第二章

     1

 母さんの「いい加減に、起きなさい」と呼ぶ声に、俺は目を覚ました。布団の中で重い体を強引に動かす。辛うじて目を開くと、その途端、目の前が白くなり、とても開けてられず、思わず顔をしかめる。薄緑のカーテンの隙間から差し込む光が、目に飛び込んでいた。寝返りを打つと、壁に掛かった時計が、その目に飛び込んでくる。三時三十六分四十六秒……思わず跳ね起きてから気がつく。
「止まってたんだっけ」
 苦笑いを浮かべながら、仕方なく携帯で確認すると、時刻は九時になろうとしていた。母さんが起こそうとするわけだ。
 南のカーテンを開けると、青空が広がっていた。
「透、朝ご飯は?」
 一階から母さんの呼ぶ声が聞こえる。さっきよりも口調が強い。
「今、行くよ」
 大きく伸びをして、俺は台所へ向かった。
「やっと、起きてきたわね」
 椅子から立ち上がりながら言う母さんは、仕方なさそうに笑っていた。
「父さんと隆志は?」
 俺は椅子に座りながら聞いた。
「お父さんはもう出かけたわ。土曜なのに仕事だって。珍しいわ」
 確かに市役所に勤めている父さんが土曜出勤なんて珍しい。でも――土曜でも働く人は多いよ――そう母さんに言おうとして、止めた。就職もしていない、しがないフリーターの俺が言えることじゃない。そんなこと言っていい立場じゃないな、俺は。
 母さんは俺の思いなど知るはずもなく、そのまま続ける。
「隆志は早くに起きてシャワー浴びてたわね。出かけるんじゃない?」
「ふーん」
 そう言えば、昨日デートとか言ってたな。
「それで、透。ご飯は食べるんでしょ?」
「あ……。食べる」
 一瞬、「いいよ。朝は食べないんだ」と出そうになった。そんなことを言えば、母さんが要らぬ気を遣うに決まってる。
「じゃあ、味噌汁を温めるから、少し待ってなさい」
「ありがと」
 母さんがそうにっこり笑って、小鍋を火に掛ける。そして冷蔵庫の横にある炊飯器を開けて、ご飯をよそう。
「はい」
 母さんがご飯を盛った茶碗を見せる。
「それの半分で良いよ。朝からそんなに入らない」
「そうかい」
 よそったご飯を戻しながら、母さんは残念そうだった。
「他に何かしようか? 目玉焼きとか」
 母さんが箸とご飯を渡しながら、聞いてきた。
「味噌汁があればいいよ別に」
 今度はつまらなそうな顔を浮かべて、母さんは言う。
「久しぶりだから、いろいろしてあげたいのよ」
「どうせ入らないから、いいって」
 俺はちょっと困りながらも、そんな母さんの気持ちが嬉しい反面、恥ずかしい。
「なら、味噌汁はたくさん食べなさい」
 火を止めて、母さんがお椀に味噌汁をなみなみと注ぐ。
「はいはい」
 母さんの差し出した味噌汁を受け取りながら答える。これ以上何も言わず、母さんに従おう。
「いただきます」
 味噌汁の具は大根と揚げに刻みねぎが浮いていた。俺の好きな具だった。一口すすると、温かさが体に沁みた。次に茶碗へ手を伸ばそうとしたところで、母さんが前に座ってじっと俺を見ていた。
「何?」
「何でもないわよ。ただ見てるだけよ」
 母さんは楽しそうだった。俺は体が熱くなるのを感じる。味噌汁のせいだけじゃない。さすがに恥ずかしい。
 一言、「それじゃ食べれない」と言おうとしたそのとき、台所の引き戸が開いた。
「兄貴、車借りてくよ」
 隆志が出かける前に、顔を出したのだ。車のキーを見えるように回している。グレイのブルゾンに、黒のジーンズとラフな格好だった。髪もワックスか何かで固めているようだった。
「事故るなよ」
「分かってるよ。じゃ、行ってきます」
 本当に分かってるんだか? 浮かれてるっぽくて心配だ――と、ここであることを思い出した。
「あ、後ろに、折りたたみの自転車が載ってるから、降ろしといてくれ。それがないと俺が出かけられない」
 隆志の奴が顔をしかめたが、「分かったよ」と面倒くさそうに頷いた。
 折りたたみ自転車は、『ストライダ』という、組み立てると三角形になるという変わったデザインの折りたたみ自転車だ。自転車の修理をお願いに行ったときに、一目惚れしてしまった。かなりコンパクトに折りたたむことが出来て、十秒程度で組み立てられるため、いつも車のトランクに載せていたものだ。
「気をつけなさいよ」と母さんが隆志のあとを追って、玄関へ向かった。
 俺は母さんと隆志の声を聞きながら、味噌汁を啜る。
 実家に帰ってきたんだな。そう実感せずにいられない。
 味噌汁は美味かった。

 部屋に戻って携帯を確認すると、石川からメールが来ていた。
“昨日は返信できなくてすまなかったな。それで、今日の夜の七時半くらいに杉原のところでどうだ? それから杉原も誘って、どこか飲みに行くっていうのは? 杉原には俺から連絡入れておくから”
 杉原というのは、高校のときの同級生だ。下の名前は由香里。俺たちとは妙にウマが合った。というのも、彼女もレディオ・マジックのリスナーだったというのが、大きな理由だ。
 杉原と初めて話した日のことは、今でも不思議と覚えている。まだ五月だというのに、その日はやたらと暑かった。
 石川が朝から俺の席にやって来て、言う。
『なぁ相澤。昨日のチャートはどうだった?』
『駄目だ。なんで“ザリガニボイス”がランク外なんだよ』
『いや、“俺が魔女なら”が一位じゃないのがおかしいんだよ』
『石川は“ザリガニボイス”の良さが分からないのか! あの灼熱の太陽へ深い沼のそこから戦いを挑もうとするかのような――』
『ザリガニは太陽に抱かれて、終わったんだよ。そこ行くと“俺が魔女なら”は違うだろ?』
『ああ。男のくせに魔女になりたい。変態ぶりが良く分かる!』
『それを言ったらお終いだって。いいか――ん?』
 叫ぶのも止めて石川が俺の後ろを見ていた。俺も振り向く。そこには杉原が立っていた。
『相澤君と石川君もレディオ・マジックを聞いてるの? 私もリスナーなんだ』
 彼女の目は、ずっと探し求めていたものを見つけたときのように、大きく開いてキラキラ輝いていた。
 杉原は、女子にはレディオ・マジックのリスナーがいなくて、ちょうど俺たちの話が聞こえたのだと続けた。
 俺と石川は、女子もレディオ・マジックを聞くのか、と驚いていた。別に男臭い番組では全然ないし、女性のリスナーももちろんいたけれど、とにかく、この話題にクラスの女子が入ってきた、というのが意外で仕方なかった。
 それにしても今考えてみれば、かなり濃い会話だった。まぁ類は友を呼ぶというか。
 杉原とはこの日を境に親しくなった。杉原のさばさばした性格もあるだろうが、一番大きかったのは、杉原の家が喫茶店を営んでいたということだろう。放課後、俺と石川は、そこでコーヒー一杯で何時間もだべっていたし、杉原は店の手伝いをしていたけれど、手の空いたときは俺たちに混ざった。レディオ・マジックのことはもちろん、テストのこと、学校の教師のこと、恋愛のことまで、当時はいろんなことを話した。
 待ち合わせが杉原のところというは、ちょうど良い。
“それでいいだろ。よろしく頼む”
 俺はそれだけ短く返信した。
「そうなると、ますますこいつが聞きたい」
