河の流れは緩やかに、
せせらぎに耳を澄ませば……
森は風を纏い、
ざわめきを聴けば……
月の光は優しく、
星にささやかな祈りを……
月の葉は銀色に輝きて、
想いの行く先を……
月の樹は想いをうけて、
遠く彼方まで……
彼女はペンダントを胸の前で握り締めて、ひとりその場所に佇んでいた……。
とどまることを知らない時の中で、樹は月の光に輝いていた……。
ゆっくり世界が白く息づく頃、穏やかに風が森を駈け抜けていく……。
想いが再び帰るように、そっと――
1
白い景色は淡く色付き出す……
風は暖かく、降りそそぐ陽光は優しい。
降り積もっていた雪もいつしか消えて、新しい季節の訪れをこの街の人々に予感させた。そんな街の中央にあるにぎやかな通りの外れ……。
「ハイ、わかりました。では、期日までにちゃんとお送りさせてもらいますので。ご利用、どうも、ありがとうございました!」
店内に明るく、にこやかな声が響いて、一人の客が踵を返した。店のカウンターには小包が置かれていた。
店内はいたって狭い。東側にある入り口の扉には来客を告げるカウベルが下げられ、南側の少し小さい窓から柔らかい陽射しが差し込む。店の内装は白いレンガ作りの壁で、唯一目につくものは、カウンターの横の壁にかけてある、店の料金表を貼ったコルクボードくらいである。
「店長、お願いします」
「どれですか?」
店の奥から、眠そうな顔をした男がやって来た。年の頃は、二十歳半ば過ぎたところ。中肉中背で、癖のない、まっすぐ伸びた黒髪の青年。
「相変わらず、眠そうですね。店長」
そんな上司をからかうように言ったのは、ここで働く十七、八歳の娘フロウ。明るい茶色の髪をポニーテールにして、髪と同じ色の大きな瞳は楽しそうに揺れていた。
「違います。この顔は生まれつきです」
店長のフェードは、拗ねたようにその顔をそむけた。もっとも、眠そうに見えるのは、フェードの目が、ほとんど開いているように見えない一本の線のようだからなのだが、本人は不幸にもそのことに気づいてない。その上、会う人会う人、第一声が「起きてますか?」とか「ちゃんと寝てるんですか?」とか、そんな言葉ばかり。フェードが嫌になるのも仕方ないと言えば、仕方ない。
「て、店長、拗ねないでくださいよ」
「拗ねていません」
フェードはその話をそらすように、カウンターの上の小包を見て、
「これですか?」
「あっ、はい。ちょっと待ってください」
フロウが配達日時を書き込んだ紙を貼り付ける。
「お願いします」
そして、フェードはそれを持って奥の保管室に運んでいく。
ここは郵便屋『リエゾン』。この街で郵便・配達を営んでいるうちの一軒だ。
この街には複数の郵便屋や配達屋があるのだが、それは互いに競争相手というわけではなく、互いに協力し合っている。というのも、この仕事、一つの店でやっても街全体をカバーできるわけもなく、人手が掛かるばかりで、当然、たいした利益は見込めないのである。そんな訳で、互いに協力して価格の統一をしたり、配達の遠い所へは、別の店に任せている。街の外に郵送するときも、そこの街まで運んだ後、その街の郵便屋に託される。
ここ『リエゾン』では基本的にフェードが配達をして、フロウが受付をしている。郵便・配達物の整理、保管は一応、二人ですることになっているが、受付のフロウがそっちに回ってこられるのはほとんどない。が――
「店長ー、どこですか?」
そんなフロウがフェードを探しに、保管室に入っていた。
「珍しいですね、フロウがこちらに来るのは。いつ振りでしたか?」
椅子に腰掛けていたフェードは、頭だけ動かして整理棚のところから顔を見せると、フロウに微笑んだ。
「あっ、店長。えっと、今度……」
フェードは何か言おうとするフロウを遮るように、大きく手を叩いた。
「あぁ、そうです! 先月、私にコーヒーを差し入れに来てくれたときです。もうすぐ春だと言っても、あの日は寒かったですから……あれは嬉しかった」
と、感慨深げな顔をするフェード。
「それで、いったい、どうかしましたか?」
「え、えっと……」
どこか照れくさそうに、うつむくフロウ。
フェードは首を傾けて、その次の言葉を待つ。
フロウは意を決して、乾いた唇を開いた――。
「――」
が、パクパクと口が開くばかりで、言葉にはならない。
「フロウ?」
「ハ、ハハハ……。や、やっぱり、いいですっ!」
そのままフロウは駆けでして行く。
フロウの行動の意味が分からず、フェードは彼女を名を呼ぶが、返事の代わりにフェードの耳に届いたものは、ギーッと木が軋んで、バタンッと戸の閉まる音だった。
――何しているんだろ……? 何が言いたかったの?
