これまでと、これから

 まぁ、日記を読んでくれてる人は知っていると思うんだけど、大学院受験に失敗しました。少し自分自身のことを整理したいから、ここに考えたことを書こうと思います。

 まず、何を目指してたかってことなんだけど、整理するってことも兼ねて、大学受験まで遡るといいかな。某国立大学の教育学部に私は通っていたわけなんだけど、別に先生になりたかったわけじゃないんだ。それは今も昔も変わってない。高校は理系だったし、結構なところは多分受かる成績だったんだよね。自信あったしね。それでどうして教育学部かっていうと、心理学が勉強できるから。文学部でも出来たんだけど、文学部よりも、教育学部の方が良い先生がいるって、親が言うわけ。実際、高校の頃から小説は書いてたし、小説以外のことってあんまり興味がなかったんだよね。心理学が学べるなら、どこ行ってもいいやみたいな感じで、教育学部にしたんだ。まぁ、教育学部に入ったからって、皆が皆、心理学を専攻できるかってわけじゃなくて、うちに大学はその中でまた選考があってる。大学によりけりなんだけど、他の大学だと、入学の時に決まるところもあったりする。それもとりあえずクリアして、希望どおり心理学は勉強できることになったんだ。

 でも、実際心理学を勉強してると、思っていたものと違うわけ。ちゃんと調べてない自分が悪いんだけどね。一口に心理学といってもいろいろ分野がある。教育心理学とか、社会心理学とか、発達心理学などなど。私としては、臨床心理学が学びたいんだよね。その一方で、教育学部だから、教科ごとの講義があったりもする。そんなんで、心理学の講義なんて多くない。臨床心理学なんて当然、カリキュラムの中じゃ、そう多くないわけ。他の大学がどうかは知らないけど、系統立てて学べるかっていったら、そう言うわけでもなかった。心理学にどっぷり勉強することになるのかといったら、全然そういうことでもなかったんだ。それで心理学への興味も段々薄れていったわけ。小説書きたかったしね。

 それでも卒業論文を書かないといけないんだよね。書かないと卒業できないし。指導教官が臨床を専門にしてたから、臨床で卒論も書いたわけ。指導教官が良い教官で、結構面倒見が良くて、やってることを認めてくれんだよね。論文そのものの結果じゃなくて、その過程で何かプラスになるようにすることがいいんだって、言うんだよね。その人の下で論文書いたら、臨床心理学が凄く面白いものに、また思えてきたんだよね。そういう経緯で、大学院に行こうと思ったんだ。指定大学院を卒業しないと、臨床心理士の受験資格がもらえないし、ちゃんとスキルとか理論も身につけたくなったからね。

 一年間、そういうわけで受験勉強したんだ。院生のやってる勉強会に出たり、指導教官の講義を受けにいったりしてね。でも、なかなか上手くいかなかった。やる気がないわけでも、よくわからないことは沢山あったけど、全くわからないわけでもなくて、分かってるはずのことが、上手く書けない。書くのに時間が掛かるっていうか。それって分かってないって言われると凄く困るんだけど。とにかく、分かってることを、思い通り書けない。そういう妙な感覚がずっとあって、違和感が拭えなくて、でも勉強はしなくちゃいけないし、悪循環みたいになってた気がするんだよね。振り返るとさ。良くやってるようで、やってない感じで、満足感とか達成感もない。そういう今まで感じたことがないものを抱えてて、院試は秋と春の二回あるんだけど、秋の受験のときなんて、本当に気持ち悪くなったり、逃げたくなったんだよね。それこそ、解けるはずなのに、言葉がでてこなかったり、時間だけが過ぎていって。やっと感覚が戻ってきたのは、年が明けたころ。だから春の受験は、結構やれたんだ。分かるところは、満足が行くだけ書けたし、全体でも七割は行った思った。結果は落ちたけどね。

