていた。
 決して叶うことのないはずの夢も、叶っていた。
 思わずラスティは、泣いてしまった。
 隣のファリアが、抱きしめてくれた。
 どうすることもできないのは、分かっている。
 嗚咽だった声が次第に、慟哭に変わっていく。
 それでも、ファリアは離れることなく、強く、優しくラスティを抱きしめていてくれた。

「おはよう。目は覚めた?」
 目の前にファリアの笑顔がある。その先に広がる空は、赤く染まっていた。
「泣いていたけど、嫌な夢でも見た?」
「そんなことはないけど……」
 嫌な夢ではない。けれど、どうしようもなく、哀しい夢だった。抗うことのできない現実を見せつけられた夢だった。
 そこで、ラスティはファリアに膝枕をしてもらっていることに気がついて、飛び起きた。
「膝枕、恥ずかしかった?」
「まぁ、な」
 本当に恥ずかしかった。思わずラスティは、いたずらのうまくいった、子どものような表情で覗き込んでくるファリアから目をそらした。
「アハハハハハ――」
「プッハハハハハ――」
 お互いに吹き出してしまった。目頭に涙が滲んだ。
「だいぶ寝てたな。でもだいぶ頭の中がすっきりしたよ」
「休んでよかったでしょ?」
「ああ。良いのが描けそうな気がしてきた」
「じゃ、さっさと仕上げちゃおう。そして、私も描いてもらわないとね」
 ベンチから立ちあがって、夕焼けの中でファリアが無邪気に笑う。どんな光も反射してしまうようにファリアが笑う。それがラスティには切なすぎて、胸を締め付けられる。ふいに、決し現実にならない夢が、ラスティの頭の中でフラッシュバックする。思わず、ファリアを強く抱きしめる。
「どこにも行かないでくれ……。頼むから……」
 自分には、どうすることもできないのは分かっていた。残された時間はほとんどない。秋は静かに終わりを迎えようとしている。風に落ち葉が一枚静かに落ちていく。
「大丈夫……。私はまだここいるから。それにね。たとえどんなに離れても、幸せは祈れるよ」
「どうしてそんなこと言うんだよ?」
 なんて、ラスティは言葉に出来なかった。ただファリアのぬくもりを、今だけはいつまでも感じていたかった。
 冬の気配は、もうすぐそこまで近づいていたことを、冷たくなった秋風が教えてくれていた。

 それから数日――嘘のように絵は順調に進んでいった。ブドウを収穫する農婦の絵。ブドウから伸びた蔓がグラスに絡んでいる絵。その他いくつかは着色も終えて完成している。もうあと数枚も下書きを終えて、これから着色取り掛かろうとしていた。
「外は雨、か……」
 わずかだが、確かに雨の音が部屋の中まで響いていた。
 ラスティは筆を置いて、一息つく。窓から外をのぞくと、空はぶ厚い灰色の雨雲に覆われている。アトリエの下のレンガの坂道は、雨水を流してく。誰もいない。
「今日は、誰も来ないのか?」
 静かに降り続ける雨を見ながら、妙な静けさがやけにうるさかった。
 と、そのとき、傘も差さないでもの凄い勢いで坂を下ってくる、人影がラスティの目に映った。
「ジャック? 後ろから追いかけているのはアンジェか」
 体格から二人であることは間違いない。
 しかし何だって、こんな雨の中を走ってるんだ?
「雨の日まで大変だ」
 大方、喧嘩でもしてアンジェが追いかけているのだろうと、ラスティは結論付けた。何はともあれ、ジャックとアンジェがこっちに向かってきているのは確かなので、ラスティは隣の部屋からタオルを用意してやることにした。
 ラスティが思っていたよりも、早くドアが開いた。よほど急いで来たのか、びしょ濡れで、ジャックは全身で息をしていた。
「まったく、傘くらい差せ。まずはこれで身体を拭いて」
 ラスティはタオルを投げてやるが、
「そ、そんなこと……してる場合じゃ……」
 息も絶え絶えにジャックがそれを払う。タオルが床に落ちて、入り込んだ雨水を吸って汚れていく。
「なんだよ!」
 ラスティはカチンと来た。
「ち、ちがう。フ、ファリア姉ちゃんが……」
 ファリアが――。
 ラスティは眉を寄せた。
 そこにアンジェがたどり着く。
「ラ、スティさん……。ファリアさんが、ファリアさんが……」
 ゆっくりラスティは目を閉じて、息を吐いた。それだけで十分だった。何もかも理解した。
「ついに起きたか……」
 一言だけそう呟く。
「え?」
「ラスティさん?」
 二人の驚いた声が聞こえた。呼吸は落ち着いてきたようだ。
「ファリア姉ちゃんが倒れるのを知って……?」
 目を閉じたまま、ジャックの呟きにラスティは頷く。
「じゃあ、早く! アンジェの家にいるからさぁ!」
 どうしてクラウディオの家にファリアがいるのかは、ラスティには分からないが、ラスティは強く拳を握って、動かないでいた。
「ラスティ兄ちゃん! 早く!」
「ラスティさん! 急がないと手遅れに!」
 ジャックとアンジェに急かされる。それでもラスティは目を閉じたまま動かない。
「俺は、まだ行けない……」
 一言だけ……一言だけだが、はっきりと言った。
「ファリア姉ちゃんは血を吐いて苦しんでんだっ! お医者さんの話だと死ぬかもしれないって!」
「そうです! ラスティさんが、行かなくてどうするんですか?」
 そんなことはジャックとアンジェから言われなくても、ラスティには分かっていた。ファリアが今どんな状況なのかも、ラスティは他の誰よりも分かっていた。それでも――。
「ファリアは、まだ死なない」
 ラスティは目をあけて、はっきりと言った。ジャックの顔がカッと赤くなったのが見て取れた。
「ラスティ兄ちゃんのバカッ!」
 キッとこれまでにないまでに睨んで、ジャックがラスティに背を向けて雨の中へ走り出ていく。
「ラスティさんがこんなにひどい人だったなんて、知りませんでした!」
 それだけ投げつけると、アンジェも出て行った。
「ったく、言いたい放題言いやがって……。それも仕方ないか……」
 ラスティはその場に座り込むと、髪をかき上げた。思ったより冷静な自分がそこいた。
「まだ、だめなんだ……まだ……」
 目頭が熱い。
「あいつも、俺が行くこと望んでないんだ……」
 ラスティは壁を使って、力の入らない身体を無理やり立たせる。
「やらなければならないことを、するだけだ……」
 アトリエに戻って、クレヨンを取る。
 開けっ放しの玄関から聞こえてくる雨の音がやけにうるさかった。

