守ろう……。
 その顔が、涙で濡れることがないように……。
 いつまでも、笑っていられるように……。
 繋いだ手が離れることのないように……。
 大丈夫……。
 お前に降りかかる不幸の全てから守るから……。
 お前がいなければ、俺はここにいないから……。
 お前がいるから、俺がいる……。
 たとえ、この身体がどうなろうとも……。
 守ろう……。
 いつまでも、いつまでも、笑っていられるように……。

Tales of WILL Episode4
Summer Rain ――守るべきもの――


プロローグ

  夏の太陽が真上に来るにはまだ時間がある、晴れたある日。白い大きな雲が空高く流れていく。
 人々はそんな夏の暑さを避けるように、街を流れる川で涼んだり、階段の下の日陰で休んでいる。街の住居地区では、どこの家でもたくさんの洗濯物が外に並んでいる。そんな街の間を、南風が吹き抜けて、洗濯物を揺らす。
 そんな静かな時間帯――。
 二人組みの男が、街の中を歩いている。通りには、他に誰一人歩いていない。
 一人は褐色の肌に、深い紺色の髪。半袖の白い衣に、灰色のズボン。年は二十歳そこそこ。手足の長い、すらっとした、細身。鼻筋の通った、青い瞳が印象的な青年だ。
 もう一人は、隣の男よりも頭一つ背が高く、袖のない色あせた茶色の衣に、同じ色のズボンを身につけている。よく日焼けした肌に、黒い短髪。年は隣の男よりも、やや上といったところか。がっしりした体格で、服の上からでもその筋肉が分かる。
 二人とも、腰に護身用の短剣を差している。そんな二人組みが、曲がり角にさしかかったとき――
「ドロボォォォォ!」
 一際大きな女性の叫びが、街を切り裂く。二人組みは顔を見合わせて頷くと、
「行くぞ、カイル!」
「おう、ビック!」
 体格の大きい方の男は、ベースの効いた声で隣の男に呼びかけると同時に走り出す。カイルと呼ばれた青年も、そのビックの大きな背を追ってその角を曲がる。
 曲がった先、カイルとビックとはまだ距離があるところに、二十代前半くらいの若い女と驚いた顔した人相の悪い三十歳後半の男が向かい合っていた。さっきの叫び声は、この女とみていいだろう。
「ちっ!」
 人相の悪い男が、走ってくるカイルとビックの姿を確認すると、ちらっとその女性を睨みつけて、その場から逃げ出していく。
「どうしたんだ?」
 走りながら、ビックが尋ねる。
「財布を盗られたんですっ! あの男を捕まえてっ!」
 女性はカイルたちに男を指さして教える。
「よしっ! カイル、先回りだ」
「またかよ」
 ビックの声にカイトがうんざりするように答える。
「お前の方が足は速いだろう」
「ったく、仕方ねぇなっ! 夏は暑いんだよっ!」
 二人はそのまま、女にその場に留まっておくように言って、女を追い越しいく。男はすでに階段に差し掛かろうとしていた。
「適材適所って奴だ。行けっ!」
「見失うなよなっ!」
 カイルは一気に加速してビックを抜き去ると、横道に入っていく。
 入った道の脇には木箱が高く積み重ねっていた。
「よしっ!」
 カイルは目の前にある木箱に、地面を強く蹴って飛び乗る。そして高く跳躍。家の屋根に手をかけると、軽い身のこなしでその屋根に飛び乗る。
「さてと、行きますか」
 カイルは楽しそうに笑った。
 屋根にはギラギラと照りつける太陽を遮るものがなく、直接カイルの全身を焼いていく。そんな中カイルは、屋根から屋根へ音もなく飛び移りながら、男の姿を探す。カイルの全身からは汗が噴き出し、大粒の雫が頬を伝うが、そんなことにいちいち構っていられなかった。
「いやがったな。って、おいおい、まだ逃げる気かよ」
 屋根の上から男の姿はすぐに見つかった。男は時々後ろを振り返りながら、必死に逃げていく。
「ビックの奴は……まだあそこか」
 距離が縮まっていないわけではないが、追いつくにはもう少し時間がかかりそうだ。
「ったく、本気で走ってねぇな、ビックの野郎は。仕方ない。そうすると、あいつは次はあそこを曲がるわけだ。よし! あそこなら、他に誰もいないな。人質でもとられたら厄介だ」
 男の逃走ルートに脇道はなく一本道だが、塀で先が見えなくなっている角がある。しかもその周囲に人の影はない。
 カイルは屋根から屋根へ飛び移って、その死角へ先回りする。
「ちくしょう! 何だってこんな……あの女狐が!」
 男が後ろから追いかけてくるビックを振り返る。
「男がもう一人いたはずだが、この際、関係ねぇや。早くまかぇねと……」
 と、男が角を曲がってところで、ひょいと、突然足が出てくる。
「ぐわっ!」
 その足に男の足が引っかかり、前のめりに転ぶ。
「前見て走らないと、危ないよ旦那」
「ちくしょう! 何しやがる!」
 男は立ち上がりながら毒づく。
「すいません、足が長いもので」
 いけしゃしゃと、笑って言うカイト。
「くそっ!」
 男はカイトの顔など見向きもせず、逃げようとする。
「はいはい、ちょっと待とうね、旦那」
 カイルは逃げようとする男の襟を掴む。そこでようやく男は、カイルの顔を凝視した。
「てめぇ、いつの間に……」
「チェックメイト、旦那。『ウィルの盾』を舐めちゃいけない」
 『ウィルの盾』――この街が誇る自衛団である。
 この街はその創設当時から自治体制をとっている。そのため街の有力者の中から選ばれた何人かが、その政治を民主的に行っている。そしてその治安維持のために作られた、この『ウィルの盾』である。しかし実際、政治と言っても、このような必要なこと以外働きかけることなく、実質的な街の統治とはほとんど関係がいない。
「この野郎っ!」
 男は掴まれていた襟を振りほどくと、振り向きざまにナイフを抜いてきた。
 そこにビックの姿が現れる。
「遅かったな」
「これでも急いだんだが」
 などと、息一つ乱れていないくせに、そ知らぬ顔でビックが言う。カイルが先回りするので、ゆっくり追いかけていたのである。
「ったく、俺にばっか走らせて。あとは、任せたからな」
「おう。逮捕は俺の役目だ!」
 軽口を叩きながらも、二人は男から目を離さない。
「チクショウッ!」
 男が破れかぶれで、カイルにナイフを向けてくるが、
「よっと」
「ぐえっ!」
 ビックののんびりした声と同時に、重い拳が男のボディに決まって、男の身体がくの字に曲がる。男はその一撃で意識を失った。
「あーあ、可哀想に。だから、舐めるなっていったのに」
 カイルが屈んで心底気の毒そうに、意識のない男に呟く。
「もう少し、手加減してやったらどうなんだ? これじゃ、目を覚ますに時間がかかるだろう」
「おかしいな? 一応手加減はしたつもりなんだが……」
 ビックは不思議そうに自分の拳と、倒れている男を見比べた。そこでこう思い至る。
「まぁ、この方が運ぶのに静かでいいだろ」
「うーん、そういう考え方もあるか。なら、お前が持てよ。適材適所、なんだろ?」
 カイルの顔は楽しそうに、ビックの顔は渋面になる。
 二人は実にいいコンビだった。    

 『ウィルの盾』本部――。
 『ウィルの盾』は、街の有力者によって、出資され成り立っている。当然、その能力は実績によってのみ評価される。失態を繰り返せば、出資は途絶え、解散させられてしまう。現状は本部にわずか四名。街に点在する支部も同様といった感じだ。少数精鋭といえば聞こえはいいが、誰でもなれるというわけでもなく、実際はなかなかメンバーが集まらないのが現状だった。
 『ウィルの盾』本部の中はそんなに広くはない。木の板を繋ぎ合わせただけの作りで、部屋の真ん中に大きな柱が一本立っている。部屋の東と西側に大き目の窓があるが、今は閉められている。あと部屋にあるものといえば、簡単なデスクが二つに、背もたれのついたイスが四脚、錠のついた木製の大きなロッカーが一つである。壁には手配書が三枚ほど張ってある。
 その狭い部屋に、男が四人、女が二人。太陽はちょうど真上、昼下がりの最も気温が高い時間帯。異様な雰囲気が部屋を覆っていた。
「どうしてこの暑い日に、こんな狭い部屋に俺はいるんだ?」
 デスクに座った三十代後半の男がぼやく。その顔は汗にまみれて、雫がデスクに落ちる。デスクの上には、カイルとビックの書いた報告書が載っていて、先ほどまでその男が目を通していた。
 その向かい側には、先ほどカイルとビックに捕まった男が、財布の持ち主である女を睨みつけて座っていた。その女の横には、もう一人、二十代後半の肌のよく焼けた女性が座っていた。女性としては背が高く、カイトとほぼ同じくらいだ。淡い紫の長い巻き毛に、気の強そうな瞳。くびれた腰に、胸には大きな双丘。男なら、早々忘れそうにないほど、印象に残る女性だ。
「そう言わないで下さいよ、ヤン隊長」
 捕まえてきた男の横に立っているビックは、この暑さなどまったく気にならないのか、笑顔でその隊長をなだめる。
「仕事だからな。調書なんてさっさと終わらせるか。俺は一秒でも早くここから出たい」
「同感。さっさと終わらせましょう、隊長」
 隊長の横に立っているカイトもこの暑さには参っているようだ。秘密保持のために窓を閉め、調書は全員で取る。それが決まりだ。
「そうだな」 
 ヤンと言われた男はデスクから立ち上がった。背が高く、均整のとれた筋肉は、無駄がない。ビックと比べるとやや小さいが、それを感じさせない。こげ茶色の瞳の渋めの顔には、独特の魅力がある。黒い衣にズボン、腰には長剣を差している。
「それでは、始めようか」
 ヤンが面倒くさげに言った。
「えーと、あんたの財布を取ったのは、この男に間違いないか?」
 ヤンが女を覗き込む。女がビクッと顔を背けた。
「隊長、それじゃ、誰を取り調べているの分かりませんよ。彼女怯えてるじゃないですか」
 確かに、その女はどこか様子がおかしい。それを知ってか知らずか、ヤンはとぼけたように言う。
「ん、そうか? なら、ドーラやってくれ」
「わかりました。私も早く終わらせたいので」
 ドーラと呼ばれた女性が、俯いた女にもう一度ヤンと同じことを尋ねる。そうすると、その女性は俯いたまま大きく頷く。
「けっ!」
 男がそんな女の態度を見て、舌打ちをする。ドーラはそんなことは気にせず、さらに続けた。
「これは、あいつが持っていたものだけれど、あなたの物に間違いないわね」
 女は再度頷く。その口元は妖しく笑っていたが、ドーラはそれに気づかない。その様子に男は、悔しそうに歯を食いしばった。
「スリの現行犯だし、財布もあなたの物と確認が取れたので、あなたはもう帰ってもいいわよ」
 カイルはつまらなそうに、窓から外の様子を覗いている。ビックは男が変なことをしないように、にらみを効かせ、ヤンは楽しそうに男と女を見ていた。
 ドーラが財布を彼女に手渡す。
「こんなところまで来てもらって、ごめんなさいね。これも一応規則だから」
「ありがとうございます!」
 女が嬉しそう財布を受け取ろうとしたところで、
「はい、そこまでだ」
 ヤンが女の伸ばした手を掴んだ。
「隊長?」
 ドーラがいぶかしげにヤンを見た。カイルも、ビックも、男もヤンの方を不思議そうに見ている。
「ドーラ、この女のポケットを調べてみろ」
「えっ?」
 女が驚いたように声を上げた。
「しかし隊長、この女性は……」
「いいから、調べてみろって。ドーラがやらねぇなら、俺がするまでだ」
 ドーラの反論を、ヤンはやんわり言いながらも遮る。カイルとビックは互いに顔を見合わせた。
「分かりました。ごめんなさいね」
 ドーラが渋々、女に触れようとする。
「ちょ、ちょっと待ってください! 一体、何ですか? 私は被害者でしょ!」
 今まで落ち着いていた女が、突然取り乱した。
「悪いな。ちょっと我慢してくれ」
 ヤンの口調はさっきと変わらず穏やかだが、何もかも見透かしたような瞳で女性を見る。途端、女性は黙り込み、顔は青ざめていった。
「じゃあ、ドーラ、頼むな」
 ヤンの声とともに、ドーラはすばやく女のスカートのポケット調べた。
「これが……」
 ドーラが取り出したものは、小さな皮袋をデスクの上に置いた。中に入ってたものは、白い粉だった。
「カイル、舐めてみろ」
 ヤンの言葉に促されて、カイルが粉をほんの少し指にとって舐める。
「これは、麻薬?」
『なっ!』
 ドーラとビックが驚き、カイルと同じように粉を舐める。
「俺は鼻が利くんだ。麻薬の臭いなら、無臭でも分かっちまうんだな。さて、どうしてこんなものが、あんたのポケットから出てくるんだ?」
 ヤンは相変わらずとぼけた口調だが、女はがたがたと震えて、全身から汗が吹き出ていた。
「こ、これは……そこの男から買ったんですっ!」
 ヤンを除く、『ウィルの盾』の面々の目が男に集中する。
「何言ってんだ? 俺は財布を盗っただけだろうが!」
 男がざまあみろといった感じで、女をにらみつけ、食って掛かる。
「あl、もういいわ。このくそ暑い中、ぐだぐだお前らの言い訳を聞く気はないんだ、俺は」
 ヤンは頭を掻きながら痺れを切らして、疲れたようにぼやいた。
「隊長! どういうことなんですか?」
 仕事熱心なビックが大声でヤンに突っかかってくる。
「お前は、叫ぶな。暑苦しい。こいつらは、麻薬を売買してたんだよ。男の方は女に薬を売って、女はわざと、男に財布ごと渡して泥棒に仕立て上げた。そうすれば、ただでこいつが手に入るって訳だ」
 ヤンが皮袋を手にとって見せる。
「俺がヤクの売人だって証拠はどこにあるんだよ! ヤクはこの女が持ってたもんだろうが!」
 男が叫ぶが、
「うるさい。お前がスリじゃないことくらいすぐに分かる。お前が寝てるときに、カイルとビックに報告書を書かせて、読んだんだが、スリってのはな、人ごみじゃなきゃそうも簡単にいかねぇよ。お前が、逃げ出したとき、あたりにはこの女しかいなかったらしいじゃねぇか?」
 ヤンの言葉に、男は黙り込むしかない。
「それにだ。スルならすれ違いざまのはずだ。それがどうして、向かい合ってんだ? 逃げ出すのにも躊躇してるときてる。気づかれれば迷うことなく逃げるだろ、普通? それでも、スリと言い張るなら勝手にしな。時間はたっぷりあるからな」
 ヤンは怒鳴りもせず、苛立った表情もない。ただ淡々と語る。その口ぶりの裏には、底知れない恐怖があった。そして、男はデスクに崩れ落ちた。

