現実が事実しか伝えないのなら……
都合のいい現実などないのなら……
神がいつも公平に無慈悲なら……
人が傷つき、奇跡を祈っても……。
過去の哀しみはいつも薄れてしまう……。
あの時のことを、あの日のことを哀しむことはもう……
薄情なのか……
そうなのかもしれない……。
それを否定できない……。
忘れていくあの時の悲しみが……
癒されることがないのなら……。
忘れていくから……
それが許せなくても……
どんなに傷ついても……
それが癒されない傷だとしても……
笑って生きていたい……
風が冬の香を運ぶ。
空は灰色の冷たいカーテンに遮られて、その顔さえ見えない。
レンガを敷いた街道を、一人の二十歳過ぎの若い男が、大きな麻袋を持って歩く。細身の長身。長い黒髪が歩くたびに揺れた。
吐く息が白く染まる。男は羽織っている紺のフードの付いたロングコートの襟を、空いているほうの手で立てた。辺りに人の姿は見えない。それでも近くの家から暖かい暖炉の明かりが、窓からこぼれていた。
「階段さえなけりゃな。住みやすいところなんだけど……。ここを上って帰るのは、いつまでたっても慣れないな」
男――クロードは、これから上らなくてはならない長い階段を前に、そうぼやいた。
クロードにしてみれば、もともと階段や坂の多い街だから、ここに階段が無くても道が無いわけではなかった。ただ無ければ、遠回りになってしまう。それはそれで面倒なのだが、帰りにここを、しかも最後に上らなければならないのは、さすがに気が滅入る。
ゆっくり階段を上る。取りたて家路を急ぐ理由も無い。
上り終えたここからは、町を一望することができる。街の端から端へ伸びる大通りの中心に、噴水のある大きな広場があり、普段はよく道行く人の休憩場所になっている。休日には街の外からやって来る商隊が共同で市を開き、多くの店が建ち並ぶ。ときとしてそれは、大通りにまで及び、多くの活気に溢れる。そのためにここでは、いつも多くの情報が行き交う。
クロードはそこへ出かけたその帰り。持っている荷物の中身は、そこで買った日用品や食料が入っていた。
階段を上り終えたクロードの視界に、白い何かが映る。
「もうそんな時期なのか……」
舞い落ちる雪に足を止めた。無言で、ただ漠然とその雪を眺める。
――いや、違うな。
独白する。
――ただ、意識しなかっただけだ。もうその時期なんてことは、解っていたはずだ。
ある感情、なんとも形容しがたい感情がクロードの中で甦る。
「雪……か」
クロードは再び歩き出した。意識を内へと向けながら――。
――俺は……あの時……。
記憶が、感触が甦る。
血の匂い。煙硝の匂い。死を悟った顔。血塗られた……。
――どうして俺が……?
ドンッ!
軽い衝撃がクロードを現実に帰す。
十歳くらいの小柄な少女が、足元に倒れていた。この寒い時期に、少女はぼろぼろの薄い格好で、靴も履いていない。
反射的に少女に謝ろうと、声を掛けようとした瞬間、品の無い声が辺りに響いた。
「待ちやがれ!」
少女はその声にすぐに顔を上げて、怯えた瞳で自分のやって来た方向を見る。そしてすぐにそれは絶望に変わった。
クロードは声のした、少女の目線の先を振り向く。人相の悪い男が三人、細い路地を抜けてこっちに向ってくるのが見えた。
「ったく、何考えてやがる、この小娘!」
走ってきた男の一人が少女を見て、唾を吐いた。
クロードは横目で少女を見た。少女は俯いて、がたがたと振るえて、無意識だろう、クロードのコートの裾を掴んでいた。
クロードの表情が冷たく変わった。
「こりゃ、お仕置きが必要だな」
もう一人の男が、いやらしく少女を舐めるように見て、歩み寄ってきた。
「あんたのおかげで、助かった」
最後にリーダー格のような男が、感謝するようでもなくそう言って、他の男に目で合図した。
「いや、俺が通りかかったところに、この娘がぶつかっただけだ」
クロードは冷たくそう言って、少女の冷えた体を自分のコートで包んでやる。
「おい、何の真似だ?」
少女を捕まえようとした男の汚い手が、ピタッと止まった。
「いや、この娘を買おうと思ってな」
その言葉に男たちの顔が変わり、コートの中で、ビクッと少女の体が反応した。
「よく解ったな……」
リーダー格の男が、観念したように目を細めた。
男たちの素性は、奴隷商人に雇われたゴロツキ。奴隷――法の下では禁止されているが、裏社会ではごく平然とその売買が行われている。奴隷の多くは、借金の肩として誘拐同然で連れてこられ、そのほとんどが競りに掛けらる。そしてそこで酔狂な金持ちや、人手の欲しい商人が買っていく。売られたが最後、奴隷がどうなるかは、想像に難くない。特に女の場合は。当然、この少女のように逃げ出す者は、あとを絶たない。
「おいおい、お頭は大丈夫かよ?」
「兄ちゃんのちんけな小遣いで買えるもんじゃないぜ。それともあんたロリコンかい?」
下っ端の男たちがいやらしく笑う。しかしこんな下っ端は眼中に無いように、クロードはただリーダー格の男を見つめていた。
「まあ、いいじゃねぇか。兄ちゃん、その物言いだと、当然ここで買うんだよな?」
リーダー格の男が舐めるように頷く男を見て、
「競りには出さないんだ、値は張るぜ。まぁ今更、冗談でしたっても聞かねぇがよ」
そう、いやらしく笑った。
「兄貴、かっこいい!」
「さいこー!」
下っ端たちが周りで口々に騒ぐ。が、クロードはそんな嘲笑いなど聞こえていないのか、表情一つ変えず、すっと懐に手を伸ばした。
「これでどうだ?」
渡したその金額に、男たちは言葉を失った。クロードは金貨のぎっしり入った袋を渡したのである。金貨一枚に対して、奴隷一人が相場なのだから、それはもはや桁が違っていた。
