心の奥底で密かに笑う。

 足元に倒れる白い女性。ぴくりともしない。
 ぐつぐつと台所で音が聞こえてくる。かぐわしき香りとは到底言えそうもない、鰹節の出汁の匂いが生活感をかもして、場違いとしか言いようがない。
 そう確かに俺は、あのときに生まれたのだ。

 母親が結婚した理由は、単にエリートの父親の子種が欲しかっただけだった。父親が母親と結婚した理由は知らない。物心つくころには、とっくに離婚していた。母親の結婚理由を考えれば、そう長く続くはずもないことはすぐに分かった。
 母親はよく言えば、教育ママだった。それもかなり度の過ぎた。四歳の我が子に家系図を持ってきて、どれほど、自分たちの血筋が優れているのかを延々と説教してくれる。
「あなたはこれほどの血が流れているんだから、なんだってできるのよ」
 そんなことを聞かされて育つわけだから、我が子の方も最初はすっかりその気になって、なんだってやって、やってみればうまくいくことばかり。母親もすっかりその気になって、褒め称える。母親はよく言っていた。「私は間違ってなかった」と。そんな肥大化した自信をもったまま、有名私立の幼稚園を卒園した。
 有名私立の小学校に入学しても、できないことなんてなかった。限界に挑戦なんて、言葉はいつのまにかなくなって、出来て当たり前。それが当然だった。少なくとも間違いなく、小学校卒業するまでは、なんだってやれていた。
 が、中学に入ると確かに挫折はそこまで来ていた。すっかり母親のレールしか歩けなくなってきた我が子は、中学への入学直後、いじめにあった。出る杭は叩かれるという奴だ。学校の成績は一気に急降下。母親は我が子がいじめられていることなんかには気がつかず、成績が落ちたことを一方的に責めた。
「こんな中学レベルの問題なんて、あなたには簡単でしょ。一体、何やっていたの? 私が言ったとおりにちゃんとやってなかったんじゃない?」
 かくして親子に溝ができるまで、もう時間は掛からなかった。母親は相変わらず、家系図を持ってきては、説教をする。家庭教師を雇って、我が子を監視までさせていた。次のテストまでに成績が一位にならなければ、家庭教師はクビだったわけで、ころころと家庭教師が代わっていくうちに、いつしか母親自身が我が子を監視するようになるまでには、時間が掛からなかった。

 その日、母親は夕飯の準備をしていた。
 鰹節の匂いが部屋に立ち込めていた。
 母親は我が子の告白を聞いた。いじめを受けていたことを。結局、親子ともども限界だったことは間違いない。母親は半狂乱になって否定した。
「あなたがいじめにあうなんて、そんな馬鹿な話はない。だって、あなたは万民から尊敬を受けるような、そんな存在なのよ。それがいじめだなんて、そんな馬鹿なことがあるわけがない!」
「ほんとなんだ」
「まだそんなことを言うの? 学校の成績が下がったからって、そんなこと言うなんて、あなたはやっぱり失敗作なのかしらね。せっかく、エリートの父親と結婚までしたというのに。まったく、あなたを育ているために一体いくら掛かったと思ってるのよ。父親と離婚するときに養育費を確保する苦労も知らないで、そんなことを言う口は、この口かしらね?」
 母親は作っていた味噌汁の鍋を手にして、ゆらゆらと近づく。我が子はただならない気配を感じで後ずさりする。
「待ちなさい。腐った性根を直してあげる」
 いつのまにが我が子の背には、部屋の壁が。
「もう逃げられないわね。さあ、受けなさい。私を失望させた罰です」
 我が子は腰を抜かして、その場にへたり込む。ガクガクを震えながら、母親を見上げるが、母親はそんなことはお構いなしに、その鍋の味噌汁をゆっくりと我が子にかけた。
 俺はこのときに生まれた。厳密には、もっと前からこいつの中にはいたんだがね、世に出たのこのときが初めてだったわけだ。
 で、とりあえず一発母親をぶん殴ってやった。息子から手を上げられたことなんてなかったから、母親の奴は豆鉄砲くらったみたいに、目を丸くしてた。それのあとは、近くの交番に自分で駆け込んで、児童相談所が強制介入することになる。

「起きろよ。そろそろそうやって拗ねてるの、やめろよ」
 俺は同じ顔をした主人格を掴みあげた。
「もういいんだよ。疲れた」
「そうやって、母親が会いに来るときだけ、俺を出しやがって。いい加減にしろよ」
 主人格は何も言わない。かっと来た俺は一発ぶん殴ってやった。
「これから先、ずっとそうやって生きていくつもりかよ! お前は知らないだろうが、母親の奴はもうじき、更正プログラムを終わらせて、また俺たちと一緒に暮らすつもりなんだぞ!」
 主人格は殴られたまま、起き上がらない。
「あの、手段を選ばない母親にすれば、そこらへんの人間を騙して、更正できてる振りをするのはお茶漬けに決まってるだろ!」
 あの日の、俺たちが大やけどを負った光景を俺がリプレイしてやる。
「やめてよ。こんなの見たくない」
「いいよな、てめぇはそうやって、目を背ければいいんだから。こっちはお前が逃げたいときには、浮上しないといけないんだよ!」
 俺は主人格の胸倉を掴んで、立ち上がらせる。
「うるさいな。もう消えてよ」
 主人格がそう言った瞬間、俺の体の力が抜けていくのがわかる。
「みんなきらいだ!」
 そう主人格が叫んだ瞬間、俺はこの部屋の風景とともに消え去っていくしかなかった。