 クラウディオ邸――二階にある客室のベッドの上にファリアは青い表情で横になっていた。
「ご、ご迷惑をおかけします」
「いえいえ。このようなときはお互い様です。倒れたのが私の家で良かった」
「ジャックとアンジェにも、お礼をしないといけませんね」
 ファリアが儚く笑う。もう全てを悟ったように。
「先ほど、アンジェとジャックが、ラスティさんを呼びに走っていきましたよ」
 クラウディオがファリアの横で付き添っていた。呼んできた医者は遠の昔に帰っている。
「ラスティは来ませんよ」
 ファリアが、か細いけれど、きっぱりと言い切る。
「なぜ、そう思うのです? 彼もあなたの病状は知っているはずです。失礼だが、あなたも分かっているように、いつ死んでも――」
「それでもラスティは来ません。私の好きになった人は、途中で何かを投げ出すような人ではありません。そういう人です」
 恥ずかしがることなく、ファリアは笑う。
「ワインのラベル、期待していてください。ラスティは必ず最高の絵を描いてくれますから」
 そこには微塵の不安もない。ファリアはラスティを心の底から信じきっていた。
「それに、私はまだ死にません」
 まして死の不安など、入り込む余地さえない。それを聞いたクラウディオが何とも言えない顔をする。
「とにかく、今はゆっくり休んでください」
「はい。お言葉に甘えさせて貰います。私も薬が効いてきて、少し眠くて――」
 ファリアがゆっくり目を閉じた。規則正しい寝息に、クラウディオも緊張を解いた。
「さて、子どもたちもそろそろ帰ってくるか。あの子たちときたら、帰ってきた途端、ここに走りこみかねない」
 静かにクラウディオは部屋を後にした。
 一階では、ジャックとアンジェが騒いでいた。クラウディオが階段から下りてくるのを見つけると、床を濡らして走りよる。
「ラスティさんは?」
「来なかった……」
 ジャックが頬を膨らませる。
「そうか」
 クラウディオはとくに驚きもしなかった。
「ラスティ兄ちゃんは、最低だよ! 俺はあんな男には絶対なりたくない!」
 ジャックは、ここ数日で、真剣に絵を描くラスティに、憧れを抱いていた。それが粉々に砕かれたのである。同じ男として、憤りが隠せない。
「ファリアさんはまだ死なないって。そんなの関係ないでしょ? ファリアさんがあんなに苦しんでいるのに!」
 信じられないようにアンジェが続ける。
 さすがにクラウディオもこれには驚いた。
 まだ死なない。
 ラスティもファリアも同じことを言った。それが妙に確信めいたように聞こえて仕方がない。
「お父様。ファリアさんは?」
「ファリア姉ちゃんは、大丈夫なの?」
 心配そうにクラウディオを、ジャックとアンジェが見つめてくる。
「大丈夫。たった今、眠ったよ。だから、今は静かにしておこう。ほら、床が水浸しだ。アンジェは着替えておいで。ジャックも一度家に帰って着替えておいで。二人とも風邪をひいてしまう」
 それを聞いて安心したのか、ジャックとアンジェも深く頷いた。

