第四章

     1

 時々母さんの家事を手伝ったり、『ちょっとあぶないポップス』を録音したりしながら無為に過ごして、三日が経った。その日は、朝から雨がしとしと降っていた。昨日までの清々しいまでの秋晴れが薄黒い雲に嘘のように身を潜めていた。
 昼食を食べて一時間ほど経った、午後二時頃、電話が鳴った。「はい、相澤です」と、受話器をとった母さんの顔が、瞬く間に一気に青ざめていく。
「わ、わかりました。すぐに向かいます」
 がちゃっと大きな音を立てて。受話器が置かれた。
「どうしたの?」
「父さん、倒れたって」
 母さんの震える声でそう聞いたとき、何か頭を殴られたかのような強い衝撃が走って、頭の中が白く痺れる。最近体調が悪いとは母さんから聞かされていたけど、まさかこれほどとは――。けれど、それも一瞬で、意外なほど冷静な自分を同時に感じる。
「大丈夫?」
 そう聞くと、母さんは胸に手をやって、一度大きく息を吸うと、ゆっくり吐き出していく。そうやって母さんは気を落ち着かせて、深く頷いた。
「うん。大丈夫よ。隆志に連絡入れないとね」
「じゃあ俺は、車出して来るよ。すぐに病院行くでしょ?」
「お願いね」
 母さんは再び電話に向かった。
 父さんが倒れた――分かってはいるけれど、その現実をそう安々と理解することはできない。二階に上がる前に、玄関で足が止まった。夕方になれば、父さんはこの玄関から帰ってくる。何事も無く――そんな気さえしてくるのに、静か過ぎる玄関がいやに不気味で、ただ雨の音だけが耳障りで、自分の知らないところで世界は動いていたはずなのに、その縁遠いはずの、足も踏み入れたことのない現実が目の前にやってきたようだった。
 俺は一度息を吐いて、二階へ行って、上着を着ると、財布と携帯、車の鍵をポケットに突っ込んむ。父さんが買ってくれた腕時計をはめようとして、右手が止まる。それは何も無かったかのように、時を刻む。大丈夫だ、そう言い聞かせて、左手を腕時計に通した。
 薄暗い灰色の静かに降る雨の中に出る。家の塀に着けていた俺の車をバックさせて、門の前まで動かすと、母さんが丁度、玄関を閉めて出てきた。
「病院はどこ?」
 母さんがドアを開けるのと同時に、俺は聞いた。
「大学病院よ」
「分かった」
 母さんが助手席に乗ったのを確認して、俺はアクセルを踏んだ。静かな団地を進む。灰色の世界が流れていくようだった。
「倒れるまで、働かなくてもいいのにね」
 窓の外を見ながら、母さんがそう呟いたのが聞こえた。
 父さんは病を隠して働きつづけたのだろう。父さんは己の辛さを他人に見せるような人ではないから――打ちつける雨を振り払って、ワイパーがフロントガラスを幾度となく往復する。どんなに払っても、雨は当たってくる。際限なく降りつづける雨に、ワイパーが無意味に思えて、何故かイライラした。
「落ち着きなさい」
 母さんが俺を横でたしなめる。
「分かってるよ」
 片側三車線の公道の交差点の赤信号で止まる。気がつくと、ちっと舌打ちをしていた。別に渋滞しているわけじゃない。腹を立てる必要などない――自分に言い聞かせる。
 目の前の横断歩道を、赤い傘を差した中年のおばさんが、ネギの飛び出した買い物袋を提げてゆっくり渡っていく。
 俺はグッと奥歯を噛み締めて、ブレーキを一層強く踏み込む。
「父さんは大丈夫だから。あんたは安全運転しなさい」
「分かってるよっ」
 信号が青に変わる。アクセルを踏む。いつもなら三十分で着く病院がやけに遠くに思えた。

 看護婦に案内された個室は、窓が一つあるだけで、どことなく薄暗かった。仕切りの白いカーテンの向こう側で父さんは眠っていた。ベッドの横のパイプ椅子に座っていた四十代くらいの、紺のスーツ姿を着ていた男性が立ち上がって、礼儀正しく頭を下げた。
「相澤さんの同僚の富岡です」
