運命なんてものはあるのだろうか?
 今は今でしかないように、約束された未来など……
 出来事に勝手に意味をつけて、繋ぎ合わせて……
 抗いもせず、苦しむことさえ受け入れて……逃げて……
 未来が未来で無くなる……そのときのことなんて……
 誰も知らないのだから……

Tales of WILL Episode3
ほんの少しの未来

 夜の静寂……。
 ただ幾億の星だけが、虚空に散りばめられている。
 街の外れの高台にある、貴族の別荘。
 初夏の風に、中庭のまだ青い葉をつけた木々の枝が揺れる。
 その風に合わせて、一つの小さな闇が揺らぐ。
 いい晩だな、絶好の……そう思わずにはいられない。
 漆黒の闇が彼の姿を隠し、穏やかな風が、彼の気配を弱くする。無数の星は、彼を一足早く祝福しているようにさえ感じられる。
 彼は駆けながら一気に跳躍して格好の枝に手を掛ける。そしてその勢いで枝を使って、体をくるっと回転させると、その枝の上に立つ。音も無く、ほんの一瞬の出来事だ。
 そして彼は葉と葉の隙間から、今日の仕事場をじっと見つめた。

 同時刻――
「いい風……」
 開け放たれた窓から吹いた風が、少女のまっすぐ伸びた長い栗色の髪を撫でていく。少女は明かりも点けず、ベッドの上で上体だけを起こして、ただ部屋に潜む闇を見ていた。
 広い部屋の中には、机、椅子、ベッド、ランプといった必要最低限の物しか置かれていない。そこに貴族の生活を象徴するような壺、絵画といような物は一切ない。
 ただ広い部屋に、それだけがあった。その中に、少女が独り……。
 少女はいつも独りで、ただ毎日、この何もない部屋で何もすることなく、ただベッドの上でそのときをじっと待っていた。
 少女はまだ十六歳。肌は病的なほど白く、体つきは年のわりに驚くほど小柄で、華奢だ。それこそ、少し力を入れれば折れてしまいそうなほど。
 世俗とは隔絶された部屋。訪ねてくる者も一人としてない。少女もほとんど部屋から出たことが無かった。唯一の楽しみ、いや、楽しみでさえないのかもしれないが、少女はベッドの上から見える世界をいつも見ていた。
 澄み渡るような晴れた青空を――
 いつ止むともしれない雨を――
 落ち葉の舞う庭を――
 銀色に輝く雪を――
 無表情でそこから……。
「もうすぐ……」
 少女は瞳を閉じて、そのときを待っていた。

 彼――ザラムがこの屋敷に忍びこんだ理由は、単純にして明快だった。盗みである。場所はどこだっていい。今夜、ここを選んだのも、警備が手薄だったから、それだけだ。
 もともと、ザラムは街から街へ盗みを働きながら生きてきた。一つの街でニ、三件、その街の噂にもならない程度だ。
 昨日ザラムはこの街にやってきた。その日に街を歩きながら、今日の仕事場を高台にあったこの屋敷に絞り込んで、今に至る。
 そう、今に――。
「何だって、こんなに使用人がいんだよっ!」
 ザラムは屋敷の中を懸命に走っていた。後ろからぞろぞろと、使用人が追いかけてくる。この屋敷の主が、選りすぐりの使用人をそろえたのだ。もっともそんなことを、ザラムが知るはずもなく、逃げるよりほかない。しかし、まだ十五歳。身のこなしは速くとも、体力で彼ら大人に勝てるはずがない。その差はじりじりと縮まり出していた。
 捕まってたまるかっ! 捕まって……。
 そう思いながらも、すでにこの広い屋敷のどこをどう走っているのかさえも分からない。だが、屋敷の上へ上へと追い詰められていた。限界なんてすでに超えている。それでも走る。走るしか……それ以外に道はなかった。
 ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう!
 ザラムの心の内から涌き出る憤り。しかし、それはどこに向けられているのだろう?
「ちっ!」
 正面からの使用人に、ザラムは横にあった部屋に飛び込んだ。
 ただの空き部屋なのか、家具と呼べるものがここにはない。おかげで扉を押さえることもできない。
 袋のネズミか……どうしようもないな――あきらめに近かった。それでもザラムはそれを見つめた。唯一の出口を……。
「ここか!」
 勢い良く扉が開かれる。それと同時、彼は跳んだ。何も考えていないで、いちかばちか――。
 パリ―ンッ!
 窓が割れる。破片でわずかに着ていた黒装束が破れ、体をかばった腕の所々が切れて血が流れ出す。
 そして落下感。
 一瞬の間。
「っ!」
 着地は何とかうまくいった。ほとんど反射的にやっていた。一気に下まで降りると思っていたが、その場所はザラムの予想とは違っていた。一階下のバルコニーに降りただけだった。
「急げ! 下だ!」
 上で大きな声がした。ザラムは反射的に見上げる。飛び降りてくる奴はいない。
「賊は下だ! お嬢様の部屋にいる!」
 お嬢様?――ザラムはいぶかしげに、開けられた窓から部屋の中の暗闇を覗きこんだ。