 夕暮れ――。昼間の暑さも徐々に和らいでくる。西日が部屋の窓から差し込み、開いた窓から風が通り抜けていく。
「隊長。よくあいつがスリじゃないって、気がつきましたね」
 この街の犯罪者は、街の南側のはずれにある留置所に身柄を拘束され、調書を元に裁判が行われる。あの男と女もその例にもれない。調書をとったあと、カイルとビックはそこへ身柄を引き渡しに行って、たった今、戻ってきたばかりだった。
 女の方はヤンの言うとおり、男から麻薬を買っていたが、金策に困り、この計画を立てた。男も自分がヤクの売人であることを認めたが、その購入ルートは、なかなか吐こうとはしない。女の方はすぐにでも、判決が下りるだろうが、男の方は、余罪も含めて取り調べのために、さらにしばらく留置所で身柄を拘束することになった。
「なぁに、簡単なことさ、ビック」
 ヤンがそう言いながら、カイルとビックに水の入ったグラスを「お疲れさん」と渡す。
「どういうことです?」
 カイルも興味津々と言った感じた。
「そんなに知りたいのか? ならドーラからすってみろ。すぐに分かる」
「そ、そんな、出来ませんよ。殺されます」
 カイルが慌てて首を振る。ビックも同様だ。ドーラはカイルとビックの恐ろしい姉のような存在なのだ。怒らせれば、このやる気のなさそうな隊長よりずっと怖い。
「ん、そうか? なら、俺がやろう。ドーラちょっと来てくれ」
(なんてことを……)
(死ぬ気ですか、隊長?)
 カイルとビックは、恐る恐る互いに顔を見合す。
「何ですか?」
 デスクに座っていたドーラが立ち上がって、ヤンの前にやってくる。
 ドーラが立ち止まろうとした瞬間、ヤンの手がすばやく動いた。
「何するんですか!」
 ヤンの手がドーラの身体に触れるか触れないところで、ドーラの拳がそれ以上の速さでヤンの顔面へくりだされる。
「と、まぁ、こういうことだ」
「え?」
 拳を突き出したまま、ドーラの身体が固まっている。ドーラには、ヤンが消えたように見えた。横で見ていたカイルとビックでさえ、ヤンの動きに付いていけなかった。ヤンは一瞬で、ドーラの背後に立っているのである。
「悪かったな、ドーラ。恥ずかしいことさせちまって」
「え?」
 思わず、振り返るドーラ。
「一体、何が?」
 カイルもビックもドーラも、信じられないように目をパチクリさせてヤンを見る。
「何だ? まだ分からねぇのか?」
 仕方ねぇな、とヤンが頭を掻きながら、
「ドーラ、今どうして拳を出した?」
「えっ? 触られると思ったら、身体が反応してました……」
 ドーラも未だに何が起こったのか、把握しきれていないようだ。
「つまりだ。人ごみの中ならいざ知らず、あの状況なら男が、白昼堂々痴漢行為を働こうとしたと思うのが、普通の女の反応なんだよ。まずスリなんて発想は浮かばない。お前らの報告書を見れば、スリじゃないことはすぐに想像できるさ」
 相変わらず、淡々と語るヤンだが、カイルとビックはそれどころでない。
(いや、隊長、そういうことじゃなくて……。今、当たったよな? 絶対、当たったよな?)
(一体、何が……? 隊長の姿が消えたようにしか見えなかった……?)
「どうしたんだ、お前ら? 口開けて」
「いえ、何でも、ないです」
 と、慌てて首を振ったのは、ビックだ。
「それより、隊長。どうしてこんなことを?」
 ドーラは、さすがにヤンとも付き合いが長いせいか、他の男よりも早く立ち直ったようだ。
「カイルとビックが、俺がどうしてあの男がスリじゃないと分かったのか知りたいと言うんでな……。お詫びに、今晩、ディナーでもどうだ?」
「えっ? 良いんですか?」
 思わず、ドーラのポッと顔が赤くなる。
「たまには、構わねぇさ。それじゃあ――」
 ヤンとドーラが談笑している一方で、カイルとビックは隅の方で、
「おい、今、ドーラの姐さん、マジだったよな?」
「ああ。あれはお前がよく喰らう、ドーラさんの一発だ。隊長は一体、何したんだ? 俺には隊長が消えたようにしか見えなかった」
 未だに、さっきのことで盛り上がっていた。
「隊長は、実はドーラの姉さんより、強いのか? 俺はてっきり、ドーラの姉さんの方が強いかと」
 カイルがひそひそとビックに耳打ちする。
「ドーラさんは、隊長が連れてきたらしいからな。俺達も、隊長の本気はまだ見たことない」
 二人して首を傾けていた。
 と、そこに入り口のドアが開いた。
「こんにちは」
 赤い夕陽に照らされて、白いワンピースに縁の大きな麦色の帽子をかぶった少女が立っていた。
「レティ」
 ビックが振り向いてその名前を呼んで、駆け寄る。レティは十六、七歳と言ったところか。小柄で、華奢。まっすぐに伸びた長い黒髪に、白く透き通るような肌。どこか儚い雰囲気のある娘だ。
 レティはビックの妹。並ぶとレティはビックの腰くらいしかない。それを見ながらカイルは、
(クマと人形。もう少しすれば、美女と野獣だな)
 と、毒づく。
「レティ、いらっしゃい。今日はどうしたの?」
 ドーラが不思議そうに尋ねた。レティがビックの妹であるのは、ここにいる連中には周知の事実だが、ここに来ることは珍しかった。
「兄さん、今日は薬をもらわないと」
 レティが透き通るような声で言う。
「もう、なくなったのか? 分かった、帰りに寄ろう」
「まったく、しっかりしなよ。ビックは兄貴なんだから」
 ドーラがそうビックの頭を小突いた。
「分かってますよ。それじゃ、隊長、今日は上がらせてもらいますね」
「おう。気をつけてな。それじゃ、俺たちも上がるかな」
「ちょっと、待ってくださいよ!」
 慌てたのはカイルだ。
「それじゃ、今日はこれから、俺一人になるんですか?」
「ん、そうなるな。まぁ、大丈夫だろう。気にするな」
 ヤンはぬけぬけと、言ってのけると、ドーラと出て行く。
「ビック!」
「分かった、分かった。戻ってくるから、そういう目で見るな」
 半眼の気の抜けた顔のカイルに、ビックは軽く手を仰いで出て行った。
「それじゃ、カイルさん。頑張っててください」
「レティも気をつけてな」
「ハイ」
 にっこり微笑むと、レティは兄の後ろを追いかけていった。
「はぁ……」
 カイルは戸が閉まるのを見て、イスに深く腰掛けると、天井を仰いで溜め息を吐いた。

 カイルとビックの出会いは、二年前に遡る。
 街をぶらぶらしていたカイルが、広場で一人胸を押さえてうずくまっている少女を見つけた。それがレティだった。辺りにはカイル以外、誰もいない。
「オイ、大丈夫か?」
 こくん、冷や汗を流しながら頷くレティ。
「そんな、青い顔して強がってんじゃねぇ! ほら、病院行くぞ!」
 カイルはほとんど強引にレティを背負うと、全速力で駆けた。カイルの背でレティは苦しくうめいているしかなかった。
 病院の医者の話によれば、レティは心臓の病に侵されていて、発見が遅れれば命にかかわる。今回は発見が早かったおかげで、大事には至らなかった。
 病室のベッドの上でレティは横になっていた。
「ありがとうございます……」
 そう、レティはカイトに弱々しく微笑む。
「気にすんな。それより、心臓、悪いんだって?」
「ええ……。またしばらく入院することに――」
 と、そこに病室のドアが、壊れるんじゃないか思えるくらいに勢いで開いて、大柄な男が入ってきた。
「レティ! 大丈夫か?」
 心底心配そうな顔のこの男が、ビックだった。
「兄さん、私は大丈夫だから」
 レティがほんの少し、困った顔をする。
「あんたが、妹を?」
「まぁ、な……」
 このときカイルは、自分より頭一つ高いビックにたじろいでいた。
「本当にありがとう。あんたがいなかったら、どうなっていたことか……」
 涙混じりにビックが、ためらいなく頭を深く下げる。
(よっぽど、大切な妹なんだな……)
 ふと、そんなビックの態度を見て、深く感動したのをカイルは今も憶えている。
 それから、カイルとビックの付き合いは始まった。レティが入院している間、カイルは見舞いによく足を運んだし、ビックとは妙にウマが合った。二人が、親友と呼べる間柄になるのにそう時間は掛からなかった。
 それからしばらくしたある日、カイルを喫茶店に呼び出したビックが、開口一番、
「カイル! 俺は自衛団に入る!」
 そう瞳を輝かせて言ってきた。そのときのビックの顔は、なぜかぼこぼこに腫れ上がっていた。笑うと、一本歯が抜けていることに気づく。
「はぁ? 自衛団ってあの『ウィルの盾』だろ? それよりどうしたんだ、その怪我は? 歯まで一本抜けてるじゃねぇか。お前が誰かに負けるなんて、そうそうないだろう?」
「怪我のことはいい。それより、お前もどうだ?」
 本当にいいのか? カイルは半ばあきれてビックの話を聞いていた。
「やっぱ、レティの薬のことを考えると、今の仕事じゃだめだ。どうしても金が……」
 もともと、兄と妹の二人暮し。レティに働かせるわけにはいかない。ビック一人で、金を稼いでいたわけだが、このときビックは花屋で働いていた。ビック自身真面目に、よく働いていたが、大した額はもらえていなかった。
(給金は仕事じゃなくて、お前に原因があると思うぞ)
 ふと、この大男がエプロン姿で、花を買いに来た客にスマイルをしているところを想像してみる。
(お客は減ったろうな。というか、場違いにもほどがある。雇った、花屋も花屋だ……)
 もともと花屋はレティを雇ったのだが、それを知ったビックが、強引に代わったことをカイルは知らない。
「それで、何だって、自衛団に?」
「理由は、給金が良いからだ。前みたいに、働けば働くほど、給金が減ることはない!」
(減ってたのか……。それで、よく続けてたな)
 笑いを必死に押し殺して、カイルは頼んだアイスコーヒーを、スプーンでかき回す。
「でもさ、入るのには試験があるだろ? そう簡単にいくか?」
「大丈夫だ。俺とおまえならな」
 ビックの頭の中ではすでに、決定事項のようだ。
「待て。俺はまだ入るなんて一言も」
「そろそろ、お前も仕事に就いたほうが良いと思うんだ」
 そうビックはでこぼこの顔で楽しそうに笑う。当時、カイルはまだ仕事らしいことをしていなかった。
「それで、もうお前の分も出しといた」
「ちょっと、待て! にっこり笑って言うことじゃないだろ!」
「今から、面接があるんだ」
 ビックはそこでアイスコーヒーを一気に飲み干す。
「何だ、その笑みは? オイ!」
「さぁ、いくぞ!」
 カイルはビックに引きずられて、喫茶店を後にした。
 そして、現在に至る。実際、『ウィルの盾』の仕事は大変だが、充実して楽しかった。

