四周年コメント


 珈琲豆を引いた後に、微紛を取り除く『マイクロパウダーセパレーター』というのを買って、珈琲がちょっと美味しくなった今日この頃です。
 どうも四周年です。
 最近、時が経つのを、えらく早く感じて仕方がありません。
 この前まで、夏だったと思うんですが、もう晩秋ですね。


 最近の近況でも――ちらほら日記でも書いていることなんですが。
 私の勤め先は某公的機関なんですが、そこで教育相談なんてやってます。日々、保護者とお会いして、お子さんのことの悩みについて、耳を傾けている次第です。カウンセリング機関ではないけれど、それに近いことをやっているわけですよ。時々、子どものIQなんてものを検査したり、場合よっては学校の先生と話して、その子の支援の方法を考えていくようなこともしています。(カウンセリングなんてスキルがあったんだっているツッコミは、スルーです。ちゃんと勉強してますからね)
 かなり端折って言ってますけど、これがいろいろ大変なわけです。保護者もいろいろ、子どももいろいろ。しかも、私は結婚なんてしてませんし、育児なんてとんでもないわけです。そんな二十代の大人としてもぺーぺーの私が、三十代、四十代の方の話を聞くわけです。この仕事を就くときから分かっていたことですが、そういう面で、しっかり話してくれない方もいたり、私の方が変に構えてしまうこともあったりね。毎日毎日、どんな方が来るのか、ビクビクしながら、その一方で、どうやって話を聞こうかと真剣に考えながら、こなしていっているわけです。大事なことはちゃんと相手に寄り添って、同じ温度で話を聞けるかってことなんですけどね。これがなかなか難しい。
 それで、話を聞いたら報告書にまとめて提出なんて、作業が日課になってます。当然、勤務時間は契約なんて比べて、超過しているわけです。手当てもなしで。それでも、やりがいはあるんですけどね。保護者の方から、感謝されるのは、結構嬉しかったりする。その分クレームもあって、きついこともありますが。

 こういう仕事をしているわけですが、就いた経緯は殆ど、棚からぼた餅というかね、今年のニ月の終わりに、父が突然、話を持ってきて、二つ返事をしていたら、その翌日にいきなり電話があって、『面接を履歴書なしで良いから面接を受けに来てください』ってことで、ぽんぽん話が進んでしまいました。こう言ったら失礼だけど、落ちても別に良かったんですよね。あとで話を聞いたら結構な倍率だったらしくてね。なんだか気持ちの整理もつかないまま、一気に生活が変わってしまいました。

 何と言っても去年のニ月頃って、普通にバイトやって、『for F's』を書いてましたから、そんな話が来るなんて夢にも思ってなくて、今考えても、不思議な感じがします。変な力でも働いたんじゃないかと勘ぐってしまうくらいです。何と言うか、自分の意思以外の何かが働いたんじゃないかと、オカルトちっくなことを言うつもりはありませんが、私の知らないところで働いた社会的な引力の一片という奴かな、と思います。そういう意味では、フリーターとかニートであったとしても、そう言った意味で社会とはどこかで繋がっているんだな、と。別の視点から言えば、私の方も、しっかり動き出せるエネルギーが溜まってきていたという面も、当然あったんでしょうけどね。そうじゃなきゃ、父がこの話を持ってきても、断ってますからね。

 この仕事も自分を鍛えるという意味では、非常に有効です。日常的に話を聴く以上に、話が聴けるし、語られる内容についてどう思っているのか、ということが、本人の言葉から見えてくる。そういう目で、この仕事を見ているつもりは断じてないけれど、なんと言うか、自身の糧になっているんだよね。小説という側面だけでなくて、人としての幅を大きく出来るという風に。


 さてと、話を小説の方にしてと。
 先ほど『for F's』のことも出てきたので、そのことでも。
 あとがきでも書いたように、この作品、私自身を投影しているところがありまして、中学からのリアルの友人が二章あたりまで読んで、
「思考の仕方とか、お前そっくりで笑える」
 などと、身悶えて笑ってました。否定できる要素もないので、ええ、古い友人が読んだら、そんな感想がくるのは予想もできていましたよ。はい。
 ちょっと頂いた感想を読み返しています。少ないけど(苦笑)。長いから敬遠されているんでしょうけどね。それで、皆さん良い所を突いてくれていて、嬉しいです。読者をぐいぐい引っ張るというよりも、主人公の『透』と同じ温度で読んでいもらいたい。根底に流れているものにゆったり流されて欲しい。泳がなくてもいい、走らなくてもいい。一緒に寄り添いながら、読んでくれれば、と思います。

 で、この作品を書き終えて、自分自身の内にある広がりを見つけたかな、と思う。この作品で自分自身を注ぎ込んだわけだけど、それが全部じゃない。人それぞれ生きてきた歳月がある。忘れていることも沢山あるけれど、覚えていることも沢山ある。どっちも大事な財産だし、いろんな人々を見て、聞いて、感じているはずなんだよね。今まで気にも留めていなかったことを、改めて見つめてみる。いろんなピースを集めてみると、いろんなつなぎ方があることに気がついたんだ。
 よく語彙が少ないことを嘆く人がいる。でも言葉は日常的に溢れている。生まれたときからずっと聞いてきている。意識していないだけで、誰もがきっと言葉は沢山知っているはずだと思う。要は、言葉を使うとき、聞くときにそういう意識があるかどうかが一番大事で、よく知っている言葉を駆使するってこと。
 経験も言葉も、つなぎ方によって、いろんな顔がある。そういう意味じゃ、この二つは良く似ていると思う。体験できる『出来事』は沢山溢れている。でもその中で、『経験』となるのは、ほんの一部。言葉も溢れている。でも使っているのは、ほんの一部。自分の中にあるものを、もう一度漁って、手繰り寄せて、拾って、埃を払って、洗って、それがどんなものか見つめてみる。
 自分の外にはいろいろあるかもしれないけれど、使えるのは自分の内にあるものだけ。そういうことを意識していると、子どものころは、ろくにそのことの意味も知らずに使ってて、それが当たり前で、すっかり忘れてしまっていたものが、ひょっこり顔を出すことがある。
 心とか経験っていうのは、きっと丸くて、お月さまと同じで、満ち欠けしてるんだ。満月になっても、その裏側は見えないし、兎に見えたり、ライオンに見えたり、女の人の顔に見えたりするものなんだよ。だからこれまで見えてなかった別の何かがひょっこり現れたときを、逃したらいけないんだ。そして、見えているところが全てじゃなくて、その中心というのがきっとあるから。その中心にあるものが何か、ゆっくり調べていけばいいんだ。
 この『for F's』は、そういう内的な作業をずっと繰り返して、出来たと思う。実際は、自分自身を探りながら、そこにあったものをゆっくり小説に、投影していくようなものだったけれど。これからもそうやって、自分のピースをつなぎ合わせて、小説を書いていく。

 ただ、あんまり難しいことを捏ね繰り回すつもりはなくて、私が、ああだこうだと頭を捻りながら書いたものを、読んでくれた方が、「あー面白かった」「読んでよかった」と思ってくれればいいんです。それだけです。

 そんなわけで、四周年です。はい。これからもよろしくお願いします。



(要するに、小説に向かう意識が結構深くなったってことなんだけど)
(さて、次回作、どうするか、ってのが一番の問題だよね)
(そーいえば、四周年ということは、ビルダーも四年前のものってことだよな。いい加減、バージョンアップしないといかんだろう)


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