フロウは受付のカウンターで、一人突っ伏してため息を吐いた。
――どうしてたった一言が、言えないんだろ……? あの時、コーヒーを運んだ時もそうだったっけ。
窓から射し込んでいる陽光は、すでに紅く染まって、彼女に夕暮れの訪れを感じさせた。
「もう、こんな時間なんだ……」
気がついて時計の針を見てみる。短針はすでに四時を回っていた。フロウは少し考えて、
「少しくらい早くてもいいよね――」
勝手にそんなことを決められるはずもないのだけれど、フロウは店を閉めることにした。
店の入り口の扉に書けてあるボードを『OPEN』から『CLOSE』に裏返す。そして、店の中の掃除に取り掛かる。カウンターを拭き、床にモップを掛けていく。
体を動かしていたほうが楽だった。何も考えなくて済む。フェードが知れば、怒られないにしても、あまりいい顔はしないのはわかっていた。でも、それでも、ただじっと座っていると考えたくないことまで、嫌な想像まで思い描いてしまう。
モップ掛けを半分ほど終えたところで、体を起こす。窓から射し込んでくる夕陽を見つめながら――。
――どうして私って、こうなんだろ。はぁ……嫌だなぁ……。自分が嫌いになりそう……。
モップの柄に体重を預けて、深い溜め息を吐く。
そしてまたモップ掛けを始める。さっきよりも強く力を込めて、何も考えないで済むように……。
そして、掃除が終わるころ、フェードが姿を現した。
「もう、終わったのですか。今日は早かったですね」
フェードが感心して、店の中を見渡した。
「うん。ちょっと、早い……かな?」
そんなフェードにフロウは少し後ろめたい。
「こんなことでは、店長失格ですね。掃除は二人でする、なんて言っておきながら、こっちの方はフロウに任せきりです」
「そんなことないですよ」
フロウは慌てて手を振って、それを否定する。
「掃除くらいで、そんなこと言わなくても」
「そうは言ってもですね……」
そう言いながら、落ち着きのないフロウを見て、フェードが優しく笑った。
「それもそうですね。そう言うことにしておきましょう」
その言葉にフロウも、ようやくほっと胸を撫で下ろした。
「それはそうと、さきほどのことはもう良いのですか?」
「えっ!」
ドキッとした。
「あ、あれ、ですか? えっと……」
結局、言いたいことは、言葉にはならずに、
「いいです。本当に……」
「そうですか。何か相談事があるのなら、遠慮せずに相談してくださいね」
フェードから優しく微笑みかけられて、
「……ハイ!」
フロウは照れながら、返事を返した。
そんなフロウを見てフェードは、表情が豊かだと思う。笑っていたかと思えば、俯いていたり、逆に怒っているときもある。だから決して接客の上手い娘ではないが、そんな彼女のひとつひとつの仕草をフェードは可愛いと思う。決していやらしい気持ちではなく、妹のようなそんな感じがして――。
「今日はどうでしたか?」
だからなんとなく、そんなことを聞く。何か嫌なことは、嬉しかったことは……?
「今日は――」
フロウも何気なく話す。こんな親切な客がいた、こんな嫌味を言う客がいた、と喜んだり、怒ったり……。そんないつもの会話。彼はそれを優しく微笑んで聞いていた。
2
春。といっても、まだ冬の寒さの残っている日――。
朝早く、開店して間もない『リエゾン』を、一人の老婆が訪れた。暖かそうなカーディガンに包まれて、その表情には、どこか何もかも受け入れた、そんな穏やかさがあった。
――若い頃は、きっと綺麗な女性だったんだな……。
フロウはその老婆を見て、そんなことを思った。背が高く、優しそうで控え目な雰囲気の年老いた女性。
「すみませんが……」
老婆はゆっくり口を開いた。か細いはずのその声は、なぜかフロウの耳によく届いた。
「何ですか、おばさま?」
フロウはそんな老婆に優しく微笑んだ。
「これを……」
老婆はそう言って、懐から葉をかたどった銀色のペンダントを取り出した。
「あの森の奥にある、樹に届けてくれないかしら……」
「森……ですか?」
老婆の言葉にフロウはけげんな顔をした。
森――月の森。街の北に位置する、大きな森だ。森の中心には、大きな樹があると言われている。
「ですが……」
「危険なこととは承知しています。ですが、私には無理なのです、私では……。私にはこうしてお願いするしか……」
老婆は思いつめた表情で深く頭を下げた。
「……っ」
店内にはフロウと老婆だけ。ほかには誰もいない。
重い沈黙が、その場を支配していた。
森に入る――。それが何を意味するのか、知らない人間はこの街にはいない。迷いの森なのだ。そして、森には獣が棲んでいる。毎年、何も知らない子ども達が何人か犠牲になっていた。
断るべきだ……でも、フロウは何も言えない。言おうとしても、見えない何かがそれを阻んで、言葉にならない。
「分かりました」
そのとき、フロウの背中から、柔らかい声が響いた。
老婆は思わず顔を上げる。
「そうまでして、届けたいのですね。貴方はそれを私たちに届けて欲しいとおっしゃいます」
カウンターの奥にある保管室から出てきたフェードの声。
老婆の口からは自然と嗚咽がこぼれていた。
「私たちにとって、これほど嬉しいことはありません。ぜひ、引き受けさせて下さい」
フェードはそう深く頭を下げた。
「ああぁ……。ありがとう……ありがとう……」
老婆は何度も、何度も頭を下げた。
フロウは何も口を出さなかった。どうするのが正しいのかも分からないで、ただ二人のやり取りを見ていた。
「いいんですか、店長?」