 ――騒がしいわね……何かあったのかしら?
 少女がベッドの上で騒がしい上の様子を気にかける。
 その時、メイドの声が廊下から響いた。
「お嬢様! 賊が、屋敷に侵入したようです。先ほど警備の者から連絡がありました故、お嬢様の身辺を固めます。お嬢様、今晩、寝室より一歩も出ないようお願い致します」
「分かりました。みんなに気をつけるよう声を掛けてください」
 そうは言いながらも少女――シェルビイは、私には関係無いわね、そう呟いた。
「私には関係のないこと……」
 もう一度、自分に言い聞かせるように呟く。
「悪いけど、そうも言ってられないんだな、これが」
 まだ若い、と言うより幼さの残る声。窓の外に一人の黒装束を纏った小柄な少年が立っていた。風で顔を包んでいた布が夜空に舞った。
 魅せられる……。
 彼にではなく、その世界に。彼はシェルにとって、初めての外の世界だった。
 シェルは迫り来る少年に瞳を離せないで、ベッドの上でその身を硬くしていた。
「あ、あなたが……?」
 部屋のランプが、近づいてくる少年の顔を明々と照らした。
 ブロンドの髪に、どこか淋しそうな青い瞳。何もかも切りつけてしまうような表情は、憤りに満ちている。
 何かに飲み込まれてしまったかのように、シェルはただ少年を凝視していた。
「こうなったら……」
 少年が懐に手を伸ばしながら、さらに近づいてくる。
「あんたを人質にして……」
 少年の瞳が、シェルをにらみつけたまま離さない。シェルもじっと少年を見つめる。
 怖い……でも、何か……。
 それでも、シェルは震える口を開いた。
「ど、どうして、そんな追い詰められた顔をしているのですか?」
 確かに少年は怖い。この状況にあって、少年は絶対的に有利である。しかしそれにもかかわらず、少年の顔は何かもがいているかのように必死だった。
「っ!」
 シェルの言葉に、思わず、少年の動きが止まる。
「俺は……」
 シェルは少年の身体が震えているのを見た。
 と、そのとき突然、複数の足音がこの部屋に向かってきて、廊下が騒がしくなった。
「ちっ」
 舌打ちした少年の姿が、一瞬で闇に紛れる。それとほとんど同時に、
「お嬢様!」
 ノックも無しに、扉が開かれた。それと同時に何人かの使用人が、部屋の中になだれ込む。
「あぁ、フロン」
 最初に入ってきた中年のやや太った大柄の女性を確認すると、シェルの口から安堵の息が漏れた。
「あぁ、お嬢様。ご無事でしたか……」
 フロンと呼ばれた女性は、シェルを見るなり安心した表情を浮かべて、彼女の元へ駆け寄った。
「まさか、お嬢様の部屋に賊が入り込むなんて……。お嬢様に何かあったら、私は……」
 フロンがそう言って、大きな身体を振るわせた。
「私は大丈夫です。そんなに心配しないで。突然のことで、驚きましたけど」
 それに、どうせ……
 一瞬、シェルの顔に暗い影がよぎる。
「あぁ、でもこんなことしている場合ではありませんね。賊は?」
「きっとバルコニーから……」
 すぐにシェルの部屋のすぐ下を捜したが、すでに少年の姿はなかった。

 間一髪、ザラムはバルコニーに逃げて、そこから一気に飛び降りていた。そして、そのまま一気に屋敷の外へ、疾走した。途中で後ろを振り返ってみたが、追っ手の来る様子はなかった。
 屋敷からだいぶ離れたところで落ち着くと、懐の中の稼ぎを手の感触で確かめる。小さな宝石に指輪、ブローチ、金貨と銀貨が少し……。
 ザラムは深く溜め息を吐いた。
 それなりの稼ぎだった。でも……それでも、それのために大切な何かを犠牲にしているような気がするのは、何故だろう……?
 一歩間違えれば、命だって奪われかねない。それなのに、その代償としてはあまりにも安い。あまりにも……。
「それでも、それでも……生きるためなんだ……」
 何度そう自分に言い聞かせても、なぜか悔しくて、たまらなくて、歯を食いしばった。
 木々の隙間から漆黒の空を見上げた。
『ど、どうして、そんな追い詰められた顔をしているのですか?』
 今日出会った少女の言葉が、ザラムの胸を締め付けた。あのとき、少女はずっとザラムを見ていた。その一言で、何か自分を見透かされた気がして、ただ無性にくやしかった。あの少女の顔が浮かぶ。
「何が分かるんだよ……何が……」
 ザラムは歯を食いしばって、拳を握り締めて、俯いて再び走り出した。

 しばらくバルコニーの下が騒がしくかったが、それもすぐに収まった。
 静かなはずの屋敷に、幾億の星の瞬く夜に、それは訪れた。
 一つの小さな影が、暗く静かな街の中へ消えていった。                         

 母さん……
 どこにいるの?
 母さん、返事をしてよ。
 俺はあの時泣いていた。
 母さん、ねぇ、どこ……?
 父親は物心ついた時にはいなかった。
 ねぇ、ねぇってばぁ……
 分かっていたんだ。母さんはどこにもいないってことぐらい。
 母さん、出てきてよ。
 ごめんね。
 どこかで声がした。そこから、必死に走った
 母さん、ねぇどこいるの?
 馬車が走っていく音がした。
 ねぇ、出てきてよ……。ねぇ……。ねぇってばぁ!

