第一章

     1

 実家に着いたときには、夜の八時をすでに回っていた。ほぼ予定通りの時間だ。実家にある車庫は父さんが使っているため、俺のヴィッツは家の塀の横に着けた。
 車から降りると、半月が昇っていた。近所の家々の窓から光が薄らこぼれて、ぽつぽつとある街灯とともに、暗闇を照らす。そんな光の届かない、路上の真ん中の暗がりを選んで座っていたのか、ギラリと目の光る野良猫と目が合う。俺が動くと、すぐそこの民家の庭へ塀を跳び越えて行ってしまった。
 実家の門の前に立つと、格子状のガラス戸から玄関の明かりが漏れていた。実家だというのに、なんとなく心臓が速くなった気がする。
「ただいま」
 ガラス戸を開けると、何ともいえない生活の臭いがした。懐かしい実家の臭いだ。
 木目の擦れた玄関の床に腰を下ろして靴を脱いでいると、バタバタと歩く音が聞こえてきた。すぐにリビングの引き戸が開いて、エプロン姿の母さんが顔を見せた。
「おかえり、透」
「ただいま。母さん」
 なかなか帰ってこなかったことも手伝って、なんとなく顔を合わせるのが、恥ずかしいというか、申し訳ないというか――。
「疲れてただろ。ご飯は?」
「まだ」
 立ち上がると、床がギギッと軋んだ。
「すぐ準備するから、荷物を上へ持っていってらっしゃい」
「分かったよ」
 以前と変わらず迎え入れてくれた母さんに、ほっとする。
 玄関からすぐ右にある階段を上る。二階には部屋が二つある。階段を上って右にあるのが、俺が使っていた部屋で、実家に帰るたびにここを使う。左は弟の隆志の部屋で、俺の部屋の下が父さんの部屋になっている。
 部屋のふすまを開けて蛍光灯をつける。光が数回瞬いたかと思うと、部屋を余すところ無く照らして、懐かしい空間が広がる。色褪せた畳が、六畳の狭い部屋。俺が使っていたこげ茶色の勉強机も、六段の洋服ダンスも北側に置かれたままで、西と南の窓についている薄い緑のカーテンも、その南の窓から見える隣の家の二階も、押入れのふすまも変わっていない。出て行ったときと変わらずそのままだった。けれど、生活感というものがない。
 タンスの横にバッグを置いて、昔に身についた習慣なのか、何故か西の窓の上の壁に掛けられている時計に目をやる。正方形のこげ茶色の木枠に、白い文字盤の時計は、俺が中学生の頃から、そこにあった。――三時三十六分四十六秒?
「なんだ、止まってるのか」
 秒針がピクリとも動いていなかった。何となく、この部屋が使われていないことを象徴しているようで、寂しい。
「電池を入れ替えないとな」
 ふと、ここで過ごす一週間に不便を覚えて、そう呟いていた。
 台所に下りると、四人がけのテーブルに、白米、味噌汁、漬物が並んでいた。台所と突き抜けになっている居間では、父さんが胡座をかいてクイズ番組を見ていた。
「ただいま、父さん」
 父さんがゆっくり振り返る。その父さんの顔を見て、俺は次の言葉を次げなかった。
 父さんの顔には、目尻、額、頬としわが増え、さらに一段と深くなっていた。黒かった髪は、白髪があきらかに目立っていた。もともと細身だったが、以前よりも痩せこけて見える。頬骨が目立ち、血色もどことなく悪そうだった。
 老けたな。そう言ってしまえれば、どれだけ楽だろう。けれど、そんな言葉で足りるとは到底思えない。もっと頻繁に帰ればよかった。俺は一体何をしたんだろうな――大罪の代償を払うというのは、こんな気持ちのなのだろうか?