 俺は引き出しの中にあるカセットテープを取り出した。
 この中には、俺の青春が詰まっている、なんてちょっと赤面したくなるような言葉が浮かんだ。あながち外れてもいないところが怖い。たかが、ラジオのワンコーナー、されどラジオのワンコーナー。どれだけ俺を笑わせてくれたことか。これのおかげで、俺はその翌日が楽しくなった。石川と杉原と聞き合ったこともある。当時は、幾度となく聞きまくった。テープが伸びないか心配してたら、案の定若干伸びた。レディオ・マジックが終わるとき、俺は泣いた。こんな素晴らしい番組が終わるなんて、何を考えてるんだと、ラジオの前で泣いた。きっと、石川も杉原もラジオの前で同じ気持ちだったに違いない。
“レディオ・マジックは終わってもいい。『ちょっとあぶないポップス』は残してくれ”
 そんなリスナーもいた。俺は盛大に拍手をしたね。俺も同じ気持ちだった。せめて、『ちょっとあぶないポップス』を、と。まぁ、終わる原因が、『ちょっとあぶないポップス』だったわけだけど。
「よし!」
 俺は気合を入れた。こうなれば、ラジカセを探さねばなるまい。
 俺は濃い緑の和紙の貼られた押入れのふすまを睨んだ。
 ふすまを開けると、上の段に使わない布団と、半透明の収納ケース。中を開けると夏服が入っていた。下の段には段ボールの山。この段ボールの山のどこかにあるに違いない。俺は片っ端から出した。
「えーと、これは五月人形か。扇風機? 電気ストーブ――」
 肝心のラジカセの段ボールが見当たらない。押入れの中を半分ほど出して、残りの段ボールも見える。
「というか、ここまで奥に仕舞うわけないし」
 隆志が使った? そう言えば、俺が家を出るときに、『コレ、持っていかないなら、もらってもいい?』とか――
「確かそんなことを聞いてきたな」
 俺は部屋もそのままに、隆志の部屋に向かった。
 昨日と同様、弟の部屋は足の踏み場もないほどに散らかっていた。
「よくもまぁ、こんなところで生活できるもんだ」
 部屋の半分がゴミ箱――思わずそんな言葉が浮かぶ。フリーペーパーやら、大学のテキストやら、プリントやら、文庫本やら。しかもそれらに加えてトレーナー、ジーンズをはじめとする脱ぎ捨てられた服の山……全く、彼女とやらに見せてやりたい。
 とりあえず、中に入る。辛うじてあるような踏み場から踏み場へ、何も触らないようにプリントとテキストの僅かな隙間を、危ういバランスを取りながら、細心の注意を払って、何とか進む。押入れの前に立ったときには、ふーと大きく息が自然と洩れた。押入れを開けると、上の段は俺のところと同じで布団が入っていて、俺は屈んで下の段を覗き込んだ。
「うーん、こっちは酷いな」
 ちょっと触るのがためらわれた。なんというか、部屋が半分ゴミ箱なら、押入れはゴミ箱そのもの。俺の部屋の押入れが段ボール箱に入れることで整頓されているなら、こっちは何でもかんでも片っ端から詰め込んだような、それもゴミ箱からはみ出たゴミをほとんど強引に押し込む感じだ。バトミントンのラケットに、布団乾燥機、ミキサー、コーヒーメーカー、黒のスポーツバッグ、折り曲げられているカーペットと、ごちゃごちゃしている……。
「どうするかな」
 中のものを取り出せたとしても、また入れられるのかこれは? どっちにしても見た感じからすれば、ラジカセはなさそうだ。いや、きっとない。そうに違いない。
 俺は溜め息混じりに、黙って押入れを閉めて立ち上がる。見なかったことにしよう。その代わりに、壁に掛けられている子犬のパズルが目に付いた。百ピースほどのパズルだろう。子犬が伏せてじっと愛くるしい目で俺を見ている。
「やれやれ、一体どこにあるんだよな?」
 パズルの子犬に愚痴ってみた。もちろん返事なんてあるわけが無い。
 振り返って、窓の外へ目を向けたとき、隆志のミニコンポが目に入った。
「おお」
 思わず声が出ていた。
 コンポの中央にカセットが付いていたのだ。今どき、ないぞ。こんなタイプ。絶対カセットからMDへ移行してるときの奴だ。軽く五年は前だ。しかし、今はそんなことは関係ない。
「さすが、俺の弟。こんな素晴らしいものを持っていたとは」
 シルバーメタルのコンポが、窓から入ってくる陽射しに、光り輝いて見える。
「待てよ。MDも付いているということは、カセットからMDへ録音できないか?」
 俺は、思わず右手を強く握りしめていた。劣化するカセットと違って、MDなら保存が利くじゃないか。繰り返し聞いても劣化しない。しかも持って帰れる。とにかくだ。試そう。そうしよう。MDは隆志のを拝借する。空っぽの奴くらい持ってるだろう。文句を言ってきたら、車を貸したことで黙らせればいい。レンタカーよりましだろうと。
 俺は込み上げてくる笑いを抑えながら、自分の部屋に戻った。

     2

『大変長らくお待たせをいたしました。間もなく開演いたします。お部屋でこの番組を聞いている方は、ラジオのボリュームを下げるか、ヘッドホンをしてください。お車を運転中の方は、スピードを下げ、できれば人気のないところでお聞きください。対向車に笑われます。残業中の方は、仕事の邪魔です。今すぐ消しましょう。まさか! まさかいないと思いますが、外で聞いていたりしないでしょうね。今すぐ、ラジオの前から遠ざかってください。離れてください。恥ずかしいです』
 懐かしい赤月の軽快なトークに俺の胸は高鳴り、体は感動で震えていた。
 ドラムの速いビートが、『ちょっとあぶないポップス』お決まりの始まり方だ。そのビートはリスナーの期待を高めるかのように勢いをまし、シンバルやベースが鳴り響く。そして期待も最高潮に達したと思った瞬間に、
『UFO!』
 赤月の言葉に、俺はぶはっと噴出した。
 パ〜パパパヤパヤパパッパ♪ という六十年代を思わせる、怪しい女性のコーラスをバックに、赤月が『ちょっとあぶないポップス』のお決まりの文句を、一気に捲くし立てる。
『大変長らく、お待たせをいたしました。どこの誰が何のために一体いつの時代にこの歌を作って歌ったんだかわからない。はたしてヒットしたのか! していないのか。そんなことはどうでもいい! 何の! 何のインフォメーションもないところに我々は喜びを感じ! 今やこのコーナーを聞いている人は! いないんじゃないかとも思われている! そんなコーナーなんです。
 さあ、野口ディレクター代理記念! 第一回ちょっとあぶないポップス97! ここに来て盛り上がりを感じております。うちの野口、ディレクター武田のようにいろんなサウンドエフェクト効果を出す余裕がございません。今奴の中では、このテーマを流すだけで、手に汗にぎり、ええ手に汗をにぎり、心臓バックンバックンみたいな状況でお送りしております。さあ、ちょっとあぶないポップス97、実はここに来まして、いろんなメッセージが来てるんですが――』
 これだ。このノリがたまらない。俺は弟のベッドの上で、どこかに置き忘れていた、抑えてもじわじわと湧き上がってくるエネルギーというか、妙なテンションが全身に染み渡り、興奮のあまり身もだえていた。
『“なぁ、赤月。一度ちょっとあぶないポップス・ベストテンをやってみてはどうだろう?”
