第三章

     1

 俺は朝から、『ちょっとあぶないポップス』をMDに落としていた。実家にいるうちにやってしまいたい。なんなら石川か杉原の分も作ったっていいんだけど――。
 隆志の部屋のベッドの上から窓を覗くと、青い空が見えた。
 朝、出かける前の隆志に勝手にブランクMDを使ったことを伝えると、
「別にいいよ。余ってるから」
 大人になったと言えば、そうなんだけど、ちょっと拍子抜けだった。昔なら、怒るかふてくされるか、そんな反応だったというのに。
『さぁ、今日も初登場です。初登場つったって、どこかで流れたかもしれませんが。俺たちには新曲。いや珍曲――』
 赤月のトークが小気味良い。
「透、ちょっといいか?」
 下から、父さんの呼ぶ声が聞こえた。
「何?」
 俺は部屋を出て、階段から一階を覗くと、こっちを見上げる父がいた。
「今、時間があるか?」
「一応、あるけど」
「出かけないか?」
「いいけど、どこに?」
「買い物だ」
 それだけ言うと、父さんは居間に行ってしまう。そんなところが父さんらしくて、思わず笑みがこぼれた。本音としては、『ちょっとあぶないポップス』を聞いていたかったんだけど、まぁいいか。父さんに付き合うのも、悪くない。
 父さんの機嫌は、良いときはすぐに分かるが、普通のときと悪いときの区別は、なかなかつかない。というのも良いときは饒舌で、そうでもないときはあまり自分から話そうとはしないからだったりする。子どものころ、この違いがわからなくて、父さんを怖がっていた。
「透、行くぞ」
「早いって。準備があるからあと十分くらい待って」
 父さんの声の調子は明るかった。ということは、結構の機嫌がいいのかもしれない。
 あと五分くらいで終わる録音はとりあえず放っておくことにして、自分の部屋へ戻って、部屋着を脱いでジーンズと白シャツに着替えた。
「運転は任せる」
 一階に下りると、父さんがそう言ってきた。
「ああ、はい」
 てっきり、父さんが運転するものとばかり思っていた。俺が生返事をすると、父さんはそのまま外へ出て行った。俺は洗面所へ向かって、適当に髪をセットした。出かけ際、母さんに「行ってきます」と声を掛けたら、「気をつけてね」と返ってきた。
 車庫へ行くと、父さんはすでに自分の愛車である、白いクラウンの助手席に乗っていた。運転席に乗り込んで、父さんからキーを受け取る。
「安全運転でな」
「分かってるよ」
 エンジンをかけて出発する。懐かしい音が車内に響いてきた。そう言えばこのクラウン、すでに十年ほど走ってるし、運転するのは初めてだっけ――俺は改めて安全運転を心がけて、そっとアクセルを踏んだ。
 そう言えば、父さんと二人で出かけるというのは、いつ以来だろう? かなり久しぶりなことだけは確かだけど……中学くらいまで遡らないといけない気がして、考えるのは止めた よくよく考えてみれば、家族揃って出かけるということも殆どなくなってしまった。小学生の頃は、誕生日には必ずファミレスへ食事へ行っていた。旅行とかも年に一回は行っていた。隆志が中学に上がった頃から、ファミリーサービスは次第と少なくなっていったけれど、父さんは何かとよくしてくれた。俺と隆志は高校を卒業するまで、約十年も同じ塾に通っていたのだが、その送り迎えは必ず父さんだった。仕事から帰って、俺たちを塾へ送り、夕食を食べる。そして俺と隆志の帰る時間帯が違うから、まず隆志を迎えに、そして再び俺を迎えに戻る。それをありがたいと思ったのは、情けない話だけど、大学を卒業してからだった。
『親には感謝しないとな』
 バイト先の店長、田宮さんの言葉だ。バイトを始めて間もない頃、たまたま話す機会があって、どうしてそういう話題になったのかは思い出せないけれど、俺は親のことを話していた。その時に、すっかり慣れてしまって、感謝なんてこれっぽっちもなかったことに、初めて気がついた
 田宮さんはこうも言っていた。
『早く就職して、親を安心させてやらないとな。親は別に今更ありがとうなんて言って欲しいわけでもないだろう。もちろん言ったって全然いいだろうけど、それよりもちゃんと相澤君が就職して、結婚して、子どもを作って、孫を見せてやった方がずっといい』
 分かっちゃいるんだけど――。
「考えごとをしていると、事故を起こすぞ」
 団地から国道へ出るために一時停止したところで、父さんが釘を刺してきた。
「はい」
 俺は考えるのを止めて、前方へ集中する。車の流れは未だに途切れない。
「それでどこに行くの?」
「ああ、そうだな――」
 父さんは郊外に最近できた、巨大なショッピングセンターに行くのだと言う。何でも、三ヶ月前に出来たばかりで、近隣の県を含めて最大の売り場面積を誇っているのだそうだ。食料品はもちろん、レストランを始め、本、文具、洋服、雑貨、家具はもちろん、さらには映画館やら病院まであるというのだから驚きだ。
「それって一体いくつショップが入ってるの?」
「百くらいはあるかもな」
「百って……」
 小さい街くらいないか、それって?