老婆が帰ってしばらくして、フロウはペンダントを丁寧につやのある紫の布に包みながら、ようやく口を開いた。
「何がです?」
「とぼけないでください!」
フロウは声を荒げた。
「森に入るなんて、そんな……」
「フロウ、聞いてください」
フェードはなだめるように言った。心なしか細い目を見開いて。
「確かに森に入ることは、この街のタブーです。しかし、あの人にとってこのペンダントを霊樹に届けることは、タブーを破ってでもやらなければならないことなのでしょう」
「だったら、自分で行けば……」
「確かに、自分の手を汚さない行為に映るかもしれません。ですが、あの人は、あの人にはもう無理なのでしょう。自らの想いを果たせないからこそ、私たちの元を訪れた。断られると分かっていながら、依頼に来られた。それほどの想いなのです。あの人は、自分で出来るのであればきっと、自分でなさっていますよ。それは、あの人と接したあなたの方がよく分かるのでは?」
フロウは一瞬息を呑んだ。それでも、
「だったら、理由くらいは聞くべきです。受け取る人もいなんじゃ、どうしようも……」
「それは、できません。それは『リエゾン』のタブーです。そして、私のプライドでもあります。それに、森の奥の樹にまで行けば、きっと分かりますよ。そう言った類いの物なのでしょう、これは。」
これにはフロウも何も言えなかった。
「別にそんなに心配しなくてもいいですよ。あなたを連れて行くわけではありませんから。」
フロウは俯いてぐっと歯を噛み締めた。
「……」
訳が分からない悔しさがこみ上げてくる。
「フロウ、私はこれから配達に行ってきますので、店番のほうはよろしくお願いします。多分、いつもと同じぐらいには帰ってくると思いますが、あまりに遅いときは、先に上がってください」
フロウは俯いたまま、頷いた。
それを少し困ったように見て、フェードは出掛けていった。
カウンターの上には、白いハンカチに包まれたペンダントが置かれていた。
届けるのは明後日。
配達が何もない日。
フロウがたった一人で店番をしなければならない日。
布に包まれたペンダントをそっと手に取る。じっと見つめたまま、
「想いか……」
そっとそう呟いた。
フロウがここで働き出したときのフェードの言葉が思い出される。
『人は皆、それぞれ想いを抱いて生きています。
いとしい誰かへの想い。理解されないかもしれない想い。色褪せることのない想い。どこかに忘れてきた想い。何気ない想い……。
届かない想いかもしれない。それでも届けたい。少しでもいいから届いてほしい。
私はそんな人たちの、ほんの少しでもいい、助けになりたいのです。託された想いを運ぶ……喜びもつらさもいっしょに……。そう思うのはただの自己満足かもしれません……。それでも私は……』
珍しくフェードが感情を昂ぶらせて、少しだけ自虐しているような、そんな感じで話したことを覚えている。
――このペンダントにはどれほどの想いが込められて、あのお婆さんはどんな想いで私たちに託したの?
よく『リエゾンを』訪れる客の顔が浮かんでくる。
――どんな想いを込めて、私たちに託すの?
一通の手紙。丁寧に包装された小さな箱。バースデーカードの入ったバスケット。それぞれ違った、でも大事な想いが込められている。
――受け取った人はどんな顔をするの? 喜ぶの? それとも、悲しむのかな?
今まで気にも留めていなかったことだった。
想いの行く先……辿り着く先……
フロウはじっとしたまま動かないでいた。
――フロウの手前、ああ言ったことを言ってしまいましたが……。
フェードは配達の途中、噴水の広場でベンチに腰を下ろして休んでいた。彼の顔には、なんとも言えない感情の入り混じっている。不安、恐怖……それでも後悔はない。
――別に立ち入りが禁止されているわけではありませんが……。
森に入ったことが分かれば、街の住人からいい顔をされないどころか、蔑まれる原因にもなる。
フェードはベンチに横になって、空を仰いだ。
空は果てしなく広く、そして青い。白い雲が風に流されていく。
片手で顔を覆い、ゆっくり瞳を閉じる。
――伝えることのできなかった想いは、後悔にしかならない。託された想いを届けなかったら、私は後悔するでしょうね、きっと……。
もう一度空を見る。
さっきの白い雲はその姿を変えて、遠く彼方に流れて……。
フェードはゆっくり体を起こした。
――あの人の想いの辿り着く先は……。
白い雲は遥か彼方に流れて、それをじっと見つめて、最後に何かを断ち切るように瞳を閉じた。そしてゆっくり瞳を開けて、フェードはすっと立ち上がった。
北へ向かう階段を上る。手には次に届ける、一通の手紙。
この手紙に込められた想いを知ることはない。それでも、辿り着く場所がある。想いの行く先――。
世界が静寂に包まれる夜――。
月と星がその闇の中で輝いていた。
「これで……ようやく……」
ペンダントを『リエゾン』に持ってきた老婆――。
椅子を揺らしながら、遠い目でどこか虚空を見ていた。
自分の永い人生のいずれかの時にその想いを馳せる。
生を受けて、もう八十年にとどこうとして、それでも鮮明な記憶。最も充実していたその時を瞬く間に駈け抜けて、決して輝かしい想い出ではないのだけれど、それでも鮮明に焼き付けられた記憶……。
空には星が無数に散りばめられ、月が優しく大地を照らしていた。
「あの日も月は優しく包み込んでくれた……」
あの日のことは今も鮮明に思い出せる。
――私は弱い……。彼らはどうなのかしら?