 こういうメッセージが……四通来たんですけれどもね。この一週間でね。さぁそれでは、気になるチャートを、ええ今日は、気なるチャートをご紹介いたしましょう。ちょっとあぶないポップス97! 気になるチャート。残念ながら、今週最下位の第二位の発表です!』
“ようこそっ♪ 太陽の上〜に♪”
 沼の底から聞こえてくるようなガラガラと汚い声とともに、デュワンデュワンというあやしいとしか言えない、説得力のないコーラスがスピーカーから響いてくる。
『ゴッドオブザリガニボイス、ジョン八城で「太陽の上で」。「太陽の上で」って、普通太陽の下だろう。上に行ってどうする。やめととけ。残念ながらチャートの最下位、二位になってしまいましたが、たくさんのメッセージが来てます。
 新潟県に住んでいるエー子。
“私は朝が弱いので、この曲が手に入ったら、おはようタイマーにして、ザリガニボイスとともに朝を迎えたいと思います”
 福岡県に住んでいるラジオネーム、ボンボロロン。
“大学の受験中突然眠くなり、ふと心に隙が出来たその瞬間、『太陽の上〜に♪』この歌が蘇りました。なんで! なんで、思い出してしまったんでしょう。高校三年間の授業内容は全て吹っ飛び、残り三科目、計二百分、私の頭の中はこの曲がリフレインされてしまいました。合格通知の代わりにステッカーください”
 ジョン八城で「太陽の上で」が今週二位でございました。さあ! 気になる今週の一位は!』
“浩次ぃぃぃぃ♪ 父親と母親が離婚したのは、俺が、俺が十二のときだった”
 切れのあるエレキギターの音とともに流れてくる演歌ナンバー。
『禁断のティーンネイジャー、新井信二で、「浩次」。
 高知県に住んでいるペンネーム高知。
“「浩次」はたまりません。なめらかに日本の感情を歌い上げるのびやかで、それでいて哀愁に満ちた声。胸に来るものがあります”
 なるほど。
 岐阜県に住んでいる、ペンネーム。ナイキのエアー浩次。
“「浩次」は今私のなかで大ヒットしています。流行に敏感なあたしのつぼにはまってしまいました。今、スティービー・ワンダーの曲と同じくらい好きになってしまいました”
 多分この人、何か勘違いしてます。絶対勘違いしてます。
 このように困ったリスナーが、一人二人と、ここ最近増えてきているわけですけども……今、気づきました。何か恥ずかしいです、今日。
 さあ、ということで、チャートをご紹介しました。あ、このチャートですね、まだちょっとあぶないポップス97チャート、始まって第一回目なんで、エントリー曲がすいません、二曲しかありません。ですから、一位と二位、すでにベストスリー独占してます。いいですね、いいですね。禁断のティーンネイジャー新井信二の「浩次」が今週第一位、二位はゴッドオブザリガニボイス、ジョン八城で「太陽の上で」ということなんですけども。
 これ大体ね、チャートの決め方ですけど、リスナーからの葉書、全部集計を取ってるんですよ。楽ですよ、コレ。全部で四枚、五枚の世界ですから。ええ。差が出たとしても。ほんのちょっとしかございません。一枚か二枚。非常に楽なチャート作りなんですけどもね。ええ。
 さて、今日お送りする曲なんですけど。ええ今日また新曲。オンエアー解禁です。解禁たって、もういつか、昔に流れていたかもしれないんですけど。
 我々ちょっとあぶないポップス委員会の中で、一人GSというカテゴリーがあります。この一人GS、どういうことかといいますと、まず演奏と合っていない。演奏と一体化してはいけない。自分一人だけが、勢いに乗っているという。弾丸ボイス、弾丸グループ・サウンズ。グループ・サウンズなんだけど、一人しかいない。これを一人GSと呼んでいるんですが、今日お送りするのは、早乙女竜也。曲のタイトルは、「ハートを乱れ撃ち」。ね、あの子のハートもその子もハートも乱れ撃ちだよ。どういった表現をするのか? 簡単なんです。撃つんです。バン、バン。撃ってくれるんです。それと、今回違います。一人GSに、なんと! それを応援する、お友達がいるんです。お友達がいます。ええ、この早乙女竜也を応援しているお友達が、すぐ隣についてくれてます。どこで出てくるでしょう? お送りします。初登場。今日オンエアー解禁。さあこの曲が来週、一位になるのか、二位になるのか、三位になるのか。早乙女竜也で「ハートを乱れ撃ち」』
 エレキとドラムによるロック調のイントロが始まる。赤月も『イントロがいいね、イントロが』とバックで合いの手を入れる。俺もノリノリだったりする。
『来るよ』
“貴方のハートをプリーズ♪ この僕だけにプリーズ♪ 冷たいハートを真っ赤に燃やして抱いてみたいぜ(オー!)