「お前もせっかく帰ってきたんだから、一度くらい行ってもいいだろう」
「まぁね」
 父さんの話を聞いて、多少なりとも興味が沸いてきた。
 車の流れがようやく途絶える。俺はアクセルを強めに踏んで、左折する。片側二車線の国道の両脇には、コンビニやスーパーマーケット、雑居ビルが並んでいた。
「しばらく真っ直ぐだ」
「了解」
 車の中で父さんは、道を指示する以外無言だった。俺もそれに返事する以外、何も言わなかった。

 ショッピングセンター『スクエア』は、俺が想像していた以上に大きかった。AからFまである広い駐車場は、結構埋まっていた。駐車場から見た『スクエア』は、真っ白な外壁で、青空の下の中で輝いていた。家族連れやカップル、中学生くらいの子どもたちが入り口へ向かう。
 車は運良く入り口近くに停めることが出来た。エンジンを切ると、父は「行くぞ」とさっさと降りて行ってしまう。俺は「ちょっとくらい待ってよ」と、父を慌てて追いかけた。
 自動ドアをくぐってすぐの右側に、ケーキの並んだショーウインドウが目に入った。中ではメイド姿の店員が「いらっしゃいませ」と、通り過ぎる客に頭を下げる。さらに奥にはアイスクリームショップや、クレープ屋といったお菓子の店舗が見えた。左手からは、パンの匂いが漂ってきた。ガラス越しに覗いてみると、白い格好の男性が焼きたてのパンをトレイに並べていた。その脇で老年の夫婦や子連れの主婦がトレイを持って、パンを選んでいた。
 気がつくと隣に父さんの姿がない。前方を見れば、父さんは一人すたすたと先を歩いていた。俺は父さんの後を早足で追う。大きなホールに入るところで案内板とともにパンフレットを見つけて、俺はそれを手に取った。
 歩きながらパンフレットを開く。建物自体は三階建てのようだが、これを見る限り、各階に百近いショップが入っている。
 誰だ、百くらいなんて言ってたのは? 三百近くあるじゃないか。しかも、父さんが言った以外にも、ジュエリーショップにゲームセンター、エステまである。
 パンフレットから目を離すと、父さんがエスカレーターの前で、「早くしろ」と言わんばかりに立ち止まっていた。
「ごめん」
 父さんに追いつくなり、俺は反射的に謝っていた。
「時計屋に行く」
 エスカレーターに乗りながら、父さんが言う。
「時計? 何で?」
 父さんより一段下に乗って聞いてみたが、父さんは軽く笑っただけで答えることはなかった。いいから黙ってついて来い、ということのようだ。こういうときの父さんは大抵、何か考えがあるときだ。まぁ一言くらいあっても、と思うけど。
 エスカレーターで三階まで上がる。それにしても、やたらと人が多い。大手のコーヒーショップの横を通り過ぎたときには、客が外まで並んでいたし、中には座れるような余裕はなかった。これだけ多くの店舗が、客にもそれぞれ目的があるだろうし、溢れかえるのも仕方のないだろう。
 行く先々のちょっとしたスペースにはソファが置かれ、買い物客が腰をおろしている。小さな男の子は疲れたのか、父親だろう男性に体を預けて眠っている。やたらとトイレの案内を見るのも、客のこの多さを想定したものだろう。といっても、それがいつまで続くのか。何と言ってもここは郊外だから、どこまでこの集客を維持できるかというのが大事だろう。そこでもう一度、パンフレット見てみる。一番多いのは服や靴を始めとしたファッション系のショップのようだ。意外と雑貨系も多い。レストランも充実しているし、家具とか、陶器専門の店もあるから、来るだけでも楽しそうだ。
 父さんと肩を並べて歩いていると、アクセサリーショップが目に入る。自分が働いている店のことを思い出す。俺の働いている店は、普段着けできる安めの物から、鑑定書のつく高級宝石のように、やたらと高いものまで取り揃えている。デザインも様々だ。ここはどうなのだろうと思ったが、一人で入るのはさすがにちょっと躊躇われたし、父さんが俺を待つとは思えない。仕方なく横目に見ながら通り過ぎる。やはりというか、カップルが多かった。客層はうちとそんなに変わらなさそうだ。
「それにしても広いね」
「驚いただろう」
 俺の呟きが聞こえたのか、父さんがどこか楽しそうに答えてきた。
「それで、その時計の店はどこにあるの?」
「三階だったことは間違いない」
「迷ってない?」
「そう言うな。こう広いんだから、仕方ないだろう」
 自信いっぱいで歩いてると思ったら、これか。
 俺がキョロキョロしながら歩いていたから気がつかなかったのかもしれないけど、父さんも似たようなものか。歩きながらキョロキョロしてる。
「前は母さんと来たの?」
「隆志も一緒だった」
「へぇ」
 隆志が一緒だったのはちょっと意外だったけれど、あいつも興味があったのかもしれない。
「隆志は適当に洋服を見るとか言って、勝手に行動していた」
「隆志らしいよ」
 まぁ親と一緒に服を選ぶというのは、いくらなんでもないか。
「父さんと母さんは?」