「家内の美智子です。こっちが息子の透です」
 母さんがお辞儀をするのにあわせて、俺も頭を下げる。
「相澤さんは、仕事中に突然血を吐かれて、倒れられたんです」
「そうですか。ありがとうございます」
 母さんは深々と頭を下げた。
「いつもお元気な方でしたから、驚きました」
 父さんを見ると、胸元はゆっくり上下していて、ただ眠っているだけのようにしか見えなかった。いろいろ分からない管が、点滴から三本も父さんの体に繋がっていることを除いては――。
 死んでしまうのか――そんなことが一瞬脳裏をよぎった。まさかね――そう打ち消す。そう簡単に死ぬわけがない。そんなことがあってたまるか。
「ご家族の方ですか?」
 後ろから中年の恰幅の良い、眼鏡を掛けた医師が、看護婦と一緒に入ってきた。
「今は容態も落ち着いています。詳しいことは明日検査してみないと分かりませんが、しばらく入院していただくことになるかもしれません」
「入院ってどういうことですか?」
 母さんは、医師に掴みかかるように叫んだ。その目は大きく見開かれていた。
「検査入院です。手続きがありますので、ちょっとよろしいですか?」
 医師はどこか事務的だった。感情が動いていないような――無表情で気味が悪い。
「透はここにいなさい」
 母さんは大きく息を吐く。必死に冷静になろうと努めているようだった。
「分かった」
 俺は頷くと、母さんは医師のあとを追う。気にならないといえば嘘だが、父さんの傍にいたい気持ちが勝った。
 頃合を見計らっていたのか、富岡さんが「自分も仕事がありますので、失礼させていただきます」と、病室を出て行く。俺も富岡さんを病室の外まで見送る。
「今日は本当にありがとうございました」
「いえ、相澤さんにはいつもお世話になっていますので、これくらいのことはなんともありません。またお見舞いに来ますので、どうぞよろしくお願いいたします」
 俺たちは互いに頭を下げ合って、別れた。富岡さんは医師と違って、印象の良い人だった。父さんの職場での信頼を見るようでもあった。
 病室に戻って、眠っている父さんの横に立つ。いきなり手術じゃなくて、正直ほっとした。手術室の前でじっと手術が終わるのを待つ、そんな針のむしろのような状況より幾分かましだろう。
 父さんは土色の顔で眠っている。寝息が聞こえてくる。それだけが父さんの生きている証のように思える。雨は止んだのだろうか。雨音が聞こえない。窓から外を見ても良かったのだが、何故か父さんから目を離せなかった。ただ時間だけが、過ぎていく。五分くらいな気もすれば、一時間くらいなような。どれだけの時間が過ぎたのか、よく分からない。寝息の間に、カチッカチッと腕時計の動く音だけが静かに響いていた。
 そんな沈黙を破って、病室のドアが開いた。母さんが戻ってきたと思ったが、隆志だった。隆志は肩で息し、頬もうっすらと上気していた。着ているジャケットとジーンズも雨に降られて、ぽつぽつと濡れていた。
「父さんは?」
「寝てるよ。仕事中に血を吐いて倒れたって」
 富岡さんから聞いていたことを、そのまま隆志に伝えた。
「どうして、こんなことに?」
「え?」
 一瞬、隆志の言ったことの意味が分からなかった。ただ、どきっとした。
「どうして、父さんは倒れたの?」
 隆志がそう聞いてきて、初めて父さんが倒れた原因が何なのか、知らない自分に気がつく。ベッドの上で眠っていた父さんを見て、安心してしまっていた。
「今、母さんが先生の話を聞いてる。詳しいことは検査しないとわからないみたいだ」
 そんなに酷くないとどこかで思っていた。
「入院するの?」
「さっきの医者の話だと、検査入院するってことだ」
 検査入院と自分で言って、嫌な感じがした。背筋に悪寒が走って、不安にかられる。父さんの体に一体何が起こっているんだろう?