『リエゾン』の若い二人の顔を思い出す。そして、クスッと口元に手を当てて笑った。自虐するような微笑。
――よくこんなひどいことをお願いしたものね、私は……。
本来なら引き受けもしないはずだ。受け取る人間もいないのだから……。
――でも、もうすぐ……そのときは訪れるから……。樹が月の明かりを浴びて輝くそのときでなければ……。
ただそのときを待つ。
――きっと、届けて……
河の流れは緩やかに、
せせらぎに耳を澄ませば……
森は風を纏い、
ざわめきを聴けば……
月の光は優しく、
星にささやかな祈りを……
月の葉は銀色に輝きて、
想いの行く先を……
月の樹は想いをうけて、
遠く彼方まで……
老婆は優しく、祈るように、囁くように、歌を歌うように――。
誰もいない部屋で、独りで……窓の外に浮かぶ月を見る。
「もうすぐ……」
優しい月の光を浴びながら、穏やかな表情で、記憶にある、あの頃の少女のように、刹那的な美しさを今だけ見せて……老婆はゆっくり瞳を閉じた。
憶えているだろうか……
憶えていてくれるのだろうか……
あの時の約束を……
受け止めなくてはならない現実は……
いつもひどく残酷で……
そこから目を背けようと誰が責められる……
たとえそこにどんな意味があろうとも……
移り行く時の中で……
生まれてくる必然は……
変化は何をもたらすのだろう……
もう二度と戻らない時は……
どんな必然を抱いて……
何を残していったのだろう……
3
その日、風は穏やかに、空に浮かぶ白い雲は遠く流されていった。
フェードは朝早く街の郊外に足を伸ばした。懐に大切なペンダントを持って――。それ以外荷物と言えるような物は、背負ったバッグに道行く途中に開いていたパン屋で昼食にと買った軽いパンと、家から持ってきた水筒を入れて、そして腰もとの登山用のナイフぐらいだった。できるだけ身軽にした結果である。
途中にある水門から川に沿って、森へ向かう。
この川は森の奥深くを源流にして、街へ流れ込み、街の貴重な飲料水になっている。
「ようやくここまで来ましたか」
そう言うフェードの周りには、もう街並みらしい風景はなく、遠くに農家が点在しているだけで、あとは木々がその姿を現していた。森……月の森への入り口である。
「フロウはどうしているでしょう?」
ふとカウンターで暇そうにぼんやりしている彼女の姿が浮かんだ。
「……暇というこはありませんね」
一応、明るく接客しているように修正する。
「まぁ、暇であっても否定はできませんが……」
フェードは苦笑した。そして空を見上げる。太陽はもうじき、一日でもっとも高い場所にやって来ようとしていた。一度大きく深呼吸をする。そしてその足をゆっくり踏み出した。
森と言っても、太陽の光が届かないほど、木々が生い茂っているわけではなかった。かといって、葉と葉の隙間から入り込む日差しが明るいというわけでもない。日が暮れてしまえば、右も左も分からなくなることは間違いなかった。
――暗くなる前に届けなければなりませんね。
そう思いながら、フェードは足を速めた。
森はそれほど進みにくくはなかった。それほど足元に草が生えているわけでもない。とはいえ、獣道なのだから、歩くにはそうでもないということで、ここを走ろうものなら走りにくい上に、根に足を取られかねないだろう。
フェードは川に沿って奥に進んでいった。おそらく森の中心に行けばいいのだろう。しかしそれを森の外から確認できるはずもない。しかも肝心の樹がどんな木なのかも分からない。分からないことだらけ……。
どれほど進んでもそれらしい樹は、見えない。
――もう通りすぎた……?
フェードの中に不安がよぎり出した。
――これだけ進んでも何も変わらないなんて……。
何かがおかしい。そう感じずにいられない。どれほど進んでも、変わらないのだ。変わるべき何かが変わらない……。言うなら森の表情が……。
フェードは思わず深く溜め息を吐いた。
――まさかこんなことになるとは、思いもよりませんでしたね。迷いの森……ただの迷信と思っていましたが。
岩陰に腰を下ろして、見えもしない空を仰いだ。光がいくら届いても、太陽が見えなければどれほどの時がたったのかも分からない。感覚的には3時間ほどのはずだが、緊張感がそれを狂わせている。
水を一口に飲んで、かなり遅れた昼食を取ろうと、パンを取り出す。が、フェードはそれを口に運ぼうとする手を止めた。
――……何が起こるかは分かりませんね。
手の中のパンを見つめて、そう思う。
――せめて、樹に辿り着くまで、水には事欠きませんし……。
そしてパンの代わりに水を口に運ぼうとした、その時――
「キャャャャァッ!!!!」
甲高い悲鳴が静かな森を切り裂いた。
「!?」
フェードは反射的にその悲鳴の方を振り向いた。
「こちらから……」
その声にも緊張がこもる。眼の先には森しかない。フェードは立ち上がって、慎重にそっちに歩み寄った。
――まさか……。しかし……。
嫌な予感が胸の中を渦巻いていた。
――いるはずが……。
そう思っても、声の響きを間違えるはずがない。
――ですが、今のは……。
「来ないで!」
が、その叫び声にフェードの期待は裏切られた。その声にフェードは息を呑んだ。そしてつぎの瞬間、その細い目を大きく見開いて、
「フロウ!!」
体はすでに反応していた。茂みを強引に貫けて走った。
「フロウ!」
その名を叫ぶ。枝が頬を薄く裂いていく。それにも構うことなく走った。
――無事でいて下さい!
