ただ夜明けを見ながら

 虚しさが心の奥深くから湧き上がっては、吐息と共に白く消えてく。
 物言わぬ親友を前にしたとき、何を口にすれば良いのか? 
 想像するとサージュの足は重くなった。それでもサージュは北へ向かう。サージュの向かう先、大通りの先の街外れに墓地があった。そこに親友のジードが眠っている。
 ジードが死んだのは、ジードが二十五歳になる誕生日の一週間前だった。真冬で路面が凍りついていた。滑って階段へ転びそうな子どもを助けようとして、ジードは体を投げ出した。そうして子どもを助けたまでは良かったが、ジード自身は長い階段を転げ落ちていった。打ち所が悪かった、そう言ってしまえばそれまでだった。ジードは首の骨を折って、即死した。
 あれから一年。それが早いのか、遅いのか――サージュは独白する。
 お前はレーベンに帰ることばかりで、それも死んじまったら、なんにもならないじゃないか。せっかく戦争が終わったというのに。
 民族統一を掲げてフォークオーツ王国が、二人の故郷レーベンに侵略を開始したのは、冬がやって来て間もない頃だった。大国対地方の農業都市では、戦争にさえならなかった。殺戮と言うほかなかった。レーベン側の敗北が決定的になるのに一月も掛からなかったが、隣国の介入のためにレーベンの内乱は五年近く続いた。収束したのはつい三ヶ月前の話だ。
『レーベンに残り戦うか、それとも逃げるのか』
 開戦して間もなく、レーベンの主のいない民家に二人で隠れていたとき、サージュはジードに尋ねた。ジードの判断は早かった。
『また帰ってくればいい』
 レーベンへの愛着が人一倍強かったジードがそう笑ったことが、サージュには意外だった。
 故郷レーベンの戦火を逃れて、五年。早いもので五年。そのうちの一年はサージュ一人だった。時はあっという間に過ぎて去っていた。
『いつか……いつか、としか言えないのは、嫌なもんだな』
 記憶の中のジードは、どうしようもないというように笑いながら、夢を語っていた。
『とにかくだ。いつか戦争が終わったら、ミリアをあの場所に連れて行きたいんだよ』
 ジードの言う『あの場所』は、サージュとジードの故郷、レーベンにある二人だけの秘密の場所だった。今はもう戦争で汚されてしまったに違いない場所だ。
 死んじまったら、何もならないじゃないか。ぽっかり心に空いた穴は、今も空いたままか。
 長い階段を前にサージュは立ち止まる。この寒さのせいか、大通りを行く人は見えない。上の広場から子どもたちの声が聞こえた。サージュは薄く空を覆った灰色の雲を見上げた。吐いた息が白く染まり、消えていく。雲の隙間から弱々しく差し込む太陽の光の中で、雪がひらひらと舞う。見上げた空は灰色で、どんよりと重たい分厚い雲が広がる。故郷の空はもっと高かった。
 サージュはベージュのレンガを階段を上る。正面からの強い風は木々の枝が揺らし、サージュにも吹きすさぶ。その風の中に、サージュはふっとかすかな何かを嗅ぎ取る。それと同時に、サージュの脳裏が弾けるように赤く染まった。深紅のバラだ。それは、周囲の雪の白さなど目に入らなくなるほどの鮮明さで、サージュに巻きつき、絡める。その芳醇な香りに胸が締め付けられる。
「ミリア?」
 サージュは思わず、そう口走っていた。
 再び風が吹く。この風が、懐かしいバラの香りを運んできたことに、サージュは、たった今気が付いた。
 まさか、いや……間違えるはずがない……。
 サージュが階段を上りきると、目の前に噴水が現れる。その噴水を眺めている女性が一人。彼女は赤い髪が風にたなびくのを左手で抑えた。黒いコートとその裾から伸びる黒いスカートが、サージュと同じ目的地を目指していることを示している。