「映画を見た。街中の映画館より、座り心地も良いし映像も音も段違いだった」
「ふーん。場所によって、そうも変わる?」
「変わる。透も機会があれば行ってみればいい」
 映画なんか、後でレンタルすればいいと思う俺にすれば、どこで見ても変わらないと思えて、あまり興味がなかった。といっても、父さんの趣味だ。俺がとやかくいうことじゃない。父さんが楽しいならそれでいいか。
「ほら、あったぞ」
 父さんが指差した先には、黒い絨毯が敷かれて、白熱灯の光が照らす高級そうな時計店があった。横を見ると、父さんはちょっとほっとした様子で笑っていた。

     2

「いらっしゃいませ」
 黒のスラックスに、白のワイシャツ姿の背の高い男性店員が大きく頭を下げた。三十代過ぎくらいの、いかにも働き盛りといった感じがした。
 店内の客の数はまばらだった。カップルもいれば、中年の夫婦や三十代くらいの男性もいる。誰もが何台もあるガラスケースのウインドウを覗き込んで、その中に並んでいる腕時計を物色していた。腕時計はケースに取り付けられている蛍光灯に照らされて、あるものは白く輝き、あるものは金色に輝き眩しい。
「一本、買ってやるから、好きなのを選んでいいぞ」
 店の中を回りながら、父さんは平然と言い切った。
「なんで?」
 父さんの顔を伺っても、何を考えているのか分からず、何か気味が悪かった。
「いらないのか?」
「そういうわけでも、ないけど」
 意味がわからない。何も言わずに連れてきておいて、突然選べと言われても、困る。
「それとも、別に欲しいものでもあるのか?」
 俺は「いや……」と頭を横に振る。別に腕時計でもいい。どうせ安物しか持ってないんだから。といっても、今持っている安物に不満があるわけでもない。まぁ単に良い奴は、高くて手が出せないだけなんだけど、父さんのこの態度は――。
「いきなり何なの?」
「これなんか、良いんじゃないのか?」
 俺のことなど無視して、父さんは勝手に腕時計を選び出している。
「お出ししましょうか?」
「頼むよ」
 店員の申し出に、父さんはなれた感じで受け答える。その落ち着き払った態度が父親というより社会人のようで、その一瞬だけ、いつもとは違って見えた。
「透。お前はどう思う?」
「あ、うん」
 戸惑いながら、ガラスケースの上に置かれた腕時計を見る。
 その腕時計は、白い文字盤にローマ数字が描かれ、ベルトは茶色の革製だった。スポーツウォッチのように余計な機能もごつごつした感じもなく、シンプルで洗練された印象のデザインだった。ケースの金属部分はステンレスで、ベルトはワニ革、ガラスは反射しないよう両面に無反射コーティングが施されているのだと、店員が教えてくれた。電波時計で、ずれることがありえないのだそうだ。しかもエコ・ドライブとかいう機能のおかげで、有害なものが使われておらず、電池交換の必要もないとのことだった。
「良いと思うけど……」
 腕時計の印象ははっきり言って良かった。だけど、気になるのはどうしてたって、値段だ。一体どういうつもりかは分からないけど、この年で親から、そうそう高いものを買ってもらおうとは思わない。
「こちらは七万五千円となっております」
 やっぱりそれくらいするよな。もっと安いのでいいんだけど――。
「お手頃だな」
 何言ってんの? 思わず父さんの顔を見た。
「これくらいなら、全然構わないぞ」
「本気?」
 ちょっと信じられない。
「たまには、良いんだよ。これくらい」
 父さんは、少しだけ、しょうがないなという顔をして、微笑んで見せた。――ああ、そうか――その瞬間、俺は理解した。これは父さんなりの愛情なんだ。どうして、そんなことをしようとしたのかは分からないけれど、腕時計を買ってやるというのは、父さんなりの愛情なんだ。でも、だからって、甘えてもいいのか? 本当にこのまま甘えても――。
 父さんの顔を見てみると、
「選ばないのか? お金のことは気にしなくていい」
 と笑った。そんな父さんの顔が、ほっと安心感をくれた。甘えてもいいのだと、思えた。父さんの笑った顔は昔から好きだった。あまり笑う人ではないから、父さんが楽しそうに笑うと、俺は何故か嬉しい。
「それじゃ――」
 俺は改めて、腕時計の並ぶガラスケースへ視線を落とした。

「飯でも食っていくか?」
「そうだね」
 一階の一角にはレストランが並んでいる。父さんと俺はそこに向かった。ファミレスから、和食、洋食、中華に、韓国、さらにはバイキング、多国籍料理まで多種多様だ。さらに進んで入り口付近にまで行けば、ケンタッキーやマクドナルドといったジャンクフードまである。
 昼時ということもあって、殆どどこの店もいっぱいの状態で、店の外で客が待合用の椅子に座って席が空くのを待っている状態だった。
「しばらく待たないと無理だよ」
「待つにしても、店を選ばないと始まらないだろう」
「そりゃそうだけど……」
 待ち時間を考えると、どこもそれなりに待たねばならないようだ。