フェードの胸にあったのは、それだけだった。なぜここにいるのか、ではなく、ただ――。
「てんちょう?」
その声にフェードは一度立ち止まって、
「フロウ! どこですか?」
「ここです!」
フェードは声のするほうへ方向を変えて、再び走り出した。
「フロウ!」
茂みを抜けた先に彼女の姿が見えた。そしてその横には、
「狼……。くっ!」
フェードは大きく跳んで、フロウを抱いたまま横に転がった。ちょうどその一瞬あと、狼が誰もいなくなった場所に体当たりをしていった。
「走れますか?」
フェードは立ちながら、フロウにそう尋ねた。
「えっ? あっ、ハイ!」
「逃げますよ」
フェードはフロウの手を取って、すでに走り出していた。
――おそらく、彼らは群れ。逃げる以外に……。
フェードの頭に最悪の光景が浮かぶ。
――上手く抜け出せれば……。
背後から、迫ってくる気配。
「店長……」
フロウの息も絶え絶えになっている。
「しっかり。止まれば、死にます」
フェードは、はっきりそう言った。
「とにかく、走ってください」
フェードは強くその手を引いた。フロウもそれに答えるように、大きく頷いた。
どこをどう走ってきたのか? そんなことは分かるはずがなかった。二人にはすでに方向感覚もなかった。すでに走っていると言うより、歩いていた。それでも止まることはなかった。が、それはあまりにも脆く、簡単に止まってしまう。何かがきっかけになって――。
「あっ!」
フロウが木の根に足を取られて、受身も取れずにそのまま転んだ。
「大丈夫ですか?」
フェードはゆっくり彼女を覗き込んだ。
フロウは立ち上がろうとせず、ただその場にへたり込んでいた。
「フロウ、立って下さい」
フェードの呼びかけにもフロウはただ首を振るだけ。
「フロウ……」
そのとき、ガサッと音がした。
――ここまでですね。
あきらめたような苦笑。すでに囲まれている。フェードは茂みの奥から射るような視線を感じらずにはいられなかった。
「フロウ、よく聴いて下さい」
フェードは覚悟を決めた。
「できるだけ、遠くに逃げてください。さぁ、立って!」
フロウはいつになく強いフェードの口調に顔を上げた。
「私が囮になります。だから急いで!」
フロウがはっと息を呑んだ。
「そんな……」
「時間がありません。さぁ!」
フェードはすでにフロウを見ていない。その視線は茂みの奥に注がれていた。
「早く!」
「いや……」
フロウは首を振って――
「このままでは二人とも死ぬだけです」
「いや! 独りで逃げるなんてできない!」
――泣きじゃくっていた。
「フロウ……」
フェードがフロウの方を向いた時、茂みに背を向けた時――黒い影がフェードを襲った。
「ぐっ!」
「えっ?」
フロウには何が起きたのか理解していない。
「早く!」
フロウの顔の前に、フェードの苦痛に耐える顔がある。フェードは首をわずかに動かして、辺りを見る。さらに数匹の狼がフェードに襲いかかろうとしていた。
――もう、こうするしか……。
フェードはフロウの体を押し倒した。
「店長?」
「すみません」
一言謝って、背中を盾にフロウの体を包む。
「ぐわっ!」
狼の鋭い爪が、フェードの肩に食い込み、肉をえぐる。
「店長! やめて!」
「大丈夫ですよ。そんな顔しなくても……」
――嘘だ……。やめて……。
フロウは泣きながら、頭を振った。
「安心して、くだ……っ」
フェードは痛みを押し殺すように、笑った……。
「いや……。やめて……」
――助けて……だれか……。この人を、助けて……。
フェードのポケットから、あのペンダントが零れ落ちる。
「早く、届けなければ……いけま、せんね……」
フェードがそうつらそうに笑ったとき、
――お願い、助けて……。
フロウがそう切なく祈ったとき、
一陣の風が駈け抜けた。
「っ!」
「きゃっ」
木々を激しく揺らし、木の葉が舞う。その瞬間、狼たちの動きがピタッと静止した。そして、一頭の狼が遠く哭いた。
「何が……?」
フロウはフェードの体の隙間から、様子を覗き見た。
「えっ?」
狼たちが背を向けている。
「どう……して……?」
意味が分からない。去っていく狼たち。
「助かった、みたいですね……」
「店長……?」
そのままフェードはフロウにその身を預けるように、気を失った。
4
――ひどい傷……。どうして、こんなになるまで……。
フェードの傷を診ていると、自然と涙が溢れて止まらなかった。
「ごめんなさい……」
フロウは持ってきていた水筒を取り出して、消毒のために傷口を水で洗う。
「ぐっ!」
意識のないフェードがくぐもった声を上げる。
――ごめんなさい……。
胸が締め付けられるように痛い。
肩、腕、背中と順に水で洗っていく。自分で持っていた分だけでは足りなかったから、フェードの水筒の水も使う。
フェードの苦しそうな呻き声と表情が、フロウの心をより重苦しいものにしていく。
一通り終えると、万が一のために持ってきていた包帯で背中の傷を止血する。肩の傷には持っていたスカーフを包帯の代わりに使って、他にもハンカチや、ポニーテールにしていたリボンを使って、腕の傷を止血していった。
「うっ!」
フロウが傷口を締めるたびに、フェードの声が響く。
――私のせいだ……。
涙が止まらない。後悔がゆっくり心に染み込んでくる。
フェードをそっと横に寝かせると、フロウは木にもたれて膝を立てて俯いた。
空が紅に染まっていく。もうじき夜が訪れる。
――このままじゃ、いつまた……。どうすれば……。
ここがどこかも分からなければ、助けも呼ぶことができない。が、それ以上にフロウには、フェードをこのままにしておくことができないでいた。
森が風を纏って、枝を揺らして、ざわめいていた。そのざわめきの中に何かの流れる音。
――川が近いの?
フロウは俯いていた顔を上げて、耳を澄ませた。
――聞こえる。川がすぐ近くにある。どうしよう……?