 静かな音を立てて雨が降り続ける。もうじき、日も沈むだろう。
 薄暗いアトリエの中で独り、ラスティは腕を振るっていた。
 冷静だったのは最初だけで、アトリエに独りでいると、頭の中をさまざまな思いが駆け巡っていった。
 俺はあいつに何をしてやれた? 
 何を返すことができた?
 手を止めた途端に、現実がラスティを押しつぶしていく。立っていることさえ、辛い。何もかもから逃げ出したくなる。
「くぅぅ……ちくしょうぅ……」
 崩れ落ちそうな心を、絵を描くことで懸命に支える。
 ラスティはファリアが長くないことを、ずっと前から知っていた。
 医者が冬まで持たないと話したのは、暑い夏の日だった。
 ショックだった。
 ファリアはそんなことを言われなくても、覚悟していたようだったから、ほとんど驚かなかった。
 その日からラスティとファリアは、できるかぎり同じ時間を過ごしてきた。
「知ってるんだよ……。食事に行ったのだって、あのプレゼントだって……俺の誕生日なんか、まだ三ヶ月も先じゃないか……」
 言葉にならない。涙が頬を伝って落ちていく。それでも知らず知らずに言葉がこぼれる。
「生きてるうちにやりたかったんだよな……。思い出が欲しかったんだろ? 分かるんだよ。言わなくたって……」
 レストラン『青い翼』でプレゼントを顔を輝かせてくれたファリアが思い出される。ラスティは右手で、ファリアからもらった筆を強く、強く握った。
「ちくしょう……ちくしょう……俺には、これしかないんだ。これしか……」
 描きかけのキャンバスが、涙で見えない。
「もう少しだから……まだ、まだ……」
 自然と腕が動いた。ラスティの想いと身体が、別々から一つの方向へ向かって動く。一描きに全てを込めて、ファリアを想う。誰よりもファリアはラスティのことを信じていたから――
 俺は、お前の期待に応えたいんだ……。
 いつもそばで励ましてくれたお前のために……。
 お前が信じた奴は、まちがっていないって……。
 お前が生きているうちに、見せたいんだ。心配しなくていいんだって……安心していいんだって……。
 食事も摂らずに、眠ることもせずに、ただただ絵に向かう。描きかけの絵を睨みつけ、思いのままに描いてゆく。ラスティは全てをそこにぶつける。自分のために尽くしてくれた恋人のために……。それが彼女に報いる唯一出来ることだから――。
 暗い闇のなかで、いつ止むとも知れない雨が、静かにラスティの耳に届いた。

 ベッドの中でファリアは、高い熱と全身の激しい痛みに耐えていた。ベッドの傍らで、ジャックとアンジェが、懸命に看病する。
「雨、止まないね……」
 ファリアが苦しみながらも、ジャックとアンジェに話し掛ける。
「ラスティさんはどうして来ないのよ? ひどいよ!」
 アンジェが強い憤りあらわにする。
「ファリアさんがこんなに苦しいのが、きっとわかんないんだよ」
「そうだよ。ラスティ兄ちゃんは、本当はファリア姉ちゃんのことが好きじゃないんだ。本当に好きなら、来るもん!」
 ジャックも同じくラスティに怒りを隠せない。
「そっか……。苦しいときは、好きな人に傍にいて欲しいよね。二人とも、そんな人と巡り会えるといいね。でも、ラスティを、悪く言わないで……」
 ファリアが苦しげに息を吐いた。咳き込んでしまう。口を押さえた手に、血がべったりとつく。
「大丈夫……?」
 アンジェが白い布で、ファリアの汚れた手を拭く。ファリアの手は恐ろしいまでに白く、細かった。
「ありがとう」
 苦しいはずなのに、ファリアは笑顔を絶やさない。
「やっぱり、ラスティ兄ちゃんを――」
「……いいの。ジャック。ラスティは、私の好きな人は、来ないの。……来ないから好きなの。……もし来たら、私は、ラスティを好きじゃなくなっちゃう」
 か細いが、はっきりとファリアは言う。
「なんだよそれ。分かんないよ!」
「ファリアさんは、どうして平気なんですか?」
 ジャックもアンジェも泣いていた。哀しくて、悔しくて、分からなくて――。
「ラスティも、苦しいんだよ。……でも、頑張ってる。だから私も頑張れるの……」
 本当はこんな身体でもラスティの傍にいたい。でもそれ以上に、ラスティの重荷になるのだけは嫌だった。彼の足を引っ張りたくはない。ラスティだからできる。そう信じている。
「雨、止まないね……」
 ファリアが細く息を吐いた。
 雨はただ静かに降り続け、流れていく。