「ハッ!」
 ザラムは目を覚ました。体中に汗がまとわりついて、気持ち悪い。動悸が速い。
「ちくしょう……なんだって、こんな夢……」
 両手で、顔を覆う。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……」
 心がえぐられるような感覚が、ただ残っている。ザラムは湧きあがってくる感情をかろうじて押さえ込んだ。そうしなければ、このまま暴れ出しそうなほど――表情は苦痛に満ちている。
 感情を無理やり落ち着かせるようにゆっくり息を吐き出す。そして、ザラムは立ち上がると、窓辺から空を仰いだ。すでに日は高く、見上げた先に青い空が広がり、目に入ってくる眩しい光を手で遮る。眼下にはこの街が広がっている。
 この街は名前をウィルという。もともと小さな山や丘の多い場所にこの街を造ったため、やたらと坂と階段の多い造りになっている。街の中央には大通りが走っていて、食料品店や雑貨屋といった様々な店が並んでいる。そんな大通りと交わって、大きな川が流れている。街の中央には、大きな広場があった。
 ここはそんなウィルの外れにある宿の三階。部屋には、ベッドとテーブルに水差し、隅には洗面台。床には絨毯も敷いてはなく、剥き出しの状態。ただ泊まるだけの宿である。それでもなぜか、ザラムは殺風景なこの部屋が気に入っていた。
 ――市でもあってるのか?
 窓から街の広場の方を眺めると、人の賑わいが見えた。
「ちょうどいいや。さばくか」
 盗品は金に換えるのに足がつかないよう、気をつけなければならなかった。その点において、市は都合が良かった。旅商人たちも参加するために、そこで盗品をさばけばそのまま他の街に運んでくれるのである。そこでザラムは、広場に足を延ばすことにした。
 七日に一度の市と言うこともあって、広場は人でいっぱいになっている。ザラムはそんな人ごみの中へ入っていった。

 首尾良く貴金属や宝石は、良い値で買い取ってもらえた。
 道行く人の流れは遅く、露店から売り子の大きな声が響く。まだ若い青年が、お世辞にも若いとは決して言えないようなおばさんを捕まえて、上手くおだてれば、他の店ではお使いに来たまだ幼い女の子に、年老いたおじいさんがにこやかにリンゴをおまけする。
 だがザラムは、そんな光景を見ないふりをしながら、ただ歩いた。湧き起こってくるのは、胸が締め付けられるような訳のわからない悔しさ。拳を硬く握り締め、歯を食いしばる。
 ここは、何かが違う……何かが……――自問する。
 何かが、違って……――その何かが、どうしようもなくつらかった。
 市の活気は収まるところを知らない。それどころか、まだまだ大きくなっていきそうにさえ思える。言うなれば、ここは社会の表。少なくとも、ザラムはその身をそこには置いていない。
 こんなとこ早く、出ちまおう……――ザラムはスピードを上げた。
 人ごみを抜けて階段を上った先に、噴水のある公園に行きついた。ザラムは疲れたように、そこにあったベンチに腰を落ち着かせた。
 なんだって、こんな気持ちに……――ザラムは俯いて、手で顔を覆う。その手にじっとり濡れた感触。驚いたようにその自分の手をザラムは見た。
 汗……? なんだって、こんな……?
 初夏とはいえ、それほど暑い日ではない。――いつのまにか赤く染まった空をザラムは仰いだ。
「なぁ、何買った?」
「そう言う、お前は?」
「秘密だよ」
「じゃ、俺も秘密」
「いいじゃねぇか、教えろよ」
「嫌だね」
 ザラムと同じくらいの男の子が二人、談笑しながら人ごみを抜けて、こっちにやってくる。彼らとザラムの視線が交錯する。
「な、なんだよ」
「何、睨んでんだ?」
 ザラムは黙って、二人から目を離さない。鋭い視線が二人の男の子を射抜く。
立ち上がるザラム……。
「お、おい、行こうぜ」
「ああ、何かヤバイ、あいつ」
 そして二人はそのままザラムから逃げるように、走って行ってしまった。
 その背中を見ながら、いや、睨みつけながら、ザラムは唇を噛み締め、強く拳を握る。
 俺は……俺は……。
 言いようのない悔しさが、ザラムを襲う。思わず叫びだしたくなる。そんな思いを吐き出すように、ザラムはゆっくり息を吐いた。
 そんなザラムの横を、人相の悪い怪しい男が二人通り過ぎていった。

 もう、あきらめたのだから、だから……――そう、唇を噛み締める。自分の中で揺らいだ思いを押さえ込む。ただ、あの少年を思い出すと、何かがあった。
 金色に輝くブロンドの髪。細身の華奢な体。なにより、何もかもを切りつけるような抜き身の刃のような表情に、淋しそうな悲しみの宿った青い瞳。
 でも、それだけじゃない――シェルは苦しい胸をそっと押さえた。
 あの子はどうして、あんな追い詰められた表情で、必死だったのだろう? 
 突然、現れた少年は必死だった。小さな体で、追いかけてくる大人たちから……。
 シェルは居ても立ってもいられなくなって、ただこれまでとは別の何かを求めて、独りで黙って屋敷を抜け出した。
 今までほとんど知らなかった外の世界。本当はあのにぎやかな市を歩きたかったけれど、自分に無理なことはわかっている。だから人通りの多そうな場所を避けた。気がつくと、階段を上って噴水のある公園に来ていた。歩き疲れてベンチに落ち着く。
「今ごろ、みんな慌てているのでしょうね」
 屋敷の中が騒がしくなっていることは、容易に想像がついた。
 ほんの少し悪いかったなと思いながらも、いままで知らなかった世界が楽しかった。
 シェルは道行く人をただ見ていた。皆、市で買ったものをうれしそうに持っていた。
 あの窓の向こう側の世界が確かにあった。
 それでも――あきらめたのだから――そう思う。
 いつしか辺りがオレンジ色に染まっていく。
「綺麗……」
 思わず言葉が出た。風がシェルの栗色の髪をなびかせる。
「陽が沈むのと同じように、命もきっと……」
 シェルは沈みゆく太陽をベンチに座って、ぼんやり見ていた。
 お父様もお母様も、私がいなければ……――シェルの独白はそこで止まった。
 シェルの前に黒い影が二つ。背が高く体格のいい、二十代後半から三十代前半の人相の悪い男たちである。着ている物もお世辞にもまともとは言えず、真っ当な暮らしをしている輩ではないことは一目瞭然だった。
「な、何か……?」
 シェルは眼前の男たちに身をすくめた。
「フム、なかなかの上玉だな」
「うちには、こういったまだ青臭いガキが好きな客も多いし、ちょうどいいな」
 男は互いにシェルを舐めるように見て、頷きあった。が、当のシェルには、何が何のなのかさっぱり分からない。屈強な人相の悪い男が、さらに自分近づいてくる。
「急ぐぞ、誰かに見つかるとうるさい」
「おう!」
 男達がニヤニヤしながら、さらにシェルに近づいてくる。シェルはベンチに座ったまま、体を震わせて男達を見上げていた。
 違う。あの少年とこの人たちは、違う……――ただ恐怖に身を小さくして、そんなことが脳裏をよぎった。
 男の一人が腕を伸ばしたそのとき、シェルと男達の間に小さな黒い影が割って入った。
 夕陽にブロンドの髪が反射する。
 一瞬だけその場にいた全ての視線が、その少年に釘付けになる。
 間髪いれず、
「逃げるぞ」
「きゃっ!」
 少年はシェルの手を掴むと、そのまま走り出した。
「おい!」
「ま、待ちやがれ!」
 男達の怒声が背中から聞こえてくる。
 シェルは少年に手を引かれて、公園を出る階段を駆け上がる。
 繋がれた手は力強くシェルを引っ張っている。
 不思議な感覚がシェルを包み込んでいた。                          

