何も知らなかった。
真実を知ることの意味さえ、考えもしなかった。
誰が何を選んだのかも……。
誰が何に苦しんでいるのかも……。
どうすることも出来ない現実も……。
その真実の重みさえも……。
人は自分の弱さを知るからこそ、強さを……。
どんな現実も、そこにある真実も背負うだけの強さを……。
人それぞれに選ぶべき道があるのなら、
その道を歩くだけの強さを――

Tales of WILL Episode6

この道を行くように――

プロローグ

 街の酒場というのはどこも薄暗く、テーブルごとに四、五人の男たちが意味もなく騒ぎ、日頃のうっぷんをぶちまける。たとえそれが、たった今知り合っただけの間柄であったとしても、意気投合する。その反面、喧嘩沙汰になることも珍しくはない。特に女性が入ってきた場合は、その火種になりかねない。
 アストはそんな店内を見渡して、カウンターの左端に座っている一人の男を見つけた。こういった中でも周囲の騒がしさとは無縁で、独りで酒を楽しむ客は少なからずいる。薄暗いせいであまり良くわからないが、男は黒髪で、前髪は目元にまで掛かり、頬から顎にかけては、うっすらと無精ひげを伸びていた。
 アストはその男の右に座ると、この地方特有の発泡酒をカウンターの中にいる男の店員に注文する。
「あなたは?」
 アストが男にそう尋ねると、男は口元でにやりと笑って、
「これと同じ物を」
 店員に見せるようにグラスを高く挙げて、一気にそれを飲み干した。
 この男は人探し専門の情報屋で、もっぱら犯罪者を追いかける賞金稼ぎが多く利用する。この酒場のこの席が彼の店と聞いて、アストはやって来たのである。情報料とは別に黙って一杯の酒を奢ることが、この情報屋の習わしであり、それが客であるという合図となる。
「なぁ、姉ちゃん。こっちに来て、一緒に飲まないか?」
「いや、姉ちゃんはこっちだ」
「ち、ちょっと、止めてくれない?」
 後ろからいやらしい男の声と困った感じの女の声が聞こえてきて、アストは振り返った。酔っ払いたちが彼女の都合などお構いなしに、彼女の腕を掴んで、取り合っている。そんな彼女と目が合う。彼女はどうしていいのか分からないといった感じでこちらを見ているが、アストはとりあえず無視を決め込んだ。
「さて、紅い髪の綺麗な顔の兄ちゃん。誰を探しているんだい?」
「綺麗な顔って……」
 他に呼び方はあるだろうにと、アストは眉を寄せた。左を向くと、情報屋が左手で頬杖をついて顔を覗き込んでいた。もう一方の右手はグラスを弄んでいる。
「男にしておくのは、勿体ないと思っただけさ。気を悪くしたなら謝る」
 情報屋は悪びれることなく謝って、グラスを口に運ぶ。皮肉めいたというよりは、アストの顔について単に率直な感想を言っただけのようだ。
「いや、気にはしてはないです。昔から女性によく間違えられるから」
 と言っても、最近は少なくなったんだけど、と内心付け足す。
 アストの顔は母親譲りで女顔だ。昔から周囲の人間には良く似て、綺麗だと言われてきた。中でも、大きい目の優しい感じと、すっと通った鼻筋はそっくりだとか。言われるたびに鏡を覗いてみたが、アストには、どう似ているのか良く分からない。五年前にその母も他界して、そう言う人も久しい。
 アストの頼んだ発泡酒が、いつの間にかすぐそこに置かれていた。アストはそれを一気に半分ほど飲む。
「フォークオーツ王国がアスティルトを侵略したとき、戦争に参加して生き残ったアスティルト側の人間を探しているのですが」
 あの戦争――今から四年前、当時フォークオーツ王国があちらこちらに侵略戦争を仕掛けていたのは有名な話だ。アスティルトと言うのは都市の名前で、侵略戦争の中でも特にひどかった、と言えば、ずいぶんマシに聞こえる。
 アスティルトはどの国にも属さない中立都市で、自由に商売、出入りが出来る街として、旅人や商人からは重宝されていた。攻め込まれたアスティルトは当然防戦したが、一都市が一国家に勝てるはずもない。半年近く善戦したが、フォークオーツ王国が圧倒的な武力を投入し、戦争とは呼べない一方的な虐殺を始めたために、アスティルトはそれまでの戦いが嘘のようにあっさり壊滅した。しかも、フォークオーツ王国はアスティルトを支配せずに放置した。それは壊滅させてしまったがゆえに、復興させる費用が膨大であったためと言われている。四年経った今でも、復興どころか、人さえも訪れていない。近年、フォークオーツ王国は戦争続きのために国力が低下した上に、侵略した都市から内乱が立て続きに起きて、それに輪をかけている。
「アスティルトの生き残りか」
 情報屋が何かを探すようにつぶやく。
 アストは情報屋と目を合わせず、カウンターの中の棚にずらりと並べられた酒の銘柄を見る。もっとも、酒の銘柄は見ているだけで、分からない。
「そいつを見つけてどうする気だ?」
「ただあの戦争のことを知りたいだけです」
「そんなことを知りたがるのは、馬鹿な歴史家くらいだろう?」
 情報屋の言葉に、アストは思わず笑ってしまう。
「馬鹿な歴史家ですか。違いないですね」
「まぁアスティルトの生き残りを探すよりも、フォークオーツ王国の方を当たると思うがね」
「真実は敗者の側からしか見えないものですから」
 アストは情報屋の顔を見て、はっきりと断言する。情報屋が一瞬きょとんとしたのが分かった。が、次に瞬間、肩を震わせて笑いだした。
「何がおかしいんですか?」
 アストは冷静に問いただす。
「悪い、悪い。まさかあんたが、そんなこと言うとは思わなかったからな。それにしても――」
 アストのことなどそっちのけで、笑っている。
「いい加減に――」
 アストはさすがに声を荒げようとしたが、それよりも早く情報屋が続けた。
「いや、俺は嬉しいんだよ。アスティルトの生き残りだな。オーケー。とびっきり有名な奴がいる。というか、可能性がある奴がこの二人しかいない。本当にアスティルトが全滅したかは、怪しいが、この二人なら、、まず可能性があるだろう」
「誰です?」
「ああ。一人が、ヤン。もう一人がクロード。名前くらいは聞いたことがあるだろう?」
 アストも実際に会ったことはないが、その名前は聞いたことがあるなんてものじゃない。二人ともほとんど伝説になりつつあるような人物だ。ヤンは大剣を片手で軽々と操り、その能力は傭兵でありながら、一国の鍛えられた騎士団を凌駕すると言われている。戦場では「ベルセルク」という通り名で怖れられていた。クロードもまたヤンほどではないが、音に聞く凄腕の傭兵で、彼の操る長剣は、その剣筋は見えないほど速いと言われている。
「ま、間違いない……?」
 正直、アストは信じることが出来ない。
「疑うのは無理はない。二人とも傭兵を辞めてここから北のウィルで暮らしている。まぁ、あとは行って、確かめてみるこった」
 と、アストはあることに気がついた。
「あの二人がいてもアスティルトは負けた?」
「そんなことは、本人に聞いてくれ。何せ、四年も前の話だ。うちらの間じゃ、そう言われてる。フォークオーツ側であの二人と殺りあって生きていられる奴もいなけりゃ、アスティルト側も生き残ってる奴がいないからな。唯一、生き残ったと言われてるのが、ヤンとクロードなんだよ。それくらい酷い戦争だったからな、あれは」
 情報屋が口にもしたくないといった感じで、グラスをあおる。
「そうですか……」
 アストは何ともいえない。伝説とも言える傭兵の名に興奮はするが、生き残りがわずか二人だけという戦争なのだ。
「ち、ちょっと!」
 そこに再びアストの後ろから、悲鳴にも似た声が聞こえた。アストは首だけ回して見る。
「なぁ、こっちに来いよ」
 目も虚ろな酔っ払いが、さっきの彼女の手首を掴み、強引に自分の横に座らせようとしている。
「だからセシリアは付いて来ない方がいいって言ったのに」
 アストはため息混じりにぼそりと呟いた。アストに万が一のことがあったら困る、とセシリアが強引にが付いてきたのだ。
「いい加減にしてっ!」
「一杯だけでいいからさ。あんたみたいな美人と飲んでみたいんだよ」
 さすがにアストも見るに見かねた。このままだと、酔っ払いが怪我じゃすまなくなる。
「連れかい? 大変だな。あんたも」
 さっきの呟きが聞こえたのだろう。情報屋の同情気味に掛けてきた声に、アストは軽く頷いて彼女を呼んだ。
「セシリア――」
 呼んだ彼女がはっとアストを振り返る。そのとたんセシリアの表情がほっと安心したように輝く。が、
「おっと」
 わざとらしい酔っ払いの声と共に、セシリアの背後からいやらしい手が、彼女の形の良いヒップに伸びた。
「あっ」
 アストは思わず短く言葉を発して、目を閉じる。それと同時に、
「キャァッ!」
 セシリアがその均整の取れた体を反らし、両手を胸の前で堅く握って、高い悲鳴を上げる。酒場の男たちが口笛吹き、下品な笑い声を上げた。
 セシリアは振り返ってキッと男を睨みつけると、酔っ払いがその手の感触を口にするよりも速く、酔っ払いの手を掴んで、背負い投げた。床が割れるんじゃないかと思うようなけたたましい音と共に、男は叩きつけられる。
 一瞬の静寂。床埃が静かに晴れていく。
「何するのよ!」
 両手を腰に当て、倒れた酔っ払いを覗き込んで、セシリアは叫んだ。軽く波打っている長い栗色の髪を揺らし、形のいい眉を吊り上げ、小さな口を尖らして怒っている。
 とは言え、酔っ払いが動かないところを見ると、気絶してるとしか思えない。セシリアは怒りのあまり、それさえも気がついていないのか、それともお構いなしなのか、店中に響く声で説教を始める。
「人が優しく言ってれば調子に乗って! いいっ! 女性の体に――」
 アストは頭が痛くなるのを我慢しながら、店のマスターと話をつけることに席を立った。
 そんなアストの横で情報屋が、
「今日の酒は本当に美味い」
 と、心底楽しげに、グラスをあおった。