 薬屋『深き闇にて』――
 薄暗い部屋に、立ち込める異臭。薬品の入った小ビンが、棚に所狭しと陳列されている。
「ジャードさん。いるかい?」
 ビックは大きな声で店主の名を呼んだ。
「そんなに大きな声で呼ばなくても聞こえるよ」
 店の置くから、黒いローブを身に纏い、黒いサングラスをかけた、頬骨が見えるほど痩せこけた老け顔で、長身の男がやってくる。レティはこのジャードが苦手なのか、ビックの背に隠れる。
「レティの薬、出来てる?」
「ああ、ビックさん。出来てるよ。でも、ちょっと値が張ってしまいますが、構いませんか?」
「えっ? 値上げしたの?」
 ビックの顔が強張る。
「すみませんね。調合するための薬が、なかなか手に入らなくなって」
「一体、いくら?」
 正直、金はそう持っていない。貯金できるだけの蓄えなんてあるはずもなかった。それでも、レティには換えられない。実際、ここの薬を使うようになってから、レティの発作の回数は少なくなった。
「小ビン一つで、金貨三枚になります」
「なっ!」
 ちょっと値上がったくらいではない。ジャードの提示した金額は、ビックの一か月分の給金である。家中の金をかき集めてどうにかといった額だ。
「そりゃ、高すぎるよ。どうにかならないの、ジャードさん?」
「兄さん、いいよ、無理しなくても。前の病院の薬師さんからもらおうよ」
 レティが後ろから背伸びをして、ビックに耳打ちする。
「いや、でもな。ここの薬にしてから、お前の発作も減ってるしな」
 ビックの言葉にレティも黙るしかなかった。
「でも、レティさんにしてみれば、生きるか死ぬかの問題ですから、どうでしょう? 私今新薬の実験をしてるんですよ。そこで、ビックさんがその実験に協力していただければ、薬の方は無料で差し上げますよ」
 ジャードが明るい声で微笑む。
「タダでいいんですか!」
 ビックは喜びの声を上げた。人間、金に困る日々が続くと、その言葉に弱くなるらしい。一方、レティは不思議そうに首を傾けていた。
「ええ、構いませんよ。それでは、協力していただけると言うことで……」
「ええ、喜んで」
 その言葉に、ジャードは「ちょっと、待っていてください」と奥へ消えていった。
「兄さん、本当にいいの?」
 レティが心配そうに兄を見る。
「大丈夫だ」
 ビックはそう一本かけた白い歯を覗かせて笑うと、レティの頭に大きな手を乗せた。
 
 その晩……。
 一人の酔っぱらった男が、暗い夜道を歩いていた。 足元もおぼつかない。今にも倒れそうだ。男は行く先に何か大きな影を見つける。
「なんだぁ、ありゃ?」
「グワァァァァ!」
 何かが雄叫びを上げたと思うと、次の瞬間――
「えっ?」
 信じられないように、自分の身体を見る。男の身体は、胸から腹にかけてえぐれていた。
「なんだよ……?」
 男はそのまま地面に膝を落とす。
「グオォォォォォォ!」
 次の瞬間、男は頭を捕まれて、身体ごとグシャッという嫌な音とともに壁に叩きつけられていた。
「グオォォォォォォ!」
 そいつは雄叫びを上げると、すでに絶命した男の両肩を掴むと、力任せに引き裂いた。そして手の中の肉塊を無造作に放り投げると、血の付いた爪を舐めて、闇の中に消えた。

 翌朝、本部でヤンを始め、支部の隊長を交えて、対策がねられた。
 目撃情報なし。ただ獣の雄叫びが聞こえたという情報は多く得られた。しかし、何よりも危険なのは、明らかに人の仕業とは思えない、その殺し方だった。遺体は、原形をとどめいてはおらず、頭はつぶされ、身体は力任せに真っ二つに裂かれていた。身体を叩きつけられたであろうその壁には、人型の血痕が無残に赤く残っているのである。
 現状の対策として、住民には極力外出を避けるよう勧告を出し、『ウィルの盾』で、見回りを強化することになった。
 だが、功を急ぐものはどこにでもいる。
「見回りといわず、我が隊で捕まえてやるっ!」
「獣か。人間を舐めたらどうなるか教えてやるっ!」
 と、ほとんどの支部では、その獣を退治、捕獲にがぜんやる気を見せて、本部を後にした。
 そんな中、ヤンだけは眉をひそめて、腕を組み考え込んでいた。
「隊長……」
 ドーラが心配そうに声をかける。カイルとビックもその場にいた。
「いいか、よく聞けよ。これからの方針を言う」
 ヤンの声音がいつになく真剣そのものだった。
「一応の決定だ。これから、見回りを強化する。必ず、二人一組で動け。いいな! そしてこれは俺からの命令だ。奴を見つけたら、迷わず、逃げろ!」
「え? 逃げるんですか? 捕まえもせず?」
 ビックがヤンの言葉に異論を唱える。
「そうだ。死にたいなら別だがな。いいか、絶対逃げろ。こいつは、冗談でも、脅しでもない。お前らじゃ、絶対殺されるのがオチだ」
 その場にいた全員が息を飲んだ。いつもはおどけて、軽口しか言わないヤンが、きっぱりとそこまで言ってのけるのる。これはそういう事件なのだ。
「でも、見つけた場合は?」
 カイルが当然に疑問を口にする。
「俺に知らせろ。見つけて、生きていられたらな」
 ヤンの言い知れない緊張感が、その場を包みこんでいた。カイルの頬から汗が滴り落ちていった。 

 見回りが強化されて一日。
 猟奇殺人の噂はまたたく間に街中に広まったらしく、まだ昼下がりというのに、通りには誰一人として人影はない。街はそれこそ、ゴーストタウンと化したようだった。見回っていた『ウィルの盾』の支部の面々までが三人も殺され、この状態に拍車をかけている。
 そんな街の中をカイルとビックは歩いていた。昼間からシンとした街が、やけに不気味だった。真夏というのに、全身に寒気がまとわり付くように気持ち悪い。汗がじっとりと流れた。
「一体、いつまでこんな状況が続くんだ?」
 重苦しい雰囲気に耐え切れなくなって、カイルが口を開いた。
「さぁな。ただかなり危険なことだけは確かだ。気を抜くと、俺達もやばいだろう」
 ビックの言葉にヤンの真剣な顔が、カイルの脳裏をよぎる。
「と、あれは?」
 ビックが通りの向こうからやってくる人影に気づいた。
「ジャードさん、一体どうして?」
「これは、ビックさん」
 ビックがジャードの元へ走ったので、カイルもその後を追いかける。
「今、街がどういう状況なのか分かってるんですか?」
「いえ、こういう状況だと、薬も取りにこれないの方がほとんどですので」
「そういうことでしたか。なら、お店の方まで、送りますよ」
「ちょっと、待てよ」
 カイルが横槍を入れて、ビックを引っ張る。
「危険だって。いつもどおり見回りをして帰るぞ」
「そうもいかないんだ。このジャードさんは、レティの薬師さんなんだよ」
「この夏のくそ暑い時期に、サングラスかけて、涼しそうな顔で黒のローブを着て、こんな状況の街を徘徊してるあの妖しい奴がか?」
 ちらっと、カイルが横目でジャードを見る。
「おまえなぁ、そこまで言うか。世話になってるんだ。嫌ならお前だけで帰ってくれ」
 ビックは一度恩を感じると、それをいつまでも忘れないで報いようとする。それが今回はあだになっている。カイルにもそれが分かったので、半ばやけくそ気味に、
「ったく、好きにしろ」
「お前なら、そう言うと思った」
 ビックは嬉しそうに一本かけた歯をのぞかせて笑った。
「すいません。それじゃ、ジャードさん行きましょう」
「よろしいんですか?」
「構いませんよ。いつもお世話になってますし」
 先を歩くビックたちの後をカイルは距離をおいて追った。
 何事もなく薬屋『深き闇にて』にたどり着いた。店内は相変わらず、薄暗く、なんともいえない異臭に満ちていた。カイルはその臭いに顔をしかめるが、ビックは慣れているのか何ともないようだ。
「わざわざありがとうございます。おお、そうだ。ビックさんも、街がこういった状況ではこちらまで足を運ぶのは大変でしょう。レティさんの薬、調合したものがありますので、差し上げますよ。わざわざ、こちらまで送っていただいたお礼です。お代は結構ですよ」
「いいんですか?」
 ジャードの言葉にビックの顔が輝く。
(分かりやすい奴……)
 ビックの態度のカイルはそう毒づくが、そこがまたビックの良いところでもことは、よく知っている。
「ええ、構いませんよ。ああ、そうだ。また協力してもらえますか? そちらのカイルさんもどうです?」
「何の話だ?」
 カイルはいぶかしがった。
「ジャードさんは、なんでも新しい薬を開発されたから、その実験に協力してほしいそうだ」
 なぜかビックが、誇らしげにカイルに説明する。
「具体的には何をするんだ?」
 カイルは、あまり興味もなさそうに聞く。
「薬を飲んでもらうだけですよ」
「これに協力したおかげで、レティの薬代をまけてもらってる」
「薬代を……?」
「ああ、そうだ。おかげでだいぶ生活が楽だ」
 カイルは一瞬、怪訝に思ったが、心底嬉しそうなビックを見て、まぁ喜んでるし、いいか、と思う。
「それじゃ、お願いします」
「分かりました。飲まれるのは、明日でお願いします。何か身体に変化があれば教えてください」
 そう言ってジャードは店の奥に消えていった。
「ところで、何の薬なんだ?」
 最もな疑問をカイルは口にする。
「分からん。多分、精力剤かなんかだろう。飲んだら、気分がよくなった」
 その言葉に、カイルは唖然とした。そして、こう誓う。
(俺は絶対、飲まねぇ)
 薬を受け取った帰り道。ビックは終始ご機嫌で、カイルにジャードのありがたさを、本部に着くまで耳にたこができるまで熱く語った。

