聡と恵美

 聡が子どもの頃、草取りをしていたら、へびの抜け殻を見つけた。まだ生温かくて、しっとりしていて、もしかしたら、へびはまだ近くにいて、こっちを見ているのかもしれない。そう思うと、背筋が寒くなって、どこか得たいの知れない恐怖を感じられて、聡はわけも分からなく泣きながら、その場を逃げ出した。セミの鳴き声がうるさかった、夏の日だった。
 聡は目に前にそびえる校舎に、何か得体の知れない不安を感じていた。
 蚊取り線香の匂いが、どこからかふっと香る。近くの家から、ラジオの野球放送が聞こえる。
「やっぱり帰らないか?」
 女子高の裏門まできたところで、聡は思い切って、前を行く恵美に聞いた。
「ここまで来ておいて何言ってるのよ」
「いや、やばいって」
「何このくらいのことを心配しているのよ。男のクセにだらしないわね」
 恵美から半眼であきれたようにじっと見つめられて、聡は返す言葉を失って、その代わりに溜め息をつく。
 たかが水着を学校に忘れたくらいで、付き合わされる俺の身になってくれ。
「何か文句ある?」
「いいえ」
「よろしい」
 二人は校門をよじ登って、女子高の敷地内に入る。
「華の女子高にようこそ」
「ようこそって、不法侵入だろう」
 できることなら、今からでも帰りたい。
「さっさと水着とって帰るぞ」
「ねぇねぇ、夜の学校ってドキドキしない?」
「人の話、聞いてないだろう?」
 恵美は仁王立ちで校舎を見上げている。
「私の教室はね――」
「そんなことはどうでもいいから、水着はどこだ?」
「分かったわよ。そんなにすごまなくてもいいじゃない」
 恵美の機嫌が急に悪くなったのが、聡には分かった。
 やれやれ、言い過ぎたか? 
 互いの母親が親友同士だったのが大きく、幼稚園に入る前から、恵美と聡は一緒だった。小学校に入学したときは手をつないで学校に行き、それがいつしか口論をしながら登校するのが日課だった。恵美が女子高に進学するまでは。
 高校に進学してから、ずっと一緒にいた反動なのか、高校二年の夏休み、今日の夜まで二人は言葉を交わすことはなかった。
「まったく久しぶりに話があるって、家に来たと思ったら、コレだしな」
 聡は独り言のつもりが、恵美にまで聞こえていたようだ。
「悪かったわね。仕方ないじゃない。水泳部なんだし、水着がないと練習できないでしょ」
「はいはい。それで、プールはどこだ?」
「こっちよ」
 恵美は相変わらずむくれたまま、聡をプールまで案内した。

「あったか?」
 更衣室の扉越しに聡は恵美に聞いた。
「うん、ちょっとまって、暗くて分からないから。明かりつけてもいいかな?」
「絶対にやめとけ」
 それからしばらく沈黙が下りた。
 聡はジーンズの裾を捲り上げて、プールサイドに座る。足をプールにそっとつける。火照った体に、ひんやりした水の感触が気持ち良い。空を見上げると満天というには程遠いけれど、星空が見えた。
 久しぶりにみた恵美は、なんというか、大人びていた。久しぶりだからそう見えるだけだと何度も聡は自分に言い聞かせた。言い聞かせているのに、なぜか気恥ずかしくて、昔のようにはなかなか話せなくて、心臓の鼓動は激しくなるばかりで――何、恵美相手に考えてるんだか。
「なにやってるのよ?」
 夜空の替わりに恵美の顔が、聡の視界を占める。
「いや、別にって、おまっ」
 聡は恵美の格好を見て驚いた。恵美の白い肌が街灯を反射して、眩しく光る。
「どう?」
 恵美はスクール水着姿でポーズを決めている。
「『どう?』じゃねぇよ」
 聡は叫びそうになるのをこらえて、顔をしかめる。
「汗かいたし、ひと泳ぎしようかなって。聡も一緒にどう?」
「何考えてるんだよ! 状況わかってるのか?」
 さすがに堪忍袋の尾は切れてしまった。思わず聡は立ち上がって叫んでいた。叫んでしまってから、聡は後悔した。
「そんなに怒らなくたっていいじゃない?」
 恵美が泣き出した。
 昔から恵美に泣かれると弱い。
「だけどさ、分かるだろう?」
「分からない」
「子どもじゃないしさ」
「子どもでいい」
 昔から泣かせると、手の打ちようがなかったな。とにかく、今はこの状況をどうにかしないと。
「恵美、帰らないとやばいって」
 そう聡が恵美に手を伸ばすと、恵美はその手から逃げてプールに飛び込む。水しぶきで聡の服が濡れる。恵美はプールの中央まで泳いでいく。
「知ってる? 最近のプラネタリウムは、肉眼で見えない星まで見えるだって」
「そうか」
 聡は根負けして、腹を決めた。腐れ縁というのはこういうことを言うのだろう。
「私ね、告白されちゃった」
 水の揺れる音がやけに大きく聞こえた。
「バスでよく一緒になる、男の子なんだけどね」
 聡はなんと答えていいのかわからなくて、ただ恵美をじっと見つめるしかできなかった。
「細身で、背の高い子で、結構かっこいいかな」
 聡の胸の奥がムズムズとして、気持ち悪くなる。
「どうしたらいいのかな?」
「どうして俺に聞くんだ?」
 そういったら、聡は口の中が乾いていたことに気が付く。
「どうしてだろうね?」
「どうしたいんだ?」
「どうしたいんだろうね?」
 恵美はずっと夜空を見ていた。聡はずっと、そんな恵美を見ていた。
「帰ろっか?」
 恵美は聡を見て微笑んでみせた。聡はなんと返していいか、分からなくて、ただ頷いた。

 聡と恵美は女子高を出て、しばらく黙って並んで歩いていた。先に口を開いたのは、恵美だった。
「今日はありがとね」
「ああ」
「ねぇ、たまには、こうして遊んでくれる?」
「どうだろうな?」
「私が振り回してばかりだから?」
「いや……」
 その先は多分、恵美が言ったことが理由ではなくて、きっとそう、その相手に――。
 そう考えたら、心が折れかけた。
 また二人の間に沈黙が訪れる。聡はふと立ち止まる。恵美はそのまま歩いて、街灯の下で立ち止まる。街灯で濡れた髪がキラキラと反射して、恵美は綺麗だった。
「聡、帰ろう」
 恵美が手招きする。聡はその恵美に微笑んで見せて、恵美のところまで走る。
 ガキだな、俺は!
 そのまま恵美を追い抜いていく。
「さきに行くな」
「ちょっと、聡?」
 聡は後ろから恵美が追いかけてくるのを感じながら、聡は何かを振り切るように走った。ふと、へびの抜け殻を見つけたとき、逃げた先は恵美がいたことを思い出して――聡は走った。

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