『お、友達がいた!』
 懐かしさとおかしさで、もう駄目。目の端から涙が。
 スピーカーから有馬竜之介のお友達が、熱く歌う有馬のすぐ隣で、「あー、あー」と応援する。よく聞かないとわからないのがミソだ。
“恋も涙も知らない貴方を抱いてみたいぜ♪”
『いいです。熱い男です。合ってません』
“バン! バン!”
『撃った!』
“ハートを乱れ撃ちー♪ 当たらないのさ♪“
『撃つぞ!』
“バン! バン! バンバンバンバン!
 あの子のハートも その子のハートも(あ〜あ〜あ〜)俺が 俺が 俺がもらったぜー♪(あぁぁ〜!)”
『お友達が応援してるぞ、横で。感じやすい友達がね。あ〜。撃つのがいいよね。バンバンバンです。そこだけ、そこだけ冷静になるっていうのが私、好きなんです。この友達もこの早乙女さん好きなのかなぁ?』
 すでに俺のハートは、この『ちょっとあぶないポップス』に撃ち抜かれて、ぼろぼろなわけで――ラジオを聞いていたころの古き良き思い出が蘇ってくる。このラジオを聞きながら、俺は受験勉強をしていた。まさに一服の清涼剤。受験勉強に疲れた俺の心の琴線をくすぐる。気がつけば、抜け出せないあり地獄のように、はまっていた。
 きっと未だに、この『ちょっとあぶないポップス』を忘れられないリスナーは多くいる。
 会社で残業をしていたビジネスマンもリスナーだった。学生もいた。タクシーやトラックの運ちゃんもいた。
『初登場でお送りしました。早乙女竜也で、「ハートを乱れ撃ち」。まぁ、一人で、あのマスターベーション的に歌うんですけども、今回は、一人お友達が応援してくれているという。頑張れ、お前一人じゃないんだ。応援の仕方が素晴らしいです。「あ、あ、あ〜」それだけなんですねぇ。しかも、隣で感じてくれているという。あとやっぱ、ハートを撃つ、方法がいいですね。バン、バン、バン。もうねぇ、あはははは。何の脈絡があるんでしょうか? あの子のハートを手に入れるために、考えた挙句の果てで、方法が連射。友達は流れ玉が当たって、感じてるんじゃねぇか的な、この、このネタなのがいいでしょう。
 さあ、来週の気になるチャートは、「太陽の上〜で♪」か「浩次〜♪」か、それか、この「ハートを乱れ撃ち」になるか。気になるところでございます』
 テープはその次の週へ続く。俺は笑いながら当時を思い出していた。

     3

 秋の沈もうとするを浴びて、俺は三角形の自転車『ストライダ』を漕ぐ。川沿いの赤レンガの敷かれた歩道をのんびり進む。ちょっと早く行って、杉原のところのコーヒーを飲むつもりだ。
 杉原の親父さんの経営する喫茶店『コンパス』のコーヒーは、一級品で、他のところのコーヒーとは段違いだ。もっとも、そのことに気がついたのは地元を離れてからだった。大学生時代、仲間と適当に入った喫茶店のコーヒーは、色も味も香りも泥のようだった。そのとき、杉原の親父さんの偉大さがよく分かった。別にどこの喫茶店でも泥のようなコーヒーだったわけでないけど、やっぱり『コンパス』に比べると、レベルが劣っていた。
 川が太陽の光を反射して、水面が揺れるたび、ちかちかと目を突き刺してくる。右手に広がる河川敷を見おろすと、秋だというのに未だに雑草が青々と茂って、飼い犬を走らせるにはもってこいだ。左手には国道が通っている。市街地へ続くこの道は、時間帯によっては渋滞してしまう。
 この歩道に桜が等間隔に植えてある。今はどの木の、どの枝にもほとんど葉はついていないけれど、春には綺麗な景観を見せてくれる。
 ウォーキングしている中年夫婦を追い抜いていく。スーツ姿の中年も過ぎたような男性が、桜の下にあるベンチに座って雑誌を読んでいた。リストラにでもあったのか、なんて思わず想像してしまう。前から学ラン姿の高校生の集団が見える。俺が通っていた高校の生徒だ。変わらない。俺も皆と、時には一人でこの道を帰った。
 こうしてみると、今もここは通学していた風景そのままで、それが何か嬉しい。実家の周辺は昔の名残さえ残すことなく変わってしまって、寂しさの代わりに便利になった。一方、ここは変わらないことで、ほっと落ち着かせてくれる。変わらない場所がある。見慣れた景色あるというだけなのに――。
 俺はペダルを漕ぐ足に力を込めて、さらに加速した。
 あの頃、どんなことを話していたっけ? すれ違う高校生を横目に、ふと自分の高校生時代を思い返す。
 ゲーム好きな奴は、次世代機がどうとかと、セガ派とプレステ派で分かれていた。ポリゴンがどうも肌に合わない奴に、セガ派が多かった気がする。結局、スクエアがプレステに参入して、一気にプレステに流れて……それでも、何だかんだで、二つとも持ってる奴がいるんだから、金があるというか、何と言うか……。でも当時の俺は金が無くて、持ってなかった。今ならそう、大したことじゃないけど、周りが羨ましいっていうのがあったな。あ、任天堂も出してたよな。ノーチェックだったけど。プレステも、今じゃスリーが出るとか言われるし、スクエアとエニックスが合併するんだから、当時は想像もつかない話だ。プレステしか知らない今の子どもに、ファミコンをさせてみたい。時代を知れ、ってことで……。
 そういえば、カラオケにはよく行っていた。今はあんまり行かないけど。当時はビジュアル系の最盛期で、そんなのばっか歌ってた。あとインディースに詳しい奴がいて、そいつにコレはいいよ、聞かされて好きになったバンドもある。ライブにも行ったくらいだ。だいたいメジャーデビューしたけど、一年ほどで解散したり、契約切れでインディースに戻ったり――俺が好きになったバンドで生き残ってるのは、一つだけ。ビジュアル系というのが、一時の流行だったんだろう。別に曲が悪かったわけでもないと思うし、プローモーションが問題だったんじゃないか? 俺が考えても分かるはずがないけど、何となく寂しい。再結成とか……望み薄いよな。
 でも、高校の頃って、ゲームと音楽だけ? 勉強もそれなりにしてたけど……他には――。
 橋の袂の赤信号で止まる。目の前を何台もの車が通り過ぎていく。向い側には信号待ちの女子高校生の姿が何人か見えた。