「起きろよ!」
 俺はベッドで寝ている主人格を叩き起こす。俺には主人格が母親と暮らしていたアパートのベッドで寝ていることが、どうしても理解できない。
「ったく、母親が迎えに来た時点で、交代しやがって。ちょっとこっちに来い」
 俺は主人格の手を取って、眼前に広がる光景を直視させる。
「ひっ!」
 俺たちの眼前に、横たわるのは――。
「俺がさっき殺した」
 俺は冷たく言い放つ。
「嘘、でしょ?」
「現実を見ろよ。死んだんだよ」
 ぴくりともしない。
「俺に襲いかかってきたからな。こうするしかなかったんだよ。これでもう終わりだ」
「私の人生も終わった?」
 主人格が自問するように言ってくる。
「そこまで知るか。てめぇの人生だ。俺の人生じゃねぇよって、なんで泣いてる?」
 主人格の目から頬を伝うのは、涙。
「もう終わった。何もかも」
「いい加減にしろよ。これ以上振り回されてたまるか」
 俺は主人格の胸倉を掴むと、べランダに引きずり出す。
「そこまで終わりと終わりと言うなら、終わらせてやろうか?」
 俺はそのままベランダから突き落とそうと、主人格の体をえびぞりの状態に体を逸らさせる。眼下には漆黒の闇が広がる。
「このままちょっとでも押せば、この中に落ちていくんだぞ」
「好きにすればいい。でもあなたがどうなるかも――」
「どうなるかなんて、とっくに覚悟はできてる。こんなクソッタレの世界になんかに、未練はねぇよ」
「それじゃ。少し押せば――」
 もう俺に躊躇はなかった。

「センセー。起きろ」
 俺は足元に横たわる白衣を来た女医に声を掛けた。
「あ、終わったの」
「悪かったね。一芝居打ってもらったのに」
「あの子はもう戻ってくるつもりはない?」
「ああ」
 俺はわざと言いよどんで見せた。
 ここは精神科の診察室。わざわざ診察室を主人格の治療のために、当時の部屋を再現してもらった。
「せっかく、ここまでしたのに意味はなかったわね。せっかく鰹節も用意したのに」
 女医は頬を膨らませて残念そうだ。天才的な腕前と評判の女医で、数多の患者の治療をしてきたのだろうが、今回ばかりは分が悪かったようだ。
「次はどんな方法を考えようかしらね?」
 女医は思案する。母親と似た顔立ちで。この顔立ちのせいで、当人のセラピーは全く出来ないでいて、俺はそのことをずっと黙っていた。
「もう治療は終わったよ」
 俺が静かに言う。
「どういう意味?」
「弥生は俺がさっき殺した」
「え?」
「母親ともうすぐ一緒に暮らすことを言ったら、生きる意志がなくなったみたいだったから、無意識の奥底に落とした。だからもう治療の意味は無い。俺以外の人格が出てくることはもうない」
 女医はあっけに取られてなにも言えない。
「じゃあ、もういい?」
「とりあえず、また呼ぶけど、今日のところは、一度帰って」
 女医は何が起こったか把握しきれず混乱しているのが見て取れた。
「それじゃ、先生また」
 俺は微笑を浮かべて診察室を後にした。

 主人格の弥生に話していなかったことが一つだけある。実の母親はとっくに俺が、あのときに殴り殺していること。弥生はそれを見ていないから、ずっと起きているときは、母親は生きているとばかり思っていた。
 女医にも話していないことがある。弥生と俺は双子だったことだ。それをあの母親の奴、一人で出産してあろうことか、子どもは一人しかいらないと俺の方を生まれた直後に殺しやがった。どうして俺にこういう記憶があるのかは、さっぱり分からないが、母親が生まれた俺の首を締めるの光景は、今もしっかり残っている。とにかく俺はこうして、トチ狂った母親への復讐を無事に果たせたわけだ。もっとも、俺の記憶が正確かなんてどこにもないし、もしかしたら、弥生の勝手な妄想の一部か俺の記憶になったこともしれないが……今更どうだっていい。
 俺は白いリノリウムの医療少年院の廊下を歩く。長く伸びた黒髪を揺らして。
 唯一の誤算は、俺が男で、弥生が女であったことか? それも些細なことか?
 俺は笑いたくなるのをこらえながら、鉄格子の掛けられた窓から差し込む光の向こう側、青い空を見上げる。
 もうすぐ、俺は自由になれる!
 こらえていた笑いを抑えきれず、いつしか俺は大きく笑い声を上げていく。

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