 見間違えるがない。バラの香りの主――ミリアが、そこにいた。
 サージュは一瞬、声をかけるべきかどうか迷って、立ち止まる。そんなサージュの気持ちを見透かしたかのようなタイミングで、ミリアが振り返る。ミリアと目が合う。サージュは時間が止まったような感覚を覚えて、言葉が出ない。
「ひさしぶり」
 反射的に出たような、それとも言おうとした言葉がやっと出たような、どっちともとれない感覚に戸惑いながら、サージュは右手を軽く上げる。そんなサージュにミリアは軽く微笑んで見せた。
「まさか、こんなところで会うとは思わなかったよ」
 サージュがミリアに歩み寄る。
 ミリアは大きな黒い瞳を閉じて、黙って首を左右に二度振った。よくミリアがやるしぐさだった。サージュはこの仕草が妙に可愛らしく見えて、好きだった。
「待ってたのよ、あなたを」
 サージュは耳を疑った。広場で遊ぶ子どもの歓声が響く。
「サージュもジードの所に行くんでしょう? だから待っていたのよ」
 首を傾げて、ミリアは笑う。ミリアの赤い髪が揺れた。
 ヤバイ。もう諦めたはずなのに。
 サージュはずっと忘れていたはずの感情が、自分の中で湧き上がっていくのを感じずにはいられなかった。

 サージュはミリアと肩を並べて歩く。
 こんな日が来るなんてな。皮肉なもんだ。ジードが逝ったあの日以来、口もきいていなかったのに。ミリアの隣にはジードがいて、俺はいつも一歩後ろを追いかけていた。
「サージュとこうして歩くのって、初めて?」
「そうだっけ? 何度かあるんじゃないか?」
 サージュはわざと知らない振りをした。ジードが生きていた頃にはありえない状況だった。一年前なら喜んでいただろうが、あの頃以上に、ミリアとの距離をサージュは感じていた。
「どうして俺を待ってたんだ?」
 湧き上がってくるミリアへの恋慕とすぐ隣に横たわる断絶に、サージュは戸惑う。適当なことを言って避けてもよかったのを、ミリアにのこのこ付いてきたことを後悔してしまいそうだった。
「一緒の方がジードが喜ぶと思ったの」
 ミリアがサージュを見上げたが、サージュは目を合わせなかった。
 ミリアは嘘は言っていない。でも、それが本当でもない。サージュはそう思った。
「昔はこうして、ジードとよく歩いた。サージュはいつも後ろからついてきていた」
 ミリアが小走りに前へ行く。サージュは追いかけようとして、それを止めた。ミリアはサージュと間に、ジードが生きていた頃と同じように、五歩分の距離が生まれたところで、サージュを振り返る。サージュは足を止めた。
「昔か。そう言われても、あまり違和感がないな。まだ一年しか経っていないのにな」
 サージュは、もう十年くらい過ぎていたように感じていた。
「意外?」
「そうだな」
「私も」
 ミリアは再びサージュに背を向けて歩き始める。サージュも再び歩き始めた。互いに距離が縮まることはない。五歩分、開いたまま――。

 ジードは口癖のように、故郷レーベンに帰ることばかり言っていた。サージュはジードの思いが理解できないでもなかった。が、一体何が、そこまでジードをレーベンに帰そうとしたのか? サージュに故郷への未練などない。
 サージュが記憶の中の故郷を思い浮かべてみる。
 平凡なレンガ作りの家屋が並び、洗濯物が何枚も、向かいの家から伸びた紐に通されて、風に吹かれる。子どもたちが養鶏を追いかけ、父親は牛を使って畑を耕す。レーベンは農耕が主な産業で、これといった娯楽はないけれど、牧歌的で、いつもゆっくりとした時間が流れていた。
 そんな原風景に、ジードは何を見ていたのか? 
