月面生活相談室

 人類が月での本格的な生活を始めて早十年。月の北西部、嵐の大洋と呼ばれる月最大の海に月面都市が作られてからというもの、地球からの移民は増えるばかりだ。そこで国連主体で作られた月面連合は、移民らの生活面での悩みを、気軽に相談できるよう月面生活相談室を設置した。
「ねぇ、室長」
 その月面相談室の日本支部室長は爪切のやすりで、切り終えた爪の手入れをしていた。室長のバックには大きな窓があって、月の荒野がその向こうに広がっている。ふー、と爪に息を吹きかけてから、室長は声の主の方に向き直す。
「なんだい、高橋君」
 室長の口元の髭をちょっと上げて、デスクの前に立つ高橋に、穏やかに笑らってみせた。
「チキンラーメンの卵の固め方って知ってます?」
「それはまた突然な質問だな」
「だって、さっきそういう電話の相談があったんですよ。どう答えればいいのかわからなくて」
 高橋は頬を膨らませて、むくれている。まだ若く月面に夢も希望を一緒に持ってきた彼女には、このような質問は馬鹿馬鹿しくて仕方ないのだろう。
「大体、月での生活と直接関係ないじゃないですか? これって」
 高橋は立ち上がって、出力したばかりの書類を室長に突きつけた。
 主訴:チキンラーメンの卵が固まらなくて途方に暮れています。助けてください。
 室長はそれを一瞥して、大きく頷いて見せた。
「なるほど。途方に暮れるほどの深刻な悩みなわけだ。月での生活とは関係なくても、悩ましい問題なのだろうね」
 高橋は渋面になって、口を尖らせる。
「にっこり言わないでくださいよ」
「まぁ、まぁ。それで高橋君はどう答えたの?」
「最初は丼を暖めてみたらとか、三分以上待ってみたらとか……ああ、専用の丼を使ってるのか確認もしましたね」
 高橋は指折り数えながら、自分の対応を室長に報告する。別のデスクから電話が鳴ったかと思うと、すぐに「はい、月面生活相談室です」と声が聞こえてくる。
「それで?」
「こっちがそうやってアドバイスしても、一日に何度も掛かって来たんですよ」
「結局上手く行かなかったわけだ。というか、何度も掛けてきたんだ?」
 室長はわざとオーバーに驚いてみせた。すると高橋はそこに飛びついてくるように、前のめりになる。
「そうなんです。早いときは十分後だったりしました」
「それは大変だ」
「楽しそうに言わないで下さい」
「それでどうなったの?」
「メーカーに聞いてくださいって。もうどうしていいのか分からなくて」
 室長は吹きだしてしまった。
「まぁ、それが正しいね。頑張ったねぇ」
「笑い事じゃないですよ」
 高橋は涙目だ。
「いやいや、解決に導くことが出来なくても、しっかり相談者の気持ちに寄り添っていたじゃないか?」
「そうですか?」
「何度もこっちに電話してきたのが、いい証拠だよ」
「それくらい深刻だったんですよ」
「つまりは、深刻なことにしっかり対応できたってことだよ。俺もこの前、『絆創膏貼っても、血が止まりません』って相談があって、さっさと病院を紹介したよ。状況聞くと、結構深く切ってたみたいだから」
「それはそうでしょう」
 さも当たり前のように高橋は返してくる。何が言いたいのかは分からなかったようた。室長は言葉を選びながら続ける。
「つまりは、慣れ親しんだ地球を離れて月で生活してるんだ。ちょっとしたことでも冷静な判断が難しくなるってことだよ。気持ちを聞いてやって、常識的に判断してやるといい」
「なるほど。それで、チキンラーメンの卵の固め方は?」
 結局高橋自身、それが気になっていたのだと、ここにきて室長は気がついて、苦笑した。
「卵を冷蔵庫から出したばかりで、ちゃんと常温に戻してなかったんじゃないか?」
「あっ」
 高橋は思わず、手を口に当てた。そこで、室長のデスクの電話が鳴った。
「月に来ても、人が困ることなんて地球にいる頃とそこまで大きく変わるものじゃないよ」
 室長はにっこり笑って、電話を取る。高橋は「ありがとうございました」と満足そうに自分のデスクに戻っていった。
「はい。月面生活相談室です」
『あー、月は海の潮の満ち干きに関係しているじゃろ? わしはが海に近い所に生活しておってな、釣りが好きなんじゃ。満潮とか干潮とか調整できんかいの?』
 地球からの電話だった。室長は、どうせどうにも出来ないことを分かっていたが、
「それについては、地球の――」
 にこやかに、他の部署にたらいまわしにして、受話器を置いた。
「今日も平和だな」
 室長は息を吐きながら、窓の外を振り返る。青い地球は見えない。室長の月での勤務はあと五年残っている。

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