 俺が何も言えずにいると、父さんは大きく頷いて再びテレビへと向き直した。そんな父さんの背中に、ごめんなさい、と心の中で俺は頭を下げた。
「鯖の味噌煮を温めてるから、少し待ってね」
 コンロの前に立つ母さんが言う。俺は軽く頷くと、椅子に腰掛けた。
 味噌煮か。一瞬、子どもじみた考えが浮かび、それを鼻で笑う。鯖の味噌煮は、子どもの頃からよく母さんが作ってくれた。特別、鯖の味噌煮が嫌いということではないけれど、どちらかと言えば煮魚は苦手だった。昔なら文句の一言は言ってもおかしくない。だが、準備をしなくていいことを考えれば、いや、食えるだけでもありがたい。
「はい。お待たせ」
 母さんが深皿に味噌煮を盛って、俺の前に置いた。味噌と生姜の香りが立ち上る。
「ありがと」
 俺がそう言うと、母さんが嬉しそうに微笑で、言った。
「透が、ありがとうなんて、やっぱり一人暮らしをすると、少しは成長したんだね」
「そりゃ、それなりに成長はするよ。というか、前に帰ったときも同じこと言われた気がする」
 なんか、こそばゆかった。母さんの顔を見れなくて、俺は「いただききます」と箸を手に取った。

     2

 遅い夕飯を食べ終わると、時計は九時を指していた。
「透、ちょっといいか?」
 居間の父さんがテレビを消して、低い声で俺を呼んだ。俺が食べ終わるのを待っていたのだろう。
 いよいよか。大体の予想はついている。
「はい」
 俺は、大きく息を吸って、ゆっくり吐いた。それだけで心の準備は出来た。帰ってくると決めたときに覚悟はしてきたのだから。
 俺は居間に移って、テーブルを挟んで父さんの前で正座した。
「最近、ちゃんと飯は食えてるか?」
「まぁ、ぼちぼち。大丈夫」
 ごまかすしかなかった。朝は抜いて、コンビニや外食で済ませることが圧倒的に多い。冷蔵庫は完全に発泡酒の専用になって随分経っている。
 父さんが大きく息を吐いた。俺がどんな生活をしているかなんて、お見通しなのかもしれない。
「就職は?」
「うん」
 俺は答えなかった。父さんがまっすぐ見つめる。
「透、もういいんじゃないのか? これまでは何も言わなかったが、もうそろそろ身の振り方を考えても良い頃だろう。大学を卒業して、もう二年だ」
 予想していた通りだった。俺は何も言えない。このままじゃいけないことも解ってる。就職すべきなのも解ってる。そんなことは、ずっと前から解ってる。だけど――、
「何かしたいことでもあるなら、それをやってもいい。ここに帰ってきても構わない。とにかく、いつまでもアルバイトしているわけにはいかんだろう。なんでもいいから、就職しなさい」
「……はい」
 そう言うのがやっとだった。奥歯を強く、痛くなるほど噛み締める。膝の上の手を握り締める。
「言いたいことは、それだけだ」
 父さんは立ち上がると、ふすまを開けて寝室へ行った。俺は大きく息を吐いた。体の力が抜けていくのが解った。畳の上に仰向けになって、天井を見た。
 バイト先からは確かに社員として誘われている――そう言っても良かった。だけど、俺の人生、それでいいのか? やりたいことと言われてもよくわからない。
 静かだった。時計の秒針の音が、カチ、カチと聞こえる。蛍光灯の光が目に眩しい。
 ずっと考えてきた。学生のときからずっと。どんなことでもそれなりにやれると思うけど、何でもいいわけがない。一生、といったら大袈裟だけど、そう考えると、適当なことはできない。とりあえず就職なんて……道が見えない。
 風呂に入っていた母さんが、上がってきた。髪は濡れたままだ。
「父さんは?」
 母さんがタオルで髪を拭きながら、聞いてきた。
「寝たんじゃない?」
 俺は起き上がって答えた。寝室へ行ったのだから、多分そうだろう。
「そうかい。少し早いけど私も寝ようかね」
「そう言えば、隆志は?」
 未だに顔を見せない弟は、一体どうしたのだろう?
「今日はバイトだったと思うけど」
「バイト? 何してるの?」
「家庭教師。バイト代が良いらしくてね」
「隆志がねぇ」
 少しばかり驚いた。もっとも考えてみれば、隆志も大学生だから、不思議でもなんでもない。ちゃんと教えることができるのかは、別にして。
「そのうち帰ってくるよ」
「ふーん」
 母さんがやかんに水を入れて、コンロの上に置く。
「お茶を煎れるけど、透も飲む?」
「飲むよ」
 カチャと火の点く音が聞こえた。俺は立ち上がって、台所のテーブルに向かった。
「こっちにはいつまでいるんだい?」
 食器棚から茶筒を取りながら、母さんが聞いてきた。
「一週間。バイトも休みがもらえたから」
「そう、一週間も」
 母さんが嬉しそうに笑う。
「ゆっくりしていきなさい」
「うん」
 きっと母さんは、父さんから何を言われたのかも知っているのだろう。
 母さんは急須に茶葉を入れると、「髪を乾かしてくるから」と洗面所に戻っていった。洗面所の小さく曇りガラスの付いたドアを見つめる。すぐにドライヤーの音が聞こえてきた。