「そこの和食でいいよ」
「そうか?」
 どこもそんなに変わるとは思えない。どうせなら父さんの好きな和食がいい。
 和食屋の前は、お年寄り客が四人座って、一つだけ赤い椅子が空いていた。椅子の座面は大きく、足は太くがっしりしていた。
「座りなよ」
「透は座らなくていいのか?」
「俺は良いよ」
「そうか」
 さすがに疲れたのか、父さんは大きく息を吐いて、椅子腰を下ろした。父さんはもう年なのだと、改めて実感した。子どもの頃、父さんは、こういうとき俺や隆志をまず座らせて、自分は必ず立っていた。それが子どもの頃から知っていた父さんの姿だった。
「ちょっと名前書いてくるよ」
「ああ頼む」
 俺は店の紺の暖簾の前にある席待ちのリストに、カタカナで名前を書き込む。父さんの代わりをしているようだった。ちょうど書き込みを確認しに、はっぴを着た男性店員がやってきた。「少々ほどお待ちいただきますが、構いませんか?」と聞いてきたので、俺はそれに大きく頷いて、父さんの元に戻った。
 和食屋の赤い壁を背に、父さんの隣に立つ。目の前のハンバーグやオムライスの専門店で、席が空くのを待っている四人の家族がいた。幼い二人の兄弟で、下の子は母親の膝に抱かれ、上の男の子は一人で椅子に座り、隣に立っている父親を見上げている。うちも昔はああ、あったのだろうか。ちらりと父さんをみると、俺と同じようにその家族を見つめていた。
 父さんが何を思っているのか、俺に分かるはずもない。けれど、左手首の腕時計が不思議と重く感じた。父さんに買ってもらったのは、シチズンのエクシードというモデルだ。最初に父さんが選んだモデルがこのエクシードで、デザインが気に入ったものが多かったので、そこから選んだ。これのベルトはステンレス製で、ケース部分がチタンなのだが、ベルトと文字盤のカラーが、シルバーという一体感が気に入ってしまった。店員の話によると、これも電波時計で、エコ・ドライブという機能がついているそうだ。電池交換がいらないというのはありがたいし、日付があるというのがまた嬉しい。
 じっと時計を見ていたら、父さんが見上げていた。
「気に入ったか?」
「うん。ありがとう」
「大切にな」
「はい」
 やはりこの時計は、重い。
「お待たせしました。丁度お二人さまだけ、席の準備が出来ましたので、どうぞお入りください」
 さっきの店員が伝えに来てくれた。父さんがゆっくり立ち上がり、先に待っていたお年寄りに軽く頭を下げて、暖簾をくぐった。俺も父さんの後を追って、店に入る。
 テーブル席のほかに座敷の席もあったが、どこも客で埋まり、賑やかだった。やはりというか、和食ということで、中年層から高年層の客が多いように見える。
 俺たちは、そんな客の喧騒を縫って、窓側の二人がけのテーブル席に案内された。隣の男性客が煙草を吸っていて、父さんがその煙に顔をしかめる。
「そう言えば、煙草は?」
 父さんは愛煙家だったというのに、帰ってきてから一度も煙草を吸っているところを見ていない。
「もう止めた。もう一年になる」
 ちょっと意外だった。昔から、家族の誰もが、止めたらと言っていたのに、止める気配など微塵もなかったのだ。
「さすがに長生きしたくてな」
「そんなもん?」
「そんなもんだ」
 父さんが煙草の煙を吸って、息苦しそうに咳をする。
「だったら、禁煙席にすればよかったな」
 喫煙も禁煙も指定しなかったことが、裏目に出たようだ。
「混んでるから仕方ないだろう」
 そう言いながら、父さんは大きく息を吐いた。
 父さんはてんぷら定食を、俺はチキン南蛮定食を注文した。そのついでに俺は、隣の客に煙草を控えてもらうよう店員にお願いした。店員が隣の客に頭を下げると、その客は少し顔をしかめたが、すぐに煙草を灰皿に押し付ける。マナーの分かる人で俺は少しほっとした。
 注文が来るのはやはり時間がかかった。俺も父さんも少し食べて、
「まあまあだな」
「俺のも、まあまあ」
 そう言い合う。結構なボリュームがあった。父さんが半分ほど食べて、海老天を箸で指して、聞いてきた。
「透、食べるか?」
「いいよ。そんな子どもじゃないんだし」
 父さんは昔から、外食に行くとおかずを俺や隆志に分けていた。ちょっと、懐かしかった。
「そうか」
 父さんはそれから南瓜の天ぷらと、味噌汁に箸を付けると、箸を置いた。
「どうしたの?」
「もういい。腹は一杯だ」
「そう?」
 父さんは頷く。年を取ると食欲も少し減るのか? そう思ったけれど、口にはしなかった。ただ黙って箸を進めた。
 最後のご飯を飲み込んで、俺は箸を置く。
「ご馳走さまでした」
 大きく息を吐いて、お冷を一口飲む。満腹感が気持ち良かった。
「さて、そろそろいいか」
 父さんの言葉に大きく頷いて、俺は席を立った。父さんの膳の上で、俺がもらわなかった海老天がやけに目立って見えた。もらえば良かったのかな。父さんは、単にもらって欲しかっただけなのかもしれない。何となくそう思った。