 夜の見回り。いつもある家の明かりさえ、今はない。空は雲に覆われているのか、漆黒の闇に覆われていた。そんな通りを歩くカイルの隣にはビックではなく、ヤンが並んでいた。ビックは妹のレティが心配ということで、家に帰った。
「お前は一体どうして、この仕事に就いたんだ?」
「俺ですか?」
 ヤンが、そう言えばまだ聞いてなかったな、と突然聞いてきた。
「俺はビックの奴が、強引に誘ったんですよ。別にやろうと思って入ったわけじゃないんです」
「ハハハ。あいつらしいな。それで、どうだ、二年やってきて?」
 ヤンはこの街の状況など関係ないのか落ち着いていた。
「楽しいですよ。危険なこともありますけど、やりがいも感じてます」
 カイトは正直に答えた。もともと、それなりに腕っ節には自信もあったし、何よりも身のこなしなら、誰にも負けないと思っている。だから、やっていけると思っていたし、実際、思っていた以上に充実した毎日を送っている。
「隊長はどうして?」
「俺か? 俺はこの街が好きだからだ。昔はこれでも傭兵で稼いでいたんだが、それじゃな……」
 ヤンはそう言って、遠い目をした。カイルに昔、何かあったことを感じさせるにはそれで十分だった。それで、話を変える。
「隊長は緊張しないんですか? 街がこんな状況で」
「緊張しっぱなしで、肝心なときに力が出せなかったら意味がねぇだろ? そういうお前だって、緊張してるようには見えんぞ」
「隊長といるからですよ。ビックと一緒じゃ、ずっと緊張しっぱなしですよ」
「嬉しいこといってくれるじゃねぇか」
 と、そこまで言ったときにヤンの歩みが止まった。
「隊長?」
 カイルが振り返ろうとした瞬間――
「カイル、動くんじゃねぇ!」
 ヤンの叫びにカイルの身体が硬直する。
 ヤンの姿が掻き消える。
 ガンッ!
 カイルの背後で何かが激突する。
「隊長!」
 思わずカイルは振り返った。そこには長剣を盾にして、全身毛に覆われた、血のように赤い目の化け物の爪を避けていたヤンの姿があった。
「くっ! カイル! お前は逃げろ!」
「しかし!」
「これは命令だ! いいから退け!」
 化け物はヤンの爪を立てて、二撃目を放とうとする。
「ちぃい!」
 ヤンが次の攻撃に備える。
 しかし、次の攻撃が来ない。
「何だ?」
 長剣を構えたまま、ヤンが化け物を睨み見る。
「グ、グゲェェェェェェ!」
化け物が苦しげなうめき声をあげる。
「一体どうしたんだ?」
 カイルも、化け物の様子がおかしいことに気がつく。
「ウゲェェェェェェェ!」
 化け物の身体が痙攣を起こし、その狼のような口から、紫の血を吐いて、
「グハッ!」
 一際、大きくうめくと、その場に音を立てて崩れ落ちた。
「……」
 あまりの出来事にカイルは言葉を失った。ヤンが倒れている化け物に近づく。
「死んでるな」
 ヤンが確信を持って呟く。
「隊長、こいつが、あの――」
 そこで初めてカイルは化け物の全身を見る。全身灰色の毛で覆われ、身の丈はビックよりも二回りもでかい。手や足は、身体には不釣合いなほど長く、指先には巨大な爪が生えていた。頭は狼を思わせ、血のように赤く光っていた目は、絶命のために大きく見開かれ、口からは紫の血を吐いていた。
「まぁ、おそらく、間違いないだろうな」
 ヤンが油断なく化け物の死体をじっと見つめながら、何か考え込んでいる。
「こいつは、一体……」
 その身体を見るかぎり、獣といった類ではなかった。これはすでに、動物であることさえやめた生き物だった。
「さぁな。とりあえず、一旦引き上げるぞ」
 長剣を鞘の収めながら、ヤンが踵を返す。
「こいつはどうする――!」
 カイルは言いかけていた言葉を止める。
 化け物の身体が、急速に風化していく。
「どうなってんだ……?」
 信じられなかった。化け物の身体は、そこには初めから何もなかったかのように、跡形もなく風に霧散していった。
「隊長……?」
 助けを求めるように振り返る。カイルの頭の中は、パニックになって、もう何がどうなったのか整理がつかない。
「そこにはもう何もない。帰るぞ」
 ヤンが難しい顔で暗い闇を見上げて、きっぱり言った。

「お前はあれで、この事件が終わったと思うか?」
 本部に着いてからしばらくして、ヤンがそうカイルに聞いてきた。
「……わかりません。正直、終わって欲しいですけど……」
 落ち着きは取り戻したものの、カイルの頭の中は未だに整理がつかない。
「まだ整理がつかないか?」
「ハイ……」
 その一言を搾り出すのがやっとだ。目の前で起こったことは、すでにカイルの常識を超えていた。あのときは、興奮して分からなかったが、冷静に考えればヤンがいなければ、カイルはすでにこの世にいないのだ。しかしその自分を殺そうとした化け物は、突然絶命し、その死体は跡形もなく消えたのだ。
「そうか。そういうときは、何も考えないで、ただ事実だけを受け入れろ。理解しなくていい。あの化け物は突然俺達を襲ってきて、勝手に死んだんだ。跡形もなくな。それが事実だ」
 ヤンがきっぱり言い切った。
 カイルは目を閉じて、深く息を吸って、ゆっくり吐いた。
(事実だけを受け入れる……)
 そして、瞳を開ける。
「もう、大丈夫なようだな」
「はい」
 大きく頷いたカイルに、ヤンが満足そうに笑った。
 この男のこの強さは一体、どこから来るのだろう、カイルはなんとなくそんなことを考えていた。
「話を戻すぞ。俺はまだこの件が終わったとは思っていない」
 ヤンの顔は真剣そのものだった。
「なぜです?」
 もう、化け物はいないのだ。確かに目のまで跡形もなく消えた。
「あれは、どこで生まれて、どこから来たんだ? 一匹しかいないのか? どうしていきなりこの街に現れた?」
 当然の疑問だった。目の前の事件は確かに終わったかもしれない。しかし、根本的な問題は、何一つ解決してはいない。この男は、そう言っているのだ。
「そこでだ。俺はまだ化け物が死んだと報告する気はない。報告したところで、誰も信じはしないだろうがな」
「しかし――」
「お前は、俺に、『獣の正体は、得体の知れない化け物で、死体は消えました』なんて報告をさせる気か? バカにされるのがオチだ。あと、ドーラとビックにも秘密にしておけ。いらん心配をかけたくはないからな」
 まだ納得のいかないカイルに、ヤンは有無を言わせない。
「とにかくそういうことだ。お前は、今日もう休め。そろそろ、ドーラも来るだろう」
 ゆっくり空が白み出す。
 カイトはこの男が何を知っていて、あえて何も語っていないような気がしてならなかった。         

 あれから五日が経った。新たに誰かが殺されることもなかった。
 そうすると街の住人も、痺れをきらす。平然と街を出歩く人間も出てきた。『ウィルの盾』の方でも、大した手がかりを得ることも出来ず、これ以上住民を押さえることは出来ない。
「相変わらず、手がかりなしね。街の方も人が出始めてきてるわ」
 外からビックととも戻ってきたドーラが、そう街の様子を話した。
「それと、ビック。今日はどうしたのよ。何か様子が変よ」
「ああ……なんでもないです。大丈夫です……」
 そうは言うものの、全身からは大粒の汗が流れて、壁に寄りかかって立っているような状態だ。
「ホントに、大丈夫か? とりあえず座れよ。かなりやばそう――」
「うるさい!」
 カイルの心配に、ビックは大声で怒鳴りつける。
「す、すまない……」
 反射的に謝るビック。
 重苦しい雰囲気が三人を包む。
「一体、どうしたんだよ、ビック?」
 心配そうにカイルが、ビックの傍に行く。
「少し、疲れてるんだ。ちょっと休めば、大丈夫だろう……」
 そうビックはイスに腰掛ける。
「午後の見回りは、私とカイルでやるから、ビック、あんたは休んでなさい」
「しかし――」
「これは命令よ! こんな状態のあんたは、正直足手まといよ」
 ドーラは、はっきりそう告げる。
「あんたの熱心さは買うけれど、そんな状態でまで働かせるほど、私も鬼じゃないわ。あんたがそんなんじゃ、レティも悲しむわ。今はゆっくり休みなさい」
 最後に優しくビックに母親のように微笑みかける。カイルは、ドーラらしい慰め方と思う。最初に厳しいことを言い、最後に優しく微笑みかける。それにカイルも何度も助けられてきた。
「カイル、隊長の姿が見えないんだけど?」
「隊長は、また麻薬中毒者が暴れてるって、留置場に行ってますよ」
 ヤンがわざわざ留置所の麻薬中毒者の面倒をみるというのも、看守というのは、囚人を見張るのには長けていても、麻薬中毒者をどう扱って良いのか知っているはずもない。そこへ行くとヤンは、傭兵時代に麻薬に溺れてきた連中を見てきたため、それなりに対処法を知っている。これは医者の領分ではあるのだが、医者とて囚人まで見ていられるほど暇ではない。そこで、麻薬中毒者の対応に困ったときは、まずヤンに対応を聞くことが、当たり前のようになっていた。
「そう、分かったわ。それじゃ、行くわよ、カイル」
「行くって、どこにですか?」
 カイルの脳裏に嫌な予感がよぎる。出来ればあまり、外に出歩きたくはない。見回りのコースには、思い出したくないあの現場もあるのだ。しかし、それは言えない。
「私たちがここにいたら、ビックがゆっくり休めないでしょう?」
 そうドーラがカイルに耳打ちする。
 ビックはもともと自分よりも、他人に気を遣いすぎるのだ。カイルたちがここにいれば、それこそ気を遣ってゆっくり休もうとしないだろう。
「そういうことなら、分かりましたよ」
「それじゃ、行くわよ。ビック、留守番頼んだわね」
 そう言って、カイルとドーラは出て行く。
 ビックは返事さえ出来なかった。

 街にはこの状況に痺れを切らした人が、それなりに出てきていた。空はどんよりと曇って、今にも雨が降りそうだった。
「嫌な空だ……」
 カイルがそう唾を吐く。
「そうね。さっきはまだマシだったんだけど、急に悪くなったわね……。このまま、何も起こらなければいいんだけど……」
 ドーラもどこか嫌な感じの空を仰ぎ見る。
 こうも天気が悪いと、街全体がどことなく暗く見えて、何か嫌な予感が脳裏をよぎる。
「すみません、カイルさんではありませんか?」
 後ろから呼び止められて、カイルは思わず振り返る。そこには、いつものサングラスに黒いローブを着たジャードが立っていた。
「いやぁ、どこかで見た後ろ姿でしたので、お仕事中ですか?」
 ジャードは妙に上機嫌で、声の調子も明るい。
「ええ、まぁそんな所です」
 ジャードの妙に上機嫌で、馴れ馴れしい態度が、カイルの癪に障る。
「そちらの女性は?」
「同僚ですよ。ドーラさん、こちらはレティの薬を調合してもらってるジャードさんです」
 カイルの言葉に合わせて、ドーラがジャードに挨拶をする。
「上機嫌ですけど、何かいいことでも?」
 カイルは口調に嫌味を含ませてみるが、ジャードはまったく気にした様子もなく、
「ええ。ちょうど一仕事終わったところなんですよ」
「一仕事? また薬でも運びに?」
「そんなところです。それよりも、この前の薬、試してもらえましたか?」
 ジャードが心底、おもしろそうな顔で聞いてくる。まるで、新しいおもちゃを与えられた子どものようだ。
「ええ。何か身体が軽くなったような感じで、気分が良くなりましたよ。精力剤か何かで?」
 もちろん、嘘である。カイルはそんなものを飲んではいない。
「クククク……」
 堪えきれないようにジャードが、妖しく笑う。
「ジャードさん?」
「ああ、申し訳ありません。薬がうまくいったようで、嬉しいんですよ。精力剤? ええ、そんなところですよ。アーハハハハハハッ!」
 ジャードが気が狂ったように、人目もはばからず、空を仰いで笑う。周囲にいた街の人々が離れたところから好奇の目でジャードを見る。カイルとドーラでさえ、そのあまりの狂気に言葉が出なかった。
「それでは、私はこれで。アーハハハハッ!」
 ジャードはそのまま歩き出す。取り囲んでいた人の輪が、開かれていく。ジャードは時折、笑いすぎて息が出来なくなり、大きく息を吸う。そして再び、狂ったように笑い出す。
「本当に大丈夫なの? あの薬屋……」
 ドーラの呟きに答えることが出来ず、カイルはジャードの後姿に言い知れない不安の感じていた。