 サージュはジードが逝ってから、それをよく考えるようになった。ジードとミリアが付き合いだしてから、ジードのレーベンへの思いは一段と強くなった。ジードは、もうミリアとの生活の風景を描いていたのかもしれない。ただ、それが理由とは思えない。ミリアと付き合う前から、ジードのその思いは強かったから。
 結局、その答えは今も出ない。一生出ないのかもしれない。答えを知るためにレーベンに帰ることを考えてみたこともあったが、それで答えが見つかるわけでもないと、結局帰る気にはなれなかった。

 不意に吹く風がバラが香りを、サージュに届ける。その香りはかすかだったけれど、サージュは確かにその香りに巻きつけられ、捕らえられる。
 遠い。少し走れば届く距離が遠い。こんな香りなどなければ、どれだけ気が楽か。
 ミリアが歩くたびに、赤い髪が揺れる。
 手を伸ばせば届きそうで、決して届くことはない。今もミリアの隣には、ジードがいるような錯覚を覚える。二人は笑いながら、ときどき見つめあい、ジードが気が付いたように振り替えると、ミリアが照れくさそうに微笑んで、ちらりとバラの香りと共に、サージュに視線を投げた。サージュはいるはずのないジードを錯覚する。次の瞬間いないことを確認すると、いつのまにミリアはあの頃よりも遠く感じられる。
 ジードはもういない。もういないのに、あの頃以上の、この断絶は一体何のか? 
 墓地へ続く坂を登る。坂は曲がりくねって、左右には枯れた高木が雪に震えて幹を震わせて並んでいる。登り坂には、ミリア以外の誰の足跡もついていない。サージュが振り返ると真っ白な道に二つの足跡が続いている。同じ道を歩いてきたのに、なぜかサージュには、並んでは映らない。新雪が風と共に舞い上がり、降り積もり、足跡を覆い隠していく。最初から何もなかったように、音もなくゆっくりと消えていく。サージュは思わず自嘲した。
「サージュ?」
 ミリアが坂の一番上でサージュに呼びかける。曇った空の隙間ら差し込む日差しに、白い世界が輝いて、ミリアの赤い髪がやけに目に眩しくて、サージュは一瞬見惚れてしまう。
「どうしたの?」
「ああ。すぐ行く」
 サージュは小走りに再び坂を登り出す。それを確認するとミリアは、再びサージュに背を向ける。ジードの錯覚とミリアとの断絶の合間に揺れて、サージュの足は重かった。

 白く広がる丘に、上部の丸い平形の墓石が整然と並ぶ。ジードの墓は、奥の木々がまばらに生えているところにあった。
 サージュがジードの墓に降り積もった雪を、革手袋を外した手で、墓石を撫でながらそっと払う。白い雪の脆さと灰色の墓石の硬さに触れながら、すぐに手は冷たくなっていく。かじかむ手に息を吹きかけて、サージュは台石の雪を取り除いった。
 戦争はもう終わった。もっと早く終わっていれば、お前はどうしていたんだろうな? 俺を置いて、この街を――サージュはそこまで独白して、息を静かに吐いた――今さら何を言っても遅いか。あれだけレーベン帰ることを思っていたというのにな。
 ジードの墓を見下ろしながら、サージュは横目でちらりと、跪いて祈りを捧げるミリアを見る。
 ジードとミリアが、互いに惹かれ合い、結ばれることにも時間はかからなかった。サージュがジードと会うたびに、ミリアがいた。サージュがどれだけミリアを見つめても、ミリアはジードを見つめていた。歯がゆいと思ったこともあったけれど、二人を見ながら、いつしかサージュのミリアへの思いは薄れていった。
 サージュがジードから結婚すること聞いたのは、ジードが死ぬ一月前だった。そのときは確かにサージュは二人を祝福した。「おめでとう」と。嫉妬にも似た感情は確かに湧かなかったわけではない。それでも祝福することには抵抗感はなかった。それもジードがいたからなのかもしれない。
 墓の前に跪くミリアを見つめる。サージュは不意に後ろから抱きしめたい衝動に駆られる。あの折れてしまいそうなほど細い腰に腕を回して、透き通る白い肌を自分の物に――。
 サージュはそこで自嘲した。馬鹿馬鹿しい考えを打ち消す。
 なんだって、ミリアは俺の前にいるんだろうな……いや、ジードの前か。結局のところ、彼女の目に俺は映っていない。会わなかったのなら、こんな気分になることもなかったのか?