三日が経った。
 アトリエを訪れるものは誰一人としていなかった。ジャックとアンジェさえも――。
 ランプの明かりに照らされて、ラスティは最後の空白を描いた。
「できた……」
 ラスティは右手に込めた力をすっと抜いた。立っていられなくなって、壁に寄りかかりながら崩れ落ちる。
 充実感も、達成感もない。あるのはただ、虚無感。わずかな哀しみがラスティを蝕んでいく。哀しみが涙となってあふれ出てくる。クレヨンで汚れた両手で、天井を仰いだ顔を覆う。雨の音がやけに響く。
 ラスティの口から、言葉にならない嗚咽が漏れた。
 本当にこれで良かったのか?
 俺は間に合ったのか?
 そのとき、ふっと部屋が暗くなった。
 何が起きたのか分からずテーブルと、ランプを見ると灯が消えていた。
「これがラスティの初仕事か。やっぱり私の思った通り、最高の出来じゃない?」
 声が聞こえた。
「これなら、クラウディオさんも満足してくれるね。ラスティ、どうしたの? そんなに驚いた顔をして」
 暗闇に目を凝らす。そこには、たった今描き終えたばかりの絵を覗き込むファリアがいた。
「ど、どうして? 回復したのか?」
 立ち上がって、ファリアに歩み寄ろうとしたが、ふらついて足がもつれてしまう。
「大丈夫?」
 倒れこもうとするのを、にっこりファリアが支えてくれた。
「ありがとう……」
 どうしてここいるのかなんてどうでもいい。ファリアがここにいる。それがたとえ、夢でも、幻でもいい。ここにファリアがいる……。
 暖かな腕に抱かれてラスティは、はっきりとファリアのぬくもりを感じていた。そのまま、ファリアの身体をきつく抱きしめる。これ以上ないくらい抱きしめる。
「泣かないでよ」
「泣く?」
 頬を伝う熱いもの、ラスティは気がついた。
「あれ? 変だな……」
 鼻をすすりながら、涙を拭う。
「もう、変だよ」
「うるさい。それより、どう?」
 一緒に出来たばかりの絵を見る。一人の女の子が葡萄の入ったバスケットを男の子に渡していた。女の子の隣には一人の紳士が立っている。
「これって、アンジェとジャックでしょう。クラウディオさんもいるんだ。優しい感じがするね」
 ファリアが満面の笑みを浮かべてくれた。ファリアは別に絵のことを分かるというわけでもない。けれど――、
「お前にほめてもらえるのが、一番嬉しい」
「うん」
 ファリアが抱きついてくる。
「あ、そうだ。私を描いてくれるって約束したでしょ? 今から、描いてよ」
「今から?」
 ラスティでも、さすがに驚いた。
「うん。今から。あんまり時間がないんだ。だから――」
 ファリアがそう笑う。何の悲しみもなく、不安もなく、笑う。
 ラスティは目を閉じた。
 本当はもう分かっていた。
「なぁ。俺は間に合ったのか?」
「うん。間に合ったよ。だからきっと私は、ここにいられるんだと思う」
 これ以上ないくらいのファリアの微笑みだった。
「俺はお前の期待に応えられたのか?」
「いつも、応えてくれていたよ。ちゃんと。いつも私はだラスティだけを見ていたから……」
 ファリアの大きな瞳から涙がこぼれて、それでも、笑って……。
「泣くなよ……」
「ラスティだって……」
 薄暗いアトリエの中で、二人は涙を流して笑い合う。
「それでは、モデルの方。そちらの椅子に座っていただけますか?」
 茶目っ気たっぷりに、ラスティは深く頭を下げて、右手で椅子に指してファリアをエスコートする。
「あら、前とはずいぶん待遇が違うのね」
「それは気のせいですよ」
 ラスティは以前描いていたキャンバスを用意した。
「綺麗に描いてね」
「まかせろ。俺以外の誰が、お前を綺麗に描けるんだ?」
 自信たっぷりにラスティが言うと、ファリアが声を上げて笑った。
「モデルは動かないでいただけますか?」
「はーい」
 ファリアが前と同じように、祈るポーズをとる。
 ラスティには以前描いたのが、随分昔のことのように思えてならない。なぜかコンテを持つ手が震えた。
「ラスティ……」
「大丈夫だ……」
 もし、神様がいるのなら、このまま時間を止めて欲しかった。
 雨の音がやけにうるさかった。
 いつまでも一緒にいたかった。
 ラスティは手を動かし始めた。
 しかし、ファリアの顔は見えない。涙で、暗くて、見えない。それでも、描くことが出来る。すぐそこにファリアがいるから――お前が俺を見てきたように、俺もお前を見てきたんだ……。目を閉じてもお前の笑顔は思い出せる。たとえ、今ここで、お前が消えたってちゃんと描けるから……。
 なんの迷いもない。まっすぐにラスティはファリアを見ていた。ファリアも何の迷いもなく微笑む。
 何も語るべき言葉はなかった。いや、いらなかった。コンテとキャンバスのこすりあう音だけが、耳に響いた。ファリアへの想いを一つ一つ形にしていく。
「ねぇ、憶えてる? 初めて会った日のこと」