「ここまで来れば、大丈夫だろう」
 小高い丘の上、息も絶え絶えにザラムが言う。少女のほうは座り込んで、息をするのがやっとといった様子だ。辺りはもうすでに薄暗く、夜の足音が聞こえてきている。
「じゃあな。俺はもう行く。お前はさっさと帰れ。今度あんなのに捕まっても、俺は知らねぇからな」
 少女が立ち上がろうとするザラムを黙って見ていた。ただ、何かを期待するように……うらやましそうに……そして、淋しそうに……。
「どうして、俺をそんな瞳で見る? なんだって俺を……」
 その少女の瞳がたまらなかった。たまらなく、たまらなく辛かった。
「わ、私は……」
 少女が言いよどむ。何と言えば分からないような様子で――。
 ザラムの口から嗚咽が漏れた。歯を食いしばり、強く拳を握った。鋭いナイフのような目から溢れた涙が頬を伝った。
 少女は何も言わなかった。しかし、一度崩れ出したものは、止まることを知らない。
「お前に何が分かる? あんな場所でのうのうと暮らしていたお前に、何が? ずっと独りで生きてきたんだ……。母親に捨てられたあの日から、誰からも助けてもらわないで、誰の力も借りないで……。ずっと独りで……」
 それはどこか自虐した独白のようにザラムは言う。
 俺は何を、何を言ってるんだ? こんな奴に何を……。
 それでも溢れ出した激情はもはや止まることはなかった。
「なのにどうして俺をそんな、そんな瞳で見る……」
 心の唸りを少女にぶちまけながら、つらい過去が不思議と記憶の奥底から甦ってくる。
 雨の日はただずぶ濡れになるしかなかった。家の軒先に雨宿りしても、その家の主から叩かれ、追い出されたこともあった。時にはそこの同い年くらいの子どもから、石をぶつけられもした。
 いつしかそんな雨は雪に変わっていく。
 狭い路地裏で幾度あの寒く、暗い夜に震え、同じような野良犬と抱き合って、寒さを分かち合ったかしれない。寒さに震え、食べ物に飢え、何度死のうと思ったか知れない。ずっと誰かの幸せを妬んできた。そうやって、泥沼から這い上がってきた。
 生きるため、ただ生きるために――。
 そして、唐突に気付く。
 もっと楽に生きられなかったのか?
 独りで抱えこまないで、誰かに助けを求めたことはあったのか?
 全てを否定するように生きて……。
 ただ独りで意地になって、在りもしない何かのために……。
 何かに脅えるように……それを必死に隠して……。
 ザラムはふっと体の力が抜けて、その場に俯いて座り込んだ。すでにシェルの存在などどうでもよかった。
 だけど、あのときの俺に何ができた? 
 母さんに捨てられたあのときの俺に? 
 いっそ、どこかで野たれ死んだ方がマシだったんじゃないか?
 そう考えた瞬間、腹の底から、自虐に満ちた笑いが湧き起こる。ザラムはそれを押さえ込もうとするが、それはザラムの肩を震わせる。
「ハハハ……。そうか。そう言うことか!」
 ザラムは気付く。
 もう疲れた。生きることに、疲れちまった……、と。
「いっそここで死んじまうのも、いいかもな。どうせ泣く奴も独りもいやしない」
 ザラムは吹っ切れたように顔を上げて、笑い出した。この丘から世界の全てをあざ笑う。自分を、無力な自分を最もあざ笑う。瞳の端に涙が滲んだ。
「これで、この惨めな一生にカタがつくなら、安いもんだ」
 そう言って、懐から手馴れた手つきでナイフを取り出す。持ち慣れているはずのナイフがやけに重い。けれど、そんなことを気にもせず、左手の手首にそっと刃を当てた。冷たい感触。ナイフを持つ右手がなぜか震えた。それを強く握ったまま、体が動かない。
「何で……?」
 全身が震えていた。体中から汗が涌き出る。ザラムの顔は青ざめていた。
 再び、意を決して、ぎゅっと目を閉じて右腕を強引に引こうとして瞬間、わずかに開いた瞳から、白いワンピースを着た少女が見えた。
 少女がさっきと同じようにザラムを見ていた。どこかそれとは別の、何かを期待するように、淋しそうに、切なげに――。
 不意に脳裏をよぎる――一匹の野良犬。狭い路地裏で、一緒に寒さと飢えに耐えてきたあの野良犬。春を目の前に、誰にも、ザラム以外の誰にも看取られることなく、死んでいった野良犬。
 春、雪が解ける頃、街から離れた野原で、まだ小さい体で、かじかむ手で、一生懸命に穴を掘った。生まれてから初めての、たった独りの友達ために――。
 ザラムの右手に込めた力が抜けて、ナイフが手からこぼれおちていく。
「俺は……どうすれば……?」
 ザラムは誰とも知れず問い掛けていた。