 ふいに強く吹いた風に、サージュはバラの香りを感じて、ミリアが隣にいることを改めて確認する。
「ジードが言ってた『あの場所』って、どんなところか知ってる?」
 ミリアが立ち上がりながら、聞いてきた。
「いつも笑って、『行けばわかる』ってだけで、肝心なことは話してくれなかったのよ」
「行ってみたい?」
 内乱はもう終わっている。行こうと思えば行ける。が、サージュの言葉にミリアは首を傾げた。
「分からないわ。興味はあるけど……」
 ミリアはそう笑って見せた。それがあまりにも儚げで――話してもいいものか。サージュは一瞬、躊躇する。だが、もうジードの言う場所はない。
「きっと、戦争で踏み荒らされてるから、もう行ったところで無駄だろうけど……」
 その先をどう言えばいいのか分からずに、サージュが言いよどむ。
「そう。だったら――」
 ミリアは目を閉じて、首を横に振った。
 サージュにはかけるべき言葉が見つからなかった。もどかしさが胸の中を駆け回る。
 ミリアが赤い髪をかき分けながら、うなじに両手を回した。すっと外したのはシルバーのチェーン。その先には、きらりと光るリング。それをしばしミリアは見つめる。その表情からミリアの決意が見て取れた。
「これね、ジードがくれたのよ」
 赤い髪が白い頬にまで掛かって、ミリアの表情は見えない。
 泣き出すんじゃないか? そんな思いがサージュの頭の中をよぎる。
「なら、持っていた方が――」
「いいのよ、もう」
 その言葉が後を押したように、ミリアはチェーンにリングを付けたまま、墓石の台石の上にそっと置いた。一言「ごめんね」と呟いて。 
「ねぇ、まだ時間ある?」
 その目は相変わらず、ジードの墓標を見つめたままだったけれど、突然の申し出にサージュの心臓はドクンと鼓動する。何も言えずにいると、ミリアが振り返った。
 風が吹いて、雪が舞う。その風の中にバラが香った。ミリアがサージュをじっと見つめていて、
「今日はとことん付き合うよ」
 断れない自分を「何やってんだろうな」と思いながら、サージュは作り笑いを浮かべた。

 陽が沈んでいく。分厚かった灰色の雲は風に流れて、千切れて、鮮明なオレンジが街に広がっていく。二人は街を見下ろせる高台にいた。
「夕陽は嫌いよ」
 腰までしかない柵に両手を添えて、街並みを眺めながらミリアがぼやく。眼下には、この高台に続く、まっすぐに伸びた大通りが見える。家々の屋根に降り積もった雪が、オレンジ色に染まって、きらきらと光っている。街を囲む城壁の遥か彼方には、雪に覆われた荒野が広がる。
「どうして?」
 サージュはミリアの隣で、柵に背中を預けて、青紫色に染まりつつある宵闇の迫る空を見上げていた。
「陽が沈むのって、なんとなく寂しいじゃない? 見てると胸が苦しくなるのよ」
 どこからから、子どもの「またね」という声が聞こえてくる。
「だったら、どうして見てるんだ? 見なかったらいいじゃないか?」
 サージュの言葉に、ミリアは何も答えなかった。互いに違う景色を見たまま、その視界にお互い映らない。
「そう言えば一年、何をしてたんだ?」
「今更、そういうことを聞くわけ?」
 ミリアが笑う。久しぶりに会っていながら、今まで聞かずにいては、確かに今更だった。
「聞くタイミングを逃しただけさ」
「それなら、サージュこそ何をしてたのよ?」
 そう聞かれて、一瞬サージュは答えに戸惑う。何をしていたのか――。
「質問に、質問で返すなよ」
 ミリアが困ったよう笑った。
「お互いにそれを知ったところで、何も変わらないのよ」
 思い知らされる。サージュは、ジードによってミリアと出会い、ジードの死によってミリアと別れたのだと。一年の月日は等しく流れ、それぞれの道を歩んでいる。もう交わることはない。
「私ね、だんだんジードのことを思い出せなくなった。忘れちゃっていってるのよ」