 ヤンは暗い廊下をコツコツと歩いていた。
 ここは留置所の地下。かび臭いにおいがどこからともなく匂ってくる。廊下の右手には、犯罪者を捕らえておくための鉄格子で出来た牢が並んでいる。その牢から犯罪者たちの恨みのこもった視線がヤンに注がれている。
「ふう、やれやれ、どうして俺がこんな辛気臭いところに顔を出さなくちゃいけないのかねぇ?」
 溜め息混じりそうぼやくいて、目的の牢の前で立ち止まる。
「なるほど、看守が俺に連絡をつけてきたわけだ。こいつは相当やばいな」
 そこでヤンの頭の中で何か閃いた。
「あれは、ただの麻薬じゃなかったて訳だ。そうすると、あの男はますます怪しいってわけだ」
 牢に入っていたのは、この前麻薬を買っていた女だった。
「ガァァァァァ!」
 女は全身が痙攣し、獣のような叫び声を上げる。女はヤンに気がつくと、人とは思えないスピードで鉄格子に体当たりをしてきた。
 ガァン!
 ものすごい音が、地下に響き渡る。女は鉄格子に弾き返されるが、痛みを感じているようではなかった。
「一体、どうしたんだよ?」
「何だ?」
 他の囚人たちが、騒ぎ出す。
「グワァァァァァァァ!」
 女の身体が歪に歪み出す。
「なるほどな」
 ヤンは他の囚人たちのことなど耳に入らないのか、鉄格子越しにのんきに女の様子を観察する。
「ガアァァァァッ!」
 女は一際大きな唸り声を上げた瞬間、女の身体に異変が起きた。ギシッミシッという骨と筋肉にきしむ音ともに、女の骨がありえない形をとっていく。
「ったく、俺はそんなものが終わるのを待ってるほど、お人好しじゃねぇんだ。悪いな。お前も人として死にてぇだろ?」
 ヤンが憐れむように女を見る。そしてゆっくり瞳を閉じて、長剣に手を掛けた。。
 一閃の白銀。
 女は音もなく膝を床に落とした。一瞬の間をおいて、鉄格子が斜めに斬られたように、女の身体も袈裟切りに二つに分かれていく。血しぶきが牢のあちこちに飛ぶ。
「本当は、弔ってやりてぇんだが、まだやることがあるんだ。すまねぇな」
 返り血を浴びながら、いびつな身体のまま絶命した女をなんとも言えない表情でヤンは言った。
「あの野郎は、まだまともだといいんだが――」
 と、そのとき、
「グワァァァァァ!」
 獣の叫び声が、留置所全体を振るわせた。
「オイ、一体何があってるんだ?」
「助けてくれ!」
「オイ、あんた。一体どうなってるんだ?」
 囚人たちも、事態の異常さに、本格的に騒ぎ出す。
「そんなわけにはいかないか。やれやれ、今日は大忙しだな」
 ヤンが、物騒に舌なめずりをしながら笑う。そして、そのまま、囚人たちを無視して、地下を走る。
「いやがったな」
 壊された鉄格子から、手足の長い灰色の毛むくじゃらの化け物が出てきていた。そのすぐ傍に、様子を見に来たのであろう、看守が腰を抜かしていた。
「ヒィィィ! た、助けてくれ!」
「こっちだ! 急げ!」
 看守が四つん這いで、大慌てでヤンの方へ向かってくる。それに気がついた化け物が、雄叫びを上げながら、看守を追ってくる。ヤンも同時に床を蹴った。
「ギャァァァァァ!」
「おいおい、お前の相手は俺だろう?」
 長く伸びた爪で看守を襲おうとしたところで、ヤンの長剣がその腕を薙ぎ切る。
「グギャァァァァ!」
 痛みで、化け物は苦しんだ声を一際大きく上げた。
「すまねぇな。痛い思いさせちまって。安心しな。その苦しみも、すぐ終わらせてやる」
 ヤンが一気に長剣を振り下ろした。一瞬あと、化け物の身体が真っ二つに裂ける。
「次は真っ当に生きてくれよ」
 化け物の身体が床に落ちるのと同時に、そう言ってヤンは、長剣を鞘に収めた。
「す、すげぇ……」
 腰が抜けた動けなかったのか、看守はまだそこにいた。
「ちょうどいいや。あんたに聞きたいことがあるんだ」
 ヤンは屈んで、看守に笑いかけた。

 ビックは霞んでいく視界から、カイルとドーラが入り口から出て行くのが見えた。
 出て行くときに、ドーラが何か言ったような気がしたが聞こえなかった。入り口が閉まる音も聞こえなかった。
 全身が熱い。
 骨がミシッと嫌な音を立てる。
 筋肉がブチッと嫌な音を立てる。
 身体中が歪み、きしんでいくような感覚がビックを襲う。
 大粒の汗が、全身を濡らしていた。
 ビックは自分を抱きしめるように、痙攣する身体を必死に抑え込む。
(一体、どうしたんだ、俺の身体は……?)
 意識さえ気を許すと、失ってしまいそうだった。熱にうなされるように、いまいちはっきりしない。
(ここは、どこだっけ……?)
 ドカッ!
 ビックの巨体が、イスから前のめりに倒れる。だが、ビックはそれにさえ気がつかない。
 ミシミシッと、骨がさらに大きな音を立てる。筋肉もブチブチッと嫌な音を立てる。しかしその音も、ビックには聞こえない。
「グワァ!」
 苦しさのあまり、拳を床に叩きつける。
(俺は、誰だっけ……?)
 ビックの霞んでいく意識の中に、ドアが開く音と光が入ってきたような気がした。

 ポタ、ポタポタ……。
 遠くで雷が落ちる音がした。それを合図にしたかのように、雨が一気に降り出す。
「やっぱり、降り出しましたね」
 カイルが憂鬱そうに、空を仰いだ。
「カイル。もう、戻るわよ。雨は多分、もっとひどくなるから」
 遠くの空に浮かぶ真っ黒な雲を、ドーラが睨みつける。
「キャァァァァァァ!」
 近くで悲鳴が上がる。
「カイル!」
 ドーラが呼ぶよりも早く、カイルはすでに走り出していた。
 走りながら、カイルには一抹の不安がよぎっていた。
(あの化け物じゃありませんように……)
 そう願わずにはいられなかった。
 ふと、ヤンが見つけたら、迷わず逃げろ言っていたことを思い出す。
 カイルの脳裏には、血のように赤い瞳に、狼の頭、異様に長い手足。あの灰色の毛むくじゃらの化け物が、はっきり思い浮かんでいた。
(ちくしょうっ!)
 カイルは降りしきる雨の中、振り切るように走った。いつしかドーラとは、かなりの距離が出来ていた。
(あの角を曲がれば――)
 
「ちっ、嫌な雨だ」
 ヤンは留置所から、街の中心部に向かって全速力で走っていた。中心部がどうも騒がしいのだ。嫌な予感がしてならない。
 看守の言葉を思い出す。
 ヤンが留置所に来る前、薬屋を名乗る男が、留置所にやってきて、こう言ったそうだ。
『先日、捕まった男は、私の所から薬を買っていた男で、服用しなくなれば、命にかかわる。だから薬を届けに来た』
 と。しかもこういう状況だから、男から金は取らなかった。
 看守たちはその男が薬屋ということで、様子のおかしかった女も見てもらった。すると男は笑いながら、
『あの女はじき、静かになりますよ。彼女もうちから薬を買っていたんでよ。大丈夫ですよ』
 それはもう、こみ上げてくる笑いを抑える素振りも見せず、怪しかったそうだ。
 今回の黒幕はその薬屋の男と考えて間違いない。その薬屋は、売人を使って、その薬を売っていたのだ。その売人から、おそらく何も知らされないで買っていたのがあの女だろう。売人自身も、何を売っていたのかは知ってはいなかっただろう。そしてカイルとビックに、運悪く捕まった。
(わざわざ、捕まった売人の男のところにまで来たのは、口封じ……いや、実験か? たまたま、そこにあの女もいたのは、嬉しい誤算って所か。だが、問題は、そいつが薬をばら撒いてるってことだ)
 雨は嫌になるくらい強く降ってきていた。
 ヤンにしてみれば、今回の事件は傭兵時代に聞いたことがあった事件とよく似ていた。
 傭兵時代、ある薬を飲んだ傭兵が、突然苦しみ出して、全身灰色の毛で覆われ、異様なほど手足が長くなり、頭が狼のようになって、その場にいた仲間を襲い出した。その場にいた傭兵はほぼ全滅、化け物となった本人も、突然紫の血を吐き死んだ。しかし化け物の死体はどこにも見当たらなかった。運良く生き残った傭兵が、そのことをヤンに話して聞かせたのである。ヤンもその場に行ってみたが、そこには傭兵の悲惨な死体以外なかった。ヤンはその薬の出所を調べたが、結局何の手がかりも出てこなかった。
(まさか、こんな形で出てくるとはな)
 だから、カイルやビック、ドーラには逃げろと命令したのである。
 街の騒がしさがはっきり聞こえてくる。
 ヤンは街全体を見渡すために、適当なところにあった家の屋根に登った。
「どうやら嫌な予感は、当たっちまったみてぇだな」
 ここから見て、その数は二十体以上。珍しくヤンの顔が強張っていた。

「兄さん?」
 レティが『ウィルの盾』本部のドアを開けた。
 ピカッ!
「キャッ!」
 どこかで落雷があったようだ。それとともに、大粒の雨が窓を叩きつけ始めた。風でドアが勝手に音を立てて閉まった。
「兄さん! 大丈夫?」
 床にうずくまっている兄を見つけ、急いで駆け寄った。レティは朝から様子のおかしかったビックを心配して見にきたのだ。
「ウゥゥゥゥゥゥゥ!」
 苦しそうにうめく。
「兄さん、しっかりして!」
 ミシミシッ! ブチッ! ブチッ!
 聞いているレティの方が、痛くなるような音が、部屋中に響いていた。助けを求めようにも、ビック以外誰もいない。みんなは、見回りに出かけていた。
「ウガァァァァァァ!」
 ビックの身体が一瞬、二倍になったかのように膨れ上がる。同時に、きていた服も破れ散る。
「ねぇ、どうしちゃったの?」
 必死にレティは呼びかけるが、ビックには一向に届かない。
「ガァァァァァァ!」
 ビックの全身を灰色の体毛が覆っていく。
「に、兄さん?」
 もはや兄の身体に何が起こっているのか、レティには分からなかった。
 バキッ! バキバキッ!
「グギャァァァァァァァ!」
 一際音とともに、大きな唸り声が部屋中に響き渡った。
 次にレティの目の前に立ち上がった姿は、すでにあの優しい兄の姿ではなかった。

 角を曲がった先でカイルが見たものは、予想していた通りの化け物だった。あたりはこの化け物が破壊したのか、瓦礫の山が出来ていた。そして、今、目の前で、まだ幼い五歳くらいの少女が化け物に両腕を捕まれて、引き裂かれようとしていた。そのまだ幼い顔は、恐怖でしわくしゃになって、大声で涙を流して泣いていた。
(逃げるんだ!)
 頭の中で何かが囁く。今ならまだ間に合う。しかし、カイルの身体は、ただその光景を凝視したまま、動くことはなかった。
 何もかもがスローモーションに見えた。少女が何か叫んでいるのに、カイルには聞こえなかった。それなのに、化け物が少女を引き裂こうと、力を入れたのはカイルにははっきりと分かった。
 少女の顔が恐怖と苦痛で歪み、さらに大きな声で頭を振りながら助けを求める。その少女の瞳とカイルの瞳が一瞬交錯する。
「たすけてっ!」
 聞こえなかったはずの声が聞こえた。激しい雨の音もはっきりと聞こえた。
 次の瞬間、カイルは腰に差していた短剣を化け物に向かって投げつけていた。
 グルグル回りながら短剣は、化け物の右肩に突き刺さる。
「グギャァァァァァァ!」
 化け物の肩から紫色の血があふれ出る。
 ギロッと赤い瞳が、カイルを睨みつけたと思うと、次の瞬間、化け物は手の中の少女を投げつけてきた。
「くっ!」
 よけるわけにもいかず、思わず反射的にカイルは少女を受け止めて倒れたしまった。
(くそっ!)
 化け物が一瞬で、距離を詰めたのが分かった。逃げようにも、少女が上にいるため、逃げることも出来ない。もっとも逃げられるとも思えないが。
(ここまでか……)
 化け物の左腕が高く上げられる。
 せめて、この娘だけでもと、カイルは身体を回転させて少女を下にする。少女の泣き声が耳に痛い。カイルは目をぎゅっと閉じた。
「ウギャァァァァァァ!」
 化け物の叫び声が上がった。
「えっ!」
 思わず、後ろを振り向いた。
 そこには喉元から紫の血しぶきを上げる化け物の姿があった。
「一体何が……?」
 化け物はそのままドスンッと地響きを立てて倒れた。そのあまりの音に少女も泣き止む。
「大丈夫か?」
 カイルが声のする方を見ると、そこにはカイルの短剣を手にした、細身で長身の、黒髪の長く伸ばした二十歳過ぎの若い男が立っていた。
「あ、あんたが助けてくれたのか?」
 カイルは起き上がりながら、自分の身に起きたことを整理していた。
「まぁ、そういうことになるな。それより、こいつは一体……?」
 男は倒れている化け物を睨みつけて、そうカイルに聞いてきた。
「分からない……」
 カイルにはそう答えるしか出来なかった。そこで、今まで泣き止んでいた少女が、再び泣き出した。
「そうか。とりあえず、その子は君に任せるが、構わないか?」
「それは構わないけど……」
 なんと言っていいのやら、カイルには分からない。自分はただ、悲鳴のするほうに走ってきただけなのだ。
「カイル! 無事なの?」
 そこへドーラはようやく駆けつける。状況は見ただけで判断がついたようだ。
「姐さん遅い。こっちはこの人いなかった死ぬところだったんだから」
「ドーラさん!」
「あら、クロード。久しぶりね」
 二人は旧知の仲なのか、親しげに挨拶を交わす。
「姐さん、この人知ってるんですか?」
「まぁね。でも、どうしてクロードが?」
 ドーラが怪訝そうにクロードを見た。
「たまたま、通りかかっただけです。そうすると、悲鳴が聞こえたので」
 クロードが少女に微笑みかけると、少女は泣くのをやめた。
「それにしても、こいつは一体……」
 そう言って、ドーラが化け物を指さそうとしたとき、化け物の身体はすでに雨で粉々になって流され始めていた。
「とにかく、本部に戻って現状を把握しましょう。クロード、あんたも来て。多分、あんたの力も必要になるから」
 雨はただ激しく降り続けていた。

