非常階段

 五階建ての小さなマンションのエレベーターが壊れたのは、一週間前だった。ずぼらな管理人がエレベーター会社に修理をお願いしたのが、三日前のことなので、もうそろそろ非常階段を使う住人はまた私だけになるだろう。平穏な日常はもうすぐ帰ってくる。美里はそんなことを考えながら、非常階段を上っていた。
 美里は非常階段を上りながら、マンションの真っ白な外壁を見るのが好きだった。非常階段は金属製だったから、カーンと高い音が鳴らないように、ひっそり階段を上ったり、下りたりするのはなんとも神経を使ったけれど、それも慣れると誰にも気が付かれないように細心の注意を払うことに快感を覚えていた。そんなわけで、美里はマンションのエレベーターは使ったことがなかった。
 が、そのエレベーターが壊れたせいで、ささやかな美里の幸せは、マンションの住人に壊されてしまった。自分だけの世界に、知らない人間が土足で踏み入ったようないらだちを憶えていた。マンションの住人と非常階段ですれ違うたびに、会釈をしながら、心穏やかではいられなかった。
 美里はマンションの最上階、つまりは五階に住んでいた。五階には三部屋あるのだが、一つは空室で、もう一つに男性が住んでいる。年齢は二十代半ばくらいで、美里とそんなに変わらないくらいだ。彼はついこの前、引っ越してきたばかりだった。
 いつものように音も立てずに、美里は最上階まで上って、階段に腰を下ろした。大きく息を吐く。ここまで上るのに、ずっと息をすることを忘れていたような気分だった。大きく肺一杯に息を吸い込むのが気持ち良い。眼下を見下ろすと、公園の緑が目に飛び込んでくる。遠くには海が見えて、目を凝らせば漁船がさえも見える。白い雲が風に流され、太陽は時期に赤く染まる。
「今日が休みなら、ここでぼんやりしていたんだけど」
 最上階に住んでいたおかげで、この一角だけは他の住人にほとんど邪魔されることなく静かで心地よかった。
 公園から、子どもの歓声が聞こえてきた。
「元気よね」
 美里は薄っすら微笑ん見せると、くしゅんとくしゃみをした。
「やっぱり風邪気味かな?」
 先日の休日、ぼんやりとここで過ごしたのがいけなかったのかもしれない。鼻がむず痒い。
 下から足音が聞こえてきた。
 まったくもう少しは静かに上って来れないものかしらね。この情緒が台無しじゃないの。
 下の階で止まると思っていた足跡はさらに上までやってくる。
「うそ」
 美里は思わず、口にしてた。隣の男性に違いない。まだ名前も知らない。挨拶をしたくらいの仲でしかない。ただのお隣さんに違いない。だけど、美里は引越しの挨拶をしにきてくれた彼の笑顔が忘れられない。ちょうど引越しの当日にばったり出くわしたのだ。彼は、褐色の筋肉質の両腕でダンボールを抱えながら、「どうも今日から隣に引っ越してきました。よろしくお願いします」と薄紅の唇を上げて、にっこり笑っていた。
 いつもの美里なら、名前くらい名乗りなさいよね、などと思うところが、「よろしくお願いします」と気が付いたら言っていた。一目ぼれと気が付いたのは、三日ほど経ってからだった。
 そんな彼が上ってくる。美里は立ち上がっていた。
 どうしよう。なんて言えばいい? まずは、「こんにちは」って挨拶しないと、印象悪いし、でもそのあとどうしよう? エレベーター早く直るといいですね? あーでもそれじゃ、私の楽しみが――どうせなら、直らなくてもいいのに。そうしたら、ここで彼と会えるのかしら、って何、考えてるのよ!
 そこで、見下ろすと上ってきた、彼と美里はばったり目が合った。
「こ、こんにちは」
 心臓が跳ね上がる。声が裏返っていたけれど、よく先に挨拶したと美里は自分を誉めた。
「こんにちは」
 にこっと、彼は変わらない笑顔を美里に向ける。
 えっと、えっと次は――彼を前に舞い上がってしまって、美里の思考は泡のように弾けて消えていく。
 彼が階段を上り終えて、美里の横に立つ。何か言わないと、何か――。
「ここの眺めいいですよね。海が見えて、公園の緑もあって、太陽が沈むときなんて、赤く染まって」
 彼はまっすぐ海を見ていた。美里は見とれて言葉が出ない。
「エレベーターが壊れないと気が付かなかったですよ」
「大好きです」
 美里は思わず言っていた。彼が驚いたように美里を見る。
「こ、ここがって、この場所が、です」
 彼が思わず声を上げて、笑う。美里は恥かしくて、思わず俯いていた。
「もしかしたら、ときどきここで顔を合わせるかもしれませんね」
 彼はそう言って立ち去っていく。美里の心臓はまだ激しく鼓動している。それを落ち着かせようと、大きく息を吐こうとしたとき、
「そうだ!」
 彼が声を上げた。美里は口から心臓が飛び出すと思うほどびっくりして、背筋が伸ばしていた。
「さっき管理人さんと会って、エレベーター、近日中に直るそうですよ」
 彼はにっこり笑って、部屋に入っていった。ばたんとドアの音が聞こえた途端、美里は大きく息を吐いて、その場にへたり込んだ。
「まったく一体なんなのよ……」
 自分がバカで惨めに思えて、泣きそうになる。
「でも、エレベーターって直るんだ……エレベーターって、彼も乗るのよね」
 密室で彼と二人。急接近することも――。顔が熱くなる。
「エレベーターも悪くないわね。たまには使おうかしら」
 美里は部屋に戻る前に、エレベーターを見た。
 故障中――そう張り紙がしてある。
「早く直らないかしらね」
 そう口にして、美里は自分の部屋に入った。

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