 ファリアがそんなことを聞いてきた。
「もちろん、憶えてるよ。ファリアが『売れませんね』って声かけてきたよな」
「ずっと見てたんだよ、私。でも買ってくれる人いなくて、こんなに素敵な絵がなんでって? だから、思わず言っちゃった」
「俺はなぁ、あのとき、傷ついたんだぞ。まさか初対面の人から、そんなこと言われるなんて、思わなかったからな」
 遠い、遠い昔を思い出して、お互いに笑った。
「でも、それからファリアはいつも来てくれてさ」
「そうそう。毎日、行ったよね。絵を見に」
「毎日来ては、買いもせず」
「いいじゃない。私だって、絵を買えるようなお金ないんだし」
「それから売り子してもらうようにもなったなぁ」
「アトリエにも遊びに来るようになった」
「楽しかったな……」
「うん。楽しかった……」
 ラスティは俯いて、コンテを置いた。深く息を吐いた。
 いつのまにか雨は止んでいた。
 まっすぐファリアを見る。雲の隙間から射し込んでくる、月明かりに照らされて微笑むファリアが綺麗だった。世界の誰よりも愛しかった。こみ上げてくる想いが、全て涙となって溢れた。
「もう少しだから……」
「うん……」
 嘘だった。これから色を塗るというのに、そんなはずがない。そんなことは、ファリアも分かってる。それでも「もう少し」なんだ。きっといつまでも、終わるまで「もう少し」――。
「ねぇ。綺麗に描けてる?」
「誰に言ってるんだよ?」
「そうだね……ラスティだもんね……」
 ラスティは思わず「見てみる?」と言たくなった。言いたくて、仕方なくて、仕方なくて、仕方ないけど、それを飲み込んだ。絵はまだ出来ていない……。
「綺麗に描けてるに決まってるさ」
 強がりではなく、そう思えた。ファリアはいつも笑っているから――。
「ねぇ、こっちに来て……」
「えっ?」
 ファリアの突然の頼みに、ラスティは絵の具を出すのを止めた。
「ねぇ、来てよ……」
「分かった」
 ラスティはファリアに歩み寄る。月が優しくファリアを照らす。
「どこにいるの、ラスティ? もう何も見えないんだ」
 それは神様のくれた時間の終わりを意味していた。
「ねぇ。ラスティ、どこ? 見えないよ……」
「大丈夫だ。俺はここにいる」
 ラスティは床に膝をついて、椅子に座るファリアを抱きしめる。
「ラスティはあったかいね。私はこんなに冷たいのにね……」
「なに言ってんだよ。だったら、俺が温めてやるよ」
 ラスティは抱きしめる腕に、力を込めた。
「もうね。何も見えないんだ。ラスティの顔も見えないんだ。どうしてかな?」
 ファリアが儚く笑う。
「でもね。涙は出るんだよ、不思議だね」
「涙のせいだ。気にするなよ」
「ああ、そうか。でも、何もね、見えないから……抱きしめて、強く……」
「分かった」
 腕の中で、確かにあったファリアの感触が薄らいでいく。涙が溢れて止まらない。ずっとその微笑みを見ていたいのに、止まらない。
「ごめんね。絵は出来なかったね」
「大丈夫だ。ちゃんと描いてやる。お前の顔はもう見飽きてるから、いつでも思い出せる」
「えへへ……そっか、思い出せるんだ。ラスティはすごいね。嬉しい。とってもうれし……」
 ファリアの声は嗚咽になって言葉にならない。
「ありがとう……ありがとう……」
「ばか。それは俺の言うセリフだ。勝手に取るなよ」
「やだ。私が先に言いたかったんだから」
「なんだよ、それ。俺にも言わせろよ……」
 あふれ出る涙で、言葉が紡げない。ファリアが腕の中で軽くなっていく。
「もう、時間かな……」
「行くなよ……」
 このまま時間を止めてくれ……。
 せめて、この涙が止まるように……。
 最後にその顔をしっかり見れるように……。
 ファリアを笑って送れるように……。
「もう、ラスティは独りでも大丈夫だよね?」
「当たり前だよ。見ただろう。クラウディオさんも喜んでくれるはずさ。だから、お前がいなくても、大丈夫……」
 大丈夫なわけがない。それでも、それでも……。
「そっか。嘘でも嬉しいよ……」
「……お見通しかよ」
「ずっと一緒にいたもんね」
「そう、だな……」
 ラスティはファリアを強く強く抱きしめた。
 そのぬくもりを忘れないように……。
「あったかいね、ラスティは」
 最後のファリアの顔は笑っていた。泣きながら笑っていた。
「どうして、そんなに笑っていられるんだよ?」
 どうしてお前はそんなに強いんだ?
「ラスティだって――」
 そのてとき焦点の合わなかったファリアと目が、はっきりと覗いていた。
「笑ってるよ」
 ファリアが光の粒子となって消えていく……。
 ラスティの腕の中で……。
 微笑みを絶やさぬままで……。
「さよなら。ラスティ……。私は……どんなに……」
「何? 聞こえないよ」
 腕の中で微笑んだまま、ファリアは跡形もなく消えていった。