水はさっき消毒のために使ってしまって、空になっている。
チラッとフェードの顔を見た。目覚める気配はなく、ただ苦しそうな息遣いをするだけだ。
「……少しだけ、少しだけ待っていてください」
フロウは立ち上がって、疲れきって動かない体を、前に押した。
――早く、早く……
陽はゆっくりその役目を終えて、彼方に沈もうとしていた。
フロウはフェードの水筒も持って、そのせせらぎの音のする方へ歩く。それほど距離があるはずがないのに、それが悲しくなるほど遠い。
――どうして、こんなに……。
全身が気だるく重い。一歩踏み出すたびに、体が悲鳴を上げるように……このまま眠ってしまえたらどれほど楽だろう。
そんな思いを懸命に振り切りながら、歩いた。もう二度と彼らに出会わないことを祈って――。
ようやく川に辿り着く。ゆっくり川の中に足を入れる。
「あっ!」
その冷たさに全身が刺激される。それと同時に、痛みが走った。
「あっ……怪我してたんだ、私も」
フロウは自分の足を見て、今ごろ無数に小さな切り傷があることに気がついて、不思議とそれが可笑しかった。そこでやっと、フロウは大きく息を吐いて、両手ですくった水を飲む。つかの間の安心がフロウの体に、わずかな生気を注ぎ込んでいく。
夕日が森の中まで射し込んで、木々を紅く染める。川の水面もその光を反射して、フロウの体を紅く染めていた。
水をできる限り水筒に容れて、帰りに焚き木になるような枝も拾っていく。荷物は重くなったはずなのに、少しだけフロウの心は軽い。
フェードの元に帰ってきたとき、フロウは彼の変わりのない姿にほっと息をついた。しかし目が覚める様子はない。フロウにはもう傍にいることしかできなかった。
――早く、早く起きて……。
暗くなっていくにつれて、フロウの心は再び重苦しさを増していった。
5
火が音を立てて燃えている。
途切れそうな意識を、かろうじて保ちながら、フロウは木にもたれたまま、じっとその火を見つめていた。疲労感がフロウを眠りに誘う。
――寝ちゃ、だめ……。
フェードの意識は戻らない。フロウの隣でその体を火に寄せたまま、苦しげな呼吸を続けていた。
すでに森は夜の闇に呑まれて、不気味なほどの静寂を奏でていた。しかし今のフロウはそんな静けさを怖れるほどの余裕もない。ただ眠らないでいることだけに神経を集中させていた。
――私はもう……。
フロウの手にはいつのまにか、あのペンダントが握られていた。
――どうしてこんなことになってしまったんだろう?
闇に揺らぐ炎を見つめて、自問してみたところで答えは出てこない。
――どうして……?
意識が虚ろいでいく。
――きっとばちがあたったのかな……? 勝手にお店、休業にしちゃったから……。
揺らぐ炎が、疲れきった顔を紅く照らす。
――でも、私は、知りたかった……。あの人の想いがどうなるかって……。それだけだったのに……それがこんなことになって……。
フロウは頭を膝にうずめた。
――店長……せめて目を覚ましてください。でないと……私……。
涙が出そうになるのを、可愛いらしい顔を歪めて、必死になって食い止める
――起きて……。
フロウは祈るように空を見上げた。瞳の端に零れ落ちそうな涙が光る。
月がちょうど真上に来ていた。月光が明るく森を照らす。重く暗い静寂がどこか柔らかく、神秘的な雰囲気に変わっていく。
風が舞った。
「えっ?」
一瞬にして、焚き火が消えてしまう。
「そんな……」
こう暗くては、再び火をつけるにはひどく難しい。目が暗闇に慣れるには、まだまだ時間が掛かる。
無意識に、すぐそばにあったフェードの手をフロウは強く握った。
白い靄のようなものが、足元に掛かる。
「何……?」
辺りを見回しても見えるものは、暗闇だけ。
――店長……
かろうじて分かるフェードの顔を、すがるように見る。しかし、フェードの起きる気配はない。
白い霧はその濃度を増していく。それでも月は、そこにある闇を優しく包み込むように、森を照らし出していた。幻想的な光景――フロウはそれに飲まれて、緊張した瞳で森の奥を見つめていた。何かが起こる。そんな予感を感じながら……。
「やっと、見つけた……」
一人の若い女性が、顔を上げてそう言った。涙でその瞳を潤ませて。
彼女の目の先には、一人の男の若者が、たくましい樹の枝に腰を掛けていた。
「どうして……どうして……」
彼はただ輝く月を見つめてうめいた。
「いいじゃない、もう。決まったことなんだから……」
「だけど!」
彼はそこから先は言えなかった。
「私を避けてたでしょう?」
彼女も樹に登って、彼の隣に腰を据えた。
「この格好で、ここまで来るのは大変だったんだから」
そう言って彼女は自分の着ている白いワンピースを広げて見せたが、彼の瞳は月から動かない。
「ねぇ、どうしたの?」
彼女の白い手が、彼の肩を揺さぶる。それでも彼は彼女を見ようとはしない。
彼は月を眺めたまま、口を開いた。
「お前はそれでいいのか?」
大きく頷く彼女。
「私はそれでも……かまわないから」
「知るか、そんなもん……」
悔しげにうめいく彼の中で、納得のいかない感情が渦巻いた。
「ねぇ?」
彼女は彼の顔を覗き込んで、息を呑んだ。
「どうして……泣いてるの?」
「いいじゃねぇか、そんなこと。それにお前だって、泣いてるじゃねぇかよ」
二人はようやく顔を見合わせて、笑った。そして、泣いた。
一本の老木が月の輝きを浴びて――
そのときが、訪れる……
「なに、これ?」
夢なのか現実なのか、はっきりしない。
ただ月の輝きだけが変わることなく、辺りを照らしていた。
――あの人は、あのお婆さん?
ペンダントを持ってきたあの老婆の若い頃なのだろうか。月の光に照らされたその顔は、同性のフロウでも見惚れてしまうほど、綺麗だった。
――隣のあの男の人は、誰なの?