 就職さえすれば、父さんも母さんも安心するんだろう。俺が心配するなと言ったところで、心配なんだよな。分かってはいるんだけど……。
 しばらくしてピーッと、ドライヤーの音を切り裂いて、やかんの音が鳴った。俺は立ち上がって、火を止める。食器棚にある湯飲みを出そうと、ガラス戸を引くが、思うように行かない。ああ、ちょっとしたコツがいるんだっけ――軽く持ち上げるように引くと、すーと滑らかにガラス戸は動く。慣れた習慣が思わず懐かしい。
 湯飲みを出していると、玄関の開く音が聞こえてきた。隆志が帰ってきたのだろう。「ただいま」と聞いたかと思うと、台所の引き戸が開いた。
「ただいま。兄貴、帰ってきたんだ」
「おかえり」
 隆志はバッグをテーブルに置くと、疲れ果てたのか、椅子に一気に腰を落とした。
「えらく疲れてるな」
 隆志の顔は冴えない。血色は悪く、目もうつろで、焦点の定まらない様子で俺を見ていた。
「まぁね。レポートで二日徹夜だったんだよ」
「そりゃ、大変だな」
「眠い」
 隆志がテーブルに突っ伏す。
「じゃあ、さっさと寝たらどうだ?」
「そうする」
 隆志が重そうに立ち上がると、体を引きずるように二階へ上がっていった。
「大学生が徹夜しなくなったら、嘘だよな」
 ぼろ雑巾のような隆志と自分の大学生活を重ね合わせる。
「隆志が帰ってきた?」
 母さんが洗面所から出てきた。
「疲れたから、寝るって」
「何か、このところ忙しそうにしてたからね」
「レポートかテスト前でもない限り、大学生が忙しいなんてことはないよ」
「それを言ったら、お終いでしょうに」
「そりゃ、そうだ」
 母さんが笑う。よくよく見れば、目の周りのしわが昔より増えているように思う。髪も痛んで、白髪もいくらかあった。
「それじゃ、お茶煎れようか」
 俺の横に母さんが立った。
「いいよ。俺が煎れるから、座ってたら?」
「そうかい」
 俺はやかんを手に、湯飲みに湯を注ぐ。そして、湯飲みから湯を急須へ。
 学生だった頃、実家に帰ったときは、何でも母さんがしてくれた。洗濯も料理も後片付けも、自分でやる必要なんてなかった。楽だった。心底、楽だった。だけど……だけど、父さんも母さんも、俺が知らないところで老いていた。
「そういえば、母さんって、年は五十五だっけ?」
「そうだよ。年がどうかした?」
「いや、何となく聞いてみただけ」
 と言いながら、俺は聞いたことを後悔した。自分が愚かに思えて仕方ない。
 お茶を湯飲みへ交互に注ぐ。湯飲みの内の白に、澄んだ緑が小さく渦を巻いて、昇ってくる。
「はい」
「ありがと」
 母さんは嬉しそうに眉を細めた。
「あ、そうだ。布団は干して、隆志の部屋に置いてあるから」
「分かった」
 隆志の部屋にベランダがあるから、そこで布団を干して、置きっぱなしなのだろう。部屋は隣なんだから、運んでいてくれてもいいだろうに。
「今から取ってくるよ。隆志がいつ寝るか分からないし」
 俺は一口お茶を飲んで、二階へ向かう。「お茶飲んだら寝るから」と背中から母さんの声が聞こえた。
「入るぞ」
 弟の部屋の前で、ふすまを叩いて一声掛ける。部屋からは眠そうに「んー」と返ってきた。ふすまを開けると、俺は唖然とした。部屋のほとんどがゴミ箱のようだった。特に目の前にある勉強机の周辺が酷い。プリントやらテキストやら洋服やら――この散乱ぶりは、机を中心に、その奥のタンス周り、東の窓際、本棚と来て、押し入れ付近にまで及んでいた。何と言うか、畳が見えない……文字通り、足の踏み場がないな。
「少しは片付けろ」
 隆志は南向きの窓の下に敷いてあるベッドの上で、うつ伏せになっている。目的の布団は一式、隆志の足の方に置かれていた。布団の置ける唯一のスペースだったのだろう。あとのスペースと言えば、せいぜいタンスのごく僅かな前の部分とか、押し入れ辺り、あとは俺の立っている入り口くらいしかない。
「分ってるよ。で、何?」
「布団を取りに来ただけ」
「あ、兄貴のなんだ。てっきり俺のかと」
「んなわけない。持ってくぞ」
「んー。一応、その辺のプリントとか踏んだり動かしたりしないでね。どこにあるか分らなくなるから」
「おい……」
 その辺ってどこだよ。母さんが、布団をここに置きっぱなしにした理由が分かった。
「布団抱えて、足下見えるか」
「俺ならできるよ……」
 隆志が俺を見て、とろーんとした目で笑う。
「だったら、お前がやれ」
「眠い」
「あのな……」
 俺は手を額にやって、頭を抱えた。どうしたもんかね。こいつを起こそうにも、動きそうにないし……。
「あ、そうだ」
「何だ?」
 隆志がゆらりと体を起こした。
「明日、車貸して」
「はあ? 何だいきなり?」
「いいじゃん。それとも使う?」
「別に使わないけど、それより、免許は?」
「取ったよ。明日彼女とデートなんだ。だからさ」
「なっ」
 こいつに彼女が。一体どこの物好きだ。兄という贔屓目でも、ルックスは普通、身長も体重も平均、頭は人より少し良いくらい、運動も多少。平凡としか言いようのない、そんなこいつのどこが?