 ウィルの中心部から南に離れたところにある駅に、金属が擦りあう高い音を響かせ汽車が止まった。汽車のドアが開くと共に、多くの乗客が我先にあふれ出ていく。そんな人に押されて、アストとセシリアも皮製の鞄を手に汽車を降りる。
「さむっ」
 吐く息が白くなって消えていく。
 汽車の中はストーブが焚かれていたためそれほど感じなかったが、プラットホームにアストは降り立つと、あまりの寒さに思わずそうもらしてしまった。中に毛皮をあしらった厚手の黒いコートの襟を立て、胸元を閉めた。黒い皮のグローブをして降りたのは正解だった。横のセシリアはちゃっかり白いマフラーを首に巻いて、茶色の皮のグローブをつけていた。
「それにしても、意外と多くの人が乗ってたわね」
 汽車から降りてくる人が、思いのほか多かったらしく、セシリアがきょろきょろとあたりを見渡す。入れ替わるように、次の乗客が汽車の乗り込んでいく。
「まぁ、馬車とかに比べれば安全だからね。利用する人も多いよ」
 馬車に比べれば、汽車のほうが当然早く、野盗に襲われる心配もない。その分、値が倍以上高くなるが、命には返られないと汽車を選ぶ人が多い。鉄道そのものは都市同士が協同で敷き、損益が公平になるよう取り決めている。もっとも、隠れて無賃乗車する者や盗みを働く者は、後を絶たない。発覚すれば、次の駅で強制的に降ろされ、その街の法で裁かれることになっているが、実際のところなかなか捕えるのは難しいのが現状だ。
 改札を抜けると、石畳の横に長い長方形の広場が広がった。中央には小さな時計搭が建ち、広場の端には街灯がぽつん、ぽつんと三本、その他にベンチが無造作に二脚置かれている。この季節とあいまって殺風景な印象だ。北と東と西に、建物に挟まれてた階段が、上りと下りそれぞれある。
 凍えるような冷たい風が吹きつけてくる。
「雪でも降るかもしれないね、これは」
 体を震わせながらアストの見上げた先には、分厚い灰色の雲が空を重く覆っている。
「雪ね……」
 セシリアも風になびく髪を抑えながら、同じように空を見上げていた。
 アストが視界を戻すと、あれだけいた人が、駅から広場へと階段を下りて、あっという間に散り散りなっていく。騒がしかった駅が静けさを取り戻していく。
「暗くなる前に、宿を見つけないと」
 この季節、野宿なんてすれば、下手をしなくても凍死してしまう。しかも、急がないと日が暮れてしまう時間帯だ。
「セシリア、行くよ」
 アストはそう声を掛けて、広場へ階段を下り始める。
「雪、降るかな?」
 階段を降りる足を止めて振り返ってみると、セシリアはまだ空を見ていた。
「この地方は結構積もるらしいからね。この天気だと多分、近いうちに降るよ」
 アストもまた空を見上げた。そう言えば、あの戦争が起きたのもこんな時期だった。
「アスト、どの道を行くの?」
 いつの間にかセシリアが横に来ていた。
「そうだな、とりあえず、あれを上るのが一番中心部に近そうだ。街の方に行けば、宿も見つかるだろう」
 アストは北にある階段を指差して、再び階段を下りる。セシリアもアストの右後ろを追ってくる。
 昔はよく後ろを追いかけたっけ。
 首だけを回して歩きながら、後ろのセシリアを見る。
 アストとセシリアは乳兄弟で、セシリアの母はアストの乳母だった。年齢もアストがセシリアより二つ下で、二十三歳である。昔はそんな姉のようなセシリアが好きで、アストはよくその後ろを追いかけていた。実際、セシリアも姉のように振る舞っていたし、アストのことを弟のように思ってくれていたと思う。それがいつのころからか、セシリアは姉のような態度をやめて、いつもアストの後ろに来るようになった。理由は、多分、子どものままじゃいられなかっただけで――でもそれは決して大人になることでもない。
 彼女は姉という立場ではなく、後ろから守るという選択をした。ならば――。
「どうかした?」
 首だけを向けるアストをセシリアが不思議がる。
「いや、何でもないよ」
 ちょうど北の階段に差し掛かって、アストはわざと立ち止まった。セシリアもアストの半歩右後ろで、不思議そうに立ち止まる。
「アスト?」
 アストは階段を見上げる。
「長いな……」
 正直、うんざりしなでもない。それでも、一段目に足を掛ける。
「ほら、早くしないと日が暮れるよ」
 セシリアが後ろから急かす。
「先に行くね」
 アストは一段飛ばしで、一気に階段を駆け上がる。
「え? ち、ちょっと、待ってよ」
 後ろでセシリアが慌てた。
 別にセシリアがだけが子どもでいられなかったわけじゃない。この旅は、いつまでも子どもでいられない自分との決別なのかもしれない。
 上りきった先で道は、右と左に分かれていて、柵が道に沿ってはめられていた。柵から足元を見ると、相当高いことが分かる。ここからウィルの街並みが一望できた。街全体はレンガ造りで、坂や階段が多いためかなりの高低差があった。そんな街の中心を大通りがまっすぐ走り、その中央には噴水のある大きな広場があった。その大通りを縫うように川が流れている。
 この旅が終われば、きっと――。
 アストの中で揺れ動く何かを感じずにはいられない。
「いきなりどうしたのよ?」
 セシリアがすぐに追いついて、独白を止める。
「どうもしないよ。なんとなく一気に上ってみたくなっただけだよ」
 セシリアがあきれたようにため息を吐いた。
「いつまでたっても、そんなところは変わらないのね」
 どういう意味なのか聞いてみたい気もしたが、アストは止めておいた。セシリアの表情がどこか嬉しそうなのだ。それにあえて水を注すこともない。
「良い眺めね……」
 セシリアもウィルの街並みに目を細めた。
「それで、どっちに行くの?」
「とりあえず、右。とにかく北の方角へ行けばそのうち中心部につくだろうし」
 そうアストは歩き出す。その半歩後ろをセシリアがついてくる。
 赤茶けたレンガ造りの家で囲まれた階段を下りる。下りた先の角を右に曲がると上り坂。仕方なく上ると、今度は道が直進と左折に分かれている。とりあえず、中心街をめざして左折する。まもなくして、今度は上り階段がアストの目の前に現れた。うんざりしながら、それを上る――上がったり下ったりしながら十分後――。
「誰がこんな街を作ったの? いい加減にしてほしいよ」
 階段と坂の多さにアストは苛立っていた。明らかに平坦な道の方が少ない。ようやく坂を上がったと思ったら、すぐにまた下りだか上りだかの、階段が現れるのだ。それがアストの苛立ちに輪を掛けている。現に、目の前にはそんなに高くないとはいえ、階段がでんと構えている。
「その前に、ここさっきも通らなかった?」
 セシリアが辺りを見回して、首をかしげる。
 アストも見回してみる。確かに言われてみれば、そんな気がしないでもないが、アストとしては街に近づいているはずである。
「どっちにしても、上る他に道はないんだけど……」
 アストがため息混じりに、階段に足を掛けた瞬間――
「いっけぇぇぇぇぇ!」
 けたたましい叫びとともに、男が階段を跳び下りてくる。
「え?」
 アストは思わず見上げて、固まった。
「うそ?」
 セシリアも後ろで信じられないで声を上げた。
 男はアストを跳び越えて、どすんっという大きな音と共に、セシリアの後ろに着地する。男は二人のことなど眼中にないのか、そのまま駆け出していく。
 一瞬の出来事に言葉が出ない。二人で男が跳び下りてきた階段から、着地したところを目で追ってみる。
「痛くないのかしら?」
「あれって、跳び下りれる高さ? 普通、あのまま走れないと思うけど……」
 信じられなくて、アストは男の走り去った方向を見ると、
「何で戻ってくるの?」
 しかも、三人の黒い服をきた男が、彼を追いかけてきている。顔には黒の布を巻いて、黒の上着に、黒のスラックス、黒いブーツ、黒のグローブと怪しいことこの上ない。
「アスト」
 セシリアの声に、アストは嫌な予感を感じずにはいられない。振り返ると、階段の上に同じような黒服が四人見下ろしていた。
「仲間か?」
「気にすることはない。いつものように女は殺すな」
「紅い髪の奴は男か? 女か?」
「男でもいいさ。ああいう趣味の客もいるからな。そいつも殺すなよ」
 何やら危険なことを口々に言いながら、男たちがゆっくり階段を下りてくる。
「巻き込んじまって、悪いな」
 さっき逃げていた男が息も絶え絶えにやってくる。歳は二十歳過ぎ、背丈はアストよりも高い。深い紺色の髪に、褐色の肌をしている。ライトグレイのスラックスを履いて、中に紺のセーター、その上に茶色のジャケットという格好だった。
 彼を追っていた反対側の連中も逃げ場がないことを確認して、逃がさないようにゆっくり近づいてくる。
「いつもならあんな連中大したことはないんだが……」
「あなた、怪我してるじゃない?」
 セシリアが彼の右腕から血が滴っているのに気がつく。
「ちょっとドジってね。俺が何とか逃げ道を作るから、その隙に逃げてくれ。あいつらは、多分あんたらも殺すかするはずだ」
「だからって――」
 そんなことされれば、目覚めが悪くなる。
「他に方法もないだろう。あんたらを巻き込んだのは俺のミスだしさ。上手く逃げてくれよ」
「ち、ちょっと――」
 止める間もなく、彼が後ろの三人の方へ走り出そうとしたとき、
「カイル、何か苦労しているようだな」
 その太く低い声に、その場の全員が振り返る。カイルと呼ばれた青年の表情が一変した。
「ビック!」
 そう呼ばれた大きな男が階段を下りてきている。
「新手か」
 先手必勝とばかりに、黒服の一人がナイフを右手に、そのビックに飛び掛る。
「危ない!」
 セシリアが思わず叫ぶ。
「そんなの振り回したら危ないだろう」
 ビックは突き出されてくるナイフを軽く左に避けながら、カウンターで一蹴する。黒服も反射的にガードするが、ガードごとビックの廻し蹴りが、男の体を横にくの字に曲げて吹っ飛ばす。男は赤茶けたレンガの壁に激突して、階段を転げ落ちていった。
 あまりのことに口が利けない。
「手加減しろって、いつも言ってるだろう」
 カイルだけがさっきまでの緊張はどこへやら、軽い口調で笑っている。
「いや、一応、力抜いたつもりだったんだけど、突然だからさ、上手く出来なかった」
 ビックの方は難しそうな顔で、ゆっくり階段を下りてくる。
「まぁ、ナイフ持っていたし、正当防衛だ」
「それもそうか」
 カイルの言葉にビックは安心したように笑った。
「お、おい、女だ。女を人質に取るんだ!」
 リーダーがいるのか、いち早く叫ぶ。その指示で、残りの黒服たちも、ハッとして一斉にセシリアに走り出した。
「ちぃぃっ!」
 ビックが一気に跳躍して、一番近い黒服をそのまま蹴り飛ばす。
「くっ!」
 カイルは怪我のせいか、一瞬動作が遅れたが、それでも黒ずくめを一人足止めする。残りの三人の黒服がセシリアとアストに近づいてくる。
「邪魔だっ!」
 一番前の黒服が、セシリアの前に立っていたアストに向かって、ナイフを突き出してくる。
「アストっ!」
 セシリアが叫んで、アストはわざとそこをどいた。
「馬鹿め!」
 男の顔が勝ち誇るが、それも一瞬で驚きに変わった。セシリアがそのまま一気に踏み込んで、突き出されてくるナイフをかいくぐったのである。
「な、なんだと?」
 セシリアは間髪いれず、その黒服の顎めがけて掌を叩き込む。
「くはっ!」
 黒服が一瞬のけぞると同時に、セシリアは突き出されていた腕を掴むと、そのまま体をいれて背負い投げる。
「かはっ!」
 黒服は背中から、低くこもった音を立てて叩きつけられる。手にしていたナイフもカランと音を立てて落ちた。
 何が起こったの理解できないのか、信じられないように、その場の全員の視線がセシリアに注がれる。
 人質というのは、この場合常套手段かもしれないが、狙ったのがセシリアなのは、失敗としか言いようがない。
「女だからって甘く見てると怪我するわよっ!」
 セシリアは、女だから人質に狙われたことによっぽど腹が立ったらしい。柳眉が逆立っている。
「次はあなたたち?」
 セシリアを襲おうとした残りの黒服を睨み付ける。
「ちっ! ここは退け!」
 未だに階段から見物していた黒服のリーダーが指示を出すと、意識のない仲間など放っておいて黒ずくめの三人がバラバラに逃げていく。
「仲間を放っといて冷たいねぇ」
 カイルが黒服が見えなくなって、緊張を解いた。
「いいのか、逃がしても?」
「ああ。大丈夫だ。それより、隊長に報告しないといけないしな」
「ところで――」
 まったく話が見えてこないのでアストは二人に声をかけた。
「ああ、すまない」
 カイルとビックが向きなおしてくれた。
「こいつはビックで、俺はカイル。『ウィルの盾』で、街の警備をしてる。あんたたちは? 見たところ旅行者って感じだが」
「僕はアスト。彼女はセシリアと言います。さっきこの街に着いたばかりなんです」
「そっか。来て早々、変なことに巻き込んじまって悪かったな。本当はあんなことの無いもっと安全な街なんだけど」
 丁寧な口調ではないが、アストはこのカイルの裏表のなさそうな態度に好感を持った。
「さっきの奴らは、詳しくは言えないんだけど、ちょっとあることを調べてたら、ドジってこのザマ」
 そう言ってカイルが、怪我している右手を肩を動かして見せてくる。ハンカチで止血はしていたがそれでも、血は滴っていた。
「お前、怪我してたのかっ!」
 ビックが驚いて、カイルの怪我をしている腕を掴む。
「痛ぇよ!」
「わ、わりぃ。でも、大丈夫なのか?」
「なんとかな。ところで、どうしてお前がここにいるだ?」
「隊長が遅いから心配になって、見て来いってっさ。丁寧に道順まで示して」
「何でもお見通しか」
 カイルとビックが参ったという感じで微笑みあう。どうやら、この二人の隊長と言うのは、相当な切れ者らしい。
「しかし、お前に傷を負わせられるような奴は、あの中にはいなかったと思うが?」
 ビックが心配そうにカイルの傷を見ている。
「あの中にはな。追ってこなかったんだよ、そいつは。詳しい話はあとだ」
 どうやら、聞かせることは出来ない話のようだ。もっとも、街の事情も知らないから、聞いたとしても、分かりもしないだろう。
「そういわけで、巻き込んで本当に悪かった。といっても、大して心配する必要もなかったか」
 カイルが笑ってセシリアを見る。
「それより、あなた本当に怪我、大丈夫なの?」
「ああ、平気、平気」
 セシリアが心配そうに腕を見るからなのか、カイルが体を動かしてそれを隠す。
「そろそろ行かないと――」
 アストは大分暗くなってきたのが気になって、空を見上げた。
「僕たちはこれから宿を探さないといけないから」
「それなら、ここをまっすぐ行けば、『星の風』という一階がレストランになってる宿が右手にある。街の中心にも近いし、飯もいける。本当は詫びに飯でもおごりたいんだけど、こいつらを連れていかないといけないからな」
 カイルが辺りに倒れている黒服を見渡す。ビックがすでに持っていたロープで腕を縛り始めている。
「気持ちだけで十分です」
 アストの言葉にカイルが恥ずかしそうに笑った。
「カイル。お前は隊長に報告して来てくれ。俺がこいつら見てるから。ついでに、その傷も治療して来い」
 ビックが黒服の一人縛り終えたところで、カイルに声を掛けた。
「ああ。こいつらを縛り終えたら、そうさせてもらう。本当に巻き込んですまなかった。何かあったら、『ウィルの盾』・本部に来てくれ。俺たちがいるから」
「わかりました。それでは」
「怪我、早く治してね」
 アストとセシリアは別れを告げて、教えられた宿を目指して階段を上り始める。カイルはまだビックとまだ何やら話している。
「カイルさんは大丈夫って言ってたけど、本当は相当きついんじゃないかしら?」
「だろうね」
 止血していながら滴るほどの血が腕から出ていて、大丈夫なはずがない。おそらく、痛みで腕は動かせないだろう。
「でも、本人が大丈夫って言うんじゃ、どうすることもできないよ。それにちゃんと戻れば治療も出来るだろうし」
「それはそうなんだけど……あんな怪我までして、何を調べてたのかな?」
「気になるところだけど、首を突っ込むようなことでもないよ」
「仕方ないか」
 階段を上り終える。冷たい風が吹いた。
 暗くなる前に『星の風』は見つかった。       