 店を出て、父さんはもう一度だけ言う。
「まあまあだったな」
 俺もそれに賛同する。
「味はね。まあまあ」
「さて、帰るか」
「はい」
 帰りも俺が運転席に座った。父さんは助手席に座って、ずっと眠っていた。

     3

 家に帰って、台所にいた母さんに腕時計を見せると、「良かったねぇ」と目を細めた。
「お昼はどうしたんだい?」
「父さんと食べてきたよ」
「あら外で食べたの? 私も行けば良かったかな」
 冗談交じりにそんなことを母さんが言った。きっと、一人で昼食を摂ったに違いない。
 自室に戻って、俺は『ちょっとあぶないポップス』の録音を再開することにした。何と言うか、これはもう、使命のように思えてならない。自室の時計を見ると、三時三十六分四十六秒――
「止まってたんだよな」
 すっかり忘れていた。子どもの頃から染み付いている習慣と言うのは、なかなか抜けないようだ。気を取り直して、腕時計をみると三時前だった。一瞬、腕時計を外そうかと思ったけれど、止めておいた。何か外すのがもったいなくて、まだ身に付けておきたい。子どもっぽいと思ったけれど、今はそうしたい。
 そのとき、ジーンズのポケットに入れていた携帯が振動した。メール――大学のときに同じ学科連中で作ったチェーンメールだった。卒業したら殆ど使われなくなったけれど、たまにこうして、忘年会をしようとかいう内容で送られてくる。別に関係を保ちたいとは思っていないけど、なあなあでそのままになっていた。
 メールを読んでみると、同じ学科で大学院へ進学した女の子の就職が決まったそうだ。週末に祝賀会をするから参加者は、返信してくれとのことだった。
 溜め息混じりで、携帯を閉じた。行く気にはなれない。どうせ卒業以来二年近くも会っていない連中だ。俺のことなど……。
 チェーンメールが送られてくるたびに同じことを思っている。半分は嫉妬していることも、分かっている。フリーターの自分が情けなくて、返信もできない。このまま俺のことを忘れて欲しかった。だったら、チェーンメールなんて止めてしまえばいいんだけど――。
 机の引出しを開けて、並んでいる『ちょっとあぶないポップス』のテープを見つめる。なんだろう、録音する気分が一気にしぼんでいった。窓から外へ目を向けると、隣の黒い瓦屋根の先に、緑が所々赤く染まった山が見え、午後の昼下がりの陽気な青空がちぎれた白い雲と一緒に広がっている。部屋の中で過ごすことが、馬鹿馬鹿しく思えてくる。
「散歩でもしてくるか……」
 一階に下りて、その旨を居間にいた母さんへ伝える。
「気をつけてね?」
「あれ? 父さんは?」
 てっきり、居間でテレビでも見ていると思っていたのだが、姿が見えない。
「出かけたわよ。最近、どうも健康を気にしているみたいでね。多分散歩に行ってるんじゃないかしら?」
「散歩ねぇ」
 父が黙って出かけてることは昔から良くあることなので、大した興味は無かった。

 俺は団地の入り口にある公園までやってきて、ぼんやりと秋空を見上げていた。
「天高く馬肥ゆる秋の空……」
 深い意味はない。ただ浮かんだ。行きがけ、気まぐれに買った缶コーヒーを飲む。甘ったるい。ねちっこい甘さが舌にまとわりついて、後味まで気持ち悪い。気まぐれなんて起こすものじゃない。
 十歳くらいだろうか。五人の子どもたちが、サッカーをしていた。今時の子どもでも、外でサッカーするんだな。ちょっと意外だった。
 ふと、近所の兄ちゃんや隆志も一緒になって、遊んだことを思い出す。この兄ちゃんは、近所の子どもたちの中で、当時一番の年上で面倒見が良かった。特に俺と隆志とは家が近いこともあって仲が良かった。近所の子どもたちは、年齢に関係なく、この兄ちゃんを中心に、すぐそこの山でよく遊んだものだった。特に夏場なんかは、クワガタやカブトムシを探しに行っていた。虫のいそうな木を蹴って落としたり、木の穴の中に隠れいてるやつを拾った枝でほじくり出したものだ。クワガタよりカブトムシの方が珍しかった。山のさらに奥には、綺麗な小川があって、水着で泳いだこともあった。
「隆志は一番小さかったから、俺の後ろでくっついているだけだったけど」
 それでも隆志に取れたカブトムシを見せてやると、眼を輝かせて驚いていた。
 そんなふうに遊んだのも、この兄ちゃんの転校を機に、一気になくなった。同級生なら学校で会って、遊ぶこともあったが、何故か年齢の隔たりを越えてまで集まることはなくなった。この公園ができる前の話だ。
 ころころとサッカーボールが転がってくる。
「すいませーん」
 一人の男の子が、ボールを追いかけてきた。俺は立ち上がって、軽く蹴り返してやる。
「ありがとうございます」
 男の子は頭を下げて、戻っていった。
 今の子どもは、俺が子どもだった頃とは、随分違う気がする。サッカーをすることがおかしいわけじゃない。サッカーだって野球だってやったものだ。だけど、俺がそれより覚えているのは、山で遊んだことだ。この子たちは、一体何が思い出になるんだろうな。別に遊びに限ったわけじゃないけど。