クロードは、唖然としている男たちを見て、
「商談成立だな?」
「あ、ああ……」
そこで男たちは、ようやく正気に返った。
「そ、そいつはもう兄ちゃんのもんだ。じ、じゃあな」
男たちは口元に笑みを浮かべて、足早にその場を去っていく。すでに頭の中は金の事で一杯なのだろう。もっとも、その金を山分けにするのか、真面目に上に納めるのか、それとも争うのか。どれにせよ、このクロードには、関係もなければ、興味もなかった。
男たちが見えなくなったのを確認して、クロードは少女をコートから出してやった。自分を見上げる少女の怯えた瞳と目が合う。
ここでクロードは初めてしっかりこの少女を見た。大きな瞳に、眉目の整った愛らしい顔立ち。今はお世辞にも綺麗とは言えないブロンドのウエーブの掛かった長い髪は、きれいに洗えばきっと本来の輝きを取り戻すだろう。
しかし少女は、体を振るわせながら、後ずさりする。
「何もそこまで怯えなくても……」
そんな様子を見ながら、クロードは少女に聞こえないくらいの声でそうぼやいた。その表情にもうさっきまでの冷たさはなく、どこか暖かい。
クロードがこの少女を買ったのに、理由など無かった。少女に掴まれて、不思議ととそうしてしまっていた。ただの気まぐれのような、それでもないような、はっきりしない何かが、クロードの中で動いていた。
クロードは荷物を持ったまま、身を屈めた。瞳の高さが少女と同じになる。
「だいじょうぶだから……」
クロードは少女に向けて軽く腕を伸ばした。
それを見た少女の足が止まった。
解らないのだ、少女には。あの腕にすがってもいいのか。あれは自分を嬲る手ではないのか。
両親の死。それが少女の人生を狂わせた。両親の死後、少女は親戚の家に引き取られるはずだった。もっとも、正確には三日だけ引き取られたのだが、四日目に奴隷商人に売られたのである。少女が眠っている間に。目が覚めたときには、すでに荒地の真ん中。生き抜くすべさえ知らなかったこの少女には、どうする事もできなかった。それからそこで無理やり働かされ、失敗すれば男たちから殴られ……。そこには少女を助けてくれる「手」も、すがってもいい「腕」もなかった。
だから少女は動けない……。
痺れを切らして、クロードが少女に近付いた。少女はさらに後ずさる。――が、突如、少女の体が大きく後ろに傾いた。
驚きに少女の瞳が大きく見開かれる。
背にあったものは、クロードの上ってきた階段。少女が転げ落ちようとする。すべてはスローモーションのように流れていった。
落下感。その後には、痛みを感じるよりも速く、その衝撃で意識は暗く深い淵に落ちていくだろう。
自分に向かって伸びてくる手。少女は無意識に手を伸ばした。
どさっと重い何かが落ちる音……。
――あったかい……。
少女はまずそう思った。自分の冷たい体に暖かさが入り込んでくる。そして、ようやく自分が抱かれている事に気がついた。
「ふぅ……」
上の方から安堵した息遣いが聞こえた。
「だいじょうぶ?」
少女は何が起きたのか解らなかった。ただ見上げた先には、自分を心配そうに優しく見つめる男の顔があった。そのまま、ゆっくり後ろを見る。そこでようやく自分に何が起きたのかを知った。体が震えた。死。それが頭の中を掠めた。
少女はもう一度、クロードの顔を見上げた。クロードはさっき変わらない顔で、優しく自分を見つめていた。自然と涙があふれた。どうしてなのか解らない。ただ、止めど無くあふれた。
クロードは一瞬戸惑ったが、少女が自分に強くしがみついているの感じて、少女を優しく抱き寄せた。
雪が二人を覆うように舞い落ちる。
「雪か……」
クロードは灰色の空を仰いで、そっとそう呟くと、さっき放り投げた麻袋を拾い上げた。どうやら中味はなんとか大丈夫そうだった。
そして少女に優しく呼び掛ける。
「寒いからもう帰ろうな……」
少女は泣くのを止めて、きょとんとクロードを見た。ピンと来なかった。少女にこれまで帰る家などなかったのだから。あの場所から逃げようと、それだけで……。
とはいえ、こんな格好の少女を歩かせるわけにはいけない。クロードは片手でしがみつく少女を抱いて、もう一方で麻袋を持つと、もうすぐそこにある我が家に急いだ。
迫り来る宵闇。
そして、
雪が降っていた……。
『closed』のカードを下げた喫茶店『Door』――。
クロードの経営する店だ。そこそこに繁盛している。とくに顔なじみの常連客が多く、始めて来る客はそう多くなかった。
外装はベージュのペンキが塗られて、屋根はダークブラウン。中はL字カウンターに、机が五台。大きくもなければ、小さくもない。照明は暗過ぎず、明る過ぎることもない。落ち着いた雰囲気の喫茶店。店の隅にはピアノが置かれ、暇な時と、客に頼まれた時にクロードが弾いていた。そして店の奥に、クロードの生活する部屋があった。
「まずは暖炉だな」
クロードは家に帰ってきて、明かりを点けると、暖炉にすぐ火を入れた。暖炉の火は、バチッと音を立てて勢いよく燃え始め、冷え切った部屋にゆっくり暖かさが宿っていく。
「そんなところに立ってないで、火にあたっていいよ」
クロードはコートを掛けながら、入り口で立ったままの少女に声を掛けた。それを聞いても、少女はなかなか動こうとしない。それでも寒さに耐えきれなくなって、クロードの方をチラッと横目で見ると、恐る恐る暖炉の傍に寄ってくる。当然、火が怖いわけじゃない。
少女は時間を掛けて、一応と言える程度に暖炉にの当たるところまで来て、床に座った。
そこでクロードは仕方なく少女に近付く。
それを見た少女の顔は恐怖に引きつって、その瞳をぎゅっと閉じた。
――打たれる!