 ヤンが街を疾駆していく。
 人々が逃げ惑う。途中、何人もの、元が人間であったことさえ疑わせるような死体があった。街のいたるところが破壊され、瓦礫の山が築かれていった。
(こいつらは一体、どこに向かってやがる?) 
 ひとしきり、破壊と殺戮を楽しんだ後、毛むくじゃらの化け物はふと何か思い出したように、移動し始めていた。
(もっとも、そっちの方がこっちとしては都合がいいんだが……)
「ひえぇぇぇぇぇ!」
 ヤンのすぐ近くから男の悲鳴が上がる。
「ちいぃ!」
 ヤンがすぐそこの角を曲がると、中年の男が毛むくじゃらの化け物がその巨大な爪を振り下ろしたところだった。
「俺はなぁ、久々に本気で切れたぜ!」
 そこ怒りのこもった叫びとともに、ヤンは強く地面を蹴りつける。同時にヤンの身体が掻き消える。化け物がヤンの方を振り向いたとき、その身体は縦に真っ二つに斬られていた。
「はぁっ!」
 さらにヤンは剣を返す。
 化け物は十文字に斬られ、その断末魔さえ上げることはなかった。
 街のあちこちで、悲鳴と破壊がヤンの耳に嫌でも聞こえてくる。
「ちくしょうがっ!」
 ヤンは柳眉を逆立てて、再び走り出した。

「兄さん……?」
 レティの目の前に立っているのは、ついさっきまで確かに兄だった。それが、今は――。
「グルルゥゥゥゥゥ……」
 狼のような頭に付いた、血のように赤い瞳でビックよりもはるかに高いところから、レティを睨みつけている。
 たった一人の家族だった。かけがえのない兄だった。いつも自分のことを気に掛けていてくれた兄だった。
 レティの脳裏に嫌な記憶が蘇る。
 あのとき、身体を張ったのは、ビックだった。ぼこぼこに殴られて、レティを守ろうとした。そのとき殴られて、ビックの歯は一本欠けてしまった。笑うとその一本抜けたをのぞかせる。レティはそれを見るたびに、どうしようもなく、胸が締め付けられてしまう。
 あのとき殴られる兄と、この変貌してしまった兄が、レティの中で重なって見える。
 レティは瞳からは大粒の涙を流しながら、兄の名を叫ぶ。
「ビック兄さん!」
 目の前にいるこの化け物にも、確かに一本歯が抜け落ちていた。
「グワァァァァァァァ!」
 そのビックが、大きな雄叫びを上げて、
「兄さん……?」
 信じられないようにレティは、兄を見上げた。
 ビックだったものが、大きくその爪を振り上げた。
 それと同時に、入り口のドアが大きく開いた。

 ここはどこだ……?
 俺は、誰なんだ……?
 大切なことを忘れている気がする……。
 とても大切なことを……。
 頭の中で何かが叫ぶ。
 コワセ……。
 ハカイシロ……。
 メニウツルスベテヲハカイシテシマエ……。
 何を言ってるいるのかよく分からない。
 ただそれ従っていれば、楽な気がする。
 何か考えようとすれば、頭が痛い。
 目の前に、小さな少女が映る。長い黒髪に白いワンピースを着てる。
 俺は、何か、忘れてるんじゃないか?
 遠くで、雄叫びが聞こえた。
 何もかも遠く、別世界のようだ。
 頭が痛い……。
 少女が何か叫んでいる。
 何……?
 聞こえないんだ……。
 遠い……。
 俺は、何かをしなくちゃいけない気がするんだ。
 何か、大切なことを忘れてる……。
 もう、いい。
 考えるのに疲れた。
 何かが持ち上がる気がした。
 振り下ろすのか……?
 そのとき、ドアが開いた。
 なぜか雨の降る音が聞こえた気がした。     

 カイルたちは急いでいた。濡れることを気にしている場合ではなった。少女は母親が探しに戻ってきたので、そのまま返すことが出来た。
「一体、どうなってるんだ。あの化け物は何体いるってんだ?」
 すでに、苦もなくクロードがカイルの短剣を使って三体は殺していた。そのたび、カイルはその実力に驚かされるが、ドーラ曰く、長剣の方が得意らしい。そのせいか、動きが微妙におかしいらしいが、カイルには分からなかった。ただただ、あの化け物を秒殺していくその様子に驚いていた。
 カイルの呟きにドーラが反応する。
「これじゃ、街はパニックね。どれだけ被害が出てるかわかったもんじゃないわ」
 実際、化け物によって街はいたるところが瓦礫と化していた。
 そのとき先頭を走っていたクロードが、いきなり止まった。
「止まって!」
「えっ?」
「何?」
 クロードの声に、反射的に足を止める。
 ドカァッ!
 突然、三体の化け物が、上から攻撃を仕掛けてくる。レンガで造られた通りが、粉々に砕けた。そのまま走っていれば、三人とも今の攻撃で死んでいたに違いない。
「ここは俺に任せて、早く逃げて!」
 クロードはすでに三体の化け物相手に、応戦している。
「分かったわ。クロード死ぬんじゃないわよ! カイル、行くわよ!」
「でも――」
 ドーラが迷うことなく、ためらうカイルの手を引く。
「大丈夫よ。クロードはあんたが思っている以上に強いんだから。それより、私たちは今で私たちに出来ることをするのが先よ!」
 そのままドーラはカイルの手を強く引っ張った。
(この人たちのこの強さは、一体どこから来るのだろう?)
 そう思いながら、振り返る。
 そこには三体の化け物を相手に互角以上に戦うクロードの姿があった。
(あれなら、大丈夫か)
 ドーラの言う通り、クロードはカイルの想像以上の実力の持ち主だった。
 クロードはカイルとドーラの姿が見えなくなったのを確認して、こう呟いた。
「『Door』が無事ならいいけど」
 そして、襲ってくる爪を、高く跳んで避けた。

 化け物たちは街を破壊し、街の人々を殺しながらも、確かにある場所を目指していた。
「なるほどな。あそこか……」
 ちょうど十体目を一刀両断して、ヤンはその場所を見上げた。
 街全体を見渡せる高台。化け物たちは確かにそこを目指していた。
「なら、あの場所でやるのが、一番効率がいいな。まったく、何体いやがるんだ? ぞろぞろ出てきやがって」
 そうぼやきながら、振り向きざまに一閃。
 爪を振り下ろそうとしていた化け物の身体が、横に二分される。
「唯一の救いは、こいつらが死体を残さないってことだな」
 ヤンは乱れた息を整えて、再び走り出した。
「待ってろよ。変態野郎!」

「グワァァァァァァァ!」
 その雄叫びが『ウィルの盾』本部を揺らす。間違いなく中から、聞こえてくるものだ。
「カイル!」
「分かってます」
 カイルの脳裏に最悪の想像がよぎる。まさかな、と思うが言い知れない不安は拭い去れない。
 入り口のドアを開け放つ。
 そこには腕を大きく振り上げた化け物と、なぜかレティがいた。
「レティィィィ!」
 カイルは反射的に叫んでいた。
 化け物の身体がビクンッと反応して、振り下ろそうとしていた腕の動きがピタッと止まった。
 その一瞬の隙をドーラが見逃さなかった。強く、床を蹴るとレティに向かった跳ぶ。レティを抱き締めると、そのまま床に転がる。
 化け物の止まっていた腕が、振り下ろされ空を切った。
「どうして、こんなところにレティとあの化け物が?」
 ドーラが信じられないように身体を起こしながらぼやく。
 カイルには分かっていた。血のように赤い瞳でこっちを見る、狼の頭を持った毛むくじゃらの化け物がもとは誰であるのかを。この外にいた化け物のより一回りも大きいこの化け物がもとは――。
「ビック兄さん!」
 レティがドーラの腕にしがみついてそう叫ぶ。
「えっ!」
 ドーラが驚いて、腕に中のレティを凝視した。カイルは瞳を閉じた。そして、直感的に理解した。
 あのジャードとかいう薬屋が、人々を殺し、街を破壊している化け物を作り出しているのだ。薬を配るなどと言いながら、実際は、この化け物に変える麻薬を配っていたに違いない。だとすると――。カイルは、ちらっと、レティを見る。さらに、認めたくは事実にたどり着く。その瞬間、カイルの頭の中で何かが弾けた。
「ビィィィィィィック!」
 気がつくと、カイルは叫んでいた。心の底から叫んでいた。
「お前は言ったじゃねぇか! 俺に! 守るんだろうがっ! たった一人の妹だから、この世でたった一人の家族だからって、俺にそう言ったじゃねぇか!」
 なぜか、カイルは泣いていた。
 化け物がカイルの方を向く。
「憶えているかよっ! 『ウィルの盾』に入って初めて捕まえたときによっ! そう言ったよなっ!」
 カイルは顔を真っ赤にして、首筋には血管を浮き上がらせて、叫んだ。喉がいかれてもかまわなかった。頭の中が真っ白になる、そんな叫びだった。
「何やってんだよっ! そんなんで、いいのかよっ! お前はそんなもんかよっ!」
 どれだけ叫んでも、叫び足りなかった。カイルにはもう分かっていた。これからどうなるかが……。それでもひとかけらの希望に賭けた。あいつはまだビックだと。まだ声は届いていると――。
「カイル……」
 その叫びにドーラがその名前を呟く。
「ウゥゥゥゥゥ……」
 化け物の様子が変わる。
「兄さん……? 兄さぁぁぁぁぁぁぁん!」
 レティがドーラに抱き締められたまま。今まで以上に泣き、手をビックに伸ばす。
「ウグワァァァァァァァァ!」
 化け物が苦しそうにうめき声をあげた。壁に体当たりをする。その一撃でそのもろい壁が砕け散り、化け物はそのまま駆け出していった。
「兄さん、待って!」
 レティがドーラの腕の中で、手を伸ばして追いかけようとするが、それをドーラが止める。
「レティ、だめよ!」
「いやぁ! 兄さんが、兄さんが……」
 レティはその場に泣き崩れた。
「レティ、行くぞ! あの単細胞のアホ野郎を助けんだ!」
 カイルはそう言って、化け物が壊した壁に向かう。頭に上った血は、冷めることを忘れてしまったようだった。
「カイル! だめよ! あんたもここにいなさい!」
 ドーラがカイルに駆け寄っていく。
「あいつまだ、声が届くんだ! 俺たちの声が聞こえるんだ! 見ただろ? あいつはまだ完全に化け物になっちゃいない」
 不思議と確信が持てた。淡い期待かも知れない。しかしこのままでは、ビックは……。あのとき、突然血を吐いて倒れた化け物の姿が思い出される。
「これは命令よ!」
「あいつと約束したんだ。手が離れたら俺がまた繋いでやるって……。それでも俺を止めるってんなら、俺はここをやめてやる! レティ! 行くぞ!」
 カイルはドーラを睨みつけたまま。そうレティに手を伸ばした。
「ごめんさい、ドーラさん。兄さんを助けたいんです!」
 レティは涙を拭いて、カイルの手をとる。
「行くぞっ!」
「はいっ!」
 お互いに頷くと、カイルはレティの手を引いて、ビックの後を追った。
「ったく、いつの間にか、一人前の顔になって。あんたが行って、私が行かないわけなじゃない?」
 雨はやむことを忘れたように、その強さを増していくだけだった。
 