「そうは言っても、ここにはもう自然がないな」
 振り返ると、紅葉を始めた懐かしい山の頂上が、住宅の赤や黒の屋根の向こうに、申し訳なさそうに出ているのが見えた。きっともう、あの兄ちゃんのような子どもはいないんだろう。もうあの山にはクワガタもカブトムシもいないのだろう。木漏れ陽の中で泳いだ小川は汚れてしまって、もう流れてはいないのだろう。きっとこの子たちは、そのことをずっと前から知っていて、来る日も来る日もここでサッカーをしているに違いない。
「秋だからクワガタもカブトムシもいないし、水遊びをするはずもないか……。まぁ家で不健康にプレステやってたり、マンガばっかり読むよりずっとマシだけど」
 俺は苦笑した。自分勝手な思い込みなのは、分かっている。あの山に行くような子どもは、もうずっと前に途絶えているに違いんだから。開発の手はゆっくりと、けれど確実に山へ届く。いや、すでに届いて開発が始まっているのかもしれない。望もうと望まずとも、飽和するまでここは肥大化し続けるのだろう。
 俺は缶コーヒーを飲み干す。丁度、喉を鳴らしたときに、視界に影が入った。振り返ると、その影の持ち主は、暮れかかった秋の柔らかい日差しを背に受けて、ベンチに座っている俺を覗き込んできた。その顔は逆光になって、薄いモノトーンがかかっているように、はっきりしない。
「先日はありがとうございました」
 風に乱れる髪を、左手で抑えながら彼女を言った。缶コーヒーを口から離して、改めて見ると、日の光が彼女の顔を照らしていた。こうして明るいところで見ると、また印象が違う――名前は、確か神村真実と言ったっけ。
「あ、どうも。そんなに大したことじゃないですよ。それにしても、どうしてここに?」
「あ、ちょっと通りかかって、貴方の姿が見えたから」
「それはわざわざ、ありがとうございます」
 意外と律儀な人だ。少し照れくさそうな彼女が、微笑ましい。
「この辺の方なんですか?」
「ええまぁ。実家がこっちで、ちょっと帰ってきたんですよ。そちらはサークルだとか?」
「はい。旅行サークルです。一昨日は皆で飲んで、私だけ先に帰ってたんですけど、迷っちゃって……」
 彼女が苦笑を浮かべた。舌を出して、片目をつぶって、どこか可愛らしかった。
「酔ってるのに、一人にならない方がいいですよ」
「あんまり飲めないのに、ちょっと飲みすぎた私も悪いんですけどね」
 それが分かっているのに、どうして一人になるかな? でも、それは口には出さない。
「サークルというと、大学生ですかね? 何年なんですか?」
 ふと、一昨日会った彼女の友達が、脳裏に浮かぶ。
「ええ。三年になります。だから、ほんとは就職活動に本腰いれないといけないんですけど」
「そうですか。大変ですね」
 そりゃそうだよな。自分のときもそうだった。この頃には本腰は入れた。でもどこもだめだった。
『選り好みしてると、行くとこなくなるぞ』
 友達がそう言った。選り好みなどしたつもりは――。
「どうかしました?」
「いえ。ちょっと自分のときを思い出して。俺は就職できなかったから」
 自分でそう言ったら、体が固くなったのが分かった。ドクンと、心臓から勢いよく、血液が流れていくのを感じる。見知らずの人とはいえ、反応が怖かった。
「やっぱり、大変なんですね。就職するって」
 彼女のどこか他人ごとのような言い方が、おかしかった。
「それで今はどうされてるんですか?」
「仕方ないからフリーターを」
 自分が情けなくて笑えた。
「あ、そうなんですか?」
 それから彼女は黙ってしまった。彼女から俺はどんなふうに見えているのだろう? 聞かない方が良かったと後悔したのか、次の言うべき言葉を探しているのか……。ますます自分が情けない。田宮さんに『社員にならないか』と誘われていることを思い出す。
「貴方は就職できるといいですね」
 見知らぬ人だけれど、皮肉などなく、素直にそう思う。自分のようにはならないで欲しい。
「あ、はい。そうですね」
 彼女は少しほっとした様子だった。けれどその言い方は、やはりどこか他人ごとのように感じられる。
「就職よりもしたいことでも?」
 何となくそんな気がした。
「ああ。……何て言うんですかね。就職活動を本格的に始める前に、ちょっと気になることに、しっかりけじめをつけておきたくて……」
 彼女の目は言葉を選ぶように泳いで、語尾はか細く、そして自分の言葉を確認するように俯いた。何か言いにくいことがあるんだ。きっと誰かに聞いて欲しいんだけれど、誰に話せばいいのか、どう話せばいいのか。心が抵抗して、整理もつかなくて、言葉にすることもかなわない――なんとなくそんな気がした。
 だから、ただ黙って、彼女が口を開くのを待った。ドリブルをしている子どもがボールを奪われ、転ぶ。その男の子はすぐに起き上がって、ボールを追いかけていく。