少女は反射的にそう思った。理由は火に近付きすぎたから。ただそれだけ。が、その衝撃は来なかった。
クロードは少女を抱き上げて、暖炉の正面に敷いてある絨毯に座らせた。
少女は不思議そうにクロードを見上げた。が、クロードは少女を特に気にした様子もなく、すぐに奥の方に行ってしまった。
「後は着る物だな。それじゃ寒いだろうし」
適当にタンスの中をあせってみる。奥から白いセーターを見つけた。他には……ない。正確にはサイズがまったく合わないのだ。上に着る分ならそう問題はないが、下に履く物はそうもいかない。
「取り敢えず、今日のところはこれでいいか。明日にでも買いに行けばいいだろうし」
少女はクロードが何をしているのか、緊張した面持ちで見ていた。もっともまだ体が凍えて、ここからあまり動きたくもなかったのだが。
「これでも着てて。明日、ちゃんとしたのを買いに行くから」
クロードはそのセーターを少女に着せてやった。
「……やっぱ、大きかったか」
その格好を見て苦笑する。
セーターが少女の膝まで届いて、当然袖から手が出るはずもない。が、その姿が妙に愛らしい。それにあと靴下も履かせたのだが、これもだぶだぶ。
「とにかくそれで今日は我慢してくれ」
少女はクロードの言葉を聞いていないのか、自分の格好を、右手を挙げ、左手を挙げ、しまいには首を回して背中を見ようと落ち着かない。少女にしてみれば、こんなものを着たことがなかったし、着ていてもいいのかさえ解らなかった。そのせいで妙に緊張してしまう。
「まぁ、いいか」
と、少女を見るのをやめて、クロードは夕飯を作りに台所に向うことにした。
少女はただ座って、クロードがしている事を見ていた。
――何かしないと……。
そう思うが、何をしていいのか解らない。誰かのためじゃない。強いて言えば、自分のため。そうしなければ殴られるから……。
しばらくして、いい匂いが家の中に漂い始める。
「ちょっといいかな?」
クロードから声を掛けられて、少女の体に緊張が走った。
「そこの棚から器を出してくれる?」
少女はクロードの指差す棚に向う。
「そう、そこ。そこの上から二番目のところを開けてごらん。深皿があるだろう。それを出して」
少女はクロードに言われたとおり、そこから一枚深皿を出した。
――どこに置けば良いんだろう?
少女はクロードの方を見た。
クロードは端にあったテーブルを、暖炉の前に運んでいた。
「よっと」
クロードは少女の視線に気がつく。
「あとそこの引き出しに、スプーンがあるから、それもお願い」
そう言われて、少女はまた向き直して、スプーンを一本取り出した。
「じゃあ、ここに運んで」
少女はただ言われた通りに行動した。それで一応安心した。
――これで大丈夫。きっと今日はもう何も食べられない。あれは私の分じゃない。でも今までと同じように、朝には何か食べさせてくれるよ。きっと……。
テーブルには鍋と、バスケットに入ったパンが置かれていた。
「ありがとう」
クロードは少女に微笑んで見せた。が、少女は驚いた。今まで感謝された事なんてなかった。何も言われないのが当たり前だった。ひどいときには、遅い、と殴られた。だから、ちょっと、そうちょっとだけ戸惑いながら、ほんの少し頷いた。
「でも……」
――何かまずい事でもしたの?
一瞬、少女はびくっと硬直して、恐る恐るクロードの顔を覗く。クロードの目は困ったように少女の持つ皿に注がれていた。
「一枚じゃなくて、二枚のつもりだったんだけど。悪いけど、もう一回行ってくれるかな?」
クロードは少女から皿を貰って、そうにこやかに言った。
それを聞いて安心した少女は、トタトタと棚に駆けて行った。僅かな期待とそれを打ち消すように――きっと誰かお客さんが来るんだよ。きっと……。私の分じゃないんだよ。
忘れずにスプーンも持って行く。
「今日はちょっと寒いから、シチューにしたんだけど、口に合うかな?」
そう独り言のように言うと、クロードは少女から皿を受け取って、シチューを二人分注いだ。
「どうした? そんなところで?」
少女は、隅の明かりも届かないところに立っていた。クロードの言葉にただ首を振る。
どうもしてない。そう見えた。
クロードは仕方ないと言った顔で少女に歩み寄った。少女の顔が強張る。
「食べない、シチュー? それとも……嫌い?」
少女は首を大きく横に振った。
――いいの、食べても?
「おいで。一緒に食べよう」
クロードは少女の手を引いた。そして、少女と向き合ってテーブルに着く。
クロードはいつもの様に手を合わせて、神への感謝の祈りを捧げた。それに倣って少女も手を合わせた。が、言葉はない。
「どうした?」
クロードは不審に思って声を掛けたが、少女はただ顔を俯いて、首を横に振るだけだった。
「まぁ、いいや。食べよう」
その様子をあまり気に止めず、いただきます、とスプーンでシチューを口に運ぶ。それを見て、少女もゆっくりシチューを食べ出した。
――暖かい。嬉しい……。
「美味しい?」
少女は大きく頷いた。瞳の端には涙がにじんでいた。
「そうか、良かった」
クロードは微笑む。それで少女は緊張が解けたのか、何度もスプーンを口に運んだ。あっという間に、皿が空になる。
「おかわりはいる?」
少女は遠慮がちにクロードを上目遣いに見た。
――いいの?
「遠慮はしなくてもいいよ。多めに作ったから」
それで、少女は控えめにこくんと頷いた。
クロードはおかわりを注ぎながら、内心溜息を吐いた。
――さっきから何も言わないけど……
クロードは食べながら、黙々と食べる少女を観察してみる。
――緊張? なんか違うな。
ふと、少女が逃げてきたときの事を思い出してみる。
――どうして助けを呼ばなかったんだ? 奴隷は禁じられているんだから、見つかれば保護してもらえるだろうに。
突然顔を上げた少女と目が合った。
「どうした?」
やはり、無言。そして、空の皿。
「おかわり?」
少女は大きく頷いた。
「よほど美味いか、腹が空いてたんだな。まぁ美味いってのは、自惚れ過ぎか」
少女に聞こえないくらいの声で笑う。さすがに最初ほど速くはないが、少女は休むことなくスプーンを口に運ぶ。
程なく少女の皿も、クロードの皿も空になった。鍋の中にも、バスケットの中にも何も残ったいない。
「満足した?」
少女は、少し照れて嬉しそうに大きく頷いた。そしてその顔はすぐに申し訳なさそうな顔に変わった。結局、少女の方が多く食べたのだ。
「そんな顔はしなくていいよ。俺もちゃんと食べたから」
その言葉にただ息を吐いて、安堵する少女。
「そう言えば、」
クロードはまだあることを忘れていたことに気づいた。
「まだ名前も聞いてなかったな。俺はクロード。君は……?」
少女に緊張させないよう、優しく言ったつもりだった。が、少女は俯いて震えていた。
「どうした?」