 『星の風』は木造の三階建てで、壁は白く、木目の綺麗なこげ茶色の床板を敷いていた。一階はカイルの言うようにレストランで、二階からが客室だそうだ。オーナーは鼻の下に髭を生やした、白髪混じりの初老の優しそうな男性だった。
「今はまだ部屋に空きはあるけど、雪祭りが近いからね。もう十日もすれば、部屋はなかったかもしれないね」
 街の外から芸術家がやってきて、雪像を作ってくれるのだと、オーナーが宿を取るときに教えてくれた。彼らが長期滞在してくれるおかげで、一番の稼ぎ時になるそうだ。
 機会があれば、見てみたい気もするが、そうもいかない。アストの目的はヤンとクロードであり、雪祭りが始まるより早く街を後にするだろう。
 部屋にはオーナーが案内してくれた。ベージュのクロスのかけてある四人がけのテーブルの間を抜けて、レストランの奥にある階段で三階まで上がる。三階は廊下がまっすぐ伸びて左右に部屋がある造りになっていた。アストの部屋はその一番の奥の左側。中はシンプルなつくりで、最低限のものしか置かれておらず、狭くはない。入り口から入ってすぐ左が洗面になっている。正面には窓とベッドが置かれ、その隣にコート掛けがあった。部屋の真中には、固定された鉄製のオイルストーブが置かれ、部屋を暖かくしてくれる。アストの部屋の前がセシリアの部屋だ。
 アストは窓を開けてウィルの街を見下ろす。冷たい外の空気が不思議と気持ち良かった。緑色の柔らかい街灯がぽつん、ぽつんと暗くなった街を照らす中、遠くに乗ってきた駅が見えた。どこをどう歩いてきたのかは、よく分からない。なんて坂と階段の多い街だ。
 勝手に出て行った自分を父上はどう思うだろう? 何も知らない、いや、知ろうとしなかった自分が許せなかった。言われたままに、動いてきた自分が……。
 黙って出てきたはずなのに、セシリアがついて来たのには驚いた。彼女は何もかも、お見通しなのかもしれない。僕自身の悩みも――。
 ドアがノックされる音が聞こえて、アストは思索を止めた。多分、セシリアだろう。
「アスト、そろそろご飯食べよう?」
「うん。すぐ行くよ」
 窓を閉めて、アストは部屋を出た。
 一階に下りると、案内されたときとは変わって、七台あるテーブルのうち三台に客が来ていた。案内されたときは、まだレストランはオープンしていなかったのかもしれない。
 窓側の手近な席に、アストはセシリアと向き合って座る。メニューを見ていると間もなく、大きな瞳をした赤茶けたの肌のウェイターが、水を持って来てくれた。まだ、十二、三歳くらいだろうか、幼さがあった。おそらくオーナーの息子か、何かだろう。
 メニューの中から選ぶのが面倒だったので、アストはメニューとは別の紙に書かれていた、今日のおすすめ料理を注文した。おすすめと書いてある辺り、外れることもないだろう。魚料理らしい。セシリアも同じ物を注文した。
「なんでセシリアは僕に付いて来たのさ? 心配だったから?」
「ぶしつけに聞いてくるわね」
 セシリアが少し顔を歪めた。聞いて欲しくないことだったのかもしれない。
「確かにアストが心配だったっていうのもあるわ。持ってきてないけど、一応、剣は振れるし、今日みたいな奴らからアストを守るくらいどうってことないわ。アストもある程度護身術は身につけてるから、今日くらいの相手なら少し怪我するくらいで済んだでしょうけど」
 一応、事実なのでアストには返す言葉もない。確かに怪我くらいしたかもしれない。
「でもね、それ以上に私はアストが何を知って、どんな決断をするのか知りたいのよ」
 セシリアの顔が懐かしい姉の表情を浮かべる。
「アストがどんな決断をしても、そのときに私はアストの味方でいたいの。それに、アストが何かにけじめをつけようとしているように、私もけじめをつけなくちゃいけないのよ」
 セシリアの顔が、遠くを見るように目を細めて、一人の女性のどこか憂いだ表情に変わる。一瞬、思わずアストはそんなセシリアに見とれるも、セシリアはすぐにいつもと同じように、にっこり微笑む。
「はい。これで私の話はおしまい。お腹も空いたしね」
「う、うん。分かった」
 アストは少し鼓動が早くなるのを感じて、努めて冷静に頷いた。
 多分、聞いてみたところで、セシリアの言うけじめについて教えてはくれないだろう。アストには、頬杖をつくセシリアが自分と同じように、何かを探しているように見えた。
 程なく料理が持ってこられた。この地方の魚のパイ包み焼きで、パイの中には、付け合せのキノコや緑の野菜までが入っている。バターの香りが食欲をそそった。魚をナイフで切って、フォークで口に運ぶ。味付けそのものは、塩と胡椒だけとシンプルで、その加減が絶妙だった。そのほか、焼きたてのバケットにクレソンのスープが付いてきた。
「なんて言ったか? 貿易やってる商会、知ってるか?」
 ちょうど今来たばかりの二人組みの男性客が、アストたちの隣の席に座って、話し始めた。アストは魚の白身を上手く切り離しながら、耳を傾けてみた。
「あの交易品を扱ってる貿易商会のことか? 大分儲かってるみたいじゃねぇか。もっとも交易品だけじゃなくて、裏では相当あくどいことをしてるらしいって噂だけどな」
「そう、それだ。そのあくどいことってのが、奴隷商らしいってのは、結構有名な話しなんだが、ついにヤンさんが動いたらしいぞ」
 ヤンの名前に右手のナイフが止まった。セシリアも思わずこっちを見ている。
「そうか。ヤンさんが動いたら、そこも終わりだな」
「ああ。一年も前から追ってたらしいぜ。いくら『ウィルの盾』でも証拠も無しに動けないからな」
「まぁ、多少街がごたごたするだろうけど、これで少しは治安が良くなるだろう」
「まったくだ。あんなのが街にいると思うと――」
 『ウィルの盾』と言えば、今日会ったカイルとビックもいるところだ。ひょっとすると今日もこの話と関係ある事件を追っていたのかもしてない。
 隣の客の話はそれから、仕事の愚痴になっていた。
「隣の話からすると、ヤンはこの街でも相当な人みたいだ」
「そうね。意外と有名人見たいだし、この分だとヤンはすぐに見つかるかもしれないわね」
 そこでアストはウェイターに聞いてみることにした。さっきのまだ幼さのこる少年だ。
「ヤンと言う男を捜しているんだけど、知ってるかな?」
「ヤンさんだって!」
 この少年の驚きように、アストもセシリアも驚いてしまう。
「この街じゃ知らない人はいないよ。なんたって街を救ってくれた恩人だからね」
 少年が目を輝かせて語ってくれる。目の前にお客がいることなど、忘れてしまっているようだ。
「今年の夏に、街でどこから現れたのか分からない毛むくじゃらの化け物が突然何十匹も出現したんだ。街は破壊されるし、多くの人が死んだよ。このまま街が壊滅するかと思ったよ。世界が終わってしまうような感じだった……。そんなときヤンさんが化け物を倒してくれたんだ。家の窓から隠れて見てたけど、凄かったよ。化け物を剣で真っ二つにして行くんだ。そうやって、街を救ってくれたのヤンだよ」
 ほとんど救世主か英雄のようだ。話が本当なら無理もないが、にわかには信じがたい。だが、あのヤンならそれもやってのけるかもしれない。
「それでそのヤンさんはどこに行けば会えるの?」
「うーん、『ウィルの盾』の本部に行けば会えるんじゃないかな? 隊長してるって聞いたことがあるよ」
「その『ウィルの盾』って言うのは何なの?」
 セシリアがもっともなことを聞いてくれた。カイルやビックも所属しているようだが、今いちよく分からない。
「今日、この街に来たばかりで、よく分からないんだ。それに『ウィルの盾』の人にも助けてもらったしね。どういう組織なんだい?」
「街の治安を守るために、執政部が作ったんだ。治安を守る以外にもいろいろしてるみたいだけど。街の中央広場の傍に本部があるって、いたるところに支部があるんだ。人選は執政部の人たちがしてるらしいけど」
「執政部?」
 アストは眉を寄せた。
「税金を集めて、街のために使ってる人たち。駅作ったり、公園作ったりしてる。さっき話した化け物に壊された街も、この人たちのおかげで予想より早く復興できたって。そうそう、今度ある雪祭りもそうだよ。執行部は、街の住人がなってるんだけど、金持ち連中が多いって話だよ」
 少年の話からすると、街としてかなり高度な政治が行われているようだ。アストからすれば、金持ちが多いことに問題を感じなくはないが。
「全部、父さんからの受け売りだけどね」
 恥ずかしそうに少年がそう付け足しくれた。
「ありがとう。早速明日、その本部に行ってみるよ」
 アストは少年に情報料代わりに少しチップを弾んであげた。少年が少し驚いて、困った顔をした。
「いいよ。もらって」
 アストがそう言うと、少年は嬉しそうに笑って、深々とお辞儀をして他のテーブルに向かった。
「昔のアストを見ているようだったわ」
 セシリアがからかうようにアストを見ている。
「そんなに似てるとは思わないけど」
 アストは少年の顔を思い浮かべてみたが、女顔の自分とは似ているとは思えない。彼は女顔と言うより、すでに男らしい顔をしている。
「顔とかじゃないわよ。なんていうの? 感じとか雰囲気? 昔のアストは人懐っこくて、優しくて、素直に人の言うことを信じるような子だったわ」
「それじゃ、今はどうなの?」
「今は、秘密よ」
 セシリアはそう微笑んでみせる。アストにしてみれば、からかわれているようであまりいい気分はしない。ため息混じりに、
「そういうところは相変わらず変わらないね」
「どういう意味よ?」
「僕をからかって、楽しんでるところだよ。別に構わないけど」
「アストも少しは大人になってるのね」
 セシリアはやはり嬉しそうに微笑んでいる。アストはどうしてもそれが面白くない。
「年は二つしか変わらないのに。何だよ、それ?」
「その二つが大きいのよ」
 うんうんとセシリアはは頷く。
「勝手に納得しないでよ」
「むくれないの。やっぱりまだまだ子供ね」
「なら、どうすればいいのさ?」
「それは自分で考えるのよ」
 アストは思わずため息を吐いた。まだまだ口じゃ勝てない。
「ほら、冷める前に食べてしまいましょう」
 セシリアは切り身にフォークを刺した。
「そうだね」
 吹っ切るように笑うと、アストも切り身を刺して口に運んだ。少し冷めていたが、味に問題はなく、おいしかった。         

