四十のプライド

 主は、私をベンチの上にあるジャージの上に置いてくれた。梅雨空の激しい雨の中、これからサッカーの試合が始まる。なんともまぁ、物好きなことだ。幸いにして、このベンチの上には屋根がついているので、私が濡れることはなさそうだ。
「いいか、友田のところにだけは、負けるなよ!」
 ベンチから出て行く主は、声を上げて部下を鼓舞する。部下は苦笑を浮かべている。全く、四十も過ぎて加齢臭もきつくなったというのに、あのエネルギーはどこからくるのか。
 友田というのは、主の同期のライバルである。これまでも何かにつけて、対抗心を燃やしていた。それが今回は、社内対抗のサッカー試合なわけだ。
 目的は、社員の健康維持増進と親睦のはずだろうに、主と友田だけは、目の色が違う。主はスパイクとボールを買い、メタボな腹で朝からジョギングをし、今日のこの日に備えてきた。それは友田も変わらないようだ。
「佐藤。お前の活躍の場は、ないと思え」
「ふん。そういうお前こそ、明日は筋肉痛で動けないことを覚悟しておけ」
 やれやれ、部下のいる前でなんともまぁ、みっともない。醜い腹を突き出して、言うことかね。
 主審の笛が鳴って、キックオフ――
 芝なんてない泥の上での試合だ。パスしてもボールは転がらないし、ドリブルしても、ボールが置いていかれる。
「パス、回せ!」
 主が右手を上げながら、左サイドを太い足を上げて駆け上がっていく。すっかり泥だらけだな。さて、チャンスになるか? 
「出させるな」
 友田の声が叫ぶが、
「主任、頼みます」
 中央でドリブルをしていた若い部下がボールを蹴りあげて、主の足元にびちゃと、泥をはじいてボールが転がる。
「任せろ」
「奴を止めろ!」
 友田が必死の形相で、戻ってくる。ディフェンダーが、主の前に立ちはだかる。主がドリブルで抜こうと、ボールを蹴りだす。
「ふん」
 主、左足を踏み出したはいいが、ぬかるんだ泥で、次の瞬間、見事にこけた。しかも、腹から。ああ、顔が泥まみれに。
 その隙に、ディフェンダーがボールをクリアする。
 年甲斐もなく、目立とうとするから――ん、おーい主、メールだ。このアドレスは、娘からだぞ! おーい、メールだ。応援メッセージだぞ。ちょっとはいいとこ見せないと、父親として情けないぞ!
 主、ようやく起き上がる。そしてすぐさま、走り出す。自陣がピンチだ。ああ、もっと急げよ。でも、急ぎすぎるとまたこけるぞ。
 雨が激しさをまして、ボールはほとんど、泥に浸かっていた。まさに言葉そのもの、泥試合。選手たちも疲れから、しだいに足が止まる。それでも、相変わらず、懸命にボールを追いかけているのは、主と友田くらいのものだ。意地のぶつかり合いもここまでくればたいしたものである。
 と、雨が一段と激しくなったところで、主審が笛を吹いた。前半終了である。0対0。どっちも点は入らなかったか。
 泥まみれでベンチに主たちが帰ってくる。泥をつけた状態であんまり近寄らないで欲しい。私は繊細なのだから。
「佐藤さん、ちょっといいですか?」
 お、主審が主を呼び止めた。いや、主だけではない。友田も呼ばれている。なにやら、話し合って、あ、主が戻ってきた。
「皆、いいか。残念ながら、試合は中止だ。この雨だ。洪水注意報が出たとかで、これ以上はさすがにできそうにないそうだ」
 主は悔しそうに言う。部下は一応に、安堵の表情を浮かべる。
「全く、後半があれば友田にぎゃふんと言わせただろうに。残念だ」
 それは多分、主だけだ。いや、友田もいたか。
「そういうことだから、挨拶もなしだ。みんなも手早く着替えてくれ。撤収だ。風邪ひくなよ」
 主がそうまとめた。こういうところは、年長者らしく、迅速で大したものだ。

「む」
 帰り際、グランドを出るときに、ばったり主は友田と出くわした。汚れたユニフォームはお互いに後ろに下げたスポーツバッグの中だろう。二人ともジーンズにTシャツという格好なものだから、醜い腹がでっぷりと前に突き出ている。
「なんだ佐藤、遅かったな」
「ああ。忘れた物がないか、確認してきた」
「俺もだ」
「そうか」
 そこで、大きく息を吐く主と友田。
「お互い、もういい年だな」
「まったくだ。この年では、サッカーは堪えるな。途中で倒れるかと思ったぞ」
 主が心臓を右手で叩く。
「佐藤はもっとやせないとな」
「お前からは言われたくはない」
 二人して声を上げて笑う。
「こうやって、馬鹿やれるのは、お前とだけだな。次は負けんぞ、佐藤」
「それはこっちのセリフだ」
 まったく中年二人で、何を言い合っているんだか。ライバルがいるというのも、なかなか大変だな。
「っくしゅん」
 主がくしゃみをした。
「なんだ、風邪ひいたか? 使うか」
 友田がバッグを漁って、主にポケットティッシュを差し出す。
「いや、大丈夫だ」
 と、主が断ると、今度は友田がくしゃみをした。お互いに苦笑する。
「俺もお前も、体には気をつけないとな」
「全くだ」
 そう言って、友田が鼻を噛んだ。

 翌日――
 夏の太陽は昇るのが早い。主の奥さんはもうとっくに、起きて朝食を作りに行ったが、主はまだ眠っている。
 枕もとのプロペラつきの目覚まし時計は、もうじき六時を指そうとしている。
 ほら、早く起きないと、鳴るぞ。あれはうるさい上に、私の仕事を一つ奪ったから嫌いだ。あっちが私のことをどう思っているのかは知らないが……。
 カチッ。
 六時とともに、目覚まし時計についているプロペラが飛び去り、けたたましい音が寝室に鳴り響く。プロペラを戻さないと鳴りつづけるという極悪な最新の目覚まし時計だ。主の娘が、父の日にプレゼントしたものだ。まったく、粋なプレゼントだと思うが、おかげで私のアラーム機能は解除されたじゃないか。
「うー、朝か……」
 頭を抑えながら、主が起き上がる。
「あぅ。い、痛……」
 そのまま、じっと動かない。案の定、筋肉痛のようだ。筋肉痛が翌日にくるとは年の割に、若いな、主。
「プロペラは……」
 主はなんとかベッドから起きようとするが、体が思うようにならないようだ。む、主の顔色が悪いな。
「風邪をひいたか、これは」
 主は額に手をやる。
「あなた、目覚まし止めてちょうだい!」
 そうとは知らずに、奥さんが台所から声を張り上げる。
「やれやれ、今日は休むか。ああ、っ痛」
 主は痛む体を鞭打ち、寝室にあるであろうプロペラを探し始めた。
 ということは、朝から私を使って、主は会社に電話だな。年甲斐もなく張り切るから、そういうことに。
「こりゃ、友田も私と同じだな」
 クローゼットの横に落ちていたプロペラを拾い上げながら、主が呟いた。
「飯を食べたら、会社に電話をしないと」
 主はプロペラを目覚まし時計に戻して、私、携帯電話を手にとった。どうやら今日は、家で大人しくしていることになりそうだ。

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