「頼むよー」
 それなりに可愛げもあるにはあるし、性格は基本的に真面目だし――。
「あーもう、わーったよ。その代わり、布団を俺の部屋まで運べ」
「んー分かった」
 本当に運べるか見ものだ。
 隆志はすっと立ち上がると、一番上の掛け布団を抱えると、大きく一歩。その下にはプリントがあった。お構いなしだ。
「それはいいのか?」
「これは別にいらないよ」
 そう言ってもう一歩。最初に踏み出した右足にくっついたプリントを邪魔そうに、蹴る。
「取ってやるから、さっさと持っていけ」
「はーい」
 そういう隆志の声は底抜けに明るかった。
 こいつほとんど、頭が働いてないんじゃないのか……?
 俺は屈んで、プリントを取ってやる。本当に大丈夫か、と心配したものの、隆志は思っていた以上にテキパキとしていた。足の踏み場もなさそうな部屋から、器用に、しかも意外なほどさっさと、残りの毛布と敷布団を俺の部屋に運んでしまった。
「ん」
「なんだその手は?」
「約束だろ。車の鍵」
「ああ。分かったよ」
 眠いわりに、頭はしっかり働いてやがる。
「事故るなよ」
「ん……」
「あとガソリンないから」
「は?」
「ここまで帰ってくるのにギリギリだったんだよ。遠出しないなら多分持つと思う」
「満タンじゃなくてもいいんでしょ?」
「そりゃな」
「なら、適当に入れとくよ。じゃ、おやすみ」
 隆志はそのまま部屋に戻る。
「あ、風呂は?」
「いいよ。寝るから」
「じゃ、抜くからな」
「んー」
 隆志は頷いて、ふすまを閉めた。
 隆志のやつも大変そうだ。だれど、それがうらやましい。バイト先とアパートの往復。それが今の俺の生活。バイトはバイトで、人間関係は上手くやっているし、楽しい。けれど――。
 階段を下りる。
 強いて言えば、張り合いがない。
 台所の引き戸を開けると、母さんが茶を啜っていた。
「浮かない顔だね。父さんから、何か言われた?」
「まぁね」
 俺は髪をかきあげた。根ほり、葉ほり聞かれたくはない。就職のこと、将来のこと、独りで考えたかった。
「ちょっとコンビニに買い物してくる」
 苦しい言い訳だ。
「何だい、突然?」
「酒が飲みたいの」
 そう言うと、母さんが困った子どもを見つめるように目を細めて、唇を軽く舐めて見せる。
「ちょっと行って来るよ」
「気をつけてね」
 仕方なさそうな母さんの声だった。何でもお見通しのようで、気恥ずかしかった。

     3

 家を出ると、少し風があって肌寒い。
 実家のある団地の裏手には山があり、そのすそ野には、畑や田んぼが広がっていた。山から流れてくる小川は、昔は綺麗でよく魚を捕まえたりして遊んだものだ。俺が小学生の頃の話だ。それも高学年になった頃から、山の開発のせいか、川は徐々に汚れていき、魚の姿を見なくなった。とは言え、当時の俺はもう川遊びなどする年齢でもなく、それなりの寂しさを覚えたにすぎなかった。丁度その頃、三軒隣に住んでいた仲良しの兄ちゃんも、引っ越していった。俺が中学生になると、畑や田んぼがアパートに建ち替わり、あぜ道は舗装され、大学進学で家を出る頃には、子どもの頃見ていた風景のほとんどはなくなっていた。
 団地を抜けた先にある国道の景色も一変してしまった。元々は、マーケットや八百屋や精肉店といった小売店が軒を連ねて、街灯も街路樹もなかった。それが丁度、団地にアパートが建ち始めた頃から、片側一車線だったのが二車線になり、車の往来が増えていった。それらの小売店は、病院やレストラン、ホテル、雑居ビル、大型ショッピングセンターに取って代わっていった。よく行っていた薄汚い駄菓子屋は、コンビニに変わった。百円を百万円と言っていた駄菓子屋のおっちゃんは、子どもたちの人気者だった。そんな冗談も、今時の子どもには通じそうもない。団地が変わってしまったのと同じように、この国道沿いも、わずか十年足らずで大きく変わってしまった。団地の延長のような感じだったのに、そんな名残も今はうない。