 サージュは視線を空からミリアに移す。
「それは――」
 仕方ないんじゃないか、そう言おうとして、サージュは言葉を飲み込む。
「ひどい女よね」
 ミリアがサージュを見て、寂しそうに笑う。サージュは細い肩を抱きしめたくなる衝動に駆られた。ミリアに伸ばそうとした右腕に力を込めて、衝動を抑える。
 太陽が荒野にその体を半分ほど沈めた。東から宵闇が迫りくる。吹く風が肌に痛い。
「寒いわね」
「そろそろ帰るか?」
「久しぶりに、サージュのところに行ってもいい?」
 サージュは一瞬、答えに詰まった。ミリアはサージュに顔を背けて、長い髪がその表情を隠す。
「今日は、一人でいたくないのよ」
 どきりとした。サージュは一度、大きく息を吐いた。それで落ち着くことができた。
「言ったろ。今日はとことん付き合うって」
「ごめんね」
 髪を右手で抑えながら、ミリアは申し訳なさそうに微笑んで見せた。

 曲がりくねった路地に並ぶレンガ造りの家々の一角――二人がサージュの家に着いた頃にはすっかり陽も落ちて、通りに並ぶガス灯が黄色い明かりで足元を照らしていた。
 色の剥がれたドアを開けて、サージュはミリアを部屋に招き入れる。サージュは天井から降りる吊ランプに、マッチで火を灯す。
「薪を取ってくるよ。暖炉を点けるから」
 ランプの明かりが部屋を仄かに照らす。
「相変わらずね」
 ミリアが部屋を見渡しながら笑った。
「どういう意味だよ」
「前来た時と、何も変わっていないもの」
 白いとは言いがたい黄ばんだ壁と、四角い大きめの窓で囲まれた部屋には、ベッドとタンス、テーブルがあるだけで、殺風景としか言えない。
「別に困ったりしてないからな」
「花くらいあってもいいんじゃない?」
 そういいながら、ミリアはテーブルに備えてあるイスに座る。
「別にいいよ」
 サージュはそう言いながら、暖炉の横にある薪を組んでいく。組み上げた薪の中央に枯草や小枝を入れて、そこにマッチで火を点けた。バチバチと小刻みな音を立てて、暖炉が燃えていく。
「お腹空いてる?」
 サージュはコートをイスの背もたれに掛けながら、ミリアに聞いた。夕食を食べるには丁度良い時間だ。
「ちょっとね。でも気を遣わなくてもいいわよ」
「ちょっと、待ってて」
 サージュは、左隣のキッチンへ向かった。縦に細長いキッチンは隣の部屋から届くランプの明かりと、奥の小窓から街灯の光が差し込んで意外と明るい。小窓の下には薪コンロがあり、ポットや鍋といった調理器具が隣の木製のテーブルの上に置かれている。テーブルのある壁際にはホックがあって、ナイフやメジャースプーンが掛けられている。
 サージュは何か料理することも考えたが、テーブルの下の麻袋の脇にあったワインがそれを止めさせた。ワインは、麻袋に寄り添うように、寝かせてあった。
 サージュは迷った。ワインは一年間、そこにあった。飲むべき時を失い、ただそこにあった。
 けじめをつけないとな……。良い機会なのかもしれない。
「赤ワインあるけど、飲む?」
 サージュはキッチンからミリアに顔を見せて尋ねる。
「いいわね。でも、どうしたの?」
「こういう機会でもないと、一人じゃ飲めなくてね」
 サージュはわざとそれをはぐらかしながら、左手の食器棚からワイングラスを三つ手にする。つまみにカマンベールチーズとベーコンを薄くスライスして皿に盛る。ワインも含めて、それらを木製のトレイで運ぶ。
「おまたせ」
 サージュがテーブルにワインとつまみをテーブルに並べていく。
「ありがと」
 部屋も温かさを取り戻し始めて、暖炉の火が頬杖をついて微笑むミリアの顔を赤く染めていた。サージュは自分とミリアとの間に、ジードのグラスを最後に置いた。それを見ながらミリアは何も言わなかった。
「ワイン開けるよ」