 声が聞こえた……。
 れ、てぃ……?
 何かが止まった気がした。
 でもそれはほんの一瞬だった。すぐにそれは振り下ろされてしまった。
 頭が痛い……。
 また、声が聞こえた。
 び、っく……?
 何だ?
 やめてくれ、頭痛が酷くなる。
 視界にはいつの間には、肌が褐色の細身の男が立っていた。
 男は何か叫んでいた。
 いった……?
 まもる……?
 いもうと……?
 かぞく……?
 頭が痛い……。
 また声が聞こえた。
 にいさん……?
 遠くで雄叫びが聞こえた気がした。
 身体に何かが当たった気がした。
 雨……?
 あのときは、黒い服を着た人がたくさんいた……。
 いつのまにか、外に出た。
 顔に雨が当たる。
 どこに行くんだ……?
 視界が動く。
 雨……。
 何か忘れてる……。
 とても、大切な……。
 となりで誰かが、泣いてた……。
 どこかに止まる。
 街が見渡せた。でもどこも壊れていた。
 誰かが、剣を振るっている。
 あと一人、黒い男がいた。
 
「おや、こちらに向かってくる命知らずな人間がいるとは?」
 ジャードがおもしろそうに笑う。
「けっ! 化け物を追ってくりゃ、その産みの親に会えるとはな」
 ヤンはそう唾を吐いた。ジャードはヤンよりもさらに高い位置の見晴台にいた。
「どうですか、この子たちは? ここまでこぎつけるの時間は掛かりましたが、いい出来ですよ」
 ジャードが快楽にいってしまうような、気色悪い笑みを浮かべた。
「そりゃ、これだけの数だ。さぞかし苦労しただろうね」
 ヤンが油断することなく、嫌味たっぷりに笑う。
「ええ、実験の途中というのに逃げ出した子もいましたね。もっとも、どこかですでに、死んでるでしょうが。そうそう、知ってます? この子たち、死んだら死体も残さないんですよ。よく出来てると思いませんか?」
 自分の研究を嬉々と説明するジャードは、やったことを親にほめてもらおうとする子どものようだ。
「一番苦労したのは、どこの誰かは存じ上げませんが、せっかく雇っていた売人を捕まえてしまわれたせいで、私自ら、薬を配って歩き回ったことです」
 空を向けた顔に手をあて、声高らかにジャードは笑い出す。
「もっともおかげで、こうして一人一人に催眠術をかけて、この可愛い子どもたちは、私の言いなりですよ」
「悪趣味もいいところだ。ヘドがでるね」
「これだかから、知能の低いサルは困る。この研究のすばらしさが、わからないなんて。この薬はただ、あのように身体が変わるだけではないのですよ。さらに、理性を喰らい、破壊衝動と凶暴さを植つけ、増大させていくんです。この薬を一国に売ったら、どうでしょうね? その国は一夜にして、世界最強の兵を手に入れることが出来きますよ。あるいは、良薬と偽って、売ってもいいでしょうね。理性のないこの子達が、勝手に街を破壊してくれます。ゾクゾクすると思いませんか?」
 ジャードはすでに、自らの妄想に酔っていた。
「てめぇが人間というなら、俺はサルであることを選ぶね」
 ヤンがそう剣を構えた。
「人間? そんな低能なものと一緒にしないで下さい。私はすでに、世界を手に入れたも同然なんですから! この街は最初に破壊された街として、歴史にその名を刻むことでしょう!」
 もはや狂っているという言葉では、足りなかった。狂気がジャードを飲み込んでしまっていた。
「おしゃべりもそろそろおしまいです。さぁ、可愛い我が子よ、この男を血祭りに上げなさい!」
 ジャードの狂った声と同時に、毛むくじゃらの化け物が一斉にヤンに襲いかかる。
「甘ぇよ」
 ヤンがそう短く言うと同時に、高く跳躍して攻撃を避ける。
「俺が無駄にてめぇと話していたと思うか? この化け物を待っていたのさ。一箇所で殺った方が楽だからな」
 ヤンを取り囲んでいる化け物の数はおよそ二十体。その中の一体に一際大きな化け物の姿があった。
「戯言を。おお、あの一回り大きいのは、ビックさんですね。身体があまりに大きいので薬がうまく作用するか心配でしたけど、うまくいったようですね」
「ビックだと……?」
 ヤンの顔に驚きの表情が浮かぶ。
「おや、お知り合いでしたか。それは悪いことをしましたねぇ。ですがあなたはもう死ぬんです。私はここからあなたの死に行くさまを見物させてもらいますよ。ああ、そうだ。死ぬ前にあなたの名前を聞いておきましょう」
 ジャードが余裕たっぷりにヤンを見下ろす。
「俺の名はヤン。聞いたことはあるかっ!」
 そう怒りのこもった叫びをあげるが早いか、ヤンの身体はすでにジャードの視界から消えていた。

 誰かが剣を振るう。
 どこかで見たことがある。
 雨……。
 あのときも、雨が降っていた……。
 あのときは、痛かった……。
 でもそれ以上に、悔しかった……。
 繋いだ手が離れた……。
 離したらいかなかった……。
 誰かが、泣いていた……。
 手を離したから……。
 もうだめだと思った……。
 この人ががやってきて……。
 何か、忘れてる……。
 とても大事な……。
 あのときも、雨は降っていた……。

「ヤ、ヤンだと? ベルセルク=H」
 ジャードの顔から余裕の笑みが消え、みるみる青ざめていく。
 ベルセルク=\―傭兵時代、長剣を巧みに操り、ねらった敵は必ず殺してきた。その非情なまでの戦いぶりを謳った、ヤンの通り名である。その存在自体すでに伝説となっていた。
「その様子だと、知ってるみてぇだな!」
 一瞬、ヤンがその姿をジャードに見せ、怒りのこもった眼差しを投げつけた。すでに何体かの化け物の死体が、ヤンの足元に転がり、崩壊を始めていた。
「そんな馬鹿なっ! ヤンがこんなところにいるはずはない! ヤンは傭兵を引退したんだ」
 明らかにジャードは取り乱していた。
「引退したから、ここにいるんだが。まぁいい。今日の俺は、ぶち切れてんだ! 覚悟しやがれっ!」
 そう言って、肉食獣のようにヤンは唇を舐める。
「ビィィィィック!」
 そのとき、カイルが叫んびながらレティとこっちに走ってきているのが、ヤンに目に映った。その少し後ろにはドーラの姿もあった。
「なんだってこんな……? そうか、ビックか……」
 ヤンが一回り大きな化け物をちらっと見ながら、剣を振るう。
「さぁ、ベルセルク≠殺れ! い、いくらヤンでもこれだけの数でかかれば……」
「声が震えてるぞ、薬屋! さては、自信がねぇんだろ? これで本当に十分なのかよっ?」
 化け物の数はさらに減っていく。
「行けっ! 行くんだっ! 全員で襲いかかれっ!」
 ジャードはすで困惑していた。目の前で為すすべなく、毛むくじゃらの化け物は消えていく。そんな化け物たちは、忠実にジャードの言葉に従い、消えていく。ただ一体を除いて――。
「すまねぁな。せめて苦しまなくてすむように、殺してやる。恨むなら、そこの薬屋を恨んでくれ!」
『ウォォォォォォォッ!』
 襲い掛かる化け物の攻撃は、どれ一つヤンに当たらない。掠ることなく、全て空を切った。
「はぁっ!」
 気合、一閃。
 化け物は断末魔を上げることなく、崩れ落ちていく。ジャードはその姿に、紛れもなく伝説のベルセルク≠見た。
「そ、そんなはずはない! 最強のはずだ! この私が、人間ごときに負けるはずがないんだ! ふぁはははははははっ!」
 もはやジャードは錯乱し始めていた。すでに残っているのは――
「あとは――」
 攻撃をしないそいつを見て、ヤンは手を休めた。しかし、その目は油断なく、そいつを見ていた。
「ビック……」
「兄さん……」
 そこにカイルとレティが、階段を昇ってやってくる。
「キサマ、何をしている? 薬が足りなかったのか? ええぃ、さっさとそいつを殺せ!」
 ジャードが上から、大声で叫ぶ。
「グルルルルルル!」
 そいつは唸るだけで、じっと動くことはなかった。
「てめぇ! ジャァァァドォォォ!」
 カイルがジャードを見上げて叫ぶ。
「お前、薬を飲んだんではなかったのか?」
「てめぇの怪しい薬なんか、飲むわけねぇだろう! てめぇそこに居やがれ!」
 ものすごい形相で、カイルが上に行こうとする。
「オ、オイ、せめて俺を守れ!」
「ガァァァァァ!」
 そいつが動こうとする。
「だめぇ!」
 レティが驚くべき行動に出た。その場にいた全員が、レティを見た。
「兄さん! 行っちゃだめだよぉ!」
 動こうとしたそいつの目の前に、レティは両腕を広げて立ちはだかったのである。
「ウガァ……」
 そいつの動きを止めて、レティをその赤い瞳で不思議そうに見る。
「兄さん、元に戻ってよぉ……。そんな兄さんもう見たくないよぉ……」
 レティが瞳に涙を溜めながらも、まっすぐにその毛むくじゃらの――ビックを見つめた。
「そんな小娘さっさと殺して、私を助けろ!」
「ウガァァァァァ!」
 ジャードの言葉に、ゆっくりそいつは腕を大きく振り上げた。
「いいよ、兄さんが私を殺したいなら、殺してもいいよ。私がいたから、兄さんはこんなになちゃったんだよね。私なんか、いなかったら兄さんはもっと楽にいきられたもんね」
 それでも、レティはまっすぐビックを見ていた。
「ビック。俺はあのとき、言ったよな」
 カイルもレティの横に駆け寄った。
「もしもお前らの手が離れたときは、俺が間に入ってやる。だから、あんな奴に負けるんじゃねぇ!」
 カイルが、ジャードを指さす。
「ウワァァァァァァァァァ!」
 ビックが一際大きな叫び声を上げた。
 雨が嫌な音を立てて、降り続いていた。

 目の前にいる、この娘はだれだ?
 少女が瞳に涙を溜めて、腕を大きく広げていた。
 俺はそんな泣き顔を見たくないんだ……。
 どうして、そんな顔をするんだ……?
 雨だ……。
 何か、忘れてる……。
 とっても大事な何か……。
 手を繋いでたんだ……。
 誰と……?
 守ると誓ったんだ……。
 何を……?
 大事な、大事な、妹……。
 たとえ、この身体がどうなろうと……。
 だから、ずっと、守ってきた……。
 あのとき、手が離れて……。
 泣いていた……。
 腕を、足を押さえられて……。
 何も出来なかった……。
 悔しさだけが……。
 だから、強くなりたかった……。
 泣かないでくれ……。
 俺が、お前に降りかかる全ての不幸から、守るから……。
 レティ……。
 
