それは夕立の足音のように

「ただいま」
 四年ぶりの我が家だ。が、返事がない。
「だれもいない?」
 靴を脱いで、玄関に上がりこむ。床のきしむ音が懐かしい。俺はそのまま、台所を覗く。鍋やフライパンが流し台に置かれ、炊飯器がわきに並ぶ。以前と変わらない生活臭さが、我が家に帰ってきたという実感が生む。が、誰も居ない。
「ったく、無用心だな。どうせ畑にでも行ってるんだろうけど」
 さんざん帰って来いと言ってたくせに、帰ってきてみれば出迎えさえないのか。肩に掛けていた旅行バッグが、やけに重く感じられた。
 俺はリビングに旅行バッグを置くと、裏山に行く途中ある畑に向かうことにした。
 外に出た途端、うだるような暑さに俺は顔をしかめる。しばらく歩くとすぐに、額から汗が頬を伝った。
「青い空も白い雲も憎くはないが、こう暑いとどうにかなりそうだ」
 畑はすぐそこ、と自分に言い聞かせて、暑さは我慢する。民家が並んでいるというのに、誰とも会わない。空家なのか、雨戸まで閉めてある家も多く、雑草が塀から飛び出している。
「この辺りも、もう人が少なくなってしまったのか?」
 セミの鳴き声だけがうるさいほど静かだった。
 子どもの頃は、ちょっと歩けば、見知った顔があった。誰のとこの姉ちゃんが、誰と結婚したとか、誰のところの子どもが悪さをしたとか、瞬く間に広まるようなそんな所だった。そんな田舎がイヤで、高校に進学すると、誰が一番早く上京するか、そんなことばかり話していた。皆、こんな田舎がイヤだったのだ。
 どこからか、能天気な歌声が聞こえてくる。そこの公園からだろうか?
 石橋を渡ると、すぐそこに公園がある。俺もよく遊んだすべり台とブランコ、シーソーしかない小さな公園だ。
「第一村人発見! なんてね」
 自虐的に笑いながら、公園を覗く。三歳くらいの一人の小さな女の子が、歌いながら踊っていた。赤いスカートがひらりと回る。
「一人で遊んでるの?」
 小さい女の子一人で、無用心だなと思いながら、俺は声を掛けた。
「うん。おじちゃんだれ?」
 おじちゃんって? 一瞬、顔が引きつる。これでもまだ三十前なんだぞ。まぁ、無精ひげ生やしてたら、仕方ないか……。
「お兄さんは、いつもは東京で暮らしてるんだけど、ちょっとお父さんとお母さんに会いに帰ってきたんだ」
「あたしも、とうきょうからきたんだよ。こんどほいくえんで、はっぴょうかいなの」
「そっか、頑張るんだよ」
 さっきの能天気な歌がそうなんだろう。俺が笑ってあげると、女の子はにこっと微笑み返した。
「お母さんは、どうしたの?」
「おじいちゃんと、おうちでおはなししてる。だいじなおはなしだからって、まいはひとりであそんでおいでって」
「まいちゃんって言うんだ」
「うん」
「お兄さんは、もう行くから、まいちゃんは気をつけて遊んでね」
「ばいばい、おじちゃん」
 どうやらお兄さんとは呼んでくれないらしい。
「やっぱり俺も年を取ったかね」
 後ろから、また能天気な歌声が聞こえてきた。

 畑にたどり着くと、父さんは木陰で一休みしていた。
「ただいま」
「おおおお。やっと帰ってきたか、えーっと……」
 息子の名前が出てこないようだ。全く――。
「拓也」
「嘘を言え! お前は俊也だ。年寄りと思って、父親をからかうもんじゃない。まだそこまで耄碌しておらんぞ」
 拓也というのは、二つ上の兄貴の名前だ。
「だったら、俺の名前くらいすぐ出てこないと」
「それは四年も帰ってこない、お前が悪い」
「はいはい」
 父さんのペースになるとどうも分が悪い。俺は話を打ち切る。
「疲れたろ。そこの水筒に麦茶が入ってる。飲んでいいぞ」
「ありがと」
 俺は父さんの指差した水筒を、手にする。
「そう言えば、母さんは?」
 いつも一緒のはずの母さんの姿が見えない。
「皆既日食を見に、旅行中だ」
「は?」
 思わず麦茶をこぼしそうになった。
「婦人会旅行とかで、今頃は飛行機の中だろう」
 まったく、一番帰って来いとうるさく言ってというのに――。
「たまには羽を伸ばしても、バチは当たらんさ」
「ふーん」
 それを言うなら、父さんもだろうに。
「飲む?」
 俺は麦茶を父さんに差し出す。
「いや、さっき飲んだ」
「そう」
 俺はそのまま麦茶を飲み干す。冷たすぎないのは、体のためかな? そんなことを考える。
「もう年なんだから、畑なんかやめたら?」
「先祖代々の土地をそう簡単に、やめられるわけがないだろう」
 何を言っているのだ、という感じで俺を父さんが見る。
「でも、こんな暑い中、やらなくてもいいじゃない?」
「お前くらいにはまだ分からないだろうが、意外といいもんだぞ。リタイヤして、何もしないよりずっといい」
 結構、元気だな。
 畑を見ながら目を細める父さんを横目に、ちょっと安心する。なんだかんだ言っても、年齢はごまかせない。
「それより、お前が早く孫の顔を見せてくれたほうが、よほど嬉しい。それで、お前か拓也が畑を継いでくれたらいうことはない」
「うるさいよ」
 まったく、痛いことを言ってくれる。相手がいるならとっくに、それくらい――。
「藤田さんとこの娘さん。お前と同い年の。帰ってきてるそうだぞ。美人になってたな」
 早苗か。幼馴染だ。四年前の同窓会以来会ってないが――。
「結婚してるって話だけど」
 同窓会のときに、そんな話をして、薬指で光る指輪は眩しかった。そのとき。俺の中でくすぶっていたものは、消えてしまった。こんな狭い村で告白なんて、そう思い続けてきたものは、確かにあのとき、煙草の火を踏み消すように、消した。
「それが離婚してこっちに戻ってきたとか」
「へぇー」
 少しだけ心が揺れたのが分かる。何を期待しているのかと、すぐに否定するが一度思ってしまったことは、簡単に打ち消せるものでもない。
「さて、父さんはもうひとふんばりするが、お前はどうする?」
「一度、帰るよ」
「そうか。なら、そこのスイカを藤田さんのところまで届けてくれ」
 父さんは足元のビニールに入っている大きなスイカを指差す。
「あ、うん、わかった」
 一瞬、どうしたらいいのか分からなかった。別にスイカを届けるだけじゃないか。断る理由もなかった。