 サージュがソムリエナイフでワインのコルクを開けていく。じっとミリアが見つめているものだから、少し手が汗ばむ。コルクはじりじりとサージュに手に引っ張られて、ポンッと小さな音を立てて抜けた。
「上手ね」
 ミリアが頬杖を付いたまま、微笑んだ。サージュはそれに照れくさそうに笑って、ミリアのグラスに赤ワインを注いだ。続いて自分のグラスに。
「乾杯」
 先にそう言ってグラスを合わせてきたのはミリアのほうだった。白く伸びた指先でワイングラスの細い足をつまんで、ジードのグラスを傾ける。
「乾杯」
 サージュもミリアと同じようにグラスを傾ける。誰も座っていない席で、三つのグラスは澄んだ音を響かせた。
「きれいな、赤ね」
 ミリアがワインをランプの明かりに透かす。さして明るくもないランプの明かりと暖炉の不安定な炎の中で、どれほどきれいだったのか、サージュには分からない。ただミリアと同じように、ワインをランプに透かしてみる。
 ワインがグラスの中で揺れて、ときどきは血のように深く染まり、またときどきは透き通った鮮明に輝いて見せた。
「確かに、きれいだな」
 ワインのことなどよく分からない。それでも、このときくらいそう思いたかった。
 サージュはワインを口に含む。ベリー系の果実の甘味が凝縮したような感じが口に広がって、軽い胡椒のようなアクセントが舌全体をチクチクと刺激する。
「ワインって、こんな味なの?」
 ミリアが少し驚いたような表情を浮かべていた。
「ワインはあんまり飲まないから分からないのよ。だけど、この味は好きよ」
 そう笑って、再びミリアは口をつける。
「それは良かった」
 かなり気に入ったのか、ミリアは一気に飲み干して、グラスを開けてしまった。
「もう一杯いい?」
「もちろん」
 ミリアの差し出すグラスにサージュはワインを注ぐ。
「これってどうしたの?」
 そう聞いたミリアは何気なかった。けれど、サージュはワインを注ぐのを止めた。いや、反射的に止めてしまった。
「一年前に買ってたんだよ」
 静かにサージュは答えた。それだけ言えば、ミリアはすべてを察した。暖炉でパチッと薪の燃える音がやけに響いた。ミリアのグラスにわずかに注がれたワインが、静かに揺れていた。サージュは黙って、その様を見つめた。
 ジードとミリアの結婚を祝福するためのワインだった。別に誰も経済的に余裕があるわけではなかった。せめてこれくらいは友人としてさっさやかにでも祝いたかった。が、それは叶わないまま――。
 サージュはゆっくりワインを注ぐ。音さえ立たない。揺れる赤ワインを見つめて、サージュは後ろめたい気持ちに襲われる。
 もし――も、――たらも、――ればも、そんなものはないと分かっている。分かっているのに、この赤いワインは、なぜこんなにも物悲しいのか?
 ワインを注ぎ終える。
「ごめんね」
 ミリアが掲げられることのないグラスと、そっとグラスを重ねる。それが誰に謝ったものなのか、何を謝ったものなのか、サージュには分からない。
「ばかやろう」
 サージュは誰にともなく呟いて、ミリアに習ってグラスを合わせた。響いた音はやけに虚しかった。きっとジードがいれば、こんな気分にはならない。
 サージュはミリアを見つめる。頬がほんのりと色づいたミリアは、チーズをかじっていた。
「どうしたの?」
 ミリアが不思議そうに見つめ返してくる。ミリアの瞳に吸い込まれそうだった。
「いや、なんでもない」
 サージュは生まれてくる衝動を目を逸らして何とか押さえ込む。
 諦めは良かったんだ。諦めだけは。一番欲しいものは手に入らない。いつだって、遠く彼方にある。
 暖炉を見るとそろそろ薪をくべた方が良いことに気が付つく。サージュは立ち上がって、暖炉の正面に腰を屈めた。腕を伸ばして暖炉の横の薪を取ると、火を調子を見ながら、手にした薪でどこにくべるかを思案する。薪で火を動かすたびに火の粉が舞った。
 俺はどうしたいんだろうな?