 翌朝。十時過ぎ――。
「やっぱり外は寒いね。せめて雪でも降らないかな」
 アストが『星の風』の入り口でどんより雲った空を見上げた。吐く息が白くなって霧散していく。
「どうして?」
 アストの隣のセシリアが聞いてくる。
「雪って、寒い中頑張ってる人への神様の贈り物って気がするからね。なんか降ってると嬉しくなるんだ」
「私は、雪は嫌いよ」
 セシリアはちらっと空を見上げて、なぜか吐き捨てるようにそれだけ言った。
「何か気に障るようなことでも言った?」
「なんでもないわよ。それよりアスト一人でヤンのところには行って。私はクロードを探すから。私は別にヤンに会いたいわけじゃないし、手分けしたほうがいいでしょ」
「セシリアがそう言うなら別にいいけど……」
 アストにはセシリアの態度が釈然としない。情報屋のいる酒場には、強引についてきたと言うのに。怒っているのとも、何か違うものを感じる。何か言おうとしても、言葉が浮かばない。
「じゃあ、決まりね」
 結局、セシリアに押し切られてしまう。
「気をつけてね」
「それは私の台詞よ」
 セシリアはそのまま、すたすたと行ってしまう。
「そう言う意味で言ったんじゃなかったんだけど……」
 セシリアに言葉にならない危なっかしさを感じながら、アストはその背中を見送った。
「アストさん待ちましたか?」
 『星の風』から昨日のウェイターの少年、ジャンが出てきた。昨日のチップのお礼にと、『ウィルの盾』まで道案内を申し出てくれたのである。ジャンは客商売をしているからか、この年頃の少年にしては、大人びたしっかりした感じがあった。アストにしてみれば、知らない街で話相手が出来たことが何よりも嬉しい。
「ぜんぜん、待ってないよ。しかし、悪いね。道案内なんて」
「別にいいですよ。どうせ、薪を集めに行くんですから。それよりセシリアさんは?」
「他に行くところがあるってさ。それじゃ行こうか」
「はいっ!」
 ジャンの元気の良い返事に、頼もしいものをアストは感じた。
「ジャンは、実は僕に付いてきて、ヤンさんに会いたいんだろう? 昨日のお礼っていうのもあるんだろうけど」
 アストは歩きながら聞いてみた。昨日のジャンのヤンに対する想いには相当なものがあった。
「ばれてます?」
 ジャンが恥ずかしそうに見上げてくる。ジャンの身長はアストの胸元くらいしかない。
「俺は『ウィルの盾』に将来入りたいんです。ヤンさんみたいに強くなって、この街を守りたいんです」
 きらきらと目を輝かせて、ジャンは夢を語る。その姿が昔の自分と重なって見える。
「それには強くならないとな。心も体も」
 ポンッとジャンの頭に手を置いて、なでる。
「アストさん?」
「昔、僕も君くらいのころに似たようなこと言ったよ。国を守るんだってね。でも、難しいんだ、守るって。本当に……」
 気がつくと、ジャンが不思議そうに見上げていた。
「何言ってるんだろう? セシリアに守られてばっかりの僕が言っても、説得力がないね」
 思わず恥ずかしくなって、アストは照れて笑った。
「ジャンはこの街が好きなの?」
「好きですよ。他の街のことは知らないから、比べられませんけど。まぁ、坂と階段が多いのが難点ですけど、最近、そういうのもアリかなって思えるようになってきました。アストさんはどうなんですか? その、故郷が? 結構好きだと思うんですけど」
「え?」
 思わず、アストは足を止めた。ジャンをじっと見つめてしまう。
「あ、すいません。お気を悪くされたら謝ります。ただ、守りたいと言われるくらいですから、そうじゃないかなと思っただけです。すいま――」
「いや、そういうことじゃなくてさ」
 ジャンが何か勘違いしているから、アストは慌てて否定した。
「今までそんなこと考えてみたこともなかったからね。ちょっと戸惑っただけだよ。まぁ好きかどうかは分からないね」
「そっか。でもきっとアストさんは、大事に思ってると思います」
 まさか、ジャンから元気づけられるとは思わなかった。アストは苦笑しながら、ポンッとジャンの頭を叩く。
「この旅が終わったら、もう一度考えてみるよ」
 その言葉にジャンが嬉しそうに笑う。
 いや、考えるまでもなく、この旅が終わる頃には答えは出ているかもしれない。ジャンの満足そうな笑顔を見ながら、アストはそんな予感を感じた。
 ようやく中央広場に出る。広場は丸く、周囲を葉の落ちた木々が囲み、中央に噴水がこんこんと水を湛えていた。この寒さだからなのか、ほとんど人がいない。いるのは、広場には絵を売っている若い男の画家とその周りを十歳くらい男の子と女の子が遊んでいた。
「ここが街の中心です。左の下り階段にいくと街の入り口になります。右の階段を上ると商店街です。一応、あわせて大通りと言いいます。七日に一度、市が開かれて賑わうんですよ。ここからまっすぐ行くと住宅街ですね。『ウィルの盾』・本部へは住宅街の中にあるんです。ここからすぐです」
 ジャンが前を歩きながら、街案内のように説明してくれた。
 画家と子どもたちの横目にみながら広場を後にする。
 あれは遊んでいるというより、喧嘩しているんだろうな。女の子が男の子を追いかけましているし。セシリアと喧嘩なんて考えられないけど。あれはあれで仲が良さそうに見える。
 画家もそんな二人を楽しそうに見ていた。
 住宅街に入ると平坦な道から、急な上り坂に変わっていた。
「よくこんなところに住めるね」
「住み慣れるとそんなことないですよ。ほら、見えてきました」
 ジャンが坂の終わりにある建物を指差して言う。どうやら、あれが『ウィルの盾』のようだ。
「この前までこことは違うところにあったんだけど、街の復興のついでに移転したんです」
「それはいいけど、何だって、坂の終わりにしたんだろう?」
 アストにしてみれば、長い坂を上ってこなければならなくて、文句の一つも言いたくなる。
「それは、商店街の方にも近くなるからですよ。『ウィルの盾』を境に道が二又に分かれてるでしょ。右が商店街へ、左は奥の住宅街へ行くんです」
「なるほど」
 街に中心に程近く、行き来のしやすいところに合ったほうが便が良いのは当然だろう。
「着いたね」
 実際にたどり着いた『ウィルの盾』・本部は、一階しかなく意外と小さかった。紅いレンガ作りに、大きめの木のドアが入り口らしかった。
「これでも、地下に留置所があるんですよ」
 なんでジャンがそんな所まで知っているのか、アストは疑問に思わないではないが、まさか入ったわけではないだろう。
「ここにヤンがいるのか……」
 伝説とまで言われた傭兵である。アストの体に思わず緊張が走る。隣もジャンも憧れの人の会うからなのか、緊張をしているのが分かる。
 アストは背筋を正して、ドアノブのベルを鳴らす。
「どうぞ。入ってきて構いませんよ」
 聞いたことのある声が中から聞こえて、アストはドアを開ける。中から暖かい空気が、凍えた体に気持ち良かった。
「失礼します」
 一礼して入ったそこには、カイルがいた。
「あんたは昨日の。昨日のやつらがまた何かやってきたのかい? セシリアって言ったけ? 彼女が見えないけど」
「いえ、今日はそういうことではなくて、ヤンさんに用があってきたんですが。いらっしゃいますか?」
「そんな所じゃなんだから、中に入ってストーブに当たりなよ」
「お言葉に甘えて」
 中は外から見た以上に狭かった。入って右の壁に小さい窓が一つ。中央に大き目の丸いテーブルが一台。正面の壁にロッカーが四つ。その奥に地下への階段が見えた。ロッカーの左手に円柱のストーブが置いてあり、カイルは右腕に包帯を巻いて、ストーブに近いイスに腰掛けていた。
「隊長は今、巡回中さ。そろそろ帰ってくる頃なんだけど、多分油売ってるね」
 カイルが困り顔で教えてくれる。それを聞いて、口からはため息が漏れた。思わず緊張も解けた。疲れがどっと出たような感じだ。ジャンも似たようなものだった。期待していた分、落胆も大きい。
「どうしたんだ? 隊長にどんな用があったのさ?」
「いえ、いないなら、出直します」
 あれだけ歩いてきたと言うのに。骨折り損とはまさこのことだ。緊張していた自分が馬鹿に思える。
「そ、それより、怪我は大丈夫ですか?」
 とりあえず、アストはそう話題を変える。
「なんとかな。思ったよりも傷が深くて驚いたよ。これじゃ巡回しても、万が一のとき働けないんで、ここで留守番だよ」
 どうしようもないといった感じで、カイルは苦笑いを浮かべた。
「でも思ったよりも元気そうで安心しました」
「まぁ、これくらいで暗くなっても仕方ないし、怪我したのは自分が悪いからな。あんな奴から逃げれたのも運が良いかと言えば良いか」
「あんな奴?」
「紅い布のついた馬鹿でかい剣を振り回してくる奴だよ。あれは逃げたと言うよりも、見逃してもらったと言うのが正しいしな」
 カイルは穏やかに話してはいるが、内心はプライドを傷つけられて悔しくて仕方なさそうだ。その証拠に左手を強く握り締めている
「赤い布をつけた大きい剣ですか」
「ああ。深追いしてこなくて助かったよ」
 その剣が妙にアストの頭の中で引っかかる。だが、それが何なのかはわからなかった。
「もう行きます。怪我、早く治してくださいね」
「隊長はひょとしたら『Door』っていう喫茶店にいるかも知れない。ここに移ってから、よく休憩だって、そこで油売ってるからな。場所はその子が知ってるから、行ってみるといい」
「えっ、俺?」
 つまらなそうに拗ねていたジャンが突然話を振られて驚いた。
「たまに、隊長の後をつけているんだ、その子。俺は気がつかなかったし、隊長はなかなか大した尾行だってほめてたっけ。」
「ほ、本当ですか?」
 ジャンがカイルに飛び掛らん勢いで迫る。
「ああ。将来はここに来る気があるなら歓迎したいってさ」
 それを聴いたとたん、ジャンは満面の笑みを浮かべて、両こぶしを強く握ると、
「やったぁぁぁっ!」
 アストとカイルはあまりの大きさに、思わず顔をしかめた。
「そんなに嬉しいかねぇ?」
 カイルは呆れたような表情を浮かべた。
「それじゃ、その喫茶店に行ってみます。ありがとうございました」
「気にしないでくれ。今日は襲われたりしないようにな」
 カイルの冷やかしに苦笑して、アストとジャンは『ウィルの盾』を後にした。
「あぁ……。ヤンさんがそんなこと行ってくれるなんて」
 ジャンは感無量といった感じで、外に出ると小躍りを踊り始めた。商店街へ続く道で、すれ違う人が変な目でジャンを見ている。一緒に歩くアストはさすがに恥ずかしい。ジャンの方はお構いなしだが。
「ジャン、嬉しいのも分かるけど、『Door』はどこにあるの?」
「えっと、『Door』は商店街の奥の路地に入ったところですね」
 先を行くジャンは相変わらず小躍りを続けている。大人なびているとばかり思っていたジャンが、こうして年相応の顔を覗かせる。それが不思議とアストには嬉しい。
 どんよりとしたアストは雲を見上げた。
 雪は未だに降らない。吐く息が白くなって消えた。          