 私にはこの子を止めることはできない。
 シェルは少年を見て、なぜかそれが分かる。
 何を期待していたのだろう?
 これまでとは別の世界を運んできた少年に……。
 ただその日を待つしかしてこなかった自分。
 そのことを知った時、世界が見えなくなった。
 変える事のできない現実。
 運命……そうあきらめていた。
 そんな私をフロンは心配していたけれど、私は別に構わなかった。覚悟もできていた。それなのにどうして……どうして、この子がうらやましいと思うのだろう?
 どうして、生きたいの?
 この世界に何があるというの?
 全身が熱い……。
 もう何度目だろう?
 いつまでもなれない痛みがシェルを襲い出す。それでもシェルは少年から瞳を離さない。
 このまま、全て終わりにしてしまうの?
 少年がナイフを手首に当てている。そのままナイフを持つ手が震えている。
 止めて……見たくない。
 少年が何か呟く。そして彼は青ざめた顔を上げた。
 シェルの瞳と少年の瞳が交錯する。
 一瞬の永遠――。
 涙が一雫こぼれた。そして――少年の手の内にあった物も同時に落ちていく。
「俺は……どうすれば……?」
 その言葉に、シェルは現実を見せつけられる。
 彼は必死に生きてきた。今も……生きることを探している。だから、私は――。
「私はもう生きることもできない……」
 口から漏れる嗚咽。涙が自然と溢れた。気付くのが遅すぎた。
「生きていたくても、もう駄目だから……」
 言葉にして初めて分かる。
 覚悟なんてできていなかった、と。
 ただ生きることを、考えていなかっただけ、と。
 少年を見つめる。
 たった独りでこの世界を生き抜くことが、シェルにはどれほどのものか想像もつかない。それでもこの少年は生きてきた。ギリギリのところを、必死にもがきながら、苦しみながら……。
「私はもがくこともできない。ただ待つだけ……」
 発作が全身を蝕む。
 ――だから、私はこの子から瞳が離せない。私にはできないから……。
 シェルは胸を押さえて、その場に倒れこむ。呼吸さえ上手くできない。
「私も……本当は……」
 そこでシェルの意識は、少年の声を聞きながら途切れた。
 辺りはすでに、夜の闇に覆われ、遠く空には雲が出ていた。                              

 屋敷の別室――。
「もってあと……一年です」
 重苦しい医者の言葉に、シェルの両親は息を呑んだ。
 沈痛な空気がその部屋を包み込む。
「何か……何か手はないんですか?」
 医者が目を閉じて、どうしようもなく首を振った。
 いつもの部屋でシェルは、ベッドの上からじっと窓の外の世界を見ていた。
 いつ私は、ここから出られるんだろう?
 外はどんなだろう?
 こんなに晴れてるのに、どこにも行けないなんて……
 部屋ののドアが開く。
「お父様! お母様!」
 シェルは両親に無邪気な笑顔を向けた。
 しかし、母はシェルから顔をそらし、父は渋面になった。
「どうかしたのですか?」
「何でもない」
 父はそう言って、シェルのベッドの端に腰掛けると、シェルの顔を撫でた。
「お前は良くなることだけを考えればいい」
「うん……」
 何か押し込めたような言葉。シェルは素直に頷けなかった。母は部屋の隅で、シェルと顔を合わせることなく、泣いていた……。
 それからは、見舞うものは誰もいない。
 父も母も……。
「おい、知ってるか?」
「何を?」
「お嬢様だよ」
「お嬢様がどうかしたのか?」
 偶然だった。ただ、体の調子が良かったから、屋敷を歩いていただけだった。
それなのに廊下から聞きたくなかった使用人の話が、耳に入ってきた。
「いやな、フロン様が言ってたのを、チラッと聞いたんだが……」
 知りたくなかった。こんなこと……。
「もったいぶるなよ」
「ここだけの話、長くないらしいぜ」
「おい、マジか、それ?」
「ああ。あと何年もないらしいぞ」
 瞬間、目の前が真っ暗になった気がした。
「まだ十五歳だろ。子どもじゃん……」
「だよな……」
 これだけならまだよかった。
「旦那様と奥様の仲がお悪いってのも、お嬢様が原因らしいぜ。別に、お嬢様が悪いって訳でもないないんだろうが」
「なんだよそれ?」
「ああ。俺、この前まで本邸だったろ。そこで旦那様と奥様の仲が悪いのなんのって。お互い顔も合わせない。旦那様なんか、お嬢様の病気は奥様のせいだって怒鳴って……」
「そりゃ、仲が悪くもなるな」
 そのまま、使用人は歩いていく。
 お父様とお母様まで……私のせいなの……?
 真実を確かめることが怖かった。
 それから一度だけ、二人がシェルに会いに来た。
 二人はシェルと仲良く食事をした。
 別に仲が悪そうなところなど無かった。
 三人で笑い合っていた。
 きっと、間違いだったんだ――そう思った。
 それなのに――
「シェル、よく聞いておくれ――」
 二人に連れられて部屋に戻って、父から聞きたくない言葉を言われた。
「あなたのことはこれから全部、フロンに任せるから……元気でね」
 二人はそれだけ言うと、シェルにキスをして出ていった。
 シェルはその日、泣いた。暗い夜、もう二度と会えない。そう思って――。