 そう言えば、昼休みにマージャンしてた。クラスメイトがゆっくり昼食を取っている横で、机を向かい合わせて、ジャラジャラ。とくに女子の視線が痛かった。金を賭けることはなかったし、何より点数計算を誰もできない辺りが、高校生だった。結局、一ヶ月後くらいに、化学の教師に見つかって牌を没収された。俺は、「賭け事はしてません。ボードゲームです」と、無駄な子どもじみた主張をしたのを覚えている。何だかんだで担任とその化学教師がそこで話を止めてくれたから、お咎めなしで済んだけど、体育教師が見つけてたら、考えるだけでも恐ろしい。
「ろくなことしてないな。でも、楽しかった」
 信号が青に変わる。ペダルに力を込めて、橋の袂を一気に下る。歩行者を右に、左に避けて、ぐんぐん進んでいく。川向こうにあるビルの隣で、秋の空が紅く焼かれている。白い雲も紅く染まる。真上を見上げると、その空はまだまだ青く、雲は白い。きっと暗くなるまでには、『コンパス』へ着くだろう。
 景色がゆっくりと流れていく。車に乗るようになってからは、忘れていた感覚だ。前から吹いてくる風が少しばかり肌寒いけれど、それが心地良い。車に乗っていると、歩行者とか渋滞にイライラすることの方が多い。全く、いつからせかせかと生活するようになったんだろう? たまには自転車も悪くない。
 俺は無性に叫びたくなった。笑いたくなった。風が、ただ気持ち良かった。
 紅く焼かれていく空の下を進んだ。

 市街地の外れ、といえば外れなんだけど、実際は市街地とはとても言えそうもないところに『コンパス』はある。というのも、ここ一帯は閑静な住宅街で市街地の賑やかさとは無縁だけれど、十分も歩けばアーケード街に着いてしまう。俺の通っていた高校も、この近くにあって、『コンパス』は俺たちの丁度いい溜まり場だった。
 俺は自転車を『コンパス』の入り口の脇に、邪魔にならないように停める。レンガを適当に埋め込んだ『コンパス』のクリーム色の壁も塀からはみ出た植木の緑も、薄い青紫の闇に溶けていた。そんな薄闇を『コンパス』の大きな窓からほんのりと洩れる明かりが照らしていた。
 石畳を通って、俺は『コンパス』の白い扉を開けた。久しぶりに来るせいか、どことなく緊張している自分に気がつく。
「いらっしゃいませ」
 杉原が銀色に輝くトレイを手に明るく振り返ると同時に、俺の顔を見て驚きの声を上げる。
「相澤君!」
「久しぶり」
 俺は軽く手を上げた。でも、思うように笑えなかった。
「こんばんは」
 カウンターの中からマスター、つまり杉原の父さんが、どこか嬉しそうな表情を浮かべる。
「ご無沙汰してます」
 俺は会釈をして、誰も座っていないカウンター席に座った。
「五年ぶりだっけ?」
 杉原が俺の横に立って、お冷を置きながら首を傾げた。
「成人式以来じゃないか?」
「あ、そうだっけ?」
「あんまり帰ってこなかったからな。どっちでもいいよ」
 杉原とは、地元を離れてからもしばらくはメールや電話で連絡を取っていた。けれど、それも大学生活に慣れ始めると減っていき、いつしかなくなった。こうして久しぶりに面と向かうと、昔のように「杉原」と呼ぶのがためらわれた。今、目の前にいる杉原は、俺の記憶の中にある杉原とは、やはり違っていた。簡単に言えば、大人らしい落ち着いた魅力があったし、それが成長していない自分と照らし合わされて、流れた月日がずっしり重くのしかかる。俺は一体、何をしていたのだろう。だからといって、「杉原さん」とも呼べるわけもない。
「それにしても早かったね? 約束は七時じゃなかった?」
「せっかく帰ってきたんだから、おじさんのコーヒーが飲みたくなってさ」
 おじさんが「嬉しいこと言ってくれるね」と笑う。
「それだったら――」
 杉原がにっこり笑顔を作る。
「私が淹れようか?」
「はぁ? 俺は『コーヒー』を飲みに来たんだけど」
 豆の質にもよるが、コーヒーは淹れる人間の技術で、味が変わる。こっちは金を払うんだから、杉原が淹れたコーヒーもどきなんかじゃなくて、おじさんが淹れるコーヒーが飲みたいんだ。高校の時に飲んだ杉原の淹れたコーヒーの味が蘇る。
「いいじゃない?」
「おじさんの淹れたコーヒーを楽しみにきたんだよ」
「私が淹れたのは?」
「同じ金額を払うなら、マスターが淹れたのを選ぶよ」
 そう言うと杉原は悔しそうに、頬を膨らませてみせる。この辺は変わってないんだなと、少し懐かしくなる。
 天井の白熱灯が白い壁と白い椅子の表情を変え、肌色のカウンターの木目も鮮やかに照らす。店内に目を向ければ、その光は透明のガラステーブルを突き抜けて、こげ茶色の床まで届いていた。
 店内には一人で座っている若い男性客が数人とカップルが二組いた。すっかり陽の落ちたガーデンテラスでは、ちょうど三人組の女性客が立ち上がる。それを確認して杉原が、入り口横のレジへ立つ。
「新しいブレンドを試してるんだけど、飲んでみるかい? ついさっき淹れたんだけど」
 懐かしく店内を見渡していた俺に、おじさんが声を掛ける。
「あ、頂きます」
 そう反射的に答えると、おじさんはすぐに縦に青のシャープなラインの入った白いカップを出して、コーヒーを注いでくれた。
「ありがとうございます」
 カップを口に運ぶとふわっと、コーヒーが香る。チョコビスケットやトーストが混ざった、そんな香りがした。口に含むと、丸い酸味が口の中に広がり、喉の奥で軽い苦味を感じる。最後にコーヒー豆の味がほのかに残る。
 俺は感嘆混じりの息を吐きながら、カップをソーサーの上に置く。
「どうだい」
「いいですね。酸味と苦味はこのくらいのバランスが好きですね。すっきりして飲みやすいです。もう少しコクがあっても良いかも」
「なるほどね」
 俺の答えに、おじさんは満足そうに頷いた。
「何をブレンドしたんですか?」
「そんなことは、由香里に聞いてくれ」
「はぁ?」
「それは由香里のオリジナルだし、淹れたのも由香里だ」
 言葉を出したくても、出なかった。
「そんなに驚くことかい?」
「いや、だって……」
「由香里には俺が教えたからな。これくらいは出来て当たり前なんだよ」
「ああ。なるほど」
 それなら合点がいく。俺も高校生のときに、おじさんから多少なりのコーヒーのレクチャーを受けたことがある。淹れ方とか味わい方とかを簡単に分かりやすく説明してくれた。そんなマスター直伝だとすれば、杉原のこの味も頷ける。高校の頃に飲んだ味は、見事に消し飛んでいた。
 杉原がレジを終えて、カウンターの中へ戻ってきる。
「杉原、もらったよ」
 そう言って、また一口飲む。
「どうだった?」
 杉原が得意げに聞いてきた。
「美味かったよ。何を混ぜたんだ?」