 ビックの身体が、その場にドカッと倒れた。
「お前たち、一体何をした!」
「何もしてないわよ。あの子たちが、あんたに勝っただけよ」
 ジャードは、背後からの声にものすごい形相で振り返る。そこには遅れてやってきたドーラの姿があった。
「お前も、私の邪魔をするのか? こうなったら、私自ら――」
 ジャードはそう言って、ローブの中から小ビンを取り出すと、その中に入っている丸薬を飲もうとする。
「まだ実験段階だが、仕方ない。私はここで、終わるわけには行かないのだっ!」
「待ちなさい!」
 ドーラがそれを止めようと走ったが、間に合うはずもない。丸薬は、そのままジャードの口に飲み込まれていた。
「オオオォ!」
 ジャードが歓喜の声を上げる。
「チカラガ、カラダノオクカラワキアガッテクルヨウダ。コレナラ、カテル。アノべるせるく<jモ、カテルゾォォォォォォ!」
 雄叫びとともに、ジャードの身体が変形していく。身体は三倍にもなり、口が裂け、鼻が前に飛び出してくる。肌は灰色になり、手足が異様なまでに伸びて、さらに肘から骨が突き出ていた。
「やれやれ。他人だけでは飽きたらず、自分も人間辞めちまうか。まぁ、てめぇにはお似合いだがよ」
「隊長!」
 気が付くとヤンが、ドーラの隣に立っていた。
「ワタシハ、ナゼアレホドコノオトコヲオソレタノダ? コレダケノチカラガアレバ――」
「ご託は死んでから、好きなだけ吐いてくれ。俺はてめぇだけは許さねぇからよ」
 ヤンは強く地面を蹴った。
「ガァァァァァァ!」
 ジャードだったものが、振り回して襲ってくる。その腕がヤンのいた場所に届く頃には、ヤンは懐に入り込んでいた。
「ナニィ!」
「遅いんだよ」
 そのままヤンは、剣を振り上げる。
「ウガァァァァァァァァ!」
 紫の血が吹き出て、ヤンの身体を汚す。
ヤンの剣はジャードの身体を股から右肩にかけて、真っ二つに斬っていた。そして、ジャードは轟音とともに、地面に倒れる。
「ナゼダ? ナゼ……?」
「まだ生きてるのか? しぶとい奴だ」
 ヤンがとどめを刺そうと逆手に剣を持ち替えて、高く上げた。
「マ、マッテクレ! オレヲコロシテモイイノカ? れてぃノクスリハオレニシカツクレナイゾ」
「なんだそんなことか? 俺の知り合いに腕のいい奴がいるんだ。てめぇに出来ることは全部できるだろうぜ。もっとも、そんなもんがレティにいまさら必要とは思えんがな」
 そう、剣をジャードに突き刺そうとしたところで、
「隊長、待ってくれ。ジャード、レティにはあの変な薬は飲ませちゃいねぇだろうな!」「シンゾウノヤバイコムスメナンゾ、ジッケンタイニナルワケナイダロウ」
「それを聞いて安心した。放っといても死ぬだろうが、止めくらい刺してやる。逝け」
 ヤンがそうジャードの額めがけて長剣を放った。
 雨がいつやむともしれず、いつまでも降り続いていた――。        

 父と母が流行り病で死んだのは、俺が十歳のときだった。レティはそのとき六歳になったばかりだった。幼かったレティは、まだ死というものが良く分かっていなかった。ただ、もう会えないことだけを理解して泣いていた。
 降りしきる雨の中、父と母の棺が土の中に入っていくとき、俺とレティの手を握っていた。そのときもうレティは心臓が弱かった。だから俺がまもってやると誓ったんだ。この手を離したらいけないと思ったんだ。
 親戚の家をたらい回しにされた。どの家に行っても、俺たちはこき使われた。レティは身体が弱かったから、俺がレティの分まで働いた。
 俺は十八でレティを連れて、この街にきた。いつも貧しい生活だった。レティの薬のこともあった。それでも俺たちは自由な生活が楽しかった。なにより、カイルと出会えた。
 カイルはたまたま、発作を起こしていたレティを助けてくれた。それからの付き合いだ。
 俺が『ウィルの盾』で働くようになったのは、隊長に助けてもらったからだ。
 夜、俺とレティが歩いていたら、突然襲われた。俺は不意をつかれて、すぐぼこぼこにされた。あのとき、レティと繋いだ手が離れたと気の感じは今もはっきり覚えている。ぼこぼこになりながら、レティが泣き叫んでいても何も出来ない自分が憎かった。手を離してしまったことが、悔しかった。自分を盾に、守ってやることさえ出来なかった。
 そのとき、助けてくれたのが、ヤン隊長だった。瞬く間に、その場にいた連中を片づけていった。俺は奇跡と思った。もう、守れないと思ったから……。
 その次の日、カイルに『ウィルの盾』に入るって話をしたら、驚いていた。強引にあいつを引き入れたのは、良かったと思う。あいつは楽しそうに働いてくれた。
 初めて逮捕したのは、ひったくりだった。俺とカイルはその日、祝杯を上げた。そして、初めて俺たちのことを話した。どうして『ウィルの盾』に入ったのかも含めて、洗いざらい話した。
 カイルは、俺にこう言った。
『そのときは、俺がお前とレティの間に入って、手を繋いでやる。お前に何かあったときは俺がちゃんと、お前とレティの間に入ってやるよ。何、笑ってるんだよ、ビック? 俺は真剣にだなぁ――』
 嬉しかった。本当に嬉しかった。お前に話して本当に良かった。あのときは笑ってたんじゃないんだ。泣いてたんだ。
 俺は今もレティと手を繋いでいるのだろうか?
 レティは泣いてないか? 
 笑っていてくれ。
 俺はレティのために生きている。
 レティ、お前がいるから、俺がいるんだ。
 だから、私がいなかったらなんて、そんなことは言わないでくれ。
 泣かないで……。
 いつまでも、いつまでも笑っていてくれ……。

エピローグ

 雨がやんだ――。
 雲が晴れ、それには星が瞬いていた。
「クロード、お前も戦ってくれたんだってな? ドーラに聞いたぞ」
 ヤンがそう言って、コーヒーを飲んだ。
 もう遅い時間帯のために、店内には、カウンターに座るヤン以外客はいない。
「ええ、まぁ。成り行きでそうなりました」
「すまんな。また剣を持たせちまって」
「いいんですよ」
 クロードはそう言いながら、カップを拭く。
「やっぱり、ここにいたんですね、隊長」
 入り口のカウベルを鳴らして入ってきたのは、ドーラだった。
「ドーラさん。何にします?」
 クロードは旧友のこの女性に、水を出す。
「コーヒーよ。とびっきり濃いやつを、お願い」 
 そうドーラはウインクする。
「かしこまりました」
 クロードはそう言って、奥の方で豆を引き出した。
「ここは無事んですね。良かったわ」
「まったくだ。この街で、ゆっくりコーヒーが飲めるのはここだけだからな」
「そう言って、また見回り、サボる気でしょう?」
 ドーラが、いたずらをする子どもを見つけた母親のような顔をする。
「なんだ、知ってたのか?」
 そう言いながらも、まったくヤンに驚いた様子はない。
「まったく……私が何言っても聞きゃしない。今度はレティにでも頼もうかしら?」
「レティか。俺もレティにはかなわねぇな。俺にはあれはできねぇ」
 あれ――ビックの前に立ちはだかることだ。
「俺は、自分を攻撃してくる人間を斬ることしか知らねぇからな」
「あら、伝説のベルセルク≠フ言葉とは思えませんね」
「決して折れることのない信念を持った人間には、勝てねぇよ。あのときのレティとカイルにはそれがあった。もちろんビックにもな。俺には、あのときビックを斬ることしか出来なった」
 ヤンがそうコーヒーを一口飲む。
「嘘ばっかり。信じてたくせに」
「どうだろな? 俺はなんたって、伝説のベルセルク≠セからな」
 ヤンがそう笑う。
 店の中にコーヒーの良い香りが漂い出す。
「そろそろ、私は見回り戻ります」
「ご苦労さん」
 ドーラが席を立って、カウベルを鳴らす。クロードがその音を聞いて、顔を出す。
「あれ、ドーラさんがいない。まだいいんですか? てっきり、見回りに出て行ったと……?」
「いいんだよ。たった今、休憩の許可が下りた」
 それを聞いたクロードはにっこり笑って、また奥に戻った。
「ったく、気の利くことをしてくれるね」
 ヤンの好みは濃い目のコーヒーだった。
「そういや、あの薬屋の名前、知らねぇな……。まぁ、いいか。よくあることだ」
 コーヒーの香りが、ヤンの鼻を刺激していた。

 ビックは夏の暑い日ざしが差し込む中、目を覚ました。窓から白いカーテンを揺らして、風が入り込む。
 手に柔らかな感触があった。
 持ち上げてみると、レティの手がぎゅっと握られていた。
 離れていない。いや、一度は離れて、また友に繋いでもらった手だ。
 レティは床に膝を置いて、ビックの寝ていたベッドに、その愛らしい顔をうずめていた。病室のイスには離れた手を繋いでくれた、カイルが腕を組んで眠っていた。
 ずいぶん長い間、眠っていたような気がする。
 正直な話、このでかい身体に今ほど感謝したことはない。このでかい身体のおかげで、ジャードの薬が、完全に効かなかったのだ。
「ちゃんと、お前の声は聞こえたんだ、カイル」
 ビックは本部でレティを襲うとしたことをぼんやり憶えていた。それだけではない。ほとんどのことははっきりしないが憶えていた。その中ではっきりしていることが、カイルの叫びだった。
「お前はちゃんと、約束を守ってくれたんだな……」
 ビックの巨体が震えた。口からは嗚咽が漏れた。
「うううぅぅぅ……。あのとき、お前の声が聞こえなかったら、きっと……」
 ビックがレティの手を強く握る。
「ビック兄さん……」
 レティがぼんやり瞳を開ける。
「兄さん! カイルさん、兄さんが!」
 レティがはしゃぐ。
「ん?」
 カイルがゆっくり顔を上げる。
「やっと目を覚ましたか、このアホ」
「アホはねぇだろう、アホはよ」
「うるうせぇ。ビック、何泣いてんだよ?」
「そういう、お前もな……」
 言われて、カイルは頬を伝う涙に気が付いた。
「これはあくびだ」
「いや、泣いてた……」
 三人はいつまでも、喜びを分かち合い、泣いていた。
 空はその限りない青さをみせつけるように晴れ渡っていた。

 ビックはそれから一ヶ月は入院が必要だと医者から言われたが、二週間で退院して、
「化け物か?」
 カイルにそう冷やかされた。
 退院してしばらくは、あの状態で唯一生き残ったために事件の責任を感じていたようだが、
「ビックだけが生き残ったんじゃねぇよ。おまえだから生き残れたんだ。お前が責任を感じることなんてどこにもねぇよ」
 カイルのその一言で吹っ切れたようだ。
 レティは成長するにつれて、身体も丈夫になっていた。発作の回数が減ってきたのは、ジャードの薬のおかげではなかった。まだ安心は出来ないが、もうそんなに心配しなくてもいい。それを知ったビックが泣いて喜んだのは言うまでもない。今は以前働きたがっていた花屋で働き、看板娘にとして頑張っている。見回りと称して、やたら覗きにくるビックが心配の種だ。
 ヤンは相変わらず、やる気を感じさせないで隊長を演じている。それでも、ビックとカイルの眼差しが変わったのは明らかだった。もっとも、ドーラが、
「隊長は、見回りと言って、喫茶店で休んでるのよ」
 と暴露したので、その威厳はもはやない。
 一度ビックが
「街はどうなるんでしょうか?」
 と、ヤンに聞いていたが、
「ほっとけば元に戻るさ。人間て生き物はそんなに弱かねぇさ」
 その言葉にビックが納得したのかどうかは分からないが、それはこれからビックが決めることだ。
 ドーラはそんな隊長の下で、気苦労が絶えない。調書も結局は、ドーラが取っている。それでもドーラはヤンと働けて嬉しそうだ。
 カイルはああ言った手前、引くに引けず、家に閉じこもっていたら、ドーラがやって来て、
「やめたの? いつ? 聞いてないわね。許可なく辞められると困るのよ。隊長があんなんだし」
 と言われ、また喜び勇んで『ウィルの盾』で働いていた。
 今日もビックとともにカイルは見回りに出る。
「まだまだ、暑いな。これじゃ冬の方がまだましだ」
 流れる汗を拭いもせず、カイルが空を仰ぐ。
「冬になれば、夏がましというくせに」
「うるせぇ」
 太陽は空高く、大きな白い雲が浮かんでいる。たくさんの白い洗濯物が南風に揺れた。
 とりあえず、街は今日も平和――
「きゃぁぁぁぁぁぁ!」
「行くぞ、カイル!」
「遅いんだよ、ビック!」
 ――ではない。

Tales of WILL Episode4
 Summer Rain――守るべきもの――‘nd


トップ アイコンBack     トップ アイコンあとがき     トップ アイコンCity of Will TOP

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送