 団地は拡大し、人が増え、町は「街」になった。そして、また人口が増える。発展のスパイラルに乗って――。おかげで少子化が叫ばれるこの時代に、俺の通っていた小学校の児童数は増えたとか。畑と田んぼが埋まったら、次は山でも切り崩すのだろう。
 俺は暗がりの中、振り返って山を見上げた。紅葉なんて見えるはずもないが、そのなだらかで小さな山は、半月の明かりの下で静かにそこにあった。コンビニは家から歩いて十分の距離にある。どう言ったところで、俺も、この団地の住人も、この利益を十分に享受しているのだ。
 一台の軽自動車が通り過ぎていく。ヘッドライトが眩しかった。
 俺は大学では、国際学を専攻した。簡単に言えば国際社会の構成に始まって、文化、政治を研究していく。就職先といえば、実際、こんなものが本当に活かせるようなところに行けるのは、ごくまれで、全く関係のないところに進む奴が多い。ソース会社とか眼鏡会社に進む奴だっている。そこに何があるのか、俺は知らない。知りたくもない。大体、大学の持つパイプなのかは知らないけど、製造業の分野へ就職している連中の割合が一番多いのは疑問だ。そりゃ、外国に会社と工場でもあれば、それなり活かせるかもしれないが、大して活きるはずもない。慣れれば、誰にだってできる。真面目に就職活動をしなかった俺が言うのもおかしな話だ。本当に専門性が発揮できるのは、実際、公務員か外資系、マスコミ関係くらいだろう。もちろん相応の知識と腕が必要になるだろうけど。そう言えば、銀行に就職した奴は、まず出てこない偽札に目を光らせているそうだ。国際経済学の知識の活かしどころは一体どこにあるんだろうか……。
 別に国連だとか国際ジャーナリストなど大きいことをいう気はない。ただ、学んだことを活かしたい、そんな思いが当時はあった。大学の仲間は、そんな俺に「そんなこと言ったら就職できねえぞ」と言った。間違ってはいない。現に俺は就職できなかった。それなりに真面目に取り組んだのは公務員試験くらいだ。だが、それなら、一体何をしてきたのだろう? 何になればいいんだ? 
『大学なんて、適当に遊んでたらいいって』
 大学で知り合った奴がそう言った。俺はそいつみたいにはなりたくなかった。だからというわけでもないが、それなり講義は真面目に受けてきたし、レポートも、テストも自分なりに懸命だった。ノートはいつも貸す側だったし、成績だって『優』が一番多い。『不可』なんて四年間で一つしかない。
「進んで勉強してたわけでもないから、結局遊んでなかったってだけだよな」
 ふと立ち止まって、空を見上げた。アパートに挟まれる空は狭く、窓からもれ出る淡い明かりが目に付いて、星など見えなかった。
「留学でもすればよかったかな?」
 ふとイギリスへ留学していった女友達の顔が浮かぶ。
『日本はなんだかんだ言っても、狭いのよ。私は世界へ出るわ』
 彼女は学科の飲み会で、酔っ払ってそんなことを言っていた。その時は気にも留めなかったが、今にして思えば、彼女はしっかり先を見ていた。
「今更だよな」
 すでに国際学への興味などありはしないが、その知識が活かせるものなら活かしたいものだ。
「考えるのにも疲れたな」
 気がつくと、公園の前に来ていた。細い枝が太い幹へ繋がっているように、この公園は、団地へと続く道と国道の交わるところにある。
 この公園にはブランコやジャングルジム、滑り台、鉄棒といった遊具らしきものは何一つない。その代わり、広い敷地には芝生が敷かれている。外周には花壇が作られ、白く表面のでこぼこした石畳の遊歩道がある。その遊歩道に沿ってベンチ、街灯があり、あとは公衆トイレが目に付く。厳密には公園というより広場といった方がいいだろう。昔はよくサッカーや野球をしている子どもたちや、犬の散歩をしている人を見かけていたものだが、今はどうなのだろう?