「……っ」
ただ、二人の感情だけが流れ込んでくる。なぜか、胸が苦しい。
「フロウ……?」
つないでいた手が、少しだけ動いた。
「店長、気がついたんですか?」
フロウの表情がぱっと輝いた。
「ええ。なんとか……」
フェードの声が、まだ苦しさをものがたっていた。
「さきほどから、意識は、あったんですが……」
「だったら、もっと早く……。誰だけ心配したか……」
フロウの中に喜びと安堵が入り混じって、涙がこぼれた。
「すみません。それより……これは……?」
フェードは上体を起こす。
「分かりません……」
フロウがそれを助ける。
「記憶……あの人の……?」
フェードは信じられないように、口を開けてその様子を見た。
「店長……アレ……」
フロウが森の奥を指差す。そこは淡く銀色に輝いていた。
「樹……?」
「店長のポケット……」
フェードも気がついて、ポケットからそれを取り出す。
「ペンダントが……?」
樹の輝きに呼応するように、ペンダントも淡く輝いていた。
いつしか月は夜空に高く、その輝きを増していく。
「もうすぐ……」
老婆は窓から射し込む月の光に照らされ、穏やかに笑っていた……。
私は果たすことができたのだろうか……
あの時の約束を……
彼らは届けてくれたのだろうか……
私の想いを……
受け止めることのできなかった現実は……
目を背けてしまった現実は……
ひどく残酷で……
誰一人と責めてくれなかった……
たとえそこにいかなる意味があろうとも……
移り行く時の中で……
生まれた必然は……
何をもたらしたのだろう……
もう二度と戻らない時は……
どんな必然を抱いて……
何を残していったのだろう……
彼女の中で遠い昔の、忘れることの出来ない思い出が蘇っていく。
「こんなにも広い世界で、どうして私たちは生きているの?」
「どうして、そんなこと聞くんだよ?」
「だって、こんなにも広い世界で、私たちの存在なんて、何の意味があるの? 生まれてくて、生まれてきたわけじゃないのに……」
何のために生きるのか――存在意義は?
「……」
彼に答えることはできない。
月の綺麗な夜。
「ねぇ、私を……誰か覚えていてくれるかな?」
「……」
彼女の先を行く彼は何も答えない。
――何のために生きるのか? 何のために存在しているのか?
彼は自問する。
――大切なのはそんなことなのか? 生きることに理由が要るのか? ここにいるのに理由は必要なのか? 理由が要るのなら、他の場所にいないのに理由は要るのか? こんなにも世界が広いから……。
月光に葉を銀色に輝かせて、一本の樹が立っていた。
「彼らは何のためにここへ……?」
「それはあのお婆さんだけが、知っていれば良いことではないでしょうか?」
託された想いは、彼らに遠い記憶を見せる。
「でも……」
「知るべきことなら、見えてきます」
傷の痛みに耐えながら、フェードは樹を見上げた。
月が明るく輝いていた。
「……なぁ、俺たちは、……こんなにも世界が広いから、広いからこそ……」
彼は振り返ることができないでいた。彼女に顔を見せることができない。それでも懸命に言葉を紡ぐしかなった。
「俺たちは、生きてるを懸命に示したいんじゃないのか? ちっぽけだから……懸命に生きて……。ちっぽけな存在だから、生きるのに理由が要るんじゃなくて……。広い世界のささやかな存在に意味がないんじゃなくて、そんな存在だから生きてるって言いたいだけで……。生きるのに理由は要るのか? 要らないんじゃないか? 存在していることに意味が要るんじゃない。生きているから存在して……」
もう、何を言っているのか、良く分からない。こみ上げてくるのは悔しさだけ……。
「俺は馬鹿だから、頭よくないから、何言ってるのか……」
「そんなことない」
彼女を後ろから彼を優しく抱きしめた。
「強いね。でも、私はそんなに強くないんだよ……」
嗚咽だけが彼の口からこぼれて、止まらない。
「だから私には理由が要るの。生きる、存在する理由が。自分のためじゃなくてもいい、他の誰かのためでもいいから理由が欲しい」
「だからって……チクショウ……」
彼は彼女を振りほどいて、樹の下まで一気に駈けると、拳を樹に撃ちつけた。
「誉めて……」
彼女が笑っていた。
「誉めてよ。私が選ばれたんだから」
彼女が誇らしげに……泣いていた。笑顔のままで……泣いていた。
「……」
彼の口からは嗚咽しか漏れない。
「もう、戻らないと……」
その言葉に彼ははっと彼女を振り返った。その言葉が何を意味するのか、彼は知らないわけではない。
彼女は月に照らされて、穏やかに微笑んでいた。
「あなたは私に言ったわね……。あなたずっとそこにいると……。あの樹は想いを刻むと……」
河の流れは緩やかに、
せせらぎに耳を澄ませば……
森は風を纏い、
ざわめきを聴けば……
月の光は優しく、
星にささやかな祈りを……
月の葉は銀色に輝きて、
想いの行く先を……
月の樹は想いをうけて、
遠く彼方まで……
フェードはペンダントを樹の枝にかけた。
ペンダントはせせらぎの音が聞こえるこの樹の枝で、風にその身をゆだねて、月の光に輝いていた。
樹は一層、その輝きを増していく。
「なあ、この樹、知ってるか?」
彼が突然、樹を見上げながら言った。
「何?」
「この樹は、人の想いをその葉に刻んでるって話さ」
彼女は首を横に振った。
「うちの祖父さんが言うには、そんな言い伝えがあるらしいんだ、この樹には」
「そう、だったら、私の想いも刻まれるのかしら……」
遠い昔――この街に、疫病が蔓延した。為すすべもなく、人々は息絶えていった。
人は生きるために、人を捧げることを決めた……。
「いや、残すのは俺だ――」
「えっ? どういう……」
「ごめん」
彼が当て身を食らわせる――。
「どう……して……」
彼は微笑んで、
「いつか、この樹が輝くとき、また逢おうな。俺はここにいるから――ここに全部置いていくから」
彼女は全てを悟る。
「やめて……」
そんなことは聞きたくない。
「じゃあな」
彼はそのまま走り出していく。
「行かないで」
彼を追おうしても、痛みで身体が反応してくれない。
「いや、駄目……」
彼の姿が遠くなっていく。
「待って、行かないで……」
樹に身体を預けながら懸命に立ち上がる。
「やだよ。そんなのってないよ」
彼の姿はそのまま見えなくなっていく。
「ううう……」
彼女の口から嗚咽が漏れる。
風が吹いて一枚の葉が、彼女の目の前に舞い落ちた。
河の流れは緩やかに、
せせらぎに耳を澄ませば……
森は風を纏い、
ざわめきを聴けば……
月は光を浴びながら、
星にささやかな祈りを……
月の葉は銀色に輝きて、
想いの行く先を……
月の樹は想いをうけて、
遠く彼方まで……
何のために生きるのかも分からないままに、生きるのはなぜだろう?