「それは秘密よ。教えたらつまらないじゃない」
「それはそうだけど」
 さっきの仕返しだろうか。満足げに笑う杉原を見て、高校時代そのままに、さっきまで感じていた隔絶が、跡形も無く消えていることに気がつく。
「お父さんにだって教えてないわよ。でもお父さんは、ロースト具合もブレンドも比率も、グラインドまでお見通しみたいだけど」
 さすが、おじさん。マスターは伊達じゃない。ちらりとおじさんを見ると、笑っていた。
「メニューに追加するんですか?」
「考え中だよ。ブレンドは、店の味だからね。おいそれと追加はできないよ」
 なるほど、よく分かる。ブレンドには、ストレートでは出せない味がある。なんでもただ混ぜるのではなくて、それはコーヒーの新たな味を作り出す。他ではなく、ここに来なければ飲めない、そういうものでなければならない。唯一無二の味、だからオリジナル――全部おじさんの受け売りだったりする。
「相澤君からも頼んでくれない? 私が言っても聞いてくれないのよ」
「なんで俺が?」
「客の意見は絶対でしょう」
「そうは言ってもな。おじさんのブレンドと比べると、今ひとつ」
「それを言われると……」
 止めを刺されたのか、杉原は黙ってしまった。
「というわけで、注文はブレンドで」
「そう言うと思って、もう淹れているよ」
 読まれてる。おじさんの返しに俺は恥ずかしくて、笑った。
「由香里のは、しばらく試飲してもらって、反応を見るよ」
「はい」
 おじさんの言葉に杉原が渋々頷いた。
「相澤君は、今何してるの?」
 杉原が聞いてきた。
「フ、フリーターだけど」
 一瞬だけ言葉に詰まった。自分で言いながら、言葉が胸に突き刺さる。歯を食いしばる。
「相澤君が?」
「何? 意外?」
「意外は意外だけど、そこまで不思議にも思わない」
「なんだそれ? 意味わかんねーよ」
 そこでおじさんが黙って、カップを出してくれた。俺はそれを受け取りながら頭を下げる。
「相澤君らしいってことかな」
 こいつの頭の中の俺は一体どうなってるんだ? どうも納得がいかない。どう言えばいいのか分からない。すっきりしない居心地の悪さだけがある。
「俺らしいって?」
 杉原が少し考えてから言った。
「高校のときは、誰とでも仲が良かったのに、本当に親しい友達は石川君くらいで、他にはいなかったでしょう?」
「まあ、な」
 口の中にかすかに残ったコーヒーが、唾液と混ざって舌を刺激する。
「そういうのは、周りに流されてなくて、しっかり自分を持ってるってことなんだと思うけど……」
「何が言いたいんだ?」
 イライラした。杉原の目は言葉を探して、どこか別のところを見ていた。
「何ていうか、相澤君は何がしたいのかって、よく見えないから」
 お前もそういうことを言うのか?
「そういう杉本はどうなんだよ?」
 思わずそう、ついて出た。
「私はお店があるから」
 杉原がにっこり笑う。その笑顔が胸に、何故かぐさりと痛む。
「そうだったな」
 楽でいいな、と一瞬出そうになったが、それだけはどうにか飲み込んだ。
 杉原は大学進学しなかった。『コンパス』を手伝うのだと、その当時から言っていた。国公立でも有名私立でも、大抵のところには行けるだけの学力を持っていたのに、だ。担任からも進学を勧められていたが、杉原は頑として意思を曲げなかった。一度だけ、本当に進学しないのかと聞いたら、
『行くなら、調理師の専門学校がいいな』
 笑ってそう言っていた。
 道ってのはある奴にはある。無い奴には無い。そんなものかもしれない。選択肢なんて、そんなものは多分ない。最初から、誰にも――。そう思っていた。なのに、それなのに、この差は、その結果なんだろう? 杉原は自分で歩むべき道を選んだのかもしれない。そうだとすると俺の前にある道とは一体なんだろう……。俺の前にある道とは一体……。
 杉原を見ると、おじさんとなにやら話していた。その表情は生き生きとして、俺には眩しかった。
 杉原はあのとき、店を手伝うと決心したとき、何を見て、何を感じていたのだろう? 杉原のブレンドを一気に飲む。美味かった。高校を卒業してもうすぐ六年――一体何をしてたんだ、俺は? 何がしたかったのだろう?
「すごいよな」
 杉原を見ていたら、そうこぼれた。
「何が?」
 杉原がカウンターに身を乗り出して、聞いてくる。
「いや、なんでもない」
 それを口にしたら、余計に惨めになるようで――おじさんのブレンドを飲む。それでも、やっぱりこっちの方が好きだった。
 紺のスーツ姿の石川が来たのは、それから間もなくのことだった。

     4

 市街地にある居酒屋『眩』の入り口に俺たちはいた。魚が美味いのだと、石川が言っていた。
 明るい店内は、客でごった返していた。店員がひっきりなしに、声を上げ、狭い通路を走るように動く。
「予約でもすればよかったな」
 石川がぼやいた。
「土曜だ。どこも似たようなもんだしな」
 俺もぼやいた。俺の自転車を駐輪場に停めに行った時間が、少し惜しかった。
「大変そう」
 同じような仕事をしているせいか、店員の忙しさに杉原は目を見開いて驚いていた。それにあまりこういうところに来ることもないのだろう。
 入り口で待って早十分が経とうとしていたとき、店員がようやくテーブル席に案内してくれた。
 石川と杉原が並んで座り、俺は石川の正面に座る。
「とりあえず、ビールでいいか?」
「ああ、頼む」
 杉原も頷く。石川が案内のついでとばかりに生ビールを三杯注文する。
「ようやく落ち着いたな」
 俺はふーと一息吐いた。
「ここにはよく来るのか?」
「たまにな。仕事帰りに上司とな。まぁこんな早い時間帯は初めてだけど」
 石川がスーツのネクタイを緩めながら言う。杉原は早速とばかりメニューに手を伸ばす。
「塾講師というのも大変みたいだな」
「授業はそこまで大変ってことはないんだけどさ、今はどっちかというと保護者対応とかの方が難しいな。塾に通わせたら、すぐに成績が上がるって、勘違いしてるのがたまにいて」
 疲れたように石川が言う。そこで店員がお通しと、ジョッキに注がれた生ビールを持ってくる。
「そうか。親の対応も仕事だよな。でも、そういうこともするってことは、それなりに仕事を任せられてるってことだろう」
「まぁな」
 石川の表情が嬉しそうに少し緩む。
「まぁ、それはさておいて、だ」