「やっぱり、僕はいいです」
 あれほどヤンに会いたがってジャンが『Door』の前で、突然アストに別れを告げてきた。
「ど、どうして? あんなに会いたがってたじゃないか?」
 驚いてアストは尋ねると、恥ずかしそうに照れ笑いをジャンは浮かべてきっぱり言った。
「はい。さっきのことで、もう胸が一杯です。それに追いかけてるのがばれてるんじゃ、堂々と会えませんよ。だから今は会わないでおきます」
「そっか……」
 アストは少し寂しさを憶えた。仲の良い友達が先に帰ってしまうようなそんな寂しさだった。ジャンが隣にいたことで、ずいぶん楽な気持ちになっていたことに気がつく。
「それに薪もありますから。あとで、良かったらヤンさんの話を聞かせてください」
 アストが微笑んで頷くと、ジャンはそのまま走って行ってしまった。アストはその背中を見送ってから、改めて『Door』の前に立った。
 外の壁はベージュに塗られ、屋根はダークブラウン。大きな窓が三つついていた。
「さてと」
 『ウィルの盾』に入るときとは違って、不思議と緊張はしなかった。
 カウベルを鳴らしてドアを開けると、コーヒーのいい香りが、アストの鼻腔を刺激した。
「いらっしゃいませ」
 カウンターの中にいた白いシャツを着たマスターのような若い男性が、声を掛けてくれた。
 店内は、床と同じこげ茶色の二人がけのテーブルが、窓に沿って五台並んでいる。奥から二番目のテーブルには一組のカップルが、楽しげに微笑みあって座っている。奥のステージにはなぜか大きなピアノが置かれていて、店全体が落ち着いた雰囲気をかもし出していた。窓とは反対側のL字カウンターには、真中に中年の男性客、奥には若い女性客がいた。とりあえずアストは入り口に近いカウンター席に腰を落ち着かせた。
 マスターらしい若い男性がすぐに水を出してくれた。彼は背が高いためにかなり細く見えた。長く伸ばした髪を、背中で結んでいる。歳は二十台半ばでアスト変わらないだろう。
「ヤンさんを探しているんですが、こちらにいらっしゃいますか?」
「ヤンさんですか? ちょっと待ってください」
 マスターはカウンターの真中に座っている男性客に耳打ちした。あの人がヤンなのだろう。彼は立ち上がって、アストの隣にやってきた。
「俺がヤンだが、何か用かい?」
 ヤンは背がアストよりも頭半分背が高かった。髪は短く切りそろえられ、彫り深く渋い顔は、どこか人を惹きつけるような魅力が感じられた。少なくともアストが想像していた威圧感に満ちた、冷たそうな男ではないことだけは確かだった。
「僕はアストと言います。あなたに四年前のアスティルトの戦いについてお聞きしたいのですが……」
 しばらく、ヤンがじっとアストを見つめてきた。妙な緊張感がアストを襲う。それも三十秒足らず、ヤンが困ったように、笑った。
「その前にお前さん。喫茶店に来て何も注文しないのは、さすがにマナー違反じゃねぇか?」
 本当に伝説の“ベルセルク”なのか疑いを持つほど、砕けた笑顔で、とまどいながらもヤンの言うことももっともだと、アストもつられて笑った。
「それもそうですね。それでは、コーヒーを」
 聞いていたマスターが「かしこまりました」と奥へ下がっていった。
「それで、何だって俺にアスティルトの戦いを聞くんだ?」
 ヤンが不思議そうな顔がする。
「あなたがその戦いに加わって、生き残ったと――」
 そこまで言って、ヤンが表情を困ったようにしかめた。
「巷じゃそういう情報もあるのか。傭兵から足を洗ってそこらへんには、とんと疎くなちまったからなぁ」
「ということは……!」
 まさかと、アストは思わずにはいられない。嫌な予感が感じずにはいられない。
「俺はあの戦争には参加してないんだ」
 アストはどっと疲れがあふれるのを感じた。ここまできて、それはないだろう。あの情報屋の顔が憎らしく浮かび上がる。
「正確に言うと、参加しそこなったということなんだがな」
「参加しそこなった?」
 アストは眉を寄せた。
「ああ。俺はその当時別の戦いに参加していて、それが終わったらアスティルトの方に向かう予定だったんだ。だからと言って別に約束の日に遅れたわけでもない。俺はちゃんと、予定通りアスティルトに着いたんだが――」
 そこでヤンが息を吐いた。アストはただじっと次の言葉をまった。
「そこはすでに廃墟だった。街そのものが滅んでいた。家も何もない。ただの瓦礫の山さ。戦争の残り火があっちこっちにあるだけで、誰もいない。人の形をした肉の塊は山ほどあったがな」
 普通なら思い出すことさえためらわれるような光景を、ヤンは淡々と語る。
「吐き気を覚えるような、血の匂い、死臭、肉の燃える匂い。生き残りがいないか探し回ったが、どこにもいなかった。みんな死んでた。女も子どももな。中には傭兵仲間の見知った顔もあった。もう一日でも早く着ていれば、この結果は避けられたかもしれないが、俺が責任を感じても仕方ねぇしな。そんなわけで、俺はその戦いにはいなかったんだ。まぁ、だからこそ、誤った情報が流れてるんだろうがな」
 アストにはヤンが仕方がなかったと割り切っているように感じられる。それでもアストは釈然としない。
「そんな光景を見ていながら、なぜそんな風に割り切ることが出来るんですか?」
「俺は結局、すべてが終わってから辿り着いただけなんだよ。できることなんて、これっぽちもありゃしなかったのさ」
「でも、知り合いもいたんでしょう? その、復讐とかは考えなかったんですか? それこそ、傭兵団を率いてフォークオーツに責めるとか……」
 ヤンならそれくらいやろうと思えば、やれなくはないはずだ。
「俺は傭兵だからな、そんなことで剣を抜くつもりはねぇよ。それにそいつも傭兵だから死ぬ覚悟くらいあるだろうよ。フォークオーツのしたことは人間として許せないが、だからってあの国の人間ずべてが悪いわけでもない。街を焼いた兵士が本当に悪いのか? 街の人間を切った兵士が本当に悪いのか?」
 アストは絶句する。だれも悪くないわけではない。しかし誰が悪いわけでもない。
 そこですっとマスターがコーヒーを無言で出してくれた。アストはそれに頭を下げた。
「人に剣を向けてといて、他人から言われてやってます、なんて言い訳が通じるほど甘くはないが、他人のせいにしなくちゃやってられねぇのも戦争だろう。誰も好き好んで、人を殺す奴はそうそういねぇよ。だから、殺すのも殺されるのも全部他人のせい。そっちのほうがずっと楽だからな。戦争に勝ち負けなんかありはしないのさ。俺に言わせれば、殺した奴も殺された奴も弱いってだけだがね」
 アストもヤンの言葉が理解できないわけではない。他人のせいにして人を殺すのは、確かに弱いのかもしれない。だが、それでは――
「強い者が正しいとでも言うんですか、あなたは?」
「ちげぇよ。正しいことがしたいなら、強さが必要なんだよ。弱い奴が強い奴にし従うことが悪いとは言わねぇが、そのままで良いわけでもないだろう」
「弱いままではいけないと?」
「自分が正しいと思うことがしたいならな。強い奴が正しいわけでもない。正しい奴が強いわけでもない。だが、弱いままでは何もできない。強い奴しかその権利はないのさ」
 ヤンは感情的になることなく、世間話をするようだった。それはヤンのこれまで生きてきた世界の経験から出た言葉なのだろう。アストは何か言おうにも、言葉が出てこない。それどころか、なぜかうっすら汗までかいているのに気づく。
「大した話が出来なくて悪いな。ところで、何だって今更、アスティルトの戦いなんて調べてるんだ?」
 口調こそ何も変わらないが、アストはヤンの顔が一瞬鋭くなった錯覚を覚える。それでも、アストは息を整えると、ヤンの目を見据えて、はっきり言った。
「真実は敗者の側からみなければ、分からないんです。僕にとって、それを知るのは今が一番都合がいいんですよ」
 しばらくヤンが何かを考えるように黙り込んで、ゆっくり口を開いた。
「そうか……。お前さんが何のために、アスティルトの戦いについて調べるのかは知らないが、あの戦争に本当に参加した奴を紹介してやるよ。そいつが戦争について語るかどうかは別だがな。俺にも未だに語らないからな。冷める前に、それ飲んだらどうだ? ここのコーヒーは格別なんだよ」
 ヤンに背中を叩かれるまで、アストは注文していたコーヒーのことなどすっかり忘れていた。
 僕のことに気がついた?
 ヤンは席を移って、何やらマスターと話し込んでいる。アストはコーヒーを一口飲んで、大きく息を吐いた。緊張でコーヒーの味なんてわからなかったが、とりあえず落ち着くことは出来た。
 何のためにか……。
 確かにヤンはそう言った。それだけが妙に耳に残った。
「おい」
 ヤンが手招きをしている。よく分からなかったが、行ってみる。
「こいつはクロードって言うんだが、名前くらい聞いたことがあるだろう」
 ヤンがマスターを指して、そう紹介した。
「クロードがアスティルトの戦いの唯一の生き残りだ。こんなところで会うとは思ってなかったって顔だな」
 ヤンが面白がっている。
「ええ。クロードさんも探していたんですけど、まさかここで……」
「そりゃ、そうさ。あのクロードが喫茶店してるなんて、ほとんど誰も知らないからな。今じゃ、小さな嬢ちゃんと一緒に暮らしてるもんな」
「嬢ちゃん?」
 アストは眉をひそめた。クロードは苦笑いを浮かべている。
「去年、クロードが奴隷商人から助けたリディアって言う女の子さ」
 そろそろ戻るかと、ヤンが席を立つ。
「アストって言ったか? 何に迷ってるかは知らねぇけど、強くいけよ。お前はそうならなきゃいけないはずだ」
「ヤンさん……」
 気がついている。アストはそう確信する。それで、そんなことを――。
 そのまま出て行こうとするヤンに、だからこそアストは問い掛けた。
「強いって何ですか?」
 ヤンがドアの前で止まった。
「生きることだ。自分が自分として強く生きる。自分の信念を貫いて生きる。それができることが強いってことだ」
 ヤンは振り向くことなく、カウベルを鳴らして出て行く。外の冷たい風が、一瞬アストの頬をなでる。ドアが閉まるのと同時に、アストは大きく息を吐いた。
「凄い方ですね」
 正直アストは純粋にヤンの人柄に惹かれた。厳しさの中に、温かさ感じずにはいられない。
「ええ、彼は俺の師なんですよ。剣でもそうでしたが、人としても」
 敵わないといった感じにクロードが微笑んだ。
「アストさん。アスティルトの戦いのことですけど……」
「待ってください」
 クロードの言葉を敢えてアストは止めた。
「僕の素性を知った上で、言われているんですか?」
 アストはまっすぐにクロードを見つめる。
「あなたがあの戦いのことを聞いてどうするのかは知りませんし、それを聞くつもりもありません。ですが、どちらにしても、あなたに話すことに、正直抵抗があります」
 クロードもアストをまっすぐ見つめ返す。
「僕はそれでも知りたい。いや、知らなければならないんです。そうでなければ、前に進めないんです」
 無言のまま時間が過ぎる。アストはクロードと目を合わせたまま、離さない。ほんのわずかな時間のはずなのに、それがやけに長く感じられる。そしてクロードが呟くように口を開いた。
「歴史は勝者が作るかもしれない。だが、真実は人それぞれの中にしかないのかもしれない」
 クロードもまた戦いの中で、見たものがあるのだろう。クロードの一言には、そう思わせる重みが感じられた。
「話していただけるまで、いくらでも待ちます」
「わかりました……」
 そこでクロードは大きく息を吐いた。
「明日にでも来てください。今日はゆっくりしていってください」
 クロードは思いつめた顔で奥の方に消えていった。周りを見渡すと、客はすでにアストだけになっていた。
 ひょっとしたら、セシリアが来るかも知れないから、待ってみることにする。
 アストは残っていたコーヒーを一気に飲み干した。特有の苦味と酸味が口の広がった。
 外に目をやると相変わらず重たく曇った空が広がり、冷たそうな風が街路樹を揺らしていた。
 静かに店内に澄んだピアノの音が響く。
 アストがステージを振り向くと、クロードが瞳を閉じてどこか寂しそうに弾いていた。
 アストは外を見ながら、名前も知らない物静かな曲に耳を傾けて、ただ何のためなのか考えていた。
 未だに雪は降らない。        

 暗くなるまでアストは『Door』でセシリアを待っていたが、結局彼女は来なかった。アストはセシリアも『星の風』に戻っているだろうと考えて、戻ることにした。
「お客さんだよ」
 アストが帰ってくるなり『星の風』のオーナーが、レストランにいるその客のテーブルに案内してくれた。
 誰だ? この街で、アストに知り合いなどいるはずもなかったが、短い白髪を逆立てた、強面の初老の男性を見て、アストは思わず声を上げた。
「バ、バレン!」
「アスト様、お久しぶりです」
 バレンが深々と頭を下げる。
「よしてよ。バレンはもう僕に頭下げる必要なんてないんだから」
「そうもいきません」
 バレンは、昔アストの父に仕えていた。アストに剣や体術を教えたこともあり、アストは彼を慕っていた。四年前、アストの父に逆らったために、首になり、その後の行方は分からなかった。
「それにしてもアスト様、四年ぶりですか。立派になられて」
「バレンは少し老けたね」
 本当は少しどころではなかった。この四年でずいぶん老け込んだように思える。四年という歳月だけがそれをもたらしたものではないことは明らかだった。この四年の間バレンに、何があったのかアストには知ることはできないが、アストは罪悪感を感じずにはいられない。
「父上がすまなかった」
 そう言わなければ、アストの気がすまなかった。
「よいのです。アスト様が悪いわけではありません。私がダリル様に従えなかっただけです」
「でも――」
「昔のことはもう良いのです。今更、何も変わりはしないのですから」
「バレン……」
 昔はそんな冷めたことを言わなかった。四年というと歳月は明らかに彼を変えた。
「バレンは今何をしてるの?」
「ある屋敷の護衛として、雇われております。私は剣を振ることしか知りませんから。つまらぬ仕事ですよ」
 なら、どうして辞めないんだ? 
 そんな言葉が喉まで出たが、声になることはなかった。言えるはずがない。アストにそう言う資格などない。
「それにしても、バレンはどうしてここに?」
 いい加減、アストは話を変えた。
「街でセシリアに会ったのです。アスト様も一緒だというので、こうしてお会いしに来ました。それでセシリアと会ったときに私の雇い主も一緒でして、アスト様にお会いしたいと食事に招待しております。セシリアはすでに屋敷の方で待たせておりますが、アスト様はどうなさいますか?」
 セシリアが待っているのでは、アストも行かないわけにはいかない。それに――バレンを見る。こんな寂しそうな顔を見たことがなかった。バレンのためにも行ったほうが良いような気がする。
「分かった。僕も会ってみるよ」
 アストはバレンに連れられて、暗く寒い街を歩いた。

 バレンに連れてこられた屋敷は、街の北にある高台の高級住宅街にあった。黒い柵が敷地をぐるりと囲んでいる。門の左右には黒い格好の警備が立ち、通るときにバレンに一礼した。木が並んだ邸宅に続く道をアストは歩いていた。遠くに邸宅の明かりが見えた。
「バレンはここで働いているの?」
「部屋をお借りして、住み込みで働かせてもらっております」
「住み込みって、奥さんは?」
「あれからすぐ他界しました」
「ごめん……」
「お気になさらないで下さい。体の弱い奴でしたから、アレもそういう運命にあったのでしょう」
 ただでさえ体の弱いバレンの奥さんに四年前の出来事が、無理をさせたのは明らかだった。バレンが急に老けてしまった理由はここにあるのかもしれない。しかも奥さんの体が弱いこともあって、二人には子どももいない。せめて子どもでもいれば、こんなに老けてしまうことはなかったのかもしれない。
 無言のまま、アストは俯いてバレンの横を歩く。
 四年という分厚い壁が、バレンとの間にあるような気がしならない。それがアストにはどうしようもなく辛く、寂しさと悲しさが、アストの中でうごめいて、独りで歩いているような錯覚さえ憶えてしまう。風がやたらと冷たく感じられた。
「着きましたよ」
 バレンの言葉に顔を上げてみる。
 実際に近くで見ると、邸宅と言うより豪邸で、かなり大きいことがわかる。
 バレンが先を行って玄関の扉を開いた。中からの光が、やたらと眩しい。それでも豪邸の中に入る。夜の冷たい空気にさらされた体が、一気に温まっていくのを感じた。次第に目も慣れてくると中のエントランスホールの様子もわかってきた。
「ようこそ、アスト様。お待ちしておりました」
 正面の絨毯の敷かれた階段を、中年の小太りの男が降りてくる。悪趣味な赤いガウンを着て、分厚い唇に葉巻を咥えていた。
「ここの主のゴーイズさんです」
 バレンが耳打ちしてくれた。
「本日はお招きいただきありがとうございます」
「いえいえ寒い中ご足労いただき感謝します。バレンもご苦労だったな」
「いえ」
 ゴーイズの労いに、バレンが頭を下げた。
「アスト様こちらへ」
 階段を下りたゴーイズに促されてエントランスホールの右の部屋に向かう。目がくらんで気がつかなかったが、天井に吊るされたシャンデリアが明々とホールを照らし、階段を守るように全身を覆う鎧が、槍を持って飾られていた。
「ゴーイズさんは何をされてるんですか?」
「貿易をやらせてもらっています」
 通された部屋はアンティーク調のテーブルとイスが置かれ、壁には鹿の頭のはく製や戦争の絵画が掛けられていた。
「どうぞ座ってください」
「ありがとうございます」
 アストはゴーイズと向き合うように、席に着いた。ゴーイズが葉巻を吸って、たまらないように煙を吐き出す。それがアストには少なくともおいしそうには見えない。
 バレンはゴーイズを守るように彼の背後に立つ。アストは何か言いたかったが、言葉には出来ず、息を呑んだ。
「それでセシリアは?」
「話でもしていればすぐにでも来ますよ」
 さすがに姿が見えないのは気になったが、とりあえずアストは「はあ」と頷いてみせた。
「ところで、アスト様。私も幅広く商売させてもらっていますが、どういう物が一番金になるか、ご存知ですか?」
「そういう商売ごとには疎いので、さっぱり分かりませんね」
 ゴーイズのいやらしそうな顔を見ていると、アストは質問に考える気にもならない。そんなことよりも、姿を見せないセシリアの方が気になる。
「それはいけませんなぁ。人を動かす者は金の稼ぎ方を知るがあると思いませんか?」
「なぜです?」
「アスト様ともあろう方がそのようなことを聞かれるとは。あなたの下で働く者はそれは苦労するでしょうな」
 さも残念そうにゴーイズに、どういう意味か問いただしたくなるのをアストはぐっとこらえる。
「人を動かすのに一番楽なのは金なのですよ。私のところも多くの者が働いておりますが、最後にものを言うのは金です。金を持つ者だけが、人を動かすことが出来る。人の上に立つ者は、金を持つ者でなければならないんですよ」
 ある意味ではそれも真実だろう。人は金に弱い。だからと言って、納得のいく理屈でもない。金ばかりが全てではない。
「バレンも金で雇ったんですよ。私のところでも一番の護衛ですよ」
 思わずバレンを見ると、彼は顔を背けた。
「バレン……」
 そう言う自分の声は震えていた。
「私の商売でもっとも金になるのは、奴隷ですよ。とくに女は高く売れる。稼ぐのにはもってこいです」
 ゴーイズはいやらしく、それでいて、誇らしく語る。もはや聞くに絶えない。人として許せない。気がつくと、アストは思わず立ち上がって、叫んでいた。
「ゴーイズさん。これ以上の貴方の講釈は聞くに絶えます! バレン! どうしてお前は、こんな奴に仕えている?」
 バレンは何も答えない。代わりに、ゴーイズが答えた。
「ええ。バレンは実によく働いてくれる。その証拠にあなたを連れてきてくれた。もう少し話をしてみたかったのですが、私も忙しい身の上でね」
「どういう――」
 首筋にちくりと痛みを感じて、アストの意識は闇の中に落ちていった。