クロードは少女を覗き込もうとしたとき、少女は顔を上げた。震えたままで、口を開けて、必死に動かして……。でも言葉にならない。少女の瞳には涙が溜まっていた。
――まさか……
そのとき、ある考えが浮かんだ。
「しゃべれないのか?」
少女がはっと息を呑んだのが、聞こえた。そして、また俯く。涙が落ちた。
「そう、なのか?」
クロードは問い詰めた。
少女は僅かに縦に首を振る。奴隷のときのあまりの仕打ちに、少女はその声を失ってしまった。
――ごめんなさい。
「つらかったな……」
ぼそっとクロードが言った。その瞬間、
「――!」
抑えこんでいた感情が溢れた。でも声は出なかった。それでも激しく泣いた。
寒かった。空腹だった。痛かった。つらかった。でも、本当は……淋しかった。
寒さも、飢えも、殴られる痛みも、確かにつらかった。でも本当につらかったのは、顧みてくれる人が誰一人といなかったこと。同情……それでも良かった。何をしても誰からも顧みられないことに比べれば、そんなことは些細な事だった。
クロードは何も言わずに、少女を後ろから抱きしめた。驚きで少女の体が、ビクッと反応した。
「ずっと、ここにいるか?」
自分を気遣ってくれる。奴隷じゃない。この腕に縋っていたかった。そして、ずっと感じることのなかったぬくもりを。
少女は大きく頷いた。涙は止まらない。嬉しくて、嬉しくてたまらないから止まらなかった。
少女が落ち着いてから、クロードは羊皮紙とペンを持ってきた。
「まぁ、でも名前は知っておきたいから。書ける?」
少女はペンを持った。持ち方もあったものじゃなかったが、それでもたどたどしく名前を書く。少女の唯一書けるものが、自分の名前だった。
『これがお前の名前だよ。書いてごらん――』
――そうお父さんとお母さんが横に座って、教えてくれた。最初で最後の……たった一つだけ教えてくれた、私の名前。お父さんの字を見よう見真似で、初めて書いた。あんまり、上手く書けなかったけど、喜んでくれた。
『良く書けたね――』
そう言って、二人が私の頭を撫でながら誉めてくれた。
少女はペンを置いた。一枚の羊皮紙には黒く大きく……
「良く書けたね」
クロードは少女の頭を撫でながら、その名を優しく呼んだ。
「――リディア」
少女――リディアはまた泣きながら、大きく嬉しそうに微笑んで頷いた。
その日、二人は一つしかないベッドで、一緒に眠ることにした。
リディアは、自分が床で寝る、今までそうしてきたから大丈夫だよ、と床で寝ようとする。クロードはリディアのやろうとする事は理解できたが、だからと言ってそれを聞き入れるわけにはいかなかった。
――エヘヘ……暖かいよ。
リディアは少し照れて、微笑みながら、クロードを見た。
「もう、おやすみ。何も……いや、いい。おやすみ」
クロードは、自分があまりに下世話な事を言おうとして、言葉を飲み込んだ。
――何考えてんだか。
やがてリディアは眠りに落ちて行った。久方ぶりの安らぎと暖かさに包まれて……。
クロードはそれを確認して、すっと静かにベッドから降りた。
――良い娘だな……。今までつらかったろうに。
リディアの寝顔を見て、素直にそう思った。そしてクロードは暖炉に薪を足して、ソファーで寝ることにした。毛布を持って、そこに横になる。
――雪か……。
今日何度目かの独白。
――どうして俺が生き残ったんだ? どうして俺は、あの時、あの場所にいなくて、ここにいるんだろう?
いくら考えてみても、答えは出てこない。自分がどこにいるのかも解らない、霧の中にいる気分になる。そしていつもその霧は晴れない。
外は雪がゆっくり輝きを増していった。明日には銀色の世界を見せてくれるだろう。きっと……。
喫茶店の朝は早い。朝食を摂って仕事へ向かう客で賑やかになる。それは『Door』も例外じゃない。もっとも気心の知れた常連が朝の客のほとんどを占めてしまうから、決まった分を作ってしまえば朝の仕事はほとんど終りを告げてしまう。
「マスター、今日も一曲頼むよ。もうだいぶ手も空いてきただろ?」
そんなわけでこんなリクエストが毎朝ある。こっちを楽しみに来ている客もいるくらいだ。クロードもあらかた客入りが収まったのを見計らって、ピアノの前に座る。曲の途中でオーダーが来る事はない。あったとしても、弾き終わってからだ。その辺も常連の暗黙の了解なのだろう。それから彼らの一日が始まる。
リディアはそんなピアノの音色に、優しく目を覚ました。
――クロード……?
起きてクロードの姿がないことに、リディアは不安を覚えた。そして寝過ごしたことに、叱られる、と居ても立ってもいられなくなった。
これがリディアの習慣だったのだから仕方ない。クロードが隣で寝ていたのだから――リディアはそう思っている――リディアの思ったとおりなら、その場でたたき起こされているはずなのだが、リディアはそんなことに気が付かないほど、気が動転していた。
大急ぎでクロードの姿を探す。取り敢えず、ピアノの聞こえる方へ行ってみることにする。
そっと横から顔だけ出して、喫茶店の中を覗いてみる。リディアの見たものは、クロードの演奏に客が聞き入っている姿だった。その場の雰囲気に、リディアは二の足を踏んだ。
――入りづらいよ……。でも……きれい……。
リディアは入るのに躊躇しているうちに、いつしかクロードの演奏に聴き入っていた。
演奏が終わり、客の拍手がクロードに向けられる。そして客たちは感想を言いながら、テーブルの上に勘定を置いて足早に喫茶店から出て行く。その中の一人の客がクロードに寄ってきて、何やら耳打ちした。するとクロードは軽く笑いながら客と話して、隠れていたリディアに駆け寄った。
「ああ、もう起きたんだって、朝からピアノ弾けば起きるのは当たり前か」
クロードが申し訳なさそうに笑った。
さっきの客はリディアに気がついて、誰なのか好奇心を持って、クロードにリディアの事を聞きに行ったのだろう。
――……ごめんなさい。
リディアが緊張した面持ちで俯いていた。
「どうした?」
クロードにしてみれば訳がわからない。
「とにかく、顔洗ってきたら」
その言葉にほっとして、
――……うん。
リディアは大きく頷いた。
客がすっかり引いてしまってから、少しだけ遅い朝食を摂る。一応今日も外に、『closed』と掛けておく。
テーブルには簡単なスープにパン、コーヒー、それにベーコンエッグが並んでいた。リディアから見れば、昨日のシチューもそうだったが、これは贅沢過ぎるほどの食事だった。
――おいしそう……。
だから見ているだけで幸せそうになる。
そして一緒に手を合わせて、
「いただきます」
――いただきます。
もうずいぶん忘れていた雰囲気があった。
「今日はこれから服を買いに行こうか?」
パンをちぎりながら、クロードはリディアの着ているだぶだぶの白いセーターを見て言った。
――いいの?