 隆志は黙って、父さんを見ていた。
「父さんもういくつになるんだっけ?」
 隆志に聞いてみる。五十は越えていたと思う。
「五十六だったと思う」
「そっか。もうそんな年だったな」
 隆志が父さんを見たまま頷く。
「五十越えたんだから、少しは体をいたわればいいのにな」
 俺は苦笑していた。
『倒れるまで、働かなくてもいいのにね』
 そう言った母さんの言葉が脳裏に蘇る。全くその通りだ。こんなになるまで働くことないじゃないか。そう思ったら、なんだか泣けてきた。
「入院を機にゆっくり休んだらいいんだよ」
 隆志が言った。
「そうだな。それがいい」
 父さんが良くなったら、家族でどこか旅行に、温泉にでも行こう。ゆっくりするといい。
 そこで母さんが戻ってきた。
「隆志も来たんだね。母さんは今日は病院に泊まるから、あんたたちは帰りなさい」
「父さんはどうだったの?」
 隆志が間髪いれずに聞いた。
「詳しいことは検査が済んでみないとわからないってさ。透、悪いけど、明日着替えとか持ってきて頂戴」
「分かった」
 母さんは、「これで今日の夕飯を何か買いなさい、あと洗濯物をお願いね」など、事細かに指示を出す。
「一度、帰らなくてもいい?」
 念のために母さんに聞いてみる。
「大丈夫よ。それに父さんが起きたときに、誰かいた方がいいでしょう」
 母さんの言葉に軽く頷く。
「隆志はどうする? 家に戻るなら、乗せてくけど?」
「お願い。今更大学戻っても仕方ないし」
「分かった。それじゃ母さん、戻るね。何かあったら電話して」
 それだけ言って、隆志と病室を出る。病室の戸を閉めると、俺は大きく息を吐く。肩の荷が一気に下りた。と、同時に、雨音に気が付く。ずっと降っていたのだろうか? ずっと聞こえていた気もするし、突然強く振り出したようでもあった。
 ただでさえ病院の廊下は薄暗いというのに、窓からは光が降り注いでくることはなくて、外は薄暗い灰色の世界が延々と広がっているようだった。
「どうしたの?」
 先を歩く隆志が立ち止まっている。不意に、雨以外の音が耳に届いた。看護婦の声だったり、患者の談笑だったり、靴のゴムが廊下と擦れる音だったり――。
「ああ。今行く」
 俺は早足で歩き出した。

 車を走らせる。病院を出たときはまだ明るかったが、分厚い雨雲のせいで一気に暗くなってしまった。薄闇に紛れた街路樹は、行き交う車のヘッドライトに照らされて、その存在をぼんやりと誇示しているように見える。
 独り言のように隆志が口を開いた。
「父さんが、もしも死んだら、うちはどうなるんだろう?」
「さぁな」
 そんなこと言うなよな――そう思ったけれど、言わずにもいれないのも事実で、隆志が言わないなら、俺が口にしただろう。
「母さんが独りになるのかな?」
「お前がいるだろ?」
「俺が大学卒業したら、そんなの分からないじゃん」
「それもそうだな」
 母さんのこと、家のこと――遠いと思っていた現実が、突然目の前に現れた気がした。言い知れない不安だけが大きくなっていくようで、自分に何ができるのか考えてみても、できることなど――。
「別に今、父さんが死ぬわけじゃないだろ」
「それはそうだけど……」
「あんまり考えるな」
 それ以外に何があるのか? 何もありはしない。考えれば考えるだけ、不安が大きくなるだけだ。
「検査だって終わってないんだからさ」
 隆志は何も言わなかった。
「それより、晩飯どうする?」
「何でもいいよ」
 投げやりに言った隆志の態度に、自然と息が一つ洩れた。俺は近くのスーパーに車を走らせた。雨の相変わらず静かに降り続いていた。

     2

 翌日、父さんの着替えを持って病室へ――。
「透、おはよう」
 ベッドの上で、俺を迎え入れた父さんの姿に愕然とした。窓から差し込む木漏れ日に顔を照らされた父さんは、気のせいかもしれないが、家にいたときとは違って、一気にやつれて老いたように見えた。ただ一人の病に伏せっている老人に――。
「どうかしたか?」
「あ、いや、おはよう」
 戸惑って、返事が遅れてしまった。
「それより、はい。着替え」
 言葉が出なくて、持っていた着替えの入った紙袋を父さんに見せる。
「おお。すまんな」
「ここに置いとくね」
 ベッド横の小棚の前にそれを置いて、俺もパイプ椅子に座る。
「体は大丈夫なの?」
「まぁな。大したことはない」
 父さんは軽く笑って見せた。本当に大したことがないと思っているようだけど、実際はどうなんだろう?