 ここからが本題なんだけど、春に落ちたときは、目の前が真っ暗で、どうしていいのか分からなかった。正直落ちるとほとんど思ってなかったし、それくらい手ごたえがあった。それで、後一年苦しむのかとか考えたり、就職するのかとかいろいろ考えるんだけど、何も出来ないんだよね。未来へ向かうエネルギーがない状態。就職してもいいと思ったし、このままあきらめるのも嫌だったし、小説はずっと書きつづけたいと思った。

 一ヶ月どうするか悩んで、人に話を聞いたり、ばったり同級生が働いているところに遭遇したり、行きつけの美容室の担当の人が一人立ちしたとか聞いたり――二年浪人するってことは、同期よりも二年早く退職するってことだよ――社会人から臨床の道に入って、今は院で頑張ってる先輩からそういうことを言われたとき、衝撃を受けた。仕事を辞めるとき、同期の人間は後二年働ける。二年という月日がもの凄く重く感じられたんだよね。

 就職しようと思ったとき、何になりたいのか、真剣に考えた。やっぱ一番小説家になりたかった。その次は臨床心理士になりたい。その次は塾講師とかどうでもいいかな。小説家になるために、一時的に就職するのも決して悪くない。正直なところ、大学院を受験しようと思っていないなら、バイトしながら小説書いても悪くないと思った。それは今も悪くないと思う。大学受験するとき、今年受からなかったら、来年は小説ばっかり書くから、浪人しても無駄だろうな、友達にそう言ったことをまだ憶えてる。今の自分は、小説家になるために、臨床心理士をあきらめることはできる。臨床心理士になるために、小説を書くことをあきらめることはできない。

 でも、何になりたいのかより、どんな人間であるのか、ってことの方がずっと大事だと思うんだ。それは例えば、どんな小説家になりたいのかってことじゃなくて、個人としてどんな人間でどういう生き方をしているのかってことなんだよね。中学のときに志望動機とか考えていて、それがあまりにも無意味に思えて、なんとなくそう思って以来、それは変わっていない。だからどんな人間でありたいのか、ずっと考えてみた。

 結論だけ言えば、例えば、効率とか知識とか技能とかコストとかで優れている人って沢山いると思うんだよね。そういうことで凄く会社に貢献してる人ってさ。そういうのももちろん大事なんだけど、「また、こいつと一緒に仕事がしたい」って損得抜きで思ってもらえるような、そういう人間になりたいって思うんだよね。自分よりも効率が良かったり、コストが低かったり、利益を出せる人がいるっていくらでもいると思う。でもそういうことを抜きにして、「こいつと一緒に仕事がしたい」とか「こいつと仕事していると、能力がいつも以上に発揮できる」何かそういうふうに思われる人間になりたいんだよね。相手に合わせて自分を変えるってわけじゃなくてね。どうしたらなれるかわからないけど。

 それで、結局、今年は小説も今まで以上書こうと思うし、受験もしっかりやろうと思うんだ。去年は受験のために小説のことを考えないようにしてたところがあるんだ。考え方によるんだろうけど、エネルギーっていうのは、最初から限界を決めて、それを割り振れるものなのかな? 十のエネルギーをもっていて、それを受験に全部費やそうとする。でも全部費やせるとは限らない。小説も受験も十やろうとする。それは足したら十になるのか、それ以上になるのか。それ以下なのか。個人的には後者の考え方の方が好き。でも去年は前者でやってた。だから今年は何でもやってみようと思うんだ。

 浪人することを決心したんだけど、本当にこれでいいのか、やっぱり不安はあるんだ。二浪するってことがどれだけ、社会的に重いのかってことも考えるしね。でも、その二年の価値を誰が決めるのかって言ったら、自分自身なんだよね。二年の月日は確かに大きいけど、人生のどんな時間も、その価値は自分で決めることができる。受験に失敗したとき、もっと勉強すれば良かったと思わなかったわけじゃない。でも今は、あのときはあれ以上出せなかったんだと思う。浪人するってことは確かにいいことじゃないけど、その価値は自分で決めることができる。浪人しなかったら、こんなに考えることもなかった。だから、今の価値を自分が自分に誇れるものにしようと思うんだ。

 そんなわけで、こんな私ですが、お付き合いしてくださる方、よろしくお願いします。

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