 コンビニへは、この公園を抜けて、国道へ出ればすぐそこにある。ここからでも、コンビニの明かりが見える。
 遊歩道の石畳の上を歩く。白い街灯に石畳がキラキラと光の粒を反射させていた。芝生の緑も明かりに映えていた。街灯の届くところだけが別世界のように暗闇の中に浮かび上がっていた。
 先に目をやると、ベンチに人影があった。その人影はよろめきながら立ち上がる。
 酔っ払いか? 絡むは勘弁してくれ。発展の代償にこういう輩が増えたのも、また事実だろう。
「あのーすいません」
 そのどこかのんびりした声は、間違いなく女性だった。危ない足取りで近付いてくる。街灯に照らされ、暗闇にその顔が浮かぶ。まだ、あどけない。身長は俺の肩くらいか。黒のカーディガンを胸元で留めて、下にはミント色のカットソーが見えた。紺のデニムのミニスカートとベージュのトートバッグがカジュアルで、学生っぽかった。
 無視するわけにもいかないか。内心溜め息がこぼれた。
「何か?」
「道に迷ってしまって。グリーンシティ・ホテルってどこですか?」
「グリーンシティ・ホテルですか……」
 記憶を漁る。聞いたことはある。この辺りにあったことは確かで……ちらりと彼女を見ると、期待に満ちた、でもどこかとろんとした目で俺を見ていた。その目に少し艶のようなものを感じで、ドキッとした。
「こっちは団地しかないんですよ」
 自分の歩いてきた方を指差しながら、教える。
「あー、そうですか」
「どこだっけ……グリーンシティ・ホテル、グリーン……」
 聞き覚えがあるから、最近建ったはずはない。
「この大きな通りから、こういう少しわき道に入ったところだったと思うんですけど」
 彼女は国道を指差す。それを見て、ピンと来た。一気に頭の中が繋がって、鮮明になっていく。
「あーはいはい。思い出しました。方向が逆なんですよ。そこの国道に出て、信号を三つ、真っ直ぐいかれてください。四つ目の信号で横断歩道を渡ってください。すると似たような道があるんですよ。その道を行かれればすぐ見つかりますよ」
「ありがとうございます。サークルでこっちに来たんですけど、飲み会の後、皆とはぐれちゃって。電話しても出ないし。ほんと助かりました」
 彼女が頭を下げた途端、前へふらつく。慌てて俺は腕を伸ばして彼女を支えた。相当飲んでるみたいだ。
「大丈夫ですか?」
「ええまぁ。もう少しここで休んだら、戻りますよ」
 人の腕にすがって、今にも眠りそうな顔で言われても説得力がない。
「ちょっとそこのベンチに座わりましょうか?」
 彼女はにっこり笑って、大きく頷いた。彼女はすぐ横にあるベンチに歩き出したが、すぐそこでさえまっすぐ辿り着けない。
 やれやれ、面倒だな。大体、酔った女を独りにするなよ。
 倒れないかと、気が気じゃなかったが、彼女は何とかベンチに腰を降ろした。
「ちょっと待っててください」
 そう言っても、彼女には意味も分からないだろうが、とりあえず頷いていた。
 このまま放っておいても構わないが、それじゃ寝覚めが悪い。コンビニまで走って水でも買ってきてやるか。
 俺は公園を後にして、すぐ国道へ向かう。何か学生のとき見たいだな。
 大学にいたときはよく飲みすぎた後輩の面倒を見たものだ。時には教官を世話したこともある。大抵はアパートの近い奴が泊めるか、多少まともな奴を混ぜてタクシーに押し込めばいい。
 国道へ出ると、飲んで帰る人をぽつぽつ見かける。すぐ隣では、客待ちのタクシーが列をなしていた。飲食店からこぼれる黄色い明かりと、オレンジの街灯が混ざり合う。街路樹のケヤキは光の届かない暗がりへ向かって伸びる。そんな薄暗い夜を車の白いライトが切り裂いて走っていく。こんな時間帯でも結構、車の往来があって、エンジン音が妙に耳障りだった。
 そんな騒がしさがまだ残る街の中でも、コンビニというのは存在感が違う。店内の清潔感のある白い光が大きなガラス窓を透き通って、一際明るくよく目立つ。それは、先の見えない不安を誘う闇で、光輝くオアシスのような安心感を与えてくれるかのような錯覚を思わせる。
 横断歩道を渡って、コンビニへ。外から中を覗くと雑誌コーナーに、作業服姿の中年の男性が立ち読みをしていた。店内に入る。塾帰りなのか、学ランの男の子がレジに並んでいた。俺は雑誌コーナーを横目に、ミネラルウォーターと発泡酒の五百ミリを一缶、適当に選んで、子どもと一緒にスナック菓子を選んでいた母親の横を通って、レジへ向かった。
 早足で公園に戻ると、彼女はベンチの上でトートバックを枕に横になっていた。
「大丈夫ですか?」
 声を掛けてみたが、返事はない。しゃがみ込んで、彼女の顔を覗く。寝てるだけだろう。それにしても、若い女性があまりにも無防備すぎる。