リディアは不安げに男を見た。
「それじゃあんまりだからな」
――ううん、いいの。このセーター、暖かいから。
リディアは首を大きく横に振った。その様子がいかにも愛らしい。
「遠慮なんてしなくていいよ。それが気に入ったならあげるけど、まぁ、どっちにしても着替えは要るだろ? そんな服で我慢しなくていいから」
――エヘヘ……嬉しいな。
リディアは少し照れて、笑った。
クロードはその笑顔に少しだけほっとして、コーヒーを口に運んだ。リディアもそれに倣うかのように、コーヒーを口に付けたが、
――……にがい。
思いっきり顔をしかめた。
「ハハハ……まだブラックじゃ飲めないか」
クロードが笑ったのを見て、リディアは恥ずかしそうにうー、と唸った。
「これでどう?」
クロードは横にあったミルクとシロップを適当にいれて混ぜてやった。このミルクとシロップは、こうなることを予想して、クロードが持ってきていたものだ。当然、昨日まではなかった。
――甘くて、おいしい。
リディアはにっこり笑って見せた。
クロードもつられて微笑んだ。
これまでと違う朝食。
一人じゃない、誰かのいる朝食。
笑顔が、暖かさがあった。
それはいつもより美味しく感じられた。
晴れ渡った空は、どこまでも高い。雲一つない。陽光は降り積もった雪に反射して、街を銀色に輝かせた。
新しい服を身に纏って、リディアはそんな街を踊るようにはしゃいでいた。リディアの足跡が雪に残る。
「おい、そんなにはしゃぐと転ぶぞ」
クロードがとがめるのも聞かないで、リディアは笑いながらくるっと回った。それと一緒に、ブラウンのワンピースも回る。本来の艶を取り戻した髪は、陽光に輝いた。さながらそれは、雪の妖精がダンスを踊るように、軽やかに、でもどこか危なっかしい。
――エヘヘ……。ずっとこんな服が着たかったの。
リディアはぴたっと止まって、振り返って嬉しそうに笑った。
「まったく……」
それを見てクロードも苦笑した。それから改めてリディアの服を見る。
白いブラウスの上にブラウンのワンピース、さらにその上からベージュのカーディガン。黒い革靴は鈍い輝きを放ち、クロードの腕には、リディアのために買った白いコートがあった。
先を行くリディアは、クロードが辿りつくのを待って手をつないだ。
――これからどこに行くの?
リディアはクロードを見上げた。
「これからどうするかな」
服を買った後のことは、特に何も決めてなかった。店のほうは休業としたから特に問題もない。もっともクロードには、これから帰って開ける気もなかったが。
「じゃあ、適当に散策してみるか」
クロードの言葉にリディアは嬉しそうに微笑んだ。
二人は坂と階段の多い、昼下がりの街を夕暮れまで歩いた。
果物屋の気のいい兄ちゃんは、リディアにりんごをくれた。リディアはそれに笑って返した。
日当たりのいい階段の隅で、あくびをするネコを見て笑った。当のネコはそんな事も気に止める様子もなく、くたっと気持ち良さそうにまどろんでいた。
疲れたから噴水の広場でちょっと休憩。二人でクレープを食べた。リディアが頬に生クリームを付けて、また笑った。
その広場の片隅で似顔絵を描くお爺さんと出会って、リディアは似顔絵を描いてもらった。クロードが額に入れて喫茶店に飾ろうと提案すると、リディアは恥ずかしそうに頬を赤く染めて笑った。
久しぶりの安息。この時期にいつも感じていた罪悪感を忘れてしまうほどの……。
クロードはリディアに感謝した。が、それはあまりに薄情な行為かもしれない。
忘れがたいほどの悲しみは、薄れて、あのとき流した涙は、今は流れない。残ったものは、誰も裁くことのない罪。罪悪感だけがあった。しかし、それさえもクロードは、忘れようとしていた。
忘れることで、思い出にすることで、過去の束縛から逃れられるのなら、前に進めるのなら……いや、そうすることでしか、過去の束縛から逃れられない、前に進めないのなら……。何が、どうする事が正しいのか?
クロードには解らなかった。
クロードとリディアが街を散策している頃――。
どこからか黒い双眸が、憎み蔑むような視線を男に投げる。旅人の出で立ちで、長身で細身、褐色の肌の女性。年は二十歳前といったところか。そのまだ若い顔は、憎しみと殺気に満ちていた。
「クロード……」
彼女はそう呟いて歯軋りした。
あたりはやがて夕闇がせまり、家々からこぼれる明かりが、街をにわかに照らし出していった。
数日が経った。穏やかに、ゆっくりと。
ときには雪が降り、ときには晴れた。
リディアはクロードを手伝い、クロードはさまざまな事をリディアに教えた。リディアはたまにクロードが弾くピアノが好きだったし、クロードもリディアがそのときに見せる笑顔が好きだった。
そして、本格的な冬がやって来る。
もう看板を上げる時間。店内にはたった一人、体格のいい中年の男性客が、カウンターに座って注文を待っていた。
「なかなかいい娘じゃないか」
客がテーブルを拭いているリディアを見ながら、クロードに話し掛けた。
「どこの娘なんだい?」
「親戚の子ですよ」
一応、クロードは髪を掻き上げながらそう言った。どの客にもそう言ってきたし、本当の事を話すのは、それなりに問題があった。どんな状況にせよ、奴隷を買うことは犯罪になるのだから。が、その客は、
「俺にそんな嘘が通用するとでも? 髪を掻き上げるのは、お前が嘘を吐くときの癖だからな」
「そうでしたか?」
この人にはかなわないな、とクロードは苦笑いを浮かべた。
この客、クロードの素性をこの街で知る唯一の人間だった。
「で、本当のところは?」
「仕方ありませんね……」
クロードはリディアを横目に見ながら、客にそっと耳打ちした。
「ほう、あの娘が。不憫だな……」
客は健気に働くリディアを憐れむように見て、ダージリンティーを口に運んだ。
「まぁ、金のほうがいざこざはないからな。で、その金はどうしたんだ? 馬鹿にならないだろうに」
「それなら、あのころに稼いだ金を使いました、全額」
「そう言えば、そんなものも残ってたのか。にしても、全額とは。お前らしいと言えば、お前らしいが、全額払わなくても、十分残ったろうに。俺にはまねできねぇな」
客はそう苦笑した。
クロードにしてみれば、あの金はもともと街の教会に寄付するつもりの金だったから、全額払おうとも気にもしなかった。
「金なんて、十分生活していくだけの額があれば良いんですよ。後はほんの少しの蓄えがあれば。ここも、もう十分贔屓にしてもらっていますし」
最近クロードは特にそう思う。分相応な金は持たないほうがいい。