 ザラムは少女を放っておけず、運良くすぐに見つかった病院に担ぎ込んだ。
 ベッドで少女が苦しげに顔を歪めている。
 医者の告白にザラムは、呆然としていた。
 死ぬのか……こいつは……。
 生まれ持った病魔は、もうそこまで少女を追い詰めていた。
 なんとも言い難い感情が湧き上がってくる。
 ザラムは黙って病室を後にした。
 ポタ、ポタポタ――
 外に出ると、ザラムの顔に冷たい何かが当たる。
 雨か……。
 そのまま激しさを増していく闇の中の空を見上げた。
『私はもう生きることもできない……』
 少女の言った言葉を繰り返す。
 ただ、死ぬことを待っていたというのか? 
 いつ止むともとも知れない激しい雨に打たれながら、ザラムは街の中を歩いた。
 すでに夜。道を歩く人さえ見えない。
 あいつはどうして俺をうらやましそうに見ていたんだ? わかんねぇよ……。
今まで独りで必死に生きてきた。誰かを妬んで、奪ってしか生きるすべを知らなかった。でも……。
 ザラムは立ち止まって、何もない虚空を見上げた。ただ雨に打たれる。
 どうして俺は生きているんだ? こんな想いまでして……。
 ザラムの中で、嫌な記憶が思い出される。いままで、振り返ったことなどなかった記憶だった。
 生きるために誰かのものを盗んできた。好きでやってきたんじゃない。そのたびに、罪悪感に襲われて……慣れることはなかった。いつもどこかで、死ぬことを考えていたのかもしれない。いつ死んでも良かった。そう思っていたのかもしれない。
 気付かされる。
 だからかも知れない。だから、一人で意地になって、いつまでもこんなことをして……。
 そして気付く――でも……でも俺は、まだ生きていたいだけじゃないのか。ギリギリのところでいつも、生きるためにもがいて……。
 胸の奥からわけのわからない悔しさがこみ上げてきて、ナイフの引けなかった自分が、脳裏を掠めた。
 ゆっくり歩き出したその時――
「オラッ!」
 横からのいきなりの衝撃に身体が吹っ飛んで、ザラムは土を舐めた。
 殴られた……?
 一瞬何が起きたのか分からなかった。鈍い痛みが頭の奥にあった。
「さっきはどうも。このクソガキがっ!」
「ぐぇっ!」
 腹に重い蹴りが入る。
 昼間の連中か……。
 起き上がることもできず、両腕で腹を抑えながら、自分の周りに立っている男たちを見上げる。
「何だ、その目はよ!」
「立てよ。こんなもんじゃすまさねぇからな!」
 男の一人がザラムの髪を掴んで、持ち上げた。
「へっ。人さらい風情が、何を偉そうに」
 そうザラムは唾を男の顔に吐きかけた。
「てめぇ!」
「かはっ!」
 男はそのままザラムを地面に叩きつけた。
「やっちまぇ!」
 ザラムは次から次に痛みさえ分からないほど、殴られ蹴られていった。
 ああ、もうどうでもいいや……。このまま死んだって……。どうして、こんなになっちまったんだろな……ほんとに……? 
 降り続く雨が不思議と気持ちいい。
 ああ、そういや……初めて盗んだパンは、不味かったな……。
 薄れていく意識の中で、ザラムはまだ幼かった頃を思い出していた。

 あの時俺は腹が減って、歩くのもやっとだった。
 そんな俺はパン屋の焼き立ての匂いに、堪らなくなった。
 どうして、そんなことをしたのかは分からない。
 ただ、自分の中で何かが壊れた。
 一切れのパンを片手に握り締めて、走っていた。
 どこをどう走ったのかも分からなかった。
 歩くのがやっとだったはずなのに、走っていた。
 人を何人も追い越して、路地を抜けて、いつまでも、走れなくなるまでずっと、後ろを振り返ることも忘れて、走っていた。
 口の中がしょっぱかったのは、汗なのか泣いていたのか……。
 そして、俺は足がもつれて転んだ。
 ハッと、後ろを振り返っても、誰も追って来てはいなかったし、そこには誰もいなかった。
 知らない場所にいた。
 全身から汗が噴き出していた。
 そして俺は、誰からも見られないように隠れて、パンを一口かじった。泣きながらかじった。
 不味かった。
 どうしようないほど、不味かった。
 次の日、俺は怯えながら、逃げるようにその町を離れていった。

 いつまでも、部屋の窓から外を眺めている自分がいた。
 外に出たいと思っている自分がいた。
 小鳥がその小さな翼を羽ばたかせて、青い大空を飛んでいた。
 うらやましかった。
 外を自由に走り回ってみたかった。
 自分の身体が恨めしかった。
 私には何もない……何も……。
 突然、部屋が消えていく。
 辺りが真っ暗になっていく。
 いやぁ……こわい……。
 何もない世界。
 助けを叫んでも、何かにかき消されていく。
 そして、自分の身体さえも、ゆっくり霧散していく。
 やだ……いやだよ……まだ、死にたくない……こんなの……