 雨の匂いがする。雲が出てきて、夕立が来そうだった。
 スイカは意外と重い。早くすませよう。別に早苗と会うわけでもないだろうし、少し藤田のおじさんか、おばさんの相手をするだけだ。
 俺は足早に、元来た道を戻る。公園を覗くと、さっきの女の子はまだいた。が、俺の目に飛び込んできたのは、その隣にいる女性――。
「早苗」
 その声に、彼女はゆっくり振り返る。
「俊也じゃない。帰ってきたの?」
「さっきな。早苗も帰ってきたのか?」
「うん。ちょっと、ね」
 早苗が少し目を逸らす。まいちゃんはこの人だれ、といった感じで、早苗を見上げている。
「この人はママのお友だちよ」
 早苗がにっこり笑って、説明すると、まいちゃんは目を見開いて、何度も大きく頷いて見せた。
「ちょうど良かった。父さんが、スイカを届けろって」
「嬉しい。おじさんのスイカは美味しいものね」
「俺もあんまり食ったことがない」
 そういうと早苗はケラケラと笑った。
「いつまでこっちにいるの?」
「そうだな、皆既日食を見に行っている母さんに会わないと、また何言われるか分からないから、母さんが帰ってくるまではいるんじゃないか?」
「そっか」
 少しの沈黙が流れる。風が砂埃を巻き上げて、俺たちの周りを走っていく。
「どうせ、しばらくいるなら俊也の耳にも入ると思うから言うけど……」
 早苗はそこで言いよどむ。代わりに、俺が言う。少しだけ投げやりに。
「離婚したんだろ?」
「なんだ、もう知ってたんだ」
「狭い村だからな。さっき父さんに聞いた」
「狭い村だからね」
 まいちゃんが早苗の足元から離れて、また能天気な歌を披露しながら、くるくるその場で回る。
「いくつ?」
「今年で五歳よ」
「そうか。しっかりした子みたいだな」
「そう? 結構手は掛かるのよ。あれで。ってか、俊也、結婚は?」
「まだ。父さんから、孫が見たいってせがまれた」
「じゃ、まだ子育ての大変さは分からないわね」
 早苗は少し疲れたように笑っていた。
 黒い雲が山に掛かる。本格的に振り出すのも時間の問題か?
「本当は、もうあんまり帰ってくるつもりは、なかったんだけどね。他の頼るところもなかったから」
 早苗が自虐的に笑う。
「狭い村だからな」
「でも俊也と会えて、ちょっと嬉しいかな」
「え?」
「なんか、安心したのよ」
「なんだ、それ?」
 早苗は静かに笑う。
「雨が降り出す前に、帰るわね。おじさんによろしく言っといて」
 早苗はスイカを右に、左手でまいちゃんの手を引いて、公園を後にする。
 俺は早苗の背中を見ながら、心の奥にしまっていたものが、ゴロゴロと動き出したのを感じていた。
 俺が家に帰りつくと、夕立は静かに降り始め、村を白く煙らせた。父さんが濡れて帰ってきたのは、それからしばらくしてからのことだった。
 父さんは晩飯までまだ間があるからと、スイカを持ってきてくれた。夕立の向こうの山の緑を見ながら、俺はスイカを食べる。あの山の中に、俺や早苗の通った小学校があった。もう廃校になったらしい。早苗と見に行ってみるか? 
 スイカは冷えて甘い。ゴロゴロと遠雷が聞こえた。

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