「まぁ、あの仕事を最後に、お前もアレから足を洗ったんだよな」
「ええ」
クロードは遠い目をした。
「潮時だったかもな。……いや、あんな人間の裏ばかり見る仕事は、最初からやらないほうがいい」
客の言葉にクロードは何も言わなかった。
「雪か……」
客の瞳が窓の外へ向けられ、クロードもその言葉に外を見た。雪が家からもれる明かりに反射して輝いていた。そして客は独り言のように口を開いた。
「……あれが俺のところに来たぞ。一応言っておく」
「そう、ですか……」
――会わないといけないんだな……。
クロードの瞳に深い悲しみが宿る。
不意に服の裾を引っ張られる。
――終わったよ。
リディアが仕事を終わらせて、満足そうにクロードを見上げていた。
「あ、ありがとう。もう上がっていいよ」
「お、嬢ちゃん頑張ったな」
――うん。頑張ったよ。
リディアは誉められてにっこり笑った。
「さて、俺も行くかな。ご馳走様」
客は金を置いて席を立った。
「あ、そうだ。嬢ちゃん、これからもこいつのこと、頼むな」
客は出口で見送ろうと傍にいたリディアにだけ聞こえるように、かがんでそう言った。リディアは何のことだかわからず、キョトンとしていたが、取り敢えず大きく頷いた。
「ありがとう」
そして客は店を後にした。
――明るくなったな、あいつ。あの娘のおかげなんだろう。
雪の中を歩きながら、そう思う。
どうしてあの娘を買ったのかなんて聞かなかった。おそらくクロードは、気まぐれでしょう、と笑って言うだろう。
――結局、人は一人では生きられないか。おそらく無意識に人を求めたんだろう。……つらいな。
立ち止まって、暗く何も見えない空を見上げる。
「雪……か」
ただ、そう呟く。どこか切なく、そして淋しい。
舞い散る雪にその足跡も残さないで、その人影は寝静まる街に消えていった。
夕暮れ。
クロードは高台から街を見下ろした。
紅く染まった街。
道行く人々は家路を急ぐ。
クロードのほんの少し遠回りをして帰ってみようという提案に、リディアは縦に首を振った。
別に理由はなかった。何となくだった。いや、差し迫ってくるその日に、何らかのけじめをつけたかった。
クロードは隣のリディアに申し訳なさそうに見た。
こんな寒い日は暖炉に当たりたいだろうに、嫌な顔ひとつしないで頷いてくれた少女。それがひどく愛しかった。
リディアも同じようにこの街並みを見ていた。
――綺麗だね。
リディアは微笑んでクロードを見上げた。リディアの瞳に、男の深い悲しみが映る。リディアはぎゅっとクロードの腕を抱きしめた。
「どうした?」
――どこにも行っちゃダメだよ。
クロードが戸惑うのも構わず、リディアは強く、強く抱きしめた。
「帰ろうか」
クロードはそう言って、リディアを抱き上げた。
「あんまり店を空けとくのも問題だな」
クロードは、『準備中』のかかっている店を思い出して、苦笑した。
夕暮れの空は、淡い紫に変わって行く。もう宵闇に街は包まれようとしていた。
その日、いつ太陽が昇ったのかさえ解らないほど、空はどんよりと曇っていた。いつ雪が降ってきてもおかしくない。
クロードはまだ暗いうちに、リディアを起こさないよう家を出た。
一言、『出かけてきます』と書置きを残して。
クロードは誰もいない街道に足跡を残しながら、ゆっくり歩いた。
途中、朝早くから開いている花屋で、名前も知らない白い花の花束を買う。
――アイツの好きだった花。……もう三年も経つんだな。
遠い記憶。もう色褪せてしまった……。それが悲しいのに、どうする事もできない。
幾度となく夢に見た、あのときの光景。
硝煙と血の入り混じった匂い。人々が逃げ惑う。そして、血まみれの……。
――どうして俺が生き残ったんだろう? 俺がアイツを……それなのにどうして……?
いつしかクロードは街外れの墓地に立っていた。
迷う事なく、親友の眠る墓に向かう。
――ここに来るのに、三年も掛かったな。
花束を墓前に供える。
「供えるのはこれでいいんだろ? 好きだったからなこれが」
クロードはゆっくり瞳を閉じた。
「なぁ、どうしてあのときお前は、俺を殺さなかった? どうして生きているのが俺なんだよ?」
クロードは世間話をするように聞いた。が、どれだけ聞いても返事はない。あるはずがない。ただ風の木々を揺らす音だけが、聞こえた。
そしてクロードは待った。ここに来る妹を――。
冷たい土の下に眠る親友と愛し合った――。
雪が降っていた……。
リディアはいつもの様に目を覚ました。
横にクロードの姿はない。
いつもの様に、朝の仕込みをやっているのだろうとクロードの姿を探したが、見つからなかった。見つかったものは一枚の書き置きだけ。
突然、言い知れぬ不安感がリディアを襲った。
そのとき、『Door』の扉の開く音が聞こえた。
雪が幻想的に舞っていた。
「クリス……」
クロードは現れた人影にそう呟いた。
「久しぶりね」
クリスは、クロードと同じの花束を墓前に供えてそう言った。その言葉は再会を懐かしむものではなく、どこか冷たい。
「ああ、三年ぶりだな」
クロードも感情なく答えた。
「あなたは何を話したの?」
「俺は……」
クロードは言葉を濁した。何も話すことなどなかった。聞きたいことはあるのに、その返事が返って来る事はない。その答えがない限り、クロードに話せることは何もない。
「何も話せなかったんでしょう?」
クリスはは冷たく笑った。
「当然よ。あなたに話せることなんてあるはずがないわ。あるのは謝罪だけ。違う?」
クロードは何も言わない。ただ友の墓をじっと見ていた。
――謝罪……。俺はそれさえもしていない。罪悪感を感じても、謝らなかった。悪かったのは俺なのに……あったのはただ疑問。親友を殺したというに、あったのは……。
クロードは深く息を吐いた。
――最低だな。
自嘲する。
「何も言わないのね」
クリスは少しだけ淋しそうに笑った。聞きたかったのは、肯定であり、否定だった。
「事実は事実。それ以上それ以下でもない。今更何を言っても何も変わらない……」
クロードはゆっくり瞳を閉じた。
「そう……」
クリスはゆっくり肩の力を抜いた。
「復讐か」
「ええ。私にはどうしてもあなたの裏切りが許せない……。それに、これ以上はつらいわ」
クロードはゆっくり瞳を開けて、初めて彼女を見た。クリスの手の中には、一本の使い古されたナイフがあった。
『Door』に入ってきたのは、いつかのあの客だった。
客はクロードの所在を尋ねたが、リディアはただ首を横に振るしかしない。
――いないの……。どうしたのかな?