「……スト、アスト……」
 聞き覚えのある心配そうな声が聞こえて、アストは目を開けた。
「アスト、気がついたの? 良かった……」
 あたりを見渡すと、薄暗い。どうやら、吹き矢か何かで眠り針を首筋に刺されて、眠らされたらしい。
「こ、ここは?」
「牢みたね」
 次第に目がなれていく。鉄格子の中にアストはいた。
「どこか痛いところとかない? アストに何かあったら私……」
 廊下を挟んで向かい側の牢でセシリアが、涙目になっていた。
「大丈夫。眠らされてただけみたい」
「本当? 良かった……」
 セシリアの安堵の息が聞こえた。
「セシリアも無事でよかったよ」
 牢に入れられている以外は、怪我もしていないようで安心した。
「セシリアもバレンに連れてこられたの?」
「ええ。でも、まさかこんなことになるなんて……」
 セシリアもさすがにショックを隠しきれない。
「復讐かな……?」
「復讐って、まさか……っ! 誰か来るっ!」
 廊下に二つの足音が響く。ゴーイズがバレンを従えてやってきたのだ。しかも、バレンは腰に剣を差している。
「アスト様、お目覚めですか? そろそろ起きるころだと思いまして、こうしてやって来た次第です」
「ゴーイズさん。どういうつもりですか?」
「どういうつもりですって? あなた様を使ってフォークオーツ王国と取引きするんですよ」
「なっ!」
 セシリアが短く叫んだのが聞こえた。
「ゴーイズさん、何を言ってるんですか? 僕で――」
「アスト様、まだ白を切るつもりですか? いえ、アストラゼル王子!」
「くっ!」
 アストは唇を噛んだ。
 アストとは愛称のことで、本名はアストラゼル。フォークオーツ王国国王ダリルの唯一の王子で、正当王位継承者である。
「部下たちの報告で、あなたたち二人がこの街にいることが分かってね。バレンに一芝居打ってもらったんですよ。部下からアスト様の容姿を聞けば、すぐにわかりましたよ」
 アストは言葉をなくした。ウィルに来た当日の、黒ずくめの連中のことが思い出された。ただ巻き込まれただけが、まさか、こんなことになろうとは、夢に思わなかった。
「バレン将軍! あなたって人は!」
 セシリアが信じられない表情を浮かべた。バレンは目を合わせないまま、何も答えない。代わりにいやらしい表情で、ゴーイズが答える。
「将軍? それは今のあなたでしょう、セシリア将軍」
「うるさい! 私は自分が将軍だなんて思ったことなんて、ただの一度もないわ! 私が将軍になったのは、バレン将軍がいなくなったからよ。今でも将軍はバレン将軍以外ふさわしい人はいない!」
 それでもバレンは、語るべき口を無くしてしまったかのように無言のまま、目を閉じた。
「そのバレンも今は私の忠実な部下なのですよ。昨日も賊をこの剣で切ってくれましたよ」
 ゴーイズが誇らしげにバレンの剣を鞘から抜き出して、鈍く光る白刃を高く挙げた。柄には赤い布がついていた。
『紅い布のついた馬鹿でかい剣を振り回してくる奴だよ』
 カイルの言葉が一瞬脳裏をよぎった。紅い布はバレンが将軍だった当時から、彼の愛剣であることの象徴だった。
 あの時引っかかったのはこれだったのか……。
「私は私の仕事をしただけです」
 バレンのその一言に、アストもセシリアも言葉を失った。ゴーイズだけが勝ち誇ったように笑う。
「言ったでしょう。バレンは私の忠実な部下なのだと。バレンのように、フォークオーツも私の物となるのですよ」
 その瞬間、アストの中で何かが切れた。
「どういう意味だ? 私を人質に使ったところで、何になる! 金か?」
「戦争と内乱で疲弊しきった国に、誰も金など期待はしておりませんよ。金など、私の力でどうとでもなるのですから。私が欲しているのは国そのものですよ」
 アストは、瞬時にゴーイズが何をしようとしているのかを理解した。
「乗っ取る気か?」
「聡明ですな、アスト様。計画はこうです。国民は現ダリル国王よりも、あなたの方が王にふさわしいと考えている。それを利用し、クーデターを引き起こして王を引きずり降ろす。こちらには、将軍を首になったバレンもいますからね。バレンも慕う兵も多いので、そう難しくはないでしょう。あとはあなたを薬漬けにし、王の座に据えて私の傀儡する。そうすれば私はさらなる権力を手にすることができる。すばらしいこととは思いませんか? あなた方にはもうしばらくここにいてもらいますよ。くれぐれも変な気は起こさないように頼みます。殺しては何の意味も無い。用が済めば奴隷として、ちゃんと高く売ってあげますからね」
 ゴーイズが自分の陶酔しきったように笑い声を上げる。
「あなたそれでも人なの?」
 悔しそうに顔を歪めて、セシリアが鉄格子を力いっぱい揺らす。
「これはバレンの案でもあるんですよ。私だけを責めるのは、どうかと思いますよ」
「う、うそでしょう、バレン……」
 何かが崩れる、そんな音が聞こえた。
「フォークオーツ王国が私の物になるのを、そこから楽しみにしていてください」
 セシリアの言葉など無視して、いやらしい笑みだけを残してゴーイズが踵を返した。
「復讐なの? そうなの?」
 アストはそれだけやっとの思いで紡いだが、バレンは何も語らずゴーイズに続く。
「何か答えください、バレン将軍!」
 セシリアが力任せに激しく鉄格子を揺らすが返答は帰ってこない。そしてバレンの姿も見えなくなった。
「どうして、バレン……?」
 一言、呟いてアストは大きく溜め息を吐いた。アストにしてみればバレンは、実父であるダリルよりも父親に近い存在だった。ダリルは国務でほとんどアストに構っておらず、アストの周囲の者と言えば、セシリアと、彼女の母である乳母とバレン以外に無かった。
 セシリアも言葉なくしゃがみこんで俯いている。
 せめて、ここから出られれば……。僕はまだ――。
 一筋の希望を願おうとしたとき、牢屋に足音が木霊した。
 ゴーイズとバレンがまた戻ってきたのだろうか?
「自宅に地下牢とは悪趣味もいいとこだ」
「無駄口叩いてないで、行くぞ」
 この声は――。
「カイルさん! ビックさん!」
「アスト?」
 足音とともに、カイルとビックが姿をあらわした。ビックの方は帯剣までしている
「カイルさんとビックさんが、どうしてここに?」
「ゴーイズの奴を捕らえにきたんだ。表は貿易商なんて言ってるが、裏じゃ奴隷商だからな。ゴーイズは執政部だから、今までなかなか手が出せなかったんだ。それが、やっと手が出せる状況になったんだ。今、隊長がゴーイズと話をつけてる。一応逃げられないよう、念のために、屋敷を『ウィルの盾』で囲んでる。そうすれば、そっちに屋敷の警備の注意が行くし、その隙に少数で捕まってる人が、万が一人質にされないよう先に抑えるってわけ」
 カイルが説明してくれた。
「その怪我で?」
 カイルの右腕が昨日今日で完治するはずがない。
「言い出したら聞かない奴だから、こうして、俺が付いてきてるんだ。困ったもんだよ」
「うるせぇ! だいたいお前は屋敷の中を知らないだろう。俺が怪我してやっとわかったんだからな」
 昨日、カイルが追われていたのには、そういうわけがあったのか。
「ハイハイ、そうでした。剣で開けるから離れて。鍵もあるんだけど、合う奴を見つけるのに時間がかかるから」
 ビックがゆうに二十以上はあろうかという鍵の束を見せる。確かにこれでは時間がかかりそうだ。アストは言われた通り、鉄格子から牢の隅に離れる。それを確認してビックは頷くと、剣を振り上げて、力任せに一気に振り下ろす。カーンと高い音が牢屋中に鳴り響く。その一撃で、アストを閉じ込めていた、牢の錠は壊れた。
「ありがとうございます。セシリアの方もお願いします」
「わかってるって」
 ビックは軽く手を振って答えると、セシリアの方に向かった。
「それで、何だってゴーイズに捕まっているんだ?」
「いや……」
 アストは言葉が見つからなかった。言ってしまえば、バレンがゴーイズの部下であることを認めてしまう、そんな気がして――。
「まぁいいさ。まだ奥に捕まってる人がいるから、俺たちはそっちに行く。ここで待っていてくれ」
 アストはとりあえずカイルに頷いてみせた。
 ビックがさっきと同じようにセシリアの牢の錠に剣を振り下ろす。カーンと高い音共に、錠は壊れて、セシリアが出てくる。
「ありがとう」
「どうってことない。それよりカイル、ここは俺一人で十分だから、お前は無理せず、帰ったらどうなんだ?」
「うるせぇよ。これくらいどうってことねぇよ。それじゃ、ここで待っててくれ」
 カイルとビックは礼をする暇もなく、地下牢のさらに奥へ進んでいった。
「アスト、どうするの?」
 アストはゆっくり息を吐いた。
「まだバレンから何も聞いてないんだ。だから、カイルさんとビックさんには悪いけど、バレンのところに行く」
 そう、まだ何も聞いてないんだ。
 アストは走り出した。セシリアが後ろから追いかけてくる。
 牢屋の入り口で、二人の看守が気を失っていた。カイルとビックがやったのだろう。ちゃっかり、手と足が結ばれていた。あれだけの音がしながら、誰も来なかったわけである。
「待って、アスト」
 セシリアがしゃがみ込んで、看守のベルトをいじっている。
「これを!」
 セシリアが剣を鞘ごと投げてよこした。どうやら剣をベルトからはずしていたようだ。
「いいよ。僕は」
 返そうとするアストをセシリアが睨みつけてくる。
「この期に及んで、そんなことが言えるの? アンタは将軍から習って、剣が扱えないわけじゃないのに、取ることはなかった。アンタは優しいから、嫌なのは知ってる。でも、これからもそうやって生きていくつもりなの?」
「僕は――」
 確かに今まで剣を取ってこなかった。人を傷つけるのが嫌だった。
『強くいけよ』
 ヤンの言葉が脳裏をよぎる。
「剣を持つことで強くなるわけじゃない。でも、剣を取ることもまた、強さなのかもしれない」
 鞘から剣を抜いて、刀身を見つめる。
 脳裏をしわの深く刻まれたバレンの寂しそうな顔がよぎる。
「大丈夫だ。行こう、セシリア」
 アストは剣を鞘に収めて、再び走り出した。
「ええ」
 満足げにセシリアの声が背中から聞こえた。      