 石川がジョッキを持ち上げる。それにつられて、俺も杉原もジョッキを持ち上げる。
「とにかく、相澤、お帰り」
「お帰り」
「ただいま」
 石川の音頭はちょっと恥ずかしかったけど、心地良いい。俺たちはジョッキをコツンと合わせて、軽く一口飲む。ビールの苦味が喉を気持ちよく刺激する。
「美味い」
 思わずそう洩れた。
「ねえ、何注文しようか?」
 メニューを見ていた杉原が聞いてきた。
「そうだな」
 石川が杉原に体を寄せてメニューを覗く。杉原も石川に肩を寄せて、一緒にメニューを見せた。俺も壁際に備え付けられているもう一つのメニューを手に取った。
「結構いろいろあるんだな」
 思いのほか、メニューは充実している。サラダに、つまみ、焼き物、揚げ物、煮物、ご飯と、旬のお勧めまで。
「何でも結構美味しいから、好きなものを適当に頼んだらいい」
 杉原と一緒にメニューを覗いていた石川がそう言ったけれど、俺に言ったのか、杉原に言ったのか判断がつかない。とりあえずということで、俺たちは店員を呼んでサラダ、刺身の盛り合わせ、揚げ物とかを思い思いに注文した。
「それで、何を教えてるんだ?」
 お通しの枝豆を食べながら、ビールをゴクゴクと飲んでいる石川に尋ねる。
「小学生から高校生までいるからな。俺のメインは高校の数学。たまに中学生も見るな」
 そう言われて、高校数学を思い出す。サイン、コサイン、タンジェント、微分積分。言葉は出てきても、どんな計算をしていたかなんてまるっきり出てこなくて、思わず自嘲する。
「そこらへんは、もうすっかり忘れてるな。あとは社会とか理科は絶対無理。記憶に残ってない」
 俺が横に首を振ると、石川は「仕方ねぇって」と苦笑した。
「それにしても、俺らが高校の時って、遊んでばっかりだったな」
 石川が懐かしそうに言う。
「教室でマージャンやってたよな」
 俺は思わず笑っていた。
「私からすれば、信じられないけど。昼休みにジャラジャラうるさかったし、何で見つかってもお咎めなしだったの?」
「俺たちが、教師のお気に入りだったからかもな」
 石川がそう言って、さらにビールを飲んだ。もう酔ってないか?
「たちって、石川はそうかもしれないけど、俺は違うだろう」
「そうよね。相澤君は学校サボってたよね。とくにテスト前」
「そのくせ、お前の成績は良かった」
 何か、二人して絡まれてないか? 酔うにはまだ早い。って、いつの間にか石川のジョッキにビールが殆ど残ってない。
「一度も俺はお前を抜けなかった」
 石川が残りのビールをあおる。
「まぁ、そうひがむなよ」
「器用なんだよ、相澤は」
「本当に器用なら、今ごろ就職してる」
「まぁ、それはそうだな」
 石川が苦笑を浮かべた。俺は自分で言っておいて、チクッと痛かった。
「あ、それで、報告があるんだ」
 突然、石川がかしこまった。背筋を伸ばして、両手を膝の上に置いている。
「一体、何だ?」
「えーと、な……」
 石川の視線が泳ぐ。杉原は恥ずかしそうな笑みを浮かべている。
「だから何なんだよ?」
 自分だけ何も知らない。仲間外れのようで、気持ち悪い。
「俺たちな」
 石川はそこで一呼吸置いた。
「結婚することにしたんだ」
 俺は一瞬、その一瞬で何を言われたかは理解できた。けれど、何が起こっているのかは、分からなかった。俺だけ世界が切り離されたようで、居酒屋の喧騒がどこか遠くに聞こえた。
「驚いたか?」
「ああ。驚いた」
 それだけしか返せなかった。
 二人が付き合っていたことは知っていた。でも結婚なんて、縁遠いものだと思っていた。ずっと先のことだと思っていた。けれど、俺たちはもう二十四だ。
「そうか、結婚するのか」
 自分の言い聞かせるように言葉を吐き出す。なぜだろう? 置いていかれている気がした。
「おめでとう」
 俺は笑ってみせた。二人の前で上手く笑えただろうか? 自信がなかった。
「何年付き合ったんだっけ?」
 言葉が他に見つからなくて、苦し紛れに俺は適当に浮かんだ話題を振っていた。
「どれくらいだったっけ?」
 石川が杉原と顔を合わせて、考え込む。互いに照れくさそうに微笑んでいて――自分の時間だけが止まっていたことに、いきなり気が付く。俺は何も変わっていないじゃないか。目の前の二人が確実に前へ進んでいるというのに――。
「高校のときからだから、六年くらいか?」
 石川が杉原と見合う。
 他の同級生と同じように入学と卒業を繰り返してきた。俺も同じように、みんなと同じように生きていくのだと思っていた。時間は誰にも等しくあるから――。
「七年と四ヶ月よ」
 杉原が石川を睨んでいた。
 だけど、俺はもう二十四で、二人と同じ二十四で――。
「もうそんなになるのか。それだけ付き合っているなら、時期的には丁度いいかもな」
 混んでいるせいからだろう。料理が出てくるのはやたらと遅い。
「式は全然決まってないんだけどね」
「でもこいつ、イメージだけはあるみたいなんだよ」
 そう微笑み合える杉原と石川が輝いて見えた。
 俺は何をしてるんだろうな、本当に……。話を聞きながら、心だけどこか別のところにあるようで落ち着かない。
 二人は結婚式やら将来設計やらを延々と話して聞かせてくれたが、頭に入ってくることは無かった。生き生きとしている二人を前にして、俺はここから逃げ出したかった。
「アパートも、もう見つけてあるんだ」
 石川が笑う。
「この近くで、今みたいにお父さんを手伝えるの」
「それだけは絶対外せないって、こいつうるさくてさ」
「そりゃ良かったな。いい所があって。どんな部屋なんだ?」
 俺は適当に相槌を打ちながら、ビールを飲んだ。苦かった。
 ただひたすら、「お前はどうするんだ?」と聞かれないことを祈っていた。そんなことを聞かれても、今の俺には答えられることなどない。将来のことなんて何も無かった。考えても出てこない。きっと適当にごまかして、ただ惨めになるだけで――。

「何かあったか?」
 杉原が席を外したのを見計らったように、石川がいきなり聞いてきた。俺たちは注文した料理もあらかた食べ尽くして、残った刺身やら揚げ物を肴につまんでいた。
 俺が「何も」と言おうとしたら、
「といってもお前のことだから、言うことがあるなら、もう言ってるか」
 石川が申し訳なさそうな顔を浮かべて続ける。
「何か俺たちのことばっか話して、悪かったな」
「気にすんなよ」