「まさかな……」
客は浮かんだ考えを即座に打ち消す。しかしクロードの性格を考えると、それを完全に否定できない。
――あっ、でも……。
リディアはふと思い出して、クロードの書き置きを見せた。
「出かけるって……やはり……」
客はその書き置きを読んで、顔を僅かに歪めた。
――ねぇ、どうしたの?
客の服をリディアは不安そうに引っ張った。リディアは、自分の名前以外の字を読めなかった。だから男がどうしているかなんて、知り様がなかった。ただリディアの中に嫌な予感だけがあった。
「嬢ちゃんは、これが読めないのか?」
リディアはこくこくと頷いた。
「これには、出かけるとしか書いてない」
――?
「ったく、もう少し早く来てれば……」
――どうしたの?
リディアは服を強く引っ張った。
「嬢ちゃん、アイツが好きか?」
客は突然そんなことを聞いてきた。
――?
「好きか?」
さっきよりも強い口調で聞いてきた。その勢いに押されて、リディアは何度も首を縦に振った。
「そうか。じゃあ、今か俺の話すことを良く聞いてくれ。アイツには嬢ちゃんが必要みたいだからよ」
彼はリディアの瞳をじっと見て、語り出した。
クロードはこんなとき、別の事を考えていた。
――俺があんなことしなきゃ……。
妙に頭の中が冴えた。
――あのとき俺たちは対峙した。
幾度となく呼び覚ました遠い記憶。
――すべての人が逃げ惑っていた。
すべてが紅く染まっていた。
――互いに剣を交えた。
どこかで爆発音がした。
――俺は死ぬつもりだった。
燃えていた。何もかも、赤い炎に包まれて。
――どうして俺は生きている?
叫び声と悲鳴が聞こえた。
――どうして……?
そして、血……。
――あのとき、ああなるのは俺だったはずだ。
脳裏にある友の顔が、ぼやけていた顔が急にはっきり見えた。
――笑った? 笑ったのか、お前は?
死に際の聞こえなかった友の声が聞こえた……。
――馬鹿だよ……。
クロードはゆっくり肩の力を抜いて、止まった。そしてようやく走り来る目の前の女性を、ひどく澄んだ気持ちで見据えた。
――馬鹿だよ、お前……。
雪が降っていた……
白く街を染めて……。
クリスは歯噛みした。
手に持ったナイフは、空を切る。
当たらない。かすりもしない。
しかもクロードは自分さえ見ていない。クロードは遠い目をして、どこか違う場所を見ていた。
それが堪らなかった。堪らなく……哀しかった。
好きだった。いつも背中を見て、追いかけてきた。
それなのに、自らの手に掛けよとしている。
どこで狂ってしまったのか?
クロードが生きている限り、憎しみは終わることは無い……。それほど許せなかった。
クロードは裏切って、殺したのだ。恋人を……。
だが、ナイフを振りかざすたびに、胸が苦しくなる。自分のしている事が、あまりに愚かなことと気づかされる。
――本当は分かっている。分かっているのに……。
もう止まれなかった。何もかもが、遅すぎた。
瞳に溜まった涙が、頬を伝おうとしたとき――クロードの動きが止まった。クロードの体から力が抜けていく。そしてクロードのの何もかも悟った瞳と、クリスのどこか哀しい瞳とが一瞬、交錯して――。
――そういえば、あの日もこんなふうに、雪が降ってたよな……。
リディアは走っていた。
雪に足がとられて、思うように走れない。
それでも、できる限り速く走った。
(アイツは昔、傭兵だった。そして、相棒もいた。親友って奴だな。)
あの客に言葉を思い返していく。
(傭兵だからな、勝つときもあれば負けるときもある。今から三年前だ。ひどい戦争だった。何もかも奪われ、すべてが灰になった。何人死んだのかも解らない。多すぎる血が流れた)
リディアも聞いたことのある戦争。
(あいつらは強すぎた。が、多勢に無勢。強いのが一人二人いても、戦争は引っくり返らない。ただ戦争が長引くだけだ)
リディアは雪に足を滑らせて、転んだ。
(だから敵も考えた。あいつらを罠にはめて、同士討ちにしようとした。どうやったのか、その辺のことは、よくは知らねぇが、多分人質でも取ったんだろう。何にせよ、相棒はアイツに剣を向けた)
リディアはすぐに起きあがった。痛みをぐっと堪えて、泣かなかった。
(実力はあいつらが一番よく知ってる。その結果もな。実力でアイツが勝てるはずがなかった)
リディアは走り出す。
(なのにアイツは勝っちまった。いや、殺しちまった。そのとき何があったのかは知らなねぇ。アイツも何も語らない。ただ馬鹿みてぇに、その罪だけを背負ってやがる)
まだ目的地には遠い。
(今日がそいつの命日。アイツは多分そこにいる。そして、待ってる。相棒の恋人だった自分の妹を……。自分を恨んでいる――)
リディアは走っていた……。
すべての悲しみも、罪も、優しく包んで……
クロードの体から血が溢れ出る。
「ど、どうして……?」
クロードはクリスを抱きしめた。
「どうして、避けなかったのよ?」
クリスの瞳の端から雫がこぼれた。ナイフを抜こうとしても、力が入らない。
溢れ出る血は、白い絨毯を紅く染めて行く。
「いいさ。別に……」
クロードはクリスを強く強く抱きしめた。
流れる血が熱かった。
「これでいいんだ。これで……」
抱きしめていたクロードの力が抜けていく。
「ねぇ、冗談でしょ……? ねぇ……兄さん」
ナイフがクロードから抜ける。クリスは何も信じられないで、ただ全身を震わせていた。瞳には何も映らない。
「悪かったな。……つらい想いさせちまってさ。これで、お前も……ラクに……」
クロードは一瞬笑って、その意識が白く染まって行く。
「兄さん……?」
クロードの身体がうつ伏せに倒れていった。クリスの手中のナイフが、零れ落ちて――。
雪が降っていた……。
霧の中にいた。
何もない。
当てもなく歩いた。
見なれた看板があった。友の開きたがっていた喫茶店。
――『Door』――
中に入ると、一人の男が向かえてくれた。
「久しぶりだな」
それは、今は亡き友。
「何をしてるんだ、ここで?」
「見ての通りさ」