「あんまり人に話すことじゃないんですよ」
 顔を上げた彼女は、そう笑っていた。
「そうですか」
 俺もそれ以上聞かなかった。
「でも、将来したいことはあるんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ。保育士になりたいんです」
 そういう彼女の眼差しは優しく、目の前のサッカーをする子どもたちに注がれていた。
「なれるといいですね」
 そう笑って返した。なぜ保育士なのか、聞いてみたくなったが、止めておいた。そうすれば、俺の胸は張り裂けそうになるだろうか。心が大きく揺れて、重くなることくらい分かりきっていた。だけど、俺は、何がしたいんだろうな。考えれば考えるほど、何も見えてこない。暗く深い闇の中からは何も生まれてはこない。この二年、だらだらと時間だけが過ぎていった。
「青いですね」
 彼女が立ったまま、大きく空を仰いでいた。座ったままの俺も彼女を真似る。大きく仰ぎ見た空は、確かに青かった。ちぎれた雲の切れ端が、ぽかんと浮いていた。
「吸い込まれちゃいそう」
 彼女のとろんとした声がすぐ隣から入ってる。西の方はかすかにオレンジに染まり始めていた。
「高いですね」
 俺は彼女にそう返した。ふと手を伸ばして見たくなった。手を伸ばせば空へ届きそうで、でもそれは絶対に届かなくて、自分の小ささを知って、終わる。そうなることは分かりきっていたから、俺は手を伸ばす前に見上げるのをやめた。
「今日は友達と一緒ではないんですか?」
 ホテルへ送っていたときにいた、友人と一緒ではなくてもいいのだろうか? 少し気になった。
「ええ。ちょっと一人で行きたいところがあって」
「行きたいところ?」
 この辺りに、観光するような所があったっけ?
「ああ、もうこんな時間ですね」
 彼女が思い出したように腕時計を見ていた。つられて俺も確認する。今日買ってもらったばかりの腕時計は、四時を指そうとしていた。
「行かないといけませんので、これで。先日のお礼が言えて良かったです」
「こちらこそ。楽しかったです」
 彼女が俺を覗き込んで、あまりにもにっこりと微笑むので、俺はどきりとして、ちょっとだけ恥ずかしくなる。
「それじゃ、失礼します」
 彼女は深々と頭を下げて、振り返ることなく公園を後にした。
 俺はもう一度空を見上げた。ついさっきまで青かったところも、うっすら赤くなり始めていた。そんな空に俺は左手を伸ばしてみた。腕時計がその存在感を主張するように太陽の光を白銀に輝きを反射する。何にも届かないことを知りつつ、肘を伸ばす。さら肩を伸ばし、背筋も伸ばす。指の先一本一本を限界まで伸ばして、何もないそこをまさぐる。自分の左手の先から上半身まで、一本の棒になったようだった。疲れて脱力すると、伸ばしていた筋肉に少しだけ痛みが走る。やはり、空は高かった。

 公園を出て、ぐるりと団地を歩いて見て回る。地元を離れときはまだ畑だったところが、アパートに様変わりしていた。二階建ての新築の家が立ち並んでいた。それでも住宅が密集している中に、ぽつんぽつんと、未だに畑が残っている。残っている畑もいずれ、なくなってしまうのだろうか? 中には青々とした草が生い茂って、すでに畑とはいえないものも――。平日なら、そこいらで主婦の井戸端会議があって、幼い子どもたちが走りまわっているのだろう。
 家に帰りついたときには、すっかり暗くなってしまっていた。
「ただいま」
 玄関を開けると、夕飯のなんとも言えない温かい匂いが立ち込めていた。靴を脱いで台所へ。
「おかえり」
 母さんが夕飯を作っていた。居間にも台所にも、父さんの姿がない。
「あれ、父さんは?」
「まだみたいだね」
「ふーん」
 そう返事を返しながら、まだ父さんが帰っていないのは意外だった。七時を回る頃にはいつも家にはいたはずなのに。
 テーブルの椅子に座って、世話しなく動く母さんを見る。流し台の上には、醤油やみりん、味噌が置かれていた。ステンレス製の鍋から、ぐつぐつと煮物が音を立てている。
「何作ってるの?」
 母さんの背中越しに聞いてみる。
「今日は肉じゃがだよ」
「そう。何か手伝おうか?」
 そう言って立ち上がると、母さんは振り返って、ぽかんと口を開けて、あっけにとられていた。
「そんなに驚かなくても」
「ごめんごめん。透も成長したんだねぇ」
「それは、この前も聞いた」
 俺は苦笑いを浮かべるしかない。
「それなら……」
 母さんは少し考え込んで、にっこり笑って、
「お風呂いれてきて頂戴。今日はまだなのよ」
 がくっと出鼻をくじかれた。料理を手伝うって意味で言ったんだけど……嬉しそうな母さんを見ていたら、言い返す気になれなかった。俺は仕方なく、風呂場へ向かった。
 焼酎を片手に父さんが帰ってきたのは、それから三十分後の夕飯が殆ど出来てしまったころだった。

     4

「お前も飲むか?」
 夕食も終わって、居間でうつらうつらしていたら、台所のテーブルに座っていた父さんがグラスを見せてきた。今日買ってきた焼酎だろう。