 石川なりに気を遣ってくれていたことが、心底嬉しかった。固くなっていた心が、すっとほどけて、楽になっていくのが分かる。けれど、この心の奥底にあるしこりのようなものが取れるわけでもない。
「相澤には、俺たちのことを面と向かって、ちゃんと言っておきたかったんだ。メールとかじゃなくてさ」
 俺は大きく頷く。石川らしいな。石川には、昔からそういう固いというか、簡単に済ませないところがあった。恩とかけじめとか、そういうのを大事にしていた。
「相澤も何かあったら、教えてくれよな」
「ああ」
 石川が笑う。俺は心が軽くなった気がした。
「ただいま」
 杉原が戻ってきた。
「お帰り。それじゃそろそろお開きにするか。もう十一時前だしな」
 石川が腕時計で時間を確認しながら言った。
「そうだな」
 俺は少しだけ寂しかった。
「今日は楽しかったよ」
 素直にそう言えた。けれど、この二人を前にすると、それもどこか寂しい。
「私も楽しかった。相澤君はいつまでこっちにいるの?」
 杉原が聞いてきた。
「一週間は休みを取ったから、最低でも五日はいるかな」
「そっか。今度はいつ帰ってくるの?」
「さあ? 特に決めてないし。案外、石川と杉原の結婚式のときかもな」
 そう言ったら、杉原と石川がはにかんだ。似た者同士、お似合いだと、高校時代とその印象は変わることなく、そう思えた。
『お前と杉原なら、上手く行くだろう? 似た者同士なんだから。あんまり考えすぎると失敗するって』
 七年以上前、杉原と付き合いだして日の浅かった石川の相談に、俺はそう答えた。こいつらの結婚生活ならきっと幸せに違いない。
 俺たちは席を立って、レジに向かう。落ち着いていた客の入りも、飲み足りない二次会に来た連中が入店してくる。店員の忙しさに大きな変化はなさそうで、まだまだせわしなく動いていた。
「石川、いくら?」
 割り勘のつもりで、俺は財布を取り出しながら聞いた。
「いいって、ここは俺が出すから」
 俺は反射的に「いいのか?」と言おうとしていたのを飲み込む。一昔前なら、間違いなくこんなありがたい申し出を断るなんてなかった。けれど、たとえ石川であっても、それは――。いや、石川だからか。
「そう言うなよ。自分の分くらい払うさ」
 俺は財布から一万円札を取り出す。
「いいって、いいって」
 石川が遠慮する。
「俺だって別に金がないわけじゃないんだから、素直に受け取れよ。というか、結婚するんだろう? だったらもらえよ」
 諭吉を押し付けるが、石川はそれでも受け取らない。やたらと困った顔をしていた。
「変な気を遣わなくたっていいんだって。いいから受け取れよ」
 チリチリと頭の奥で何が込み上げてくる。それを必死で抑えこむ。
「相澤だって、結婚するからって――」
 石川が反論してきたところで、杉原が石川の持つ伝票を掠め取る。
「割り勘でいいじゃない? 店員さんも困ってるみたいだし」
 いつやってきたのか、女性店員が困った顔を浮かべていた。
「一人五千円ね。私が払うから、あとで払ってよね」
 杉原が伝票を店員に渡しながら、「どうもすいません」と謝る。俺と石川は顔を見合わせて、照れくさくて笑った。心の奥がどこか痒くてしかたなかった。
 居酒屋『眩』を出ると、外は白色灯の下を家路を急ぐ人で溢れていた。居酒屋やバーが連なる目の前の通りは、客待ちのタクシーがこれでもかと言うほど並んでいて、邪魔と言うほかない。頬に当たる風が、アルコールで火照った顔に気持ち良い。
 俺は出していた諭吉を財布に戻して、代わりに樋口を取り出して、杉原に「ほら」と渡す。
「二人ともプライドがあるのもいいけど、取るに足らないプライドならドブに捨てた方がましなのよ」
 杉原が五千円を受け取りながら言った。なんだか、学級委員がクラスの悪ガキに言って聞かせているような、そんな感じで、俺は苦笑いを浮かべるしかなくて、石川は財布の中に指を入れて固まっていた。そんな石川と目が合う。一気に可笑しさが込み上げてくる。こらえようとしても、無理で俺たちは殆ど同時に吹き出した。
「ハハハハッ」
 道行く人が笑っている俺たちを訝しそうに見ていく。
「なんか、コレを聞くために帰ってきた気がする」
「どうしたの、突然?」
 杉原がきょとんとした。
「いいんだって。ほら」
 石川が五千円を杉原に渡す。
「だから、何なの? 何か変なこと言った?」
 杉原が俺と石川を交互に見る。
「何か可笑しいんだよな、相澤」
 石川がポンポンと俺の肩を叩く。俺は首を縦に振って、何度も頷く。
「そうそう。何ていうかさ、懐かしんだよ」
「だろ? 俺も俺も」
 お互いの顔を指で指しながら俺たちは笑った。
「意味がわかんないんだけど……」
「なんか高校のときっぽかったんだよな」
 歩きながら石川が言った。
「そうそう。杉原が俺たちに何か小言言うのって、もの凄く懐かしい」
「なんか納得がいかないんだけど……」
 杉原がむくれた。
 そう確かに、杉原の言う通りだ。俺たちのちゃちなプライドだった。それこそドブに捨てた方がいい。でも、そういうのが大事なんだよ。こういうのは。小さいことだけど、ずっと忘れてた。
「そういや、高校のときって言えば、実家で『ちょっとあぶないポップス』のテープを見つけた」
「『ちょっとあぶないポップス』かぁ。懐かしいな」
「ほんとよね」
「だろ? 『ちょっとあぶないポップス』と言えば、やっぱゴッドオブザリガニボイスだろ?」
「いや、あれだけ盛り上がった『浩次』も忘れちゃいけない。『浩次』を流す、流さないって、あのバトルを」
「そうだな。他にも『魔女野郎』とか『ホーム・オーシャンズ』なんかも笑えたよな」
「赤月さんのツッコミが絶妙だったねぇ。また復活しないかな」
「あー懐かしいな。また聞きたくなったじゃねぇか。そう言えば知ってるか? カラオケで『スナッキー』が歌えるとこがあるんだ」
 石川が得意げだった。
「マジか?」
「嘘だぁ」
「いやほんとだって」
 高校のとき、そのままの俺たちがそこにいた。くだらないことで笑えた。同じものが好きだった。ふいに出た杉原の一言で俺たちは確かに、昔に、あの頃に戻っていた。
 オレンジの街灯と店から洩れる白い明かりの中で、空を見上げると、深い、けれどどこから淡い闇の中に半月が銀色に浮いていた。

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