そう言ってコーヒーをクロードに出してくれた。
「なかなか似合うもんだな」
「そうか?」
「ああ、俺よりもずっとな」
そうやって二人で笑った。
「どうだ、美味いだろ?」
「ああ、おまえのコーヒーはいつも美味かったからな」
懐かしいコーヒーの味。
「俺じゃ、まだまだだな」
そうやって、クロードは苦笑する。
「そうか? お前の煎れたコーヒーも飲んでみたいんだがな。残念だ」
友は少年の様に笑った。
そこでクロードは嗚咽を漏らした。意味もなく感情があふれた。そしてそれは次第に慟哭に変わっていった。
ようやく辿りついた少女は、その光景を信じることができなかった。
男が倒れ、その横に女性が呆然と立っていた。
少女は彼女に目もくれず、男に駆け寄った。
――起きてよ。
少女は震える手で、男の体を揺さぶった。
――ねぇ、起きてよ……。
涙を流した。
――もう独りになるのは、嫌……。
男の呼吸が弱くなるのが解る。
――あんな想いはもう嫌なの……。
少女の口から漏れる嗚咽が酷くなる。話せないこの体が酷く憎かった。もっといろんなことを伝えたいのに……。
――ねぇ……ずっと一緒だよね……。ねぇ……。
雪が降っていた……
ちいさな祈りを、そっと包み込んで……。
今は友にただ謝りたかった。
が、口から吐き出されるのは、激しい慟哭だけ……。
あのとき裏切ったのは、俺。
敵の申し出に答えて、生き残るために、お前に剣を向けた。
後ろから一撃で殺るつもりだった。
でも、俺の気持ちが鈍っちまったんだな……。
急所から外れちまった。
仕方なくお前は俺と向き合った。
手負いのお前なら、俺でも勝てた、勝てたんだ。
友の手が優しくクロードの背に置かれた。
でも俺は……。
三度剣を交えて、疲れた。
お前の悲しい瞳を見て、苦しかった。
もう止めたかった。
四度目、俺は迫り来るお前の剣を受けようと、体の力を抜いた。
でもお前は……。そのとき、お前は体を張って俺を守った。四方から放たれた矢から、俺を。
二人まとめて、殺すつもりだったらしい。約束なんか最初から守る気はなかったんだ。
「ど、どうして?」
俺は死ぬ気だった。それがお前の剣だろうが、敵の矢だろうが、どうだってよかった。
「もういいじゃねぇか……」
それなのにお前は俺を庇った……。
どうして笑えるんだよ?
馬鹿だよ、お前……。
あの日も……
すべてを覆い隠すように……
雪が降っていた……。
「もういいじゃねぇか……。それより、お前のピアノを聴かせてくれねぇか?」
友はあのときと同じように、優しかった。
クロードは黙って頷くと、ピアノの前に立つ。
ピアノの旋律が悲しく流れた。
「もういいんだよ……」
友の声はクロードに聞こえない。ただ、その気持ちだけが届いた。
演奏が終わる。
「久しぶりだと良いもんだな」
「そうか……」
クロードは友の方へ向き直して、ただ真っ直ぐその瞳を見た。
「時間だ。もう行かないと」
「そうか……」
友の体が霧に隠れていく。
「どうする、こっちに来るか?」
「…………いや、やめとくよ。俺にはあの娘がいる」
「そうか……。お前の煎れたコーヒーは、お前がこっちに来たときの楽しみだな」
「そのときまでに、お前より美味いのをいれてやるさ。演奏付きでな」
「そりゃいいな……」
友は手を振って、霧にとけて行った。
「やっぱ馬鹿だよ、お前は……。肝心な事は何も言わないで……」
そうクロードは手を振った……。
――誰かのために笑って死ねればいいじゃねぇか。いつも笑って生きていたいからな……。
あの日と同じように……
雪が降っていた……。
幾日が経ったのだろう?
あの少女はどれほど呼び掛けただろう?
神は公平に無慈悲。
都合の良い現実などありはしない。
だからこそ人はもがく。
奇跡を祈る。
なぜ悲しみを忘れて、前に進もうとするのだろう? つらい事も背負って、前に進めないのだろうか?
独りで生きられないのなら、誰かとその悲しみを分かち合えないのか?
忘れたくない。心の傷を負っても、笑っていられるのなら……。
リディアは毎日、病院を訪れた。
目を覚まさないクロードのために。
いつか自分の呼び掛けが届くと信じて。
いつもクロードの眠るベッドの隣に座って、手を握っていた。
『Door』はあのクリスが、開いていた。
あの人の開くはずだった喫茶店。
妹なら兄を手伝うのが当たり前と思う……。
そして、聞きたかった。あのとき笑った理由を――。
ここは兄が返って来る所なのだから……。
もう雪の代わりに、淡い春の香が風に舞い出す頃――。
クロードは目を覚ました……窓から射し込む陽射しに目を細めて。
自分の手に暖かい感触が伝わる。
「どうして泣いてるの?」
――エヘヘ……。嬉しいから。
リディアはクロードの手を自らの頬に当てて、そのぬくもりを感じる。クロードの手にリディアの涙が伝った……。
繋がれた手は、いつまでも離されることなく、二人は穏やかに笑いあった。
癒される事のない心の傷かもしれない。誰かからまた、傷つけられるかもしれない。
誰かを恨むかもしれない。傷つけるかもしれない。
犯した罪は、どれほど償おうとも、許されない。
たとえ現実が残酷であったとしても、受け止めなくてはならない。
いつかは薄れてしまう悲しみ。それが許せなくても構わない。誰かと分かち合ってもいいのだから。
たとえそれが癒されない傷だとしても……せめてそのときに笑顔でいられるのなら……。
寒かった冬は終りを告げて、再び、暖かい春がやって来る。
狂いなく季節は巡る。
悠久の営みのなかで、帰る場所があった。
妹の煎れているコーヒーが香る。
あの人の味にはまだ程遠い。
――ねぇ、私にピアノ、教えてよ。
ピアノの前で微笑みながら、リディアはクロードの手を取る。
クロードは苦笑して、イスに座った。
開けられた小窓から、風が春を告げてまわる。
今日も『Door』から穏やかなピアノの旋律が、街の一角に流れた。
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