「間に合わなかったか……」
 クラウディオが力なく呟いた。
 ファリアは、たった今、夜明けを待つことなく逝った。苦しむこともなく、眠るように。眠っているアンジェとジャックに知らせねばなるまい。
「ファリアさん、あなたは本当にこれでよかったのですか? 私は無理をしてでも、彼をつれてくるべきだったと思うのですよ」
 クラウディオとファリアは、親交があったわけではない。だが、彼女の懸命な姿には心を打たれた。だからこそ――。
「私には解からない。どうしてあなたは、そんなにも穏やかに笑っているのですか?」
 医者の話では想像も絶する苦痛が彼女の身体を蝕んでいたはずだった。事実、二日前まで彼女は苦しみ、意識さえおぼろげだった。それが昨夜から、突然、楽になったのである。穏やかに眠っていた。幸せそうに微笑んで、そのまま――。一体何が起こったのか、クラウディオには知りようもなかった。

 椅子にもたれかかる姿勢で、ラスティは目を覚ました。
 窓から朝日が射し込んでいる。
「夢だったのか……?」
 どこまでが現実だったのか、わからない。ただ確かなことは――。
 頭の中ではもう理解はしている。けれど現実感がない。
 ラスティはアトリエを後にした。
 向かうべき場所はわかっている。
 ラスティははっきりと、腕の中で消えていくファリアのぬくもりを憶えている。
 けれど、それを現実に変えなければならない。
 クラウディオに頼まれていた絵を手にして、ラスティは家を出た。
 途中、ジャックとアンジェが、泣きながら顔で走ってきた。
 何か責められたようだが、ラスティにはどうでもよかった。
 ただファリアの元に行かねばならない。それだけだった。
 雨上がりの空。ちぎれた雲の隙間から、陽が射し込んでいた。
 クラウディオ邸に着くと、ラスティはすぐにファリアの眠る部屋に案内された。
「クラウディオさん、これを……」
 部屋に入る前に、出来上がった絵をクラウディオに手渡す。
「ありがとうございます。確認させていただきます。それよりも、彼女に会いましょう」
 クラウディオが扉を開け、ラスティは一人、部屋に入った。
 ファリアは陽射しの差し込むベッドの上に静かに眠っていた。穏やかにファリアは笑っていた。今すぐ目を覚ましそうなのに、それは二度と叶わない。
「お、俺は……」
 ラスティはまだぬくもりのある手を取って崩れ落ちた。
 ゆっくりと、ゆっくりと、失ったものの大きさが、その身体に実感となって刻み込まれていく。
 歯を食いしばって泣くのをこらえようとしても、涙が溢れて止まらなかった。どうしても、嗚咽がもれた。
 床に拳を激しく打ちつける。
 嗚咽は次第に、激しい慟哭に変わっていく。何度も、何度も彼女の名前を呼んだ。
 本当に応えられていたのか?
 お前はそれでよかったのか?
 残されたわずかな時間を、それで?
 声が聞きたい。
 目を開けて欲しい。
 二人で、もっといろんなことがしたいんだ。
 絵なんて……絵なんて……。
 さよならといった、最後の笑顔が離れない。
 涙がとめどなく流れた。
「ラスティさん。いいですか?」
 気がつくと、クラウディオが後ろに立っていた。
「ファリアさんは、もう手の施し様がなかった。最期は眠るように、やすらかに」
「そうですか。お世話になりました」
 ラスティは立ち上がって、深く頭を下げた。
「ラスティさんはご存知だったのですか? もう長くないと」
「ええ。冬までもたないだろうと、医者から言われてました」
 しばらく無言のままだったが、ラスティはあることに気がついた。
「しかし、なぜファリアがこちらに?」
 クラウディオが難しい顔をした。
「あなたにこれを渡してくれと。そのとき倒れたのです」
 クラウディオがラスティの目の前に、一通の封筒を差し出してきた。
「これは?」
「ファリアさんからです。おそらくは遺書でしょう」
 一体いつのまに? さすがに驚いた。ラスティは震える手でその封筒を受け取った。
「しかし、クラウディオさんとファリアは面識はなかったはず……」
 すこし困った顔をしてクラウディオは続けた。
「どうして、私があなたに仕事を依頼したのか、ご存知ですか?」
「いえ……?」
 気になっていたことではあった。だが、聞くことは出来ないでいた。
「本当を口止めされていたのですが、彼女はあなたのパトロンを探していたようです。あなたの絵を持って」
「そ、そんな……」
 どうりで見つからなかったわけだ。
「私のところに来るまでに、何件も回っていたようでした」
「ファリア……」
「しかし、私とて、馬鹿ではありません。いきなり、パトロンとなってくれと言われて、はい、分かりました、とは頷けません。まったくの見知らずですから、普通なら断りますよ。それでも彼女は必死に頼んでくるのです。それこそ、鬼気迫るような表情でしたよ。断りきれませんでした。思えば、そのときから自分が長くないことを悟っていらしたのかもしれませんね」
 言葉が出ない。
 ファリア、お前は……そこまで……。
 切なくて、切なくてしかたない。ラスティはクラウディオをまっすぐ見れなくて俯いていた。
「そこで、私はあなたにこのような依頼をして、あなたを試したのです。その技術を、人柄を、本当に私がパトロンになるにふさわしいかどうかを」
 ラスティは胸を抑えた。あまりにも苦しすぎる。
「クラウディオさん、俺は、俺は……」
 報いたい彼女は、もう二度と微笑みかけてくれない。もう二度と――。
「すいません。独りにしてもらえますか……?」
「分かりました。でも、ラスティさん。これだけは言っておきます。ファリアさんは私にこう言いました。あなたは最高の絵を描いてくれると。そしてあなたは、彼女の言う通り最高の絵を描いてくださった。彼女の願いどおり、私は喜んであなたのパトロンになります」
「クラウディオさん……」
 そこでようやくラスティはクラウディオを見上げた。熱いものが頬を伝っていった。
「あなたは、十分、ファリアさんの思いに応えていますよ」
 ポンポンとクラウディオはラスティの肩を叩いて、出て行った。
 ラスティは手に残ったファリアの遺書の入った封筒を見つめた。震える手で封筒を開ける。
 ラスティはうずくまり心して読んだ。

