父と娘

 久しぶりに深呼吸をしてみた。
 まだ冷たい清々しい空気が、理恵の肺に一杯になっていく。
 まだ当たりは薄暗い。かなり早い時間に登ってきたものの、先客は多かった。絶好の位置であろう、見晴らし台はアマチュアのカメラマンが横一列に並んでしまっていた。
「初日の出を見に行かないか?」
 理恵が父の申し出に付き合ったのは、多分気まぐれ。いや、新年くらい気分を変えたかったのかもしれない。今年十七になる理恵にしてみれば、明確な理由はないにしても、とにかく父の付き添って、山に登ることしたのは、大晦日の晩のことだった。
「これは無理だな」
 父がそう呟いたのが理恵には聞こえた。どんな朝陽が見えるのか、理恵の期待は高まるものの、この天候では難しいこともわからないでもない。薄っすらと明るくなっているのは分かるものの、雲がかかっていることも同時に分かっては、高まる期待もしぼんでしまう。
「絶好の天気だと思ったんだけどな」
 父は理恵に申し訳なさそうだった。確かに、昨日までの天気予報は晴れだった。それは理恵も知っていたし、知っていたからこそ、ここにきていた。それがどうだろう。いつまで経っても、雲は晴れることはなく、寒さだけが増す一方だ。
 理恵は父に何も言わなかった。
 別に父さんが悪いわけじゃない。でも、来るんじゃなかったな。
 そんなことを思っていた。
 理恵が父と口をきいたのは、一週間前のことだ。ちょうどクリスマスが終わった頃――何がきっかけというわけでもなく口をきかなくなった。ちゃんと父さんの声を聞いたのをいつ以来だったけ? そう理恵が思ったほど昔だった。父の声を聞いた衝撃のあまり、何を言われたのかまで、理恵は憶えていない。ただそれから一週間、父と娘の雪解けは少しずつ進んで、今に至る。
 前までの私なら、父さんを一悶着起こしてもおかしないだろうけど、なんかね。
 理恵はクリスマスに、彼氏に振られていた。なんとなく父はそれを知っているような気がした。
 ああ、それで、父さんの行動が妙にいつもと違っていたのかな? 私に気を遣って……?
 心底申し訳なさそうな父を見ていたら、理恵は何も言えなくなって、笑っていた。
「理恵?」
 不思議そうに父は理恵を見ていた。
「なんでもないよ」
「そうか?」
 父は安心したように理恵に言葉を返した。ただちょっとまだ理恵にびくびくしているのが分かる。そんな父が自分のために一生懸命、言葉を探す理恵には可愛く見えた。
 気が付かなかったけど、お父さんはずっとそうだったんね。私が友達と遅くまで遊んだときも、成績が下がったときも、バスケットの試合で負けたときも。何を言っていいのか分からなかったんだ。どうして気が付かなかったんだろう。それが反抗期といってしまえばそれまでだろうけど。
 理恵は、父の背を目で追いかけた。父は相変わらず祈るように、東に目を向けて、日の出を待っていた。
 私が別に怒っていなくても、父さんは私の態度一つ一つを気にしていたのかもしれない。別に冷たくしたつもりはなくても、冷たく思ったのかもしれない。
「理恵、やっぱり見えそうにない」
 父は振り返って、理恵に告げる。理恵は黙って頷いた。
 これがいけないんだ……なんかみみっちいな。
「お父さんって、丑年だったよね?」
 思い切って、理恵は口を開いた。丑年というは前もって母が教えてくれたものだ。父が振り返る。目を見開いていた。
「よく知ってたな」
「四十八だっけ?」
「まだ四十七だ」
「お父さんも年齢って気にするんだ?」
「そりゃな」
 再び、沈黙が落ちる。理恵には言葉が見つからない。
「ごめんな」
 代わりに父が口を開いた。
「初日の出が見られると思ったんだけど」
 父は肩を落としながら、言った。周りを見れば、カメラマンたちも諦めの声があがっていた。理恵は腕時計で時刻を確認する。父から聞いていた日の出の時間はもう十分も過ぎていた。
「寒いからもう帰る」
 理恵は呟いてから、後悔した。この言い方がどれほど父を傷つけたのか。
「分かった」
 父の返答は短かった。「もう少し待ったら」とは言わなかった。
 理恵は父の背を追いかけて、駐車場へ続く坂道を下る。父はどうみても俯き加減で、がっくりと肩を落としていた。
 すっかり辺りは明るくなろうとしていた。もはや初日の出どころではない。駐車場まで、二人は無言だった。車に乗り込む直前、ドアが閉まるか閉まらないか、その瞬間、父の大きな溜め息が理恵の耳に届く。
「ごめんね」
 理恵は車に乗り込んで、そう口にしていた。
「何が?」
 父はエンジンを掛けながら、聞き返してきた。
「いろいろ」
「いろいろか」
「そう、いろいろ」
 理恵はそうとしか言えなかった。
「分かった。シートベルトしろよ」
 なぜか父の声は明るく聞こえた。
「はーい」
 だから理恵の声も明るくなった。
 車が発進する。
「ね、コンビニよっていい?」
「わかった」
 理恵の言葉に父はすぐに反応した。車はまっすぐ山道を下る。
「ねぇ、お父さん。私ね、クリスマスに彼氏に振られたんだ」
 理恵は山の木々を見ながら言った。
「知ってる。母さんから聞いた」
 父は落ち着いていた。
「でね。私の今年の目標はね」
「なんだ?」
「ちゃんと彼氏を作って、父さんにちゃんと彼氏を紹介すること」
 理恵がにっこり言った途端、父が吹きだしたのが聞こえた。それからしばらくの沈黙が流れた。車は静かに山を下って、町の戻ってきた。初詣に行く人々がまばらに見える。
「理恵」
「なに?」
「父さんは一度な」
「うん」
「お前が生まれたときから『うちの娘はお前にはやれん!』と言ってみたいと考えているんだ」
 今度は理恵が吹きだす番だった。
 雲が晴れて、すっと朝陽が隙間から差し込んでいく。車はコンビニへ向かって走っていく。

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