 眠ってる、しかも見知らぬ女性の体に触れるのは正直ためらわれるけど、この際、仕方ない。
「起きてください」
 肩を揺すろうと腕を伸ばした瞬間、彼女の体が伸びをするように、首筋から胸にかけてぐっと反れる。と同時に、艶かしいうめき声が、淡く赤い唇の奥からこぼれる。軽い吐息とともに、ゆっくり彼女の体が弛緩していく。
 俺は生つばを飲み込んでいた。この程度のことでどうこうということはないけれど、やっぱり生で、目の前で見ると――
「って何考えてんだか」
 そうぼやきながらも、彼女の足やら胸やらに目が行ってしまう。じっと、足を見つめる。街灯に照らされて、白光りする太腿は目の毒だ。両足が擦り合うように動く。デニムミニスカートがずり上がって、さらに太腿が露わになる。
「うっ……」
 スカートの中が気になる。見えるか見えないかのギリギリの――目を閉じて、溜め息を吐く。……溜まってんのかな? 高校生じゃあるまいし。
 気を取り直して、彼女の体を揺する。
「大丈夫ですか?」
「うーん」
 薄らと、彼女の目が開く。
「なん、ですか?」
 殆どまだ夢の中にいるようだ。
「起きてください」
 力任せに彼女の上体を起こす。街灯が彼女の顔を照らす。彼女は眩しそうに顔をしかめて、辺りを見渡した。
「あ、はい」
 少しは意識が戻ってきたようだ。
「俺、分かります?」
「えーと……」
 彼女はしばらく考えてから、
「あ、さっきホテルまでの道を教えてくれた……」
「大丈夫みたいですいね」
 とりあえず、意識はしっかりしているようで安心した。これ以上いくとさすがに手におえない。
「水です。飲んでください」
 彼女の前にミネラルウォーターを突き出す。彼女は一瞬、意味がわからない表情をして、
「いいんですか?」
「どうぞ」
 少し戸惑って、彼女はそれを受け取った。キャップを開けて、ペットボトルを口に運ぶ。勢いよく傾けたから、水が赤い唇の端からすっと滴り落ちていく。白い首筋が動く度に飲む音が聞こえてきそうで、目が離せない。ミネラルウォーターが彼女の唇から体内に入っていくのが分かる。数口飲んだ後、彼女はペットボトルを口から離して、大きく息を吐いた。
「少し楽になりました」
 すっきりしたのか、顔には微笑が浮かんでいた。
「それで歩けます?」
「大丈夫ですよ」
 酔った人間の「大丈夫」ほど信用できないものはない。
「じゃあ、ホテルまで送りますよ」
「そんないいですよ。帰れますから」
 そう言って、彼女は立ち上がって歩き出したが、すぐにふらついて真っ直ぐ進まない。
「そんなに距離はないですから、別にいいですよ」
 ふらつく彼女を見ながら、俺はやけっぱちに言った。

 彼女は名前を神村真実と言った。隣の県にある大学の三年生なのだそうだ。いくつか大学の名前が浮かんだが、それは聞かなかった。聞いたところでなんということもない。彼女は旅行サークルに所属していて、講義が学園祭で丸五日も休講なので、それを利用してこっちに来たそうだ。さっきまで飲み会だったそうで――。
「それで私は一次会でホテルに戻るつもりだったんですけど……」
 ふらつきながら神村さんが言う。
「迷子になったわけですね」
「はい。助かりました」
 ここまで酔っているんだから、女性が一人で帰らなくてもいいだろう。誰か付き合ってやれよ。
 ふらついて車道に出ようした彼女の手を引く。
「危ないですよ」
「すいません」
 神村さんが立ち止まって、大きく息を吐いた。
「大丈夫です」
 そうにっこり笑う。よく笑う子だ。アルコールのせいかもしれないけど。
「神村!」
 交差点の向こう側から、女性が二人、彼女を呼んでいた。神村さんも声の方を向く。
「あ、順ちゃんだ」
 ようやくお迎えがきたようだ。
 交差点の歩行者信号が青に変わる。その二人が走って、こっちに向かってきたので、俺は動かなかった。眼鏡を掛けた女性と、ショートヘアの活発そうな女性だった。
 ショートヘアの女性が神村さんに詰め寄る。
「あんた、一体どこに行ってたのよ? 電話しても出ないし」
「電話?」
 神村さんはバッグから携帯を取り出して、じっと見つめた。
「あ、ほんとだ。順ちゃんから電話あってる。マナーにしてたから気づかなかった」
「あんたねー。珍しく飲んだと思ったら……」
 ショートヘアの女性が、順ちゃんらしく、顔をしかめる。
「それであなたは?」
 眼鏡を掛けた女性が俺に尋ねた。
「ただの通りすがりです。彼女がホテルが分からなくなったそうで、ここまで案内を」
「そうですか。ありがとうございました。あの子は方向感覚がないから」
 だったら、尚更、一人になんかするなよ。
「水をもらったの」
