可能性と決断と

  今まで、可能性とか、悩みとか書いてきたけど、そのまとめみたいなのを書こうと思う。内容はあんまり変わらないかもしれないけど、ある意味では普遍的で関係のあるものとも思うんだ。だから、読んでくれる人の何かの糧になりますように。もちろん、私自身の糧になりますように。
 
 生きるってことは、なんだかんだ言っても可能性を捨てるってことだと思うんだ。頭から暗いコメントだけど、別に否定的なことを言うつもりはない。生きるって言うのは決断の連続。そのたびに、何か別の可能性をあきらめなくちゃいけない。
 でも可能性って、決断することに意味があるんじゃないかな? 可能性ってただそこに無数にあっても、何も生み出してはくれないでしょ。せいぜい、迷い悩むことくらいかな。可能性って言うのは、いつも今にしかなくて、未来にはないんだ。過去の可能性を振り返ることは、きっと後悔なんじゃないかな。あのとき、ああしていればよかったなんて、さ。未来の、あるかもしれない可能性は、ただの幻想でしかなくて、そうなる保証はどこにもない。希望の道に進めたからって、最高の結果があるわけじゃないんだ。
 確かに私たちは、可能性を捨てながら生きてる。でも、そこから別の新しい可能性が生まれることを忘れてはいけないんだ。何もしなければ、可能性なんて減っていくだけ。大事なことは、いつ、どこで、決断するかってこと。行動を起こすタイミングをよく考えなくちゃいけなんだ。
 いつ大人になるかなんてわからないでしょ。大抵の人はいつのまにか、大人になってる。だから、自分で大人になるタイミングを考えるのって凄く大事なことと思う。つまり自分の中であいまいな可能性をはっきり決断する。それは今まで決まっていなかった自分をはっきりさせることになるんじゃないかな? そこには、きっとそれまでとは違う、はっきりした自分がそこにいるんだ。だから、何をいつ決断するのかって、よく考えなくちゃいけない。
「今の自分があるのは、あのとき、ああしたからだ」とか「あのときああしなかったら、今の自分はいない」なんて、よく聴くけれど、私はこの言葉があまり好きじゃない。使わないわけじゃないけど、「あのとき、ああしなく」ても別の自分がいるだけ。そして、その別の自分のきっと同じことを言うと思うんだ。だから、「確かにあのとき、ああしていなかったら、今の自分はいないけど、ああしなかったら、しなかったで、別の自分がいるだけ」と私は思うんだ。だから「あのときああしていれば」なんて考えても、そこには別の自分がいるだけなんだ。その別の自分がそう考えない保証はないでしょ。
 可能性に良いも悪いもない。私たちはただ、そのときにしたいことを、正しいと思うことをしているだけで、それから先の自分を想像しているわけじゃないでしょ。「あのとき、ああしようと、しなかろう」と、私は私であり、あなたはあなたなんだ。決断した自分を肯定するのも、否定するのもそんなに意味のあることじゃない。大切なのは、そのとき悩んだり苦しんだってこと。
 別に答えを出す必要なんかないときもある。それも一つの決断。後悔するかもしれないけど、それって無駄なことじゃない。要は捉え方。そこから何か学べれば、きっとそれが後悔じゃなくなるときがくる。
 あきらめた可能性を考えるよりも、選んできた可能性を振り返るよりも、目の前に広がる今に、新たな可能性がある。私たちは、無限にある可能性を捨てながら、新たな限られた可能性の中で生きている。たとえどんな決断をしても、それが今は後悔だとしても、いつかそれを新しい可能性にすることは出来るはず。後悔しても、一生懸命生きていくしかないんだ。自分の選んだ可能性でしょ。その先に何があるかは分からないけど、必ず先はあるから。可能性は減っていくけど、無くなることはないんだよね。

(もっとも、選択肢は気がついただけしかないし。たまには過去と向き合うことも大事だし。それって未来を見てるってことだし。結局のところ、今っていうのを、未来とか過去とかを見ながら、間接的に見ているだけなんだよな……)

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