「どうしたの?」
「たまには一緒にどうだ?」
 父さんがそう目を細めた。俺は一瞬迷って、
「それじゃ、一杯だけ」
「そうか。ロックでいいか?」
 俺が頷くと父さんはにっこり笑って、冷蔵庫の氷をグラスに入れて焼酎を注ぐ。同じように、もう一つのグラスにもロックを作る。その二つを持って、父さんが居間へ来た。
「ほら」
「ありがと」
 グラスを受け取って、テーブルに置く。静かだった。隆志はさっさと自室に引きこもってしまったし、母さんは洗い物を済ませて、風呂に入っていた。テーブルを挟んで、父さんが俺の前に座り込む音だけが、妙に耳に響いた。
「飲まないのか?」
 ぼんやりと父さんを見ていたら、父さんがそう聞いてきた。俺は首を横に振って、
「頂きます」
 グラスを口に運んで、一口。辛口のそれを口の中でゆっくり味わう。父さんも一口飲んで、大きく息を吐いた。
「向こうではちゃんと、飯が食えてるか?」
「それ、この前も聞いてきたよ」
 俺はあきれて笑った。考えることは、そうそう変わるものでもないらしい。
「そうだったか?」
「ちゃんと食べてるよ」
「そうか」
「まぁ、ちゃんとって言っても、外で食べたり、コンビニで済ませることが多いけどね」
「それじゃ栄養が偏るだろう。たまにはちゃんとしたのを食べないと」
「分かってはいるんだけどね。なかなか」
 俺がそう言うと、「仕方の無い奴だ」と、父さんは笑った。
「仕事はどうだ?」
「バイト? 良くしてもらってる。良い人ばかりで、働きやすいよ」
「そうか……」
 俺の言葉に父さんは何を思ったのだろう。父さんは俯いて、グラスを握り締めている手は、血管が浮き出ていた。
「楽しくやれてるか?」
「まぁね。お客さんもいろいろいるから、面白いよ」
 父さんはそのまま焼酎を飲んで、軽く二度頷いてみせた。
「体には気をつけて、あまり無理はするなよ」
「うん」
 父さんの言葉に頷く。心が少し軽くなった気がした。
「ところで……」
 父さんが珍しく言いよどんだ。一体どうしたのだろう?
「なに?」
 父さんは黙ったまま、何も言わなかった。ただじっと、こっちを見て黙っていた。何か、こっちからの言葉を期待されているようで、俺は何か言わないといけない気になる。
「あのさ……」
 バイト先から就職しないかと誘われているんだ――そう言おうとしたのに、何かが引っかかったように言葉にならない。
「何だ?」
 父さんが怪訝そうに見つめてくる。何だって、俺はそんなことを言おうとしたんだろう? まだ、心の準備は出来ていないのに。
「いや……時計、ありがとう」
 代わりに、そんな言葉がついて出た。父さんが優しく微笑む。不意に、左手首に腕時計の感触を、重さを思い出す。
「大事に使いなさい」
「分かってるよ」
 俺は深く頷いた。今、言わなくてもいいんだ。決心が固まってからでも……いや、他に道なんてないのかもしれない。もう決まっているのかもしれない――。
 焼酎をあおる。その冷たさが喉を刺激して、その辛さが口の中に広がる。飲み込むと、かぁーっと胃から酔いが、血管を通って全身に回っていくような感触に襲われる。
 軽く息を吐いてグラスをテーブルに置くと、カランと氷が回って音を立てた。ふぅっともう一度息を吐くと、父さんが軽く笑っていた。
「就職はいつでもいい。お前の道だ。しっかり考えて決めるといい」
「え?」
「お前のことだからあまり心配してないんだよ、本当は。何か考えてるんだろう。早く安心させて欲しいという親の本音はあるが……」
 最後の方は小さくなって聞こえなかった。父さんの顔はほんのり上気している。
「はい」
 胸が熱くなったのは、きっと酒のせいじゃない。これだけは酒のせいじゃない。俯いてグラスを握り締めると、指先に冷たい感触が走った。
「お前が健康で幸せであるなら、それでいいんだ。それで……」
 そう呟いて、父さんはグラスをあおった。それにならうように、俺もグラスをあおる。味はやっぱり辛かったけれど、なんとなく気持ちよかった。
「何、飲んでるの? 焼酎?」
 隆志がやってきて、父さんの隣に座る。
「お前も飲むなら、コップを持っておいで」
「うん」
 隆志も混ざって、愚痴をこぼす。家庭教師で担当している子どもが言うことを聞かないとか、レポートが大変だとか――。彼女のことを聞いてみると、途端に口が数が少なくなった。
「今度その彼女を連れてきなさい」
 父さんがからかう。
「いいよ。アイツも来たがらないだろうし」
 隆志が慌てた。
「何か楽しそうね」
 風呂から上がってきた母さんが、居間に入ってきた。
 こんな雰囲気を味わうのは、一体いつ以来なんだろう? 一家団欒なんて、忘れかけていた。
 父さんは顔にたくさんのしわを作って、本当に楽しそうに笑って、夜は更けていった。

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