 神村さんが嬉しそうに、ミネラルウォーターを二人に見せた。誰と言わず溜め息を吐く音が聞こえた。
「どうもご迷惑をお掛けしました」
 二人が頭を下げた。
「それじゃ、俺はこれで」
 もう大丈夫だろう。これ以上どうこうすることもなさそうだ。
「どうもありがとうございました」
 彼女がそう笑う。俺もそれにつられて笑った。相変わらずふらつく彼女の背中を見送る。俺は気分良く彼女に背を向けて、家路を急いだ。

     4

 風呂に入って、自室に戻る。手には買ってきた発泡酒がある。
 反射的に時計を見上げる。
 三時三十六分、四十六秒――。
「止まってるんだっけ」
 仕方なく、机の上に置いた自分の携帯で時間を確かめる。
 十一時三七分――。
「もう塾も終わってるだろう。電話してみるか」
 椅子に座って、石川に電話した。呼び出し音を聞きながら、発泡酒を開ける。一口飲む。シュワーと喉に来る刺激が、たまらなく美味い。本当はビールがいいのだが、金がないから仕方ない。
 十数回の呼び出しのあと「ただ今、電話にでることが――」というお決まりの文句が流れて、俺は電話を切った。
「明日にも掛けてくるだろ」
 一気にごくごくと発泡酒をあおって、一息ついた。
 こうして机を前に座ってみると、何とも懐かしくなる。別に勉強していたわけでもないけど、今この部屋で俺のものと言えるのは、この机だけだ。懐かしさついでに、一番上の引き出しを開けてみる。
「おお」
 思わず声が出た。見覚えのある六本の百二十分テープがそこに並んでいた。背にはどれも、“BEST”のシールが貼ってある。
「『ちょっとあぶないポップス』のテープか! 懐かしいな」
 『ちょっとあぶないポップス』は、レディオ・マジックの毎週火曜の十一時からの人気のないコーナーだった。といっても、人気がないというのは、DJ赤月の弁だ。というのも、
『火曜の十一時。俗にチャンネルチェンジの時間とも言われます。今日もたった八人のリスナーのために送ります』
 なんて、赤月は平気で言ってたから。リスナーの俺からしてみれば、多分、というか絶対人気コーナーだったと思う。このコーナーは、何故かリクエストは葉書しか受け付けていなかった。なんでも、人気が出たら困る、と赤月が言ってた。人気が出たら、打ち切りだと。冗談と思ってたら人気絶頂のときに、レディオ・マジックとともに終わってしまった。
『たまたまラジオをつけてしまったそこのあなた。今すぐ消しましょう。受験生のあなた、勉強の邪魔です。運転中の人、ラジオボリュームを下げてください。対向車に笑われますよ。今日も友達もいない、たまごっちも持ってない、PHSも持ってない、Gショック、何それ? そんな貴方に贈る、コレ』
 こんな出だしだった。そしてあやしいイントロとともに、赤月は言う。
『この世に生まれた音楽は、すべからく、平等にオンエアーされる権利があることをモットーに送ります。ちょっとあぶないポップス!』
「聞きてぇ」
 俺の青春の一ページが。まさにここにあった。
「今どき、たまごっちも、Gショックもねぇ。全く聞かないわけでもないけど」
 ラジオを聞きながら勉強していた自分を思い出す。高校生だった当時――たまごっちやPHSが、時代を感じさせる。火曜のこの時間が近付くと、勉強などそっちのけでラジカセの赤い録音ボタンの上に指を置いて、今か今かと待っていた。
 疲れのためか、酔いが回るのが早い。ふわふわした感覚を味わいながら、さらに発泡酒を飲む。
「明日、石川にも教えてやろう」
 石川もこの『ちょっとあぶないポップス』のファンだった。翌日は、昨日のチャートはどうだったと、熱い議論を交わしたものだ。もっともクラスの連中から、思いっきり、うさんくさい目で見られていたが――。
「ラジカセって、どこにやったっけ?」
 とりあえず、発泡酒を片手に押入れを開けてみるが、使われない布団と何が入っているのかわからないダンボールで埋め尽くされていた。
「この中にあるのは間違いないけど、今から引っ張り出すわけにいかないし。明日にするしかないか……あーマジ、聞きてぇ」
 そこにテープはあるのに、ラジカセがないなんて、あんまりだ。
 溜め息しか出ない。悔し紛れに発泡酒をあおる。
「ふぅー。もういいや。寝よ」
 寝る以外に何がある。発泡酒の残りを一気に飲み干す。酔いのせいだろう。気持ち良かった。
 俺は電気を消すと、布団にもぐりこんだ。
 ふと、神村さんの笑顔が浮かんだ。たまには、こういうトラブルも悪くない。
 何とも言えない幸せな気分で俺は眠りについた。

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