 目が醒めた。
 生きたかった。
 こんな狭い世界でなく、広い世界で、自由に、笑って、泣いて……。
 胸が苦しい。
 もっと多くの世界を知りたかった。それなのに、この狭い世界で分かりきったつもりで、あがこうともせず……。
 本当はもっと生きたかった……。
 シェルは自室のベッドにいた。町医者の連絡で、屋敷に連れ帰された。どこにいても手の施しようはないのだ。
 部屋の中は薄暗く、誰もいない。
 このあまりにも狭く暗い部屋で、どれだけの時間を過ごしてきたのだろう…
…。
「苦しい……苦しいよ……」
 この胸の苦しさも、痛みも、流れ落ちる涙も発作のせいだけじゃない。
 死が目の前に迫っていた。
「死にたくない……死にたくないよ……」
 生きることの意味なんて、分からないけど、ただ生きていたい。
 父の顔が浮かんだ。
 母の顔が浮かんだ。
 フロンの顔が浮かんだ。
 でも、それ以外にはっきり思い出せる顔がなかった。この屋敷で働いてくれ
る者の顔さえ……。
 意識が朦朧としている。ただ悔しさだけがこみ上げて……。
 最後に、あの悲しそうな寂しそうな瞳の少年の顔が浮かんだ。
 ただ、シェルの嗚咽に混じって、雨音が響いていた。

 翌日――朝から嘘のように調子が良かった。
 昇っていく朝陽。全てを優しく光で包み込んで、雨で濡れた世界が美しく輝いていた。
 あの子も同じ景色を見ているのかな……?
 まだ誰もが寝静まっていた。
 シェルはそっと部屋を抜け出した。
 せめてもう少しだけ……。
 屋敷から外に出て、朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込む。
 私の運命……。
 どうして私はあきらめてしまったのだろう?
 何もかも受け入れよう……そう思ってしまった。
 本当に私はそうすることを望んだのかな……?
 生き方なんかいくらでもあったのに……。
 風が吹いた。
 シェルの栗色の髪が、白いワンピースのスカートが流されていく。
 髪を抑えながら、その一歩踏み出した瞬間、唐突に気付く。
 他に道がなかったわけじゃない。
 ただ、現実を受け入れることで、現実から逃げていただけ。
 何かを変えようと、もがくことを最初からあきらめていただけ。
 過去に勝手な意味付けをして……。
 『運命』なんて言葉にその気になっていただけ……。
 少年の顔が、生きることに必死の顔が脳裏をよぎった。
 歯を食いしばった。手のひらを強く握った。空を仰いだ。
 薄い水色に、白い雲が風で流されていく。

 ザラムは街の裏路地で、ごみのようにうずくまって気を失っていた。
 射し込んできた朝陽にゆっくり瞳を開ける。
 家の屋根に留まった小鳥が囀っていた。
 ザラムはゆっくり息を吐いた。こんな場所で寝るのはも慣れっこだった。だが、身体は痛かった。昨日さんざん殴られたせいだ。起き上がろうとしたが、身体がふらついて受け身も取れず、顔から地面に倒れこんでしまった。全身に力が入らない。身体を反転させて、仰向けになる。
「ハァ、ハァ……」
 このまま自分を笑ってしまいたい気分だった。
 生きている。改めて、そう実感する。
 朝が来て目が覚めて、夜が来れば眠る。
 腹が減れば、何か食いたくなる。
 殴られた傷が痛い。
 雨で濡れた服が気持ち悪かった。
 こんな惨めな状況でも、死んだ方がマシかも知れなくても、確かに生きている。俺は生きている。
 今より良い生活を探してきたわけじゃない。どこで道を間違えたとか、そんなことも考えたことはなかった。自分のやって来たことを正しいとは思わない。ただ生きるためだった。今日から明日へ。振り返ることなく、一人で生きることだけを考えてきた。また置いて行かれるのが怖かった。だから、一人で生きてきた。
 こんなところで死んでたまるか。
 昨日と思っていたことと違って、自分でも可笑しいと思う。
 朝が来たのだ。
 陽が昇ったのだ。
 生きたい、不思議とそう思った。
 もう一度起きあがる。今度は倒れることなく、ゆっくり……。
 ザラムは壁で身体を支えながら、ゆっくり立ち上がって、一歩一歩慎重に歩き出した。                     

 望みさえしなければ、道はいくらでもあった。
 今よりマシな道は、いくらでもあった。
 そんなことは分かっていた。
 ただ、気づいていない振りをしていた。
 無慈悲な現実を受け入れることで、現実から逃げていた。
 未来を受け入れるのが怖かった。
 変わろうとすることを、止めていた。
 運命だと、その気になっていた……。
 過ぎ去った出来事に都合のいい意味づけをして、勝手に繋ぎ合わせて……。
 自分の枠を勝手に作ってしまっていた。
 あまりに狭い世界――。

 少年は川で、昨日受けた傷を冷やしていた。血と泥で汚れた服は、さっさと捨ててしまって、真新しいものに変えた。
 少女は少年の後ろに立って、口を開いた。
「少しだけ、探しました」
 少女が横から少年を覗き込む。
「酷い怪我……どうしたんですか?」
「どうも、してない」
 少年は振り返ることなく答えた。
「冷たくて気持ちいいですね」
 少女は少年がそれをやめるまで、隣で川の中に素足を入れて待っていた。
「今日一日、私に付き合ってくれませんか?」
 少女は緊張した声音で少年にそう聞いてみた。少年の方を見ることなく、水面を見つめたまま……。
 少年は少女の横顔を見た。
「どうして……?」
 少女は少年を見て、何も言わずに笑った。
「まぁ、いいか……」
 少年は向こう岸を見たまま、立ち上がりながら、そう言った。
「じゃあ、とりあえず何か食べません? 私、お腹空いちゃって……」
 ほんの少し照れくさそうに、少女がお腹を抑えていた。
「そういや、昨日何も食べてなかったな」
 少年はぼんやり昨日の出来事を思い出した。
「だったら、なおさらですよ」
 少女は靴を履いて、坂を楽しそうに駆け上った。