『ラスティへ
 
 あなたがこれ読んでいるとき、私はもうあなたのそばににはいないでしょう。ごめんなさい。ずっと一緒にいたかったんだけど、無理みたい。
 今まで本当にいろんなことがあったね。誕生日、まだずっと先だったけど、祝わせてくれたね。あなたがあんなに喜ぶなんて思わなかったから、私、本当にとっても嬉しかったんだ。二人でもう一度、あのレストランに行きたかったね。もう約束守れないけど、二人で美味しい料理を食べたかったなぁ。ごめんね。

 ねぇ、知ってる? あなたは私に夢をくれたんだよ。こんなこと言ったら、あなたは怒るかも知れないけど、あなたのことを好きになって、あなたの夢を叶えることが、私の夢になった。あなたのために生きるんだって。だから、クラウディオさんがあなたに仕事をさせて納得したらパトロンになるって言ったとき、私の役目を終わったと思ったんだ。あなたなら出来ると信じてる。だからもう、大丈夫だよ。絶対、大丈夫。きっと上手くいくし、クラウディオさんはきっと良いパトロンになってくれる。そしてあなたはきっと、あなたにしか描けない絵を描ける画家になれるよ。私はあなたの背中を押すことができたから、それくらいしかできなかったけど、嬉しかった。
 あなたに出会えて、私は本当に幸せだった。あなたが私の人生に意味をくれたから。生きる意味なんて分からないけど、生きた意味は分かるよ。私はあなたのために生きた。そしてあなたは、ずっと絵を描いていただけのつもりかもしれないけど、いろんなものを私にくれた。それは私が一番よく知ってるから、お礼を言わせて。
 本当にありがとう。

 ねぇ、レストランで聞いたあの曲、覚えてる? あの曲を聴くと、私は本当に空が飛べるような気がしたんだ。病気なんか治って、自由なれると思えたの。こんな私でも、何かできそうな気がしたんだ。翼もないのに飛べるわけないのにね。可笑しいよね。でも空を飛べれば、いつでもあなたの傍にいけると思ったの。ずっと傍にいたい。傍にいたいよ、ラスティ。
 でも、それは無理だね。きっと無理だから、私はずっと遠く離れたところから、あなたのことだけを想っている。たとえどんなに離れても想ってる。
 絵を描いているあなたが、世界のほかの誰よりも好きです。
 心から愛してる。
 いつまでも――

ファリア 』

 胸が詰まる。
 お前はどうしてこんなにも、こんなにも……。もう少しさ、自分のこと考えたっていいじゃないか。ばかやろう……ばかやろう……。
 ファリアの想いのこもった手紙と一緒に、ラスティはファリアの手を握った。強く、強く――。
 ファリアは死ぬまで生きていた。ただ俺のことを想って――。
「なぁ、お前は最期に何て言ったんだ? 聞こえなかったんだよ。教えてくれよ」
 ファリアの顔を覗く。今に語りかけてきそうな――。
 ――私はずっと祈ってる。たとえどんなに離れても、ラスティが幸せになれるように……。
「ファリア?」
 確かに声が聞こえた。やさしく、そっとささやくように。
「お前って奴は……」
 お前が、空を飛べれば俺の傍に来れると思うのなら、俺は――。
 窓の向こう側で、一羽の小鳥が、懸命に小さな翼を羽ばたかせて、空高く飛んでいた。