「お前ら、どこから!」
 黒服が慌てて、剣を抜こうとするも、それ以上の速さでセシリアが一気に間合いを詰める。
「ゴーイズはどこ?」
 セシリアが黒服に剣を突きつける。だが、黒服は何も言わない。
「あんな奴のためにここで死にたいの!」
 セシリアが黒服の喉もとに剣先をつける。つーっと血が流れた。
「に、二階の応接室だ」
「どこにあるの?」
「そこをまっすぐ行ったエントランスホールの大階段を上って、正面の部屋だ」
「ありがとう」
 にっこり微笑むと、セシリアは右足で黒ずくめの横っ面を思いっきり蹴りこむ。その一撃で黒服は壁に叩きつけられて、気を失った。
「行くわよ!」
 セシリアが走り出す。アストもその後を追いかける。
「侵入者か!」
 廊下の角を曲がったところで、黒服に出くわす。
「邪魔よ!」
 セシリアが走りながら、黒服を袈裟斬りにする。鈍い骨の折れる音と共に男は膝から崩れ落ちた。
「いたぞ。あそこだ!」
 廊下の奥からわらわらと黒服の男たちが現れる。
「ここを行けば、エントランスホールだっていうのに」
 アストは足を止めて、顔をしかめる。
「どうする、アスト?」
 目を閉じて、バレンの顔を思い浮かべる。
 ずいぶん老いて幾重にも深いしわが刻まれた顔。記憶の中にあった懐かしい顔とはずいぶん違った。
 大きく息を吐く。アストは目を開けて、剣の柄を強く握った。
「他に道がないんだ。邪魔をするなら、こじ開ける。あんな奴らに負けてられない」
 そう言ってセシリアと並ぶ。セシリアが驚いた表情を浮かべた。
「アスト?」
「セシリアに守ってもらうのも、今日で終わりだ」
 アストの中で、何かが弾けた。
『正しいことがしたいなら、強さが必要なんだよ』
 ヤンのその言葉の意味が今なら少しだけわかる。
 黒服たちが近づいてくる。
 セシリアが剣を構える。
 アストは剣を抜いて、鞘を捨てた。
「バレンにもう一度会うんだ! 僕はまだ何も聞いてない!」
 アストは力いっぱい廊下を蹴ると、黒服たちに突っ込んだ。それにセシリアも続く。
 高い音を立てて、剣と剣がぶつかり合う。アストは力任せにそのまま相手の剣を左に払う。がら空きになった右の腹部に蹴りこむ。それで黒服は膝ついた。そこをアストは剣の柄を後頭部に叩き込む。それで黒服はその場に倒れこんだ。
「アスト!」
 セシリアが叫ぶ。
 黒服が切りかかってくる。体を開いて、剣を避ける。続けざまに黒服が横に剣を払ってくる。それを剣で一瞬受け止めて、そのまま肘を回転させて、黒服の背中に剣を叩きつける。中に着ていたチェインメイルのおかげで、致命傷にはならないでいるようだが、しばらくは動けないだろう。
 セシリアが廊下を蹴る。その速さに、黒服たちはついていけない。セシリアが下から剣を振り上げる。それでまず一人。そのままさらに加速して、奥の黒服を袈裟切りにしてする。中にチェインメイルを身につけていても、それでその衝撃までは防げない。黒服二人はそのまま、倒れこんだ。
 瞬く間に倒された仲間を見て、他の黒服たちが怯む。
「どけぇっ!」
 アストとセシリアは、一気に駆ける。
「う、うわぁぁぁ!」
 黒服の一人が半狂乱になって剣を大ぶりにして襲い掛かってきた。それが合図だった。残りの黒服たちも一斉に襲い掛かってくる。
 最初の一人は剣を振り上げた隙に、腹部を切りつけながら払い抜ける。
 右から黒ずくめが剣を横に薙いでくるが、剣を盾に防いで、力任せに上にはじく。
「邪魔だ!」
 無防備になった相手の胸元へ蹴りこむ。それで黒服がよろめいた隙に、アストは間合いを詰めて、一気に剣を振り下ろした。鈍い音と嫌な感触が、手から電気のように走り抜けていった。
 セシリアに三人の黒服が斬りかかる。
「遅い!」
 剣が振り下ろされるよりも早く、セシリアが黒服の隙間を縫って、一瞬で背後に回りこむ。
「なっ!」
 黒服が驚きの声を上げる。振り下ろしている剣を止められないはずもない。
 次の瞬間、セシリアが剣の柄を無防備な黒服の首に打ち込む。他の二人が向き直るが、その瞬間、セシリアはすでに、剣を斬り上げる。最後に返す剣で一気に振り下ろして、最後の一人を倒す。
 それで終わりだった。
「他の連中は逃げたのみたいね」
 確かに黒服はもっと多かったような気もする。
「そんなことはどうでもいいよ。行こう!」
 アストとセシリアは廊下を抜けて、エントランスホールに辿り着く。そのまま階段を駆け上って、正面の部屋の扉を蹴り破った。
 広い応接室の中央に、ゴーイズとヤンがこげ茶色のテーブルを挟んで向き合って座っていた。バレンはゴーイズに付き添うようにその後ろに立っていた。その三人の視線が一斉にアストとセシリアに注がれた。
「ちっ! どうやってここに?」
 ゴーイズが舌打ちする。
「ずいぶん騒がしくなったな」
 ヤンの表情は笑っているが、野生の獣のような鋭い目でゴーイズを見ている。
「バレン! どういうつもりなのか――?」
 ヤンが手でそれを制する。
「そっちにも都合があるんだろうが、もう少し待ってくれないか?」
「しかし――!」
 思わずアストは前に出るが、ヤンの鋭い眼光に半歩下がってしまう。
「さて、ちょうど証拠、いや証人も来たが、まだ白を切るか、ゴーイズ? 一応、言っておくが、お前には、誘拐、拉致、監禁、暴行、恐喝、殺人などといった疑惑もあるんだ。人身売買だけじゃねぇからな」
 ヤンがのんびりとした口調で指折り数える。眼光の鋭さだけは相変わらずだ。今の口ぶりからだとアストたちもたまたま奴隷としてさらったくらいにしか、考えていないようだ。
「ああ、私は奴隷を売買しておるぞ。だがそれが何だというのだ!」
 ゴーイズが開き直って高らかに叫ぶ。
「力のある者が、弱い者を支配して何が悪い? 『ウィルの盾』ごときが、執政部の私に楯突いてただで済むと思ってはいまいな。飼い犬は飼い犬らしく、主の言うことを聞いておればよいのだ!」
 話す息も荒くなっている。
「『ウィルの盾』という組織は確かに、あんたら執政部の連中が作ったが、飼い犬にまで成り下がった憶えはないね。所詮他人を支配するような奴は、弱いんだよ」
 射抜くようにヤンがゴーイズを睨む。
「だまれ! バレン、こやつらを殺せ!」
 バレンがゴーイズの前に出る。
「バレン……お前は……」
 目の前のバレンはもうバレンではないのかもしれない。
「止めとけ。こんな奴のために死んでなんになる?」
 イスに座ったまま、ヤンは動こうとしない。
「確かに、私でもあなたには敵わないだろう」
「ふん。情けない。構わん。それでも私が逃げるまでの時間稼ぎくらいにはなるだろう」
「ゴーイズ! それでも――」
 アストは叫ぶが怒りのあまり言葉にならない。
 うるさそうにそんなアストを一瞥してゴーイズは立ち上がると、壁にある本棚へ向かって一冊の本を取り出そうとする。すると、本棚が独りでに左にスライドしていく。
「バレン、死んでも時間を稼げ」
 ゴーイズが隠し通路に入ると本棚は再び元の位置に戻った。
「隠し通路か。どうして金持ちって奴は往生際がわるんだろうね」
 追いかけようとするヤンをバレンが剣を抜いて、制する。
「あんなことを言う奴のために、本気で死ぬ気かい? 俺は剣を向てくる奴に容赦はしねぇよ」
 ヤンも剣に手をかける。
「ヤンさん、バレンは任せてくれませんか?」
「俺はゴーイズの野郎だけ捕らえればいいからな。それは別に良いが、やっこさんが通してくれそうにねぇからな」
「僕とセシリアがバレンを相手します。その隙にゴーイズを」
「分かったよ」
 ヤンが仕方ないといった表情を浮かべた。
「何をごちゃごちゃしゃべっている」
 バレンが大剣を振り下ろしてくる。テーブルが真っ二つに破壊される。ヤンが一気に床を蹴って、一瞬でバレンの横をを抜ける。
「行ってください!」
「行かすか!」
 バレンがヤンを追いかけようとする。
「セシリア!」
「分かってる!」
 セシリアが回り込んでバレンの前に立ちはだかる。その隙にヤンは本棚を動かして、隠し通路に入っていった。
「そこをどけ、セシリア!」
「嫌です! バレン将軍。一体何があったんですか?」
「どけと言っている!」
 バレンがセシリアに上段から切りかかる。それをかろうじてセシリアは受け流す。
「バレン!」
 アストも跳躍してバレンに斬りかかる。
「なっ!」
 それをバレンが一瞬驚いて、右に飛んでかわず。
「アスト様が剣を?」
 バレンがアストを凝視する。
「バレンが僕が剣を取らないのを嘆いていたのは知っている。でも今は違う。バレンを止めるのに必要なら、僕は剣を取る」
 アストは剣を構えた。
「国のために剣をお取りくださいとあれほど言った時には、お取りにならず、私のためには剣をお取りになって下さった」
「僕は僕の大切なものを守るために剣を取ったんだ!」
「アスト様……本当に立派に成られましたな。しかし、すでに遅いのです。私は変わってしまった。そこをおどきください!」
 バレンが一気に間合いを詰めてくる。その迫力にアストは動くことが出来ない。
「アスト!」
 セシリアが間に入って、バレンの斬撃を剣の腹で受ける止める。
「私はアストを守るためだけに剣を学びました。アストに仇名す者は私が何人も許しません。たとえ、それがバレン将軍。あなたであっても」
「よく言った、セシリア。だが、いつまで持つかな?」
 バレンがさらに力を込める。
「くっ!」
 バレンの剣を受け止めるセシリアの膝が震えだした。力でバレンに勝るはずがない。
「ふんっ!」
 バレンが一気に力を込めて剣を振るう。セシリアは耐え切れず、横に吹っ飛ばされる。
「バレンッ!」
 アストはその隙に切りかかるが、バレンが体を開いて避ける。それでも連続でアストは横に剣を払う。
「なかなか良い筋ですが――」
「くっ!」
 アストは連続して切りつけるが、その全てをバレンは軽々と避けていく。
「それでは私には当たりませんよ」
 何、この感じ?
 ふっとアストの中で何かが湧き上がる。
 それでもアストは剣を突き、さらに切り上げる。
「おっと」
 軽々とバレンは避ける。
 懐かしい……?
「ふんっ!」
 隙をついてバレンが剣を振り降ろしてくる。
「ちっ!」
 かろうじてそれを受け流す。
「そんなものですか、アスト様?」
 バレンはさらに横に払ってくる。それをバックステップでかろうじて避けるが、切先が胸元を掠めた。
「ほら、もう息が上がってますよ」
「このっ!」
 この感覚……?
 剣を振りながら何かがさらに湧き上がってくる。
『なかなか良い筋です。アスト様』
 えっ?
 遠い記憶が湧き上がる。
『しかし、違います。こうです』
 バレンが突き方を教えてくれた。
「こうかっ!」
 一瞬溜めてアストは剣を突く。それまで段違いのスピードにわずかにバレンが驚きの表情を浮かべた。
「くっ!」
 辛うじて後ろに避けられたが、バレンがわずかに怯む。
 その隙を見逃さない。アストは一気に剣を大きく振り上げる。
『違います。大きな動きは読まれやすいために避けられやすく、隙を生みやすいのです。いいですか――』
 そうだった。間合いを一気に詰めながら、脇を締めて動きは小さく――。
 アストは床を蹴って、振り上げた腕の脇を締めて、剣を振り下ろす。
『そうです。その感じです』
『しかし、バレンには当たらなかった』
 そう、あの時は当たらなかった。今もバレンには――。
「かはっ!」
 突然バレンが、大量の血を吐いて膝をつく。
「!」
 しかし、振り下ろした剣は止まらない。
 アストは思わず目を閉じた。
 カーン!
 金属同士がぶつかり、しびれた感触が手に走る。
 恐る恐る目を開けると、膝をついたバレンがアストの剣を受け止めていた。
「また当たりませんでしたな、アスト様」
「そんなことはどうでもいい! どうしたんだ、その血は?」
「敵の心配をしている暇があったら、手を休めないで下さい」
 バレンがそのまま剣を払う。
「バレンッ!」
 それを後ろに下がって、何とか避ける。
「もう止めてくれ」
「ふっ。今度はこちらから行きますよ!」
 バレンが立ち上がって、剣撃をくりだす。
「将軍!」
 すぐ傍で、セシリアの声が聞こえた。
 上と思えば下。右と思えば左。アストはどこからくるのか分からない剣筋をじりじり下がりながら辛うじて、剣で受け流してく。攻撃に転じることも出来ない。
「もっと速くなりますよ」
 徐々にその速さが上がっていく。
「くっ!」
「終わりですよ、アスト様」
 その瞬間、アストの視界からバレンの剣が消える。
「えっ?」
 何が起きたのか分からなかった。
「アスト!」
 セシリアが間に入り込んで、剣を振り下ろすのが見えた。
「ぐはぁぁっ!」
 バレンの声と共に、血飛沫が飛ぶ。
 それバレンを切ったセシリアにも、アストの顔にもかかった。
 バレンが下に剣を構えたまま、ゆっくり後ろに倒れる。
 何もかもがゆっくりに見えた。
「バレン!」
 アストは走りよった。
「アスト様……強くなられましたな。昔を思い出しました」
「僕もだ。バレンが教えてくれたことを思い出したよ」
 バレンが苦しい表情のまま、嬉しそうに笑う。
「どうして剣を止めたんですか? あなたなら私が剣を振り下ろすより速く斬れたはずです」
 セシリアがその場に崩れ落ちた。
「馬鹿なことを。私にアスト様やお前を切れるわけがないだろう?」
「将軍……」
 セシリアがバレンの手を握る。
「バレン、こんな血、すぐ止まる!」
「いいのですよ、アスト様。自分の体のことは自分がわかってます」
 バレンの傷はは右肩から左の脇腹にまで達していた。
「いや、助かる。だから死ぬな!」
「どうせ、助かっても、あと三ヶ月もない命なのですから」
「なっ!」
 さっき血を吐いたバレンが思い出される。
「バレン。どうして、どうして、こんなことに? 復讐のつもりだったのか?」
 バレンはアスティルトの戦いに反対し、ダリルの逆鱗に触れた。そのために、バレンは国から追放された。
「復讐? そうなのかもしれません。私にはあんな理由で、アスティルトを壊滅させるなどという作戦には、どうしても賛成できなかった。ダリル王に追放され、妻の病は悪化し、どうすることもできないまま死んで行った……」
 バレンの息がか細くなっていく。
「もういい、しゃべるな!」
「いえ、話させてください」
 バレンの懇願にアストは何もいえなかった。
「妻が逝ってから、酒におぼれ、私自身も病に冒されていた。ゴーイズが何をしているか知ったときには、もう何もかもがどうでも良くなっていました。この恨みもどうでも良くなっていた。そのはずなのに……アスト様の報告を受けた瞬間、暗い感情を思い出していまった。恨みというのは……なかなか消えないのですね。私はアスト様を利用してしまった。お許しください……」
「許すから、許すから死なないでくれ!」
「ありがとうございます……。私ごとき、アスト様がお気になさることではありませんよ」
「そんなこと言わないでくれ……」
 涙があふれてとまらない。
「セシリア……最後の一撃は見事だった。よくやった……」
「何言ってるんですか?」
 セシリアも泣いていた。
「アスト様をよく守った……お前も私のことは気にするな。かはっ」
 バレンがさらに血を吐く。
「アスト様にお仕えすることができて私は幸せでした……こうして、アスト様に看取られて……」
「もういいから……もう……」
 嗚咽で言葉にならない。
「お迎えが来たようです……お前が来てくれたのか……」
 これまで見たことないほど、バレンが穏やか表情になる。
「バレン……?」
「バレン将軍……?」
 二度と、バレンが目を開けることはなかった。