 あの時欲しかったものは、今もない。
 あの時やりたかったことは、今もできない。
 未来は無限の可能性に満ちているなんて、誰が言ったのだろう?
 少なくとも、時間は誰にも平等に注がれる。
 あの時欲しかったものがあれば、何かが変わったのだろうか?
 あの時やりたかったことがやれていたなら、何かが変わったのだろうか?
 今は今でしか、なりえない。
 今から過去を見たところで、それは今でしかない……。
 今から未来を見たところで、それは今でしかない……。
 運命なんて……しょせん……。

 喫茶店のガーデンテラスで二人はだいぶ遅い朝食を摂っていた。
 コーヒーにトーストと言う簡単な朝食だった。
 誰かと食事をするのはいつ振りだろう――少年は思う。ひどく昔のような気がする。飲んだコーヒーがしみて、顔をしかめた。
「大丈夫ですか?」
「ああ」
 少年はいつもより遅く、少女の食べるペースにあわせて、ゆっくり食べていた。
 少女は少年の顔を見つめた。
「な、なんだよ?」
 少年は照れくさくなって、トーストを口に運ぶのを止めた。
 少女は笑って、
「おいしいですね」
「そう……だな……」
 止まった手がゆっくり口へ動いた。
 うまかった。ただ……うまかった。
「でも、あんたには大したことないんじゃないか、こんなもんじゃ?」
 少年はふと浮かんだ疑問を口にした。
 ――いつも美味いものを食べてるだろうに……。
「そんなことはありません。それに……」
 少女は笑って、そのまま何も言わなかった。
 ――それに、こんな風に食べるのは初めてなんですよ。いっしょに同じものを同じように食べてくれるのは……。
「……こんなのも悪くないもんだな」
 少年は素直にそう言えた。
 ――ああ、悪くない。
 少年の顔が自然とほころんでいった。
 それから二人は何をするのでもなく、街を歩いた。
 二人とも街には不案内だった。だから、ちょっとした探険のように思えた。
 階段を上り、坂を下りる。橋の下をくぐれば、橋を渡った。
 疲れたら、階段に揃って腰を下ろした。
 広場で売っていた屋台のクレープを買って、二人で食べた。
 猫が階段でたれているのを見て、笑った。
 何もかもが新鮮に映った。
 現実を忘れるには十分すぎた。

 夕暮れ――。
 二人は街の一番高い場所で、別々の方向を見ていた。
「綺麗ですね」
 少女が夕陽を見ながら、手すりに手を置いて静かに言った。
「同じ夕陽でも、見る場所でこうも違うんですね……」
 少年は夕陽から背を向けて、手すりに体重を預けていた。
「俺は夕陽が嫌いだ」
「何故です?」
「沈んじまうだろ、太陽が……。それが、嫌なんだ。赤く燃え尽きて、何にもかもが終わってしまう気がして……」
 夕陽が赤々と街を照らしていた。
 少女は何も言わなかった。
 風が強く吹いていた。何もかもが、赤く揺れていた。
「もう、帰ります」
「そうか……」
 少女が少年を振り返った。
「ありがとう……また会えるといいですね」
「そうだな……」
 少年は振り返らなかった。
 少女はゆっくり脇にあった階段を下りていく。
「またか……」
 少年は沈んでいく夕陽を見た。空は赤から青紫へと、ゆっくりその表情を変えようとしていた。
「会えると……いいな……」
 少年は、少女の白いワンピースの背中を見ながら、そう呟いた。
 少女は振り返ることなく、階段を下りていった。                              

「フロン、怒ってる?」
 夜ももうふけようとしていた頃、シェルはベッドの身体を起こして、フロンと話していた。
「ええ、怒っています。ですが、半分は嬉しいです」
「嬉しい?」
「ええ、嬉しいのです……」
 シェルは肩を震わせているその背中を見た。
「ありがとう……フロンとも一緒に歩けると、素敵でしょうね」
 そう、シェルは高く上った明るい丸い月を見上げた。

 ザラムは珍しく長く一つの街に滞在していた。すでに金も尽きている。それでも、不思議と何かを盗ろうという気にはならなかった。何をするでもなく、ただ街を歩いていた。
 空は限りなく高く、風を穏やかだった。
 ザラムの目にある店に張ってある一枚の紙が止まった。
 しばらくその紙を凝視する。
 ――こう言うのも良いかもな。
 そう思って、その店に足を運んだ。

 数日後――高台の屋敷の住んでいる少女が死んだ。
 葬儀は実に質素なものだった。参列者もほとんどいなかった。両親らしき人さえも……。一人の女性が棺と付き添うように歩いていた。
 ――少女は街外れの共同墓地に眠った。

 一人の少年が墓の前に立っていた。よく分からなかったから、適当に見繕ってもらった花束を手にして――。
「名前も知らなかったんだな……」
 花束が風に揺れた。
「初めて働いて稼いだ、なけなしの金だからな」
 そう言って、花を供えた。
 話したいことも何かあった気がしたが、なぜか言葉が浮かばなかった。
 ただ、過去へのつまらない踏ん切りがついた。
 つまらない後悔をしたくない。
 ここは過去への墓標と未来への道標……。
 少年は背を向けて歩き出した。
 風に木々が揺れた。
 雲が流されていく。
 空はどこまでも晴れ渡っていた。
 季節はもうすぐ本格的な夏を迎える。


                                  

Tales of WILL Episode 3ほんの少しの未来‘nd

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