この広い世界で、誰かを犠牲にして生きることは……?
夜風に誘われて、誰もいない部屋で老婆はゆっくり永い眠りについた。
あのとき生まれた必然は、彼女に何をもたらしたのだろう……?
もう二度と戻ることの無い時の中で、生きた意味は……?
とどまることを知らない流れの中で、その刹那、樹が輝いていた……。
想いは、誰一人知ることなく、遠く彼方に――
6
長い夜が明ける。
「フロウ、起きて下さい」
フェードは眠るフロウに呼びかけた。
「……店長?」
フロウの瞳に朝日が射し込む。
「もう、朝です」
「えっ? ……樹は?」
フロウは起き上がって、辺りを見まわした。しかし、それらしい樹は無い。あるのは、すでに枯れた一本の樹。
「あれは……夢、だったんですか?」
狐につままれた顔でフロウはフェードを見た。
「分かりません。おそらく、この樹は聖霊といわれるような、そんな存在なのでしょう。何年か、何十年かに一度だけ、その姿を現すような……。なんにせよ、私は確かにペンダントを届けました。あの光景が夢だったとしても、きっと想いは届いたと思いますよ」
フェードは満足そうに微笑んだ。
「そうですね」
――知るべきことはそれだけでいいのかもしれない。
そう思うと、突然、フロウのお腹の虫がうずいた。
「アハハハ……」
フェードは可笑しそうに笑った。フロウはあまりのことに顔を赤くして俯いた。
「そう言えば、昨日の朝から何も食べていませんね。確か、まだパンが残っていたと思います」
フェードは腰を下ろして、バッグの中からふたつのパンを取り出した。
「いっしょに食べましょう」
フロウは顔を赤くしたまま、コクッと頷いた。
そのパンはかさついているはずなのに、なぜかおいしかった。
「さぁ、帰りましょう」
食べ終えてフェードが、痛む体を無理に起き上がらせた。
「でも、道が……」
「大丈夫です。フロウが起きる前に、その辺を調べておきましたから。河が近いですから、迷うことはありませんよ」
フェードの言う通り、河が近く、迷うことはなさそうだった。
「そうだ!」
フロウが思い出したように手を叩いた。
「店長、もうすぐ――」
フロウはそれをごく自然に言った。
――あの時言えなかったことが、どうして言えたのかな?
フェードは少し照れくさそうに、笑っている。
森は朝日に照らされて、枝は風に揺れていた。二人はゆっくりした足取りで森を後にした。
長い時の中で、いつしか樹は人々の記憶から忘れ去られ、森だけがその記憶をとどめた。遠い日に起きた出来事とともに――。
7
春の晴れた日――。
フェードは橋の上で、彼女を待っていた。
『店長、もうすぐ誕生日ですよね。だから何か料理しに行きます』
あのときそう言ってくれた彼女は、橋の向こう側で行われている市で、材料を買っている。
悩んだり、笑ったり、喜んだり、驚いたり……。
何を作ってくれるのかは知らない。でも、きっとおいしいものに違いない。
そう思って、フェードは彼女を見ながら微笑む。
大きな紙袋を持って、彼女がこちらに帰ってくる。危うく転びそうになって、照れくさそうに彼女が笑った。
それにつられて、フェードも笑った。
フェードの元に駆け寄った彼女は、
「私、店長のこと――」
空はどこまでも高く、青い。強かった風は優しく、暖かい。水面は陽の光に輝く。季節は淡く彩られて――。
Tales of WILL Episode 2Moon Leaf‘nd
――薄暗い森の中で、枯れてしまった樹……。
彼は枝に座って、足を揺らしながら、月をぼんやり見ていた。
夜風に誘われて、彼女は愛しげな眼差しで、ゆっくりと彼の元に歩む。
月の光が優しく闇を包んで、
……またあの場所で、あのときと同じように逢おう……
たった一枚の葉が銀色に輝き、揺れていた……。
河の流れは緩やかに、
せせらぎに耳を澄ませば……
森は風を纏い、
ざわめきを聴けば……
月は光を浴びながら、
星にささやかな祈りを……
月の葉は銀色に輝きて、
想いの行く先を……
月の樹は想いをうけて、
遠く彼方まで……
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