 いつも肩を並べて歩いてたジードとミリアの背中が、フラッシュバックする。
 俺は一体、何が焦がれていたのか? いまさら焦がれても、遅いのか? 伸ばした手が、届いたとしても――。
 ミリアがサージュの横にやってきて座り込む。サージュは「どうした?」と聞こうとして振り向く。その瞬間、ミリアの顔が近づいてきて、唇が重なる。サージュは大きく目を見開く。サージュの手から薪が零れ落ちて、バチッと一際大きな音を立てた。
 ミリアの唇が離れていく。ワインの香りの中に、バラの香りが混ざって、サージュの頭を揺らす。
「さてと」
 ミリアが立ち上がる。サージュはまだ動けずにいた。
「今日はありがとう」
 ミリアが微笑む。
 ああ、そうか。
 サージュは自分の唇を指先で触れる。
 これはお別れ。ミリアは過去と決別をしにきたのだ。
「ミリア」
 サージュは立ち上がって、ミリアに近づく。
「なあ、ミリア……」
 サージュはミリアの細い両肩に手を置く。サージュを見上げるミリアの大きな黒い瞳に、飲み込まれてしまいそうになる。
「俺じゃダメか?」
 ミリアは少し目を丸くしたが、それも一瞬だった。
 答えなど最初から分かっている。分かってはいるが――これはエゴだ。俺のエゴだ。
「ごめん……」
 ミリアはまっすぐ、サージュを見据えて、はっきりと言った。
「最後に抱きしめても?」
 ミリア薄っすらと微笑んで拒まない。サージュはミリアを抱き寄せた。ミリアの細い肩を抱いた腕に力を込めて、強く。ミリアの冷たい体温と香りを感じながら、ジードがいない今、もう道は別ったことをサージュは知る。
「サージュ、温かいね」
 サージュは少し体を離して、ミリアを見下ろす。ミリアが背伸びをしてその顔が少し近くなる。目を閉じて、サージュはミリアに口付けをした。
 ミリアの答えは分かっていたし、どうでも良かった。今こうすることで、彼女に嫌われても、構わなかった。ただ、絶えられなかった。ジードと決別することで、俺とも決別することだけは――。
 サージュが腕をミリアの腰のくびれに回すと、ミリアは腕をサージュの首に絡めてくる。
 ミリアの舌が絡んでくる。サージュは応えるように、ミリアを強く抱きしめ口を犯す。
 サージュは右手でミリアの首筋を撫でながら、彼女の左肩にかけて白い肌が露わにしていく。さらに左手で服の上から、ミリアの胸のふくらみを揉みしだく。
 お互いに唇を離すとミリアが儚げに自嘲した。
 きっと似たような表情を、俺もしてるんだろう。湧き上がってくるのは自己嫌悪。それがジードに対してのものなのか、ミリアに対してなのか、あるいは自分自身に対してなのか――その感情も、ミリアの白い肢体とバラの香りに包まれて、次第に薄れていく。
 ベッドに移動して、二人は沸きあがる欲情に身を委ねて、決して埋めることのできない何かを埋めようと互いを求めた。
 窓の外には、鋭い三日月が淡く輝いて、浮かんでいた。

 サージュは布の擦り切れる音で、目を覚ました。暖炉の火はすでに燃え尽きていて、部屋は暗く冷たい。その中でミリアが服を着る音だけが響いた。その音がやけにサージュの耳に付いて、声を掛けるべきか葛藤する。
 布の擦り切れる音が止む。代わりに足音が聞こえて、遠ざかっていく。サージュは耐え切れず、静かに体を起こした。視線の先でミリアがゆっくりと振り返る。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや……」
 サージュは首を横に振る。
「行くのか?」
「うん。本当は黙って出て行きたかったけど」
「また……」
 会えるかな? その言葉をサージュは飲み込んだ。
「いや、いい」
 これは未練だな。サージュは自嘲した。
 ミリアはそこに立って、動かない。サージュからミリアの表情は、暗くて見えない。ただそれは、サージュの言葉を待っているように思えた。
「行くんだろう?」
 だからサージュは動かないミリアの背を押す。
「うん。行かないとね」