 『Door』――
 あれから一週間が経ってようやく訪れることができた。かといって、バレンの死を乗り越えたわけではなかった。単に、当初の目的を思い出しただけだった。
 外は静かに雪が降っていた。
「すいません。言われた日に来ることが出来なくて」
「いえ、ヤンさんから聞いているので、ぜんぜん構いませんよ。大変だったそうで」
 一応、話を聞かせて欲しいと言うことで、あれから、アストもセシリアも『ウィルの盾』で簡単に捕まった経緯を話した。ゴーイズは結局ヤンに捕まっていた。
「本当に大丈夫ですか?」
 よほど心配なのかクロードが覗き込んでくる。
「ええ。コーヒーを頂けますか?」
「二つ?」
「お願いします」
 そう言ったのセシリアだ。
 ここに来るとき、やけにセシリアは深刻そうだった。
 昼前だからなのか、店の中に他に客はいない。
「私は……」
 セシリアが何か言いかけて止めた。
 無言でコーヒーを待った。
「お待たせしました」
 クロードがコーヒーを出してくれる。
「ありがとうございます」
 が、それに手をつける気にはなれない。
「それでは、話しますけど、良いですか?」
「僕はアストラゼル。アスティルトを滅ぼした国の王子です。それでも話してくれるんですね?」
「はい。それを承知でお話します」
 正直、もうどうでもいい、という思いもある。それでも、知るべきなのことだと思う。この戦いに反対して、父ダリルから国から追放されたバレンのためにも、王子アストラゼルとして――。でなければ、いつまでも前に進めない気がした。
「戦争の原因を俺は知りません。知るつもりもない。理由なんて勝ったフォークオーツがいくらでもつけることができる」
 自国がしたこととはいえ、死人に口なしとはよく言ったものだ。壊滅したアスティルトに反論は出来ない。
「戦争そのものは、最初はほぼ互角。私以外にも他に多くの傭兵がいたし、アスティルトの自衛団もよく戦った。少なくとも、街の中にまでその戦火が来ることはなかった。街の門の前に立ち、半年の間俺たちは戦った。それがあるとき、フォークオーツはそれまでの倍以上の兵力を投入してきた。こんな冬の雪の降る時期でした。大方、いつまでも攻めきれないために、業を煮やしたんでしょうね」
「違うわ」
 そこにセシリアが口を挟んだ。
「理由は、私があなたとランドを破ることが出来なかったから。そして、ヤンよ」
「何だって?」
 アストは驚きの声を上げる。クロードも顔が驚いていた。
「アストは知らないかもしれないけど、私もあの戦いに参加していたのよ」
 セシリアが悲痛な表情で言葉を紡ぐ。
「クロードさん。あなたは思い出したくないのかもしれないけど、貴方は私の策のせいで友人であるランドを斬った」
「確かに俺とランドはアスティルトを守っていた……。詳しく話してくれないか?」
 そう促したのはクロードだった。その表情は無表情で窺い知ることは出来なかった。
「そのつもりで私はここに来たから」
 それがセシリアの言うけじめなのだろう。
 セシリアが息を整えた。
「あの戦争の指揮官は私だった。私が貴方たち二人を倒すことができれば、この戦争は長引くことがなかったし、アスティルトも滅びることはなかった。勝手な言い分だけど。何にしても、私の軍は貴方たち二人に攻めきれずいた。そんなとき、一つの情報がフォークオーツに流れた。ヤンがアスティルトにつくという情報。ダリル王は恐れたわ。ヤン一人で、ただでさえ拮抗していた戦争が一変して、反対に国が滅ぼされるかもしれなかった。怖れたのは、彼の戦力もそうだけど、それ以上に、彼の策であり、カリスマだった。彼一人で一体どれだけに人間が新たにアスティルトにつくか分からなかった。ヤンが来るまで時間もなかった。ヤンが来ることの分かっているアスティルトの上層部は、たとえ攻め込まれたとしても負けを認めるはずも無い。だから国王は、ヤンが来る前にバレン将軍に命を下してアスティルトの全軍を投入して、壊滅させることにした」
「それにバレンは反対したのか……」
 搾り出すようにアストは口を開いた。
「そう。たかが傭兵一人に、都市一つを壊滅させる必要などないと。今のうちに休戦すべきだと」
 死に際のバレンの言葉が蘇る。
『私にはあんな理由で、アスティルトを壊滅させるなどという作戦には、どうしても賛成できなかった』
「それでも王は体裁をとった。一国が一都市に負けを認めてたまるかとね。だから綺麗ごとは言ってられなかった。一気に戦況はフォークオーツに傾いた。けれど、ヤンが来るまで終わる気配は貴方たち二人のおかげで、まったくなかった」
「ちょっと、待ってくれ。ヤンさんが来るなんて情報はなかった」
 クロードがそう反論する。
「アスティルトの上層部に情報操作をしたのよ。彼が来るのが分かれば、アスティルト側の士気が上がるのは目に見えていたから。それで私はクロードさん、貴方にある申し出をした」
「死にたくなければ、ランドを斬れ。そうすれば命は助けてやるという――」
「ええ、そうよ。貴方のところへ斥候を送ってね。正直、戦況の悪化を考えれば、貴方といえどいつ死んでもおかしく状況だったから」
 セシリアがそこで目を閉じて大きく息を吐いた。
「確かに戦いは一気に酷くなった。終わりの見えない戦いに初めて死を意識した。あいつに連れられて、無防備なあいつを見たとき、ここで斬れば助かるとそう思ったんだ」
 クロード目を閉じて、それ以上は何も語らなかった。
「そのあとは一斉に街へ攻め込んだのよ。火をつけ、すべてを破壊した。嘘みたいに簡単だった」
 セシリアは無表情だが、それが泣いているようにアストには見えた。
「私はずっと後悔してきた。今でも雪を見ると思い出すの。命令とはいえ、たった一人の傭兵に怯え、卑劣な策を労し、街を破壊し、人を殺めたことを……。私は貴方も騙した……」
 クロードは何も語らない。それがどういうことを意味するのか、アストは分からなくはなかった。
「セシリア……」
 なんと言葉を掛けて良いのか分からない。
「私がもっと強ければ変わっていたのかも知れない。バレン将軍のように強ければ、王に反対することができれば、こんなことにはならなかったのかもしれない……」
 セシリアの許しを乞うような語り。
 これが知るべき真実なのか? たった一人の傭兵に怯え、街を破壊し、虐殺した。これが知りたかった真実なのか?
 一人だけそこに取り残されたような、抱えきれない単純な事実をもてあますことしか出来ない。
「クロードさん。私を斬りたければ、斬ってください」
 セシリアが剣をカウンターに置いた。
「セシリア!」
 叫ぶアストをクロードが制する。
「あいつの仇がいるとすれば、それは俺なんだ。貴方ではない。あれは俺の弱さが招いた結果だ。それに――」
 そこでクロードが一息吐いた。
「俺は今ただの喫茶店のマスターなんだ」
 きっぱりとクロードは言ってのけた。そこには、苦悩はない。
 それだけのことを言うのにどれだけ、彼は苦しんだのだろう?
 セシリアは、どれだけ背負った罪にさいなまれてきたのだろう?
 結局、何も分かっていなかった。何も知らなかった。真実を知ることの意味も――。
 自分だけが弱かった。セシリアもクロードもどうしようもない現実を背負う強さを持っていた。
 クロードがカウンターから離れて、ピアノの前に座る。
「本当は、私はアストにこのことを話すつもりはなかったの。クロードさんにだけ、けじめをつけるつもりだった。アストにだけは知って欲しくなかった。でもバレン将軍が逝ったとき不思議と話そうと思ったの」
 セシリアが涙を流していた。
「僕は……」
 静かに旋律が流れ始めた。

 エピローグ

 辺りは一面、銀世界。
 これがこの街の冬の姿なのかもしれない。
 遠くで雪祭り騒がしさ聞こえる。
「アストさん。本当に雪祭り、見ていかないんですか?」
 見送りに来てくれたジャンがさも残念そうな顔をする。
「うん。今はとにかく、動き出したいんだ」
 空を仰ぎ見る。澄んだ空気のその先に、青い空がどこまで広がっていた。
 駅のプラットホームで汽車を待つ。
「アスティルトに向かうのね?」
 セシリアが目的地を確認する。
「うん」
 アストは大きく頷く。
「ジャン。僕は自分の国が好きだ。だから僕なりのやり方で守ろうと思うんだ」
 ジャンがそう聞いてきたのが、ずいぶん前のように思える。
「アストさん……」
 嬉しそうにジャンが微笑む。
 父ダリルのやり方に、もうついていけなかった。だから、アストはフォークオーツ王国を飛び出して、答えを探した。
「汽車が来たみたいだ」
「それじゃ、アストさん。また遊びに来てください」
 ジャンが別れを告げる。
「うん。ジャンも頑張って。『ウィルの盾』になるんだから」
「分かってますよ」
 そのままジャンは走っていってしまう。ときおり、振り返っては大きく手を振ってくれる。その姿に寂しさを憶えずにはいられない。
「やっぱり、アストに似てるわね」
「そう?」
 そのセシリアに意見には首をかしげるほかない。
 金属が擦りあう高い音を響かせ汽車が止まる。汽車のドアが開くと共に、多くの乗客が我先にあふれ出てきた。
「お!」
 その乗客の一人と目が合う。いつぞやの情報屋である。
「着いて早々、あんたたちに出会えるんて、運がいいな」
「何を言って――?」
 アストは怪訝そうに情報屋を見た。
「いい加減情報屋稼業に飽きて、面白いことを探そうと思ってな。あんたたちならきっと面白くなるだろうって、こうして追いかけてきた」
「面白いって……私たちのことを知りもせず……」
「あんたらの素性くらいすぐわかる。だいたい、そんな目立つ容姿なんだ。気がつかない方がどうかしてる。違うかい、アストラゼル王子」
 アストは大きく息を吐いた。
「それで、どうしたいの?」
「あんたらは、これからどうする気なんだ?」
「そうだな。とりあえず、父と喧嘩でもするかな」
 きっぱりそう言った。
「周囲に戦争ばかり仕掛けて、ろくに国も治めることもできない。人を傷つけても気にもしない。そんな父を許せない」
「反乱でも起こすような口ぶりだな」
「そのつもり」
「は?」
 口を開けて、情報屋が驚いた。
「それが貴方の決断なのね」
 セシリアは驚かなかった。
「うん。ずっと考えていたけど、今回のことで決心がついた」
 不思議と人に語って、すっきりした。
「乗った」
「は?」
「何を言ってるのよ?」
 情報屋は楽しそうな笑みを浮かべている。
「俺はナック。よろしく頼むな」
「頼むって、ついてくる気なの?」
 セシリアが困った顔をする。
「その通り」
「やめときなさい。反乱を起こすのよ。死ぬかもしれないのよ」
 セシリアはなぜか必死だ。
「別にいいさ。自分の道は自分で決める。自分で言うのもなんだが、元情報屋なんだから役には立つさ」
「アストも何か言ったら?」
 すがるようにセシリアが見つめてくるが、
「どうせ、だめだって言っても、付いて来るだろう。巻こうにも元情報屋なら簡単に見つけるだろうね。嫌になれば、自分からどこかに消えるだろう?」
「さすが。分かってるな」
 ナックは腕組みをして頷く。
 セシリアが深いため息を吐いた。
「さて、汽車に乗り込まないと」
 アストは鞄を持って汽車へ歩き出す。
「よし!」
 ナックがアストの先を行く。
「あ、そうだ。ナック。付いてくるのは別に構わないけど、君の分の汽車代はないよ。当てにされてても困るから、先に言ておくよ」
 汽車の乗り込もうとしたナックの体が、ピタッと固まった。
「自分でどうにかして、ナック」
「バイバーイ」
 アストとセシリアは気にせずその横を通って乗り込む。セシリアは嬉しそうだった。
 これ以上乗客がいないのを確認して、車掌が汽車のドアを閉める。
 アストとセシリアは空いている席を見つけて座った。
「まぁ彼のことだから、すぐに追いつくだろうね」
「認めたくないけど……」
 汽車が走り出す。
「意外と無賃乗車してきたり」
「そこまでするかしら?」
 セシリアがそれだけは嫌そうな顔をする。
 汽車は銀世界の中を走っていく。
 国にいたとき、絶対だった父ダリルがとても弱く思えた。ヤンの強さに怯え、戦争を仕掛ける父は権力はあっても、結局、父は弱いのだ。あのゴーイズのように。
 アストは流れていく景色を見ながら思う。
 バレンも、セシリアも、クロードも自分の弱さと向き合ってきた。向き合い強くなってきた。強く生きなければ、自分の道を通すことも叶わない。
 人にはそれぞれ、選ぶ道がある。
 ジャンは『ウィルの盾』を目指す。
 ヤンは、街を守る。
 クロードは『Door』でコーヒーを淹れる。
 さっき会ったナックもまた、道を選んだ……。
 バレンも選んだ道があった。
 アストはセシリアを見る。
「ん、何?」
「なんでもないよ」
 当然セシリアにも――。
 まだまだ弱いけれど、道は選んだ。あとは進めばいい。
 この道を行くように――。

 Tales of WILL Episode6 “この道を行くように――” end

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