エピローグ

 吹いてくる冷たい風に、冬の訪れを感じて、ラスティはコートの襟を立てた。
 空はどこまでも高い。白い雲が遠く彼方に流されていく。
 ラスティはいつものように、広場で絵を売っていた。
 別にパトロンが出来たからといって、そのスタイルまで変えるつもりはなかった。そもそもここには良い題材が、いたるところにあるのだ。
 今日はお客も来ていた。といっても、
「綺麗に描いてね」
 小さなアンジェ嬢だが。
「ジャックは?」
「あんな奴、知らないわよ!」
 どうやら、また喧嘩をしたらしい。
 まぁ、この子たちのことだから、すぐに仲直りするだろうけど……。
 ラスティは苦笑する。
「私はまだラスティさんを許したつもりはないから」
 アンジェは、まだファリアが倒れたときに駆けつけなかったことを根に持っているのだ。
「私はジャックみたいに甘くはないんだから」
「それがどうして、毎日、アンジェを描くことになるんだ?」
「それはもう言ったでしょ。私をファリアさんより綺麗に描いてくれたら、許してあげるって。ラスティさんも納得したもん」
 あれからラスティはファリアの肖像を完成させた。それこそ、ファリアへの全ての想いを込めて――
 それを見てジャックは許してくれたのだが、アンジェは同性として、そうは簡単にいかなかったらしい。それで、毎日ここに来ては、タダでラスティに自分を描かせているのだ。悲しいかな、曲がりなりにもパトロンの娘だから、あまりきつくは言えない。
「それはお前じゃ、一生かかっても無理だ」
 いつのまにかジャックがアンジェの後ろに立っていた。
「ファリア姉ちゃんに比べたら、アンジェなんか――」
「私なんか、何よ? 言ってごらんなさいよ。怒らないから。さぁ!」
 アンジェがジャックを睨みつける。
「えーとだなぁ」
 ジャックは、さすがにアンジェを直視できないのか、あさっての方向を見ている。
「十分、可愛いよ、アンジェも」
 ぽっと、火がついたように、アンジェの顔がみるみる赤くなっていく。耳まで真っ赤だ。言ったジャックの顔も赤い。ジャックも男として成長したようだ。
「まぁ、ファリア姉ちゃんと比べれば、たいしたことはない!」
「何ですって!」
 ジャック。お前は一言多いんだ。
 どうやら、成長したというのは、まだ早かったらしい。
 逃げるジャック。追うアンジェ。
 この構図はもうしばらく変わることはないだろう。
「それにしても、あいつらは、何しに来たんだ?」
 騒がしい子どもたちがいなくなると、周囲は瞬く間に静けさを増していく。
 不意にラスティの耳にヴァイオリンの旋律が、聞こえてきた。
 間違いない。ファリアが好きだと言っていた、あの曲だった。
 ラスティは旋律を頼りに、そのヴァイオリン弾きを探す。
 ヴァイオリン弾きはすぐに見つかった。噴水を背にして、空高くその音色を響かせていた。
「すいません。今のは、なんという曲ですか?」
 ラスティはその曲が終わるのを見計らって、声をかけた。
「今の、曲ですか?」
「はい。ファリ……いえ、私の知り合いが以前この曲を聞いて、好きだと」
「この曲は、空を羽ばたいているイメージで作ったんですよ」
 そのヴァイオリン弾きは、少し照れくさそう話してくれた。
「空、ですか……」
「そうです。空を自由に飛ぶことをイメージして。あのどうかしましたか?」
 ラスティは胸が熱くなるのを感じた。思わず泣きそうになってしまう。
「何でもないです……。そいつが言ってたんですよ。今の曲を聞いていると、空が飛べる気がするんだって……」
「そうですか。そう言われると、私も嬉しいですね。ですが、まだ曲名は考えてないんですよ。いい機会ですから、意見をお聞かせ願いますか?」
 この申し出にはラスティも面食らった。
「い、いいんですか? 私なんかで」
「ええ。構いませんよ。どうも、私にはいい名前が浮かばなくて。いっそ、聴いていただける方につけてもらおうと思ってましたから」
 彼がヴァイオリンを弾き始める。
 なぁ、ファリア。聞こえてているか?
 離れても幸せが祈れるなら、この曲がお前にも届きますように……。ファリアがこの空を高く飛べますように……。
 曲名は――ラスティはそれ以外思いつかなかった――この曲で空が飛べると言った彼女の名前……。
 ヴァイオリンの調べは、空高く流れる。
 今はただ、この調べとともに、空を飛ぼう。
 巡る季節の中で、ファリアは確かに笑っていた。いつもそばで――。



 窓から射し込む暖かな陽射しの中に、一枚のキャンバスが置かれている。その中の彼女は、いつまでも微笑んでいる。彼の描いた大きな翼で、その空を飛びながら――。

Tales of WILL Episode5彼の夢 彼女の空‘nd

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