 吹っ切ったようにミリアが言った。
「さよなら」
 ミリアがドアを開く。風が部屋の中に吹き込む。その風の中にサージュはふわっとバラの香りを嗅いた。それも一瞬のことで、ドアは音を立てて閉まった。
「さよなら」
 閉められたドアに向かってサージュはそう呟くと、大きく息を吐いた。
 サージュがベッドから這い出ると、空は白み出していた。テーブルの上は、飲みかけのワインと、ほとんど手をつけていないチーズとベーコンが置かれたままだった。
「お前たちを祝うはずのワインだったのにな……」
 テーブルの三つのワイングラスを見ながら、サージュは呟いた。
 サージュは床に脱ぎ捨ててあった服を着込んで、コーヒーを淹れようようとキッチンへ向かった。
 薪コンロの前で屈んで、横の薪を入れて火を点ける。次にテーブルの下から麻の小袋を取り上げる。壁に掛けてあるメジャースプーンを手にとると、麻袋からコーヒー豆を二杯、テーブルの上にあるミルに入れていく。コーヒーを挽いていると、薪コンロに火が強くなる。食器棚の脇にある水がめから、ポットに水を入れて、ポットを火に掛けた。コーヒー豆を挽き終えると、ポットに布を垂らし込んだドリッパーポットにその豆を入れて、のんびりお湯が沸くのを待つ。
 なぜ俺はミリアを好きになったのか? 
 なぜジードはミリアを好きになったのか? 
 なぜ同じ女性だったのか? 
 なぜミリアはジードを選んだのか? 
 なぜジードはもういないのか? なぜ死んでしまったのか?
 サージュは幾度となく考えてきたが、答えなど出たことはなかった。ただどうにもならないまま、今がある。すべては過ぎたことだ。
 息を吐いて、サージュは顔を上げる。仄かに外が明るくなっている。それに合わせたように、ポットのお湯が沸騰し始める。サージュはコンロからポットを下ろして、ドリッパーポットにお湯を注いでいく。ふわっとコーヒーの香りがキッチンを包みながら、程なく抽出を終える。深いグリーンのカップにコーヒーを注ぐ。湯気とともにコーヒーの香りが立ち込める。
 カップをもってキッチンを出ると、窓から黄金色の朝陽が差し込んでいた。サージュは手にしたカップを口に運ぶ。熱いコーヒーはひどく苦く、強い酸味がした。飲み込むと、その熱は喉から胃に達して、冷えた体を温める。
 サージュはベッドに腰を落とす。バラの残り香が鼻腔に入ってくる。それは昨日のミリアとの情事を思い出させた。サージュはもう一口コーヒーを飲んで、大きく息を吐いた。
 手を伸ばしてカップをテーブルに置くと、サージュは窓を開けた。冷たく強い風がちくりと肌を刺して、部屋に入り込んでくる。風は仄かに残っていたバラの香りを消し去っていく。代わりに、コーヒーがその存在を示すように、強く香った。
「夜が明けていく……。ミリアもこの朝陽を見ているのか?」
 窓からを外を眺めると、わずかに顔を覗かせた太陽に、世界が色を取り戻していく。
 朝陽はサージュに、ジードがミリアに見せたかった『あの場所』を思い起こさせる。それは、レーベンが一望できる小高い丘だ。丘から眼下を見渡せば、家々が並び、広大な牧草地帯が広がり、遥か彼方に鋭い山々がそびえる。その丘で望む夜明け。大地と草の匂いを風が運んで、その山々の隙間から太陽がレーベンを照らしながら昇っていく。紺色の薄いベールを伸ばしたような明け方の空が、黄金色に染まって丘と共に光に包まれる。
 そこにジードの愛したレーベンがあったのかもしれない。
『また帰ってくればいい』
 そう言ったジードはもういない。
「戦争は終わったけど、まだ帰る気にはなれないよ、ジード。それでも……」
 サージュの呟きは風にかき消される。
 朝陽がきらきらと雪の積もった街を照らす。紫がかった空は黄金に染められて、夜が明けていく。

A Day of WILLただ夜明けを見ながら‘nd

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