終章

 仕事に追われるようにして、一年が過ぎた。
 田宮さんの言っていた新店舗が、地元の『スクエア』だったのには、正直の話、驚いた。
 実家に戻ってくることも考えたけど、一人暮らしのほうが気が楽ということで、俺は部屋を借りた。母さんは少し寂しそうにしたけれど、「それがいいかもね」と仕方なく笑っていた。
 新店舗へ異動が決まって間もなく、石川に仕事先が『スクエア』になったことを電話で話したら、
『結婚指輪、まだだからさ、今度二人で見に行ってもいいか?』
 ちょっと恥ずかしそうな声が、妙に笑えた。
 とはいえ、こういう形で二人を祝福できることは、俺にとっても嬉しかった。シンプルな飾り気のないものを選ぶ辺りが、二人らしかった。そんな二人の結婚式も、半年ほど前に家族とごく親しい友人だけを集めて行われた。祝福されて照れくさそうに笑う二人を見て、俺も嬉しかった。
 それにしてもこの一年、社員になったせいなのか、新店舗を任された意欲からなのか、田宮さんはやたらと俺に仕事を任せた。そんな田宮さんは、俺の倍くらい忙しそうだったんだけど。他のバイトの面々があまり当てにならないというのが、田宮さんの本音だろう。それでも常連客が、ついてくれるあたりがさすがだ。
 そして父さんの一周忌法要の前日の夜、俺は実家に帰ってきていた。居間で三人で一服していると、目の前の母さんが、突然言い出した。
「隆志の就職も決まったことだし、この家売ろうと思うんだ」
 予想もしていなくて、言葉がなかった。そんなことはお構いなしに母さんは続ける。
「前からこの話はあってね。結構高く買ってもらえるんだ。父さんも逝っちゃったし、私一人だとこの家は広すぎるのよ」
 母さんは寂しそうにお茶を飲む。
 確かにこの辺りの開発を考えれば、そういう話があってもおかしくない。かなり高い額で売れることだろう。
「そりゃ、俺も出て行くけど。だからって、いきなり相談もなしに……」
 隣の隆志が頬をふくらませる。
「兄貴も何か言ってよ」
「売って、母さんはどうするの?」
「どこか近くにアパートでも借りるよ」
 そう言って、母さんは笑う。ふと父さんのこと、神村さんのことが思い浮かぶ。それを思うと母さんのしたいようにすればいい。
「……別にいいんじゃない?」
「兄貴まで。……本当にそれでいいの?」
 隆志がじっと見つめてくる。俺は頷くことが出来なかった。母さんは「もう決めたことなのよ」と呟く。
「分かった」
 隆志はそう言って、台所を出て行った。
「隆志が納得するには、もう少し時間が掛かりそうだねぇ」
 母さんはちょっと困ったような顔をした。
「あとで話してみるよ」
 俺はお茶を飲む。ほんの少し苦みがあった。
「透は構わないのかい?」
 一瞬、言葉に詰まる。どう言えばいいのだろう? 
「正直に言えば、分からないよ。隆志の気持ちもわからないわけでもないし……。でも母さんが継いだ家なんだから好きにしたら良いんじゃない? 父さんも好きにしてたし」
 そこまで言って、気がつく。父さんの秘密を考えると、母さんは母さんで、好きにしていいのだと思う。
「透は長男だから、気にするかと思ったんだけど、そうでもないのね」
 母さんは意外そうだった。
 父さんの秘密を知らなかったら、どうだったんだろう。俺は隆志と同じように反対しただろうか? よく分からない。
「どうせ、俺が帰ってくるとか言っても、売ることには変わりないでしょ?」
「そうだねぇ。変りそうにないね。母さんもそろそろ自分のために時間を使いたいからね」
 多分、それが本音なんだろう。俺と隆志を育て上げて、父さんはもういない。
「母さんの好きにしたらいいよ」
「ありがとう」
 嬉しそうに母さんは笑った。この一年で白髪も、しわも増えた。たまには母さんの顔を見に行こう。
「あとはアンタが結婚して、孫でも見せてくれたら、言うことないわ」
「ははは……それはもう少し先だよ。相手がいないし」
「なら、隆志に期待しよう」
「まだ続いてるの?」
 母さんは大きく頷いた。少しだけ、隆志が羨ましく思えた。
「そう言えば、父さんって、浮気したことあったかな?」
 ふと母さんが知っているのか気になって、冗談交じりに聞いてみる。母さんは目を丸くした。
「いきなり、変なことを聞くわね」
「いや、なんとなく……」
 言っておきながら、バツが悪い。
「一度くらい、もしかしたら、あるかもね。でも父さんは朝帰りもなかったし、ちゃんと家に帰ってきてくれたから、多分ないわよ」
 母さんは『もしかしたら』を強調して行った。考えてみれば、本当のことを言うはずもないか。馬鹿なことを聞くものじゃないな。俺は苦笑していた。
「さてと、ちょっと隆志と話してみるよ」
「お願いね」
 立ち上がって、隆志の部屋へ向かう。部屋の前で「入るぞ」と一言断ってから、ふすまを開ける。
「なに?」
 ベッドに寝転がったままで隆志が睨んでくる。
「さっきの話だ」
 俺は入り口のふすまに背中を預ける。
「兄貴は、平気?」
「どうだろうな。複雑なのは確かだけどな。お前は母さんのことは考えたことがあるか?」
 隆志は何も言わず、ただ上体を起こした。
「お前も家を出て行く。母さん一人で、この家を守るのはきついだろう」
「そんなことは分かってるよ。ただ話が急すぎて……」
「そうだな」
 気持ちの整理なんて早々つくものじゃないよな。
「仕方ないとは思うんだ。……ただやっぱり寂しくて」
 溜め息交じりで、隆志は言った。
「母さんの好きなようにしてもいいんじゃないか?」
「そだね。分かってる。納得するには、もう少し時間がかかりそうだけどね」
 隆志が仕方なさそうに微笑んだのを見て、安心する。「それだけだ」と自分の部屋に戻る。
「そう言えば、ずっと止まったままだったな」
 見上げた先には、三時三十六分四十六秒を差しつづける時計があった。
「いつから止まってるんだろうな……」
 机の上に置いた、父さんからもらった腕時計が、その代わりのように時を刻む。十一時十七分四十二、三、四――。
「せっかくだし、動かすか」
 電池くらい母さんに聞けば分かるだろう。階段を下りて、母さんを探して家の中を台所、居間と回る。母さんは仏壇の前にいた。声をかけようとして、それを飲み込む。母さんはじっと拝むように父さんの遺影を見つめている。何を思っているのだろう。と、立ち上がった母さんと目が合う。
「もう一年なんだね」
 俺は母さんの横に立った。
「そうね」
 母さんが微笑む。
「何を思ってたの?」
「家を売るなんて、お父さんは怒るかなって」
 俺は何も言えなかった。
「ごめんね」
 そう母さんが呟いたのが聞こえた。何を謝ったのか? それが誰に向けられたのか――父さんなのか、俺なのか、隆志なのか、分からなかった。
「それで、どうかした?」
「単三の電池ない? 時計が止まってるんだ」
「それなら、食器棚の引き出しに、余りがあると思うよ」
「ありがと」
 和室を出て行くとき、もう一度だけ母さんを見ると、まだ父さんの遺影を見上げていた。そんな母さんの姿を見て、何故か母さんは、神村さんのことを知っているような気がした。
 電池は母さんの言った通り、食器棚の引き出しにあった。一本だけもらって台所を後にする。階段を上ろうとして、その先にある父さんの部屋が目に入る。ふとさっきの母さんの姿を思い出して、まさかね、と思いながらも、俺は階段にかけた足を止めて、父さんの部屋に入った。
 父さんの遺品は、愛用の物を残して殆ど処分してしまった。母さんがそう言っていた。レターボックスになっていた机の引き出しを開ける。そこには何もない。きっとまとめて処分したのだろう。いちいち一通ずつ確認することなく。だから、母さんが神村さんからの手紙を見た可能性は、多分ない。そう思う。そう信じたい。静かにレターボックスを閉める。すーっと、何も引っかかることはなかった。
 自分の部屋に戻って、机の椅子を足場の代わりに乗ると、時計の電池を入れ替えて時刻を、腕時計を見ながら合わせる。
 十一時三十一分七、八――。
 いつ振りか動き出した時計は、規則正しく時を刻んでいく。
 椅子を机に戻したついでに、何となく、引き出しを開けると『ちょっとあぶないポップス』のMDとカセットテープが出てきた。録音がまだ終わっていなかったことを思い出す。残りをMDに落とさないと――そう言えば、DJ赤月のラジオが朝からやってるとか、石川が言ってたな。
 そうだ。一周忌が終わったら、赤月に葉書を送ろう。父さんのことを書こう。それと父さんへの気持ちも込めて――そう決心したら、ふっと楽になった気がした。誰にも言えないけれど、ずっと誰かに聞いて欲しかった。読んでくれなくても構わない。ただ心が楽になるような気がする。
 頭の中で、赤月の声が響く。
『透からの葉書。
“赤月。俺の親父さ、去年天国へ行ったんだけど、隠し子がいたんだ。親父も死に際まで知らなかったから、隠し子と言えるかわからないけど、とにかくいたんだ。その子の親父宛ての手紙をたまたま、俺が見つけてしまったんだ。細かいこと話すと長くなるから省くけど、正直、びびったよ。俺の親父は、真面目で厳しい人だったからさ。信じられなかったんだけど、間違いないらしくて……身内で知ってるのは俺だけで、ずっと黙ってた。
 親父には裏切られたとか思わないでもなかったけど、何かそういうことがあっても親父のことが好きな自分がいるんだ。あんまりしゃべらない人で、黙って好きにやるんだけど、そんな親父が今でも俺は好きだし、尊敬してる。
 今度、母親が家を売るって言い出して、母親のことを考えるとそれもアリかなって思うんだ。それくらい母親はやってもいいと思うんだ。
 親孝行したいときに、父親にはいないし、凄く複雑なんだけど、母親が家を売ってマンションに住みたいというなら、それも一つの親孝行かなって思ったんだ。親父には何も出来なかった分、母親にしてやりたいんだ――』
 そうだ、家が取り壊されるまでは、ここに帰ろう。ここがなくなったら、母さんのいるマンションへ行こう。
 時計の動く音が静かに聞こえ、夜は更けていく。
 外で猫が「みゃあ」と鳴いたのが聞こえた。

“forF’s”――了    

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