「検査は?」
「朝からMRIをしてきたぞ。初めてで、こう通っていくんだ」
 左手の指で輪を作って、そこに右の人差し指を通しながら、父さんが無邪気に笑う。
「少しばかり息を止めて、多分肺を撮っていたんだろうな」
 肺というと、止めたとはいえ、煙草が気になった。
「母さんは?」
「検査するときに別れて、それから見てないな。多分下の食堂で、ご飯でも食べているんじゃないのか? 母さんは朝から何も食べてないしな」
「そう」
 時計を見ると、もう二時近い。昨日あまり眠れなったせいか、感覚がどうもおかしい。思った以上に時間が経っていた。
 腹に手をやる。今日はまだ何も食べてない。これまでなら昼食が少しくらい遅れても平気だったけど、実家に帰ってからは、必ず朝食を食べていたこともあって、さすがに何か食べたくなった。
「透はいつまでこっちにいるんだ?」
「明日には帰るつもりだけど……」
 だけど、このまま帰っていいものだろうか。そんな俺の気持ちを察したのだろうか、父さんが笑う。
「仕事があるんだろう。俺は大丈夫だ。お前から心配されるほどじゃない」
 何だってそういうことを言うんだ? 父さんらしくもあるけれど……少し腹が立った。
 俺は父さんを見据えて、言った。
「いい年なんだから、これを機に少しは休んだらいいんだよ」
 自分の声に少なくからず怒気が篭っていたことに、自分でも驚いたが、父さんはそれ以上驚いていたようで、
「そうだ、な」
 目を丸くしていた。
「母さんが言ってたよ。倒れるまで働かなくてもいいのにって」
「そうか……」
 少しだけ、ほんの少しだけ、父さんが寂しく映る。父さんはしばらく押し黙って、
「ちょっと休むか」
 そう笑った。俺も少しほっとする。
「長生きしないとさ」
「長生きか。そのために煙草もやめたしなぁ」
「まだまだ人生長いんだから、ちょっとくらいの休息は要るんだよ」
「透からそういうことを言われるとはな」
 父さんの顔に微笑が浮かんだのを見て、俺は唐突に恥ずかしくなった。父さんに何を言ってるんだ? そう思ったのも一瞬、
「お前がしっかり働くなら、それもいいな。ぼちぼちゆっくりしても」
 父さんの何気ない言葉だったが、それは胸にぐさりと突き刺さる。
「俺さ――」
 バイト先で社員にならないかって、誘われてて、就職しようと思ってる――それは喉元まで来ているのに、何に引っかかって声になることなく、飲み込む。
「どうした?」
 もし、そう言ったら父さんはどう思うのだろう? それだけが気がかりだった。
 父さん、俺は貴方の期待に応えたと言えるだろうか?
「やっぱいい」
「そうか」
 しばらくの間、父さんは、何も言わなかった。俺の次の言葉を待っているようだったけれど、言葉が見つからなかった。
「透」
 結局、先に口を開いたのは、父さんだった。
「何?」
「お前は……いや、いい」
 何も言わない代わりに、じっと俺を見つめていた。
「そんなに心配しなくても、ちゃんとやるからさ」
 そう言うだけで精一杯だった。が――、
「あ……いや……そうか」
 そのときの父さんの反応はどこかおかしかった。俺の就職のことではなかったのか?
 父さんが何を言いたいのか、俺には分からない。しばし父さんは窓の外に目を向けてから、
「透、お昼は?」
 思い出したように言った。
「まだだけど」
 腕時計で時間を確認すると、十二時を回っている。父さんが隣の小棚の引出しから財布を取り出して、千円札を俺に見せる。
「これで何か食べてくるといい」
「いいよ。自分でどうにかするから」
「そうか……」
 と、そのときドアが開いた。入ってきたのは母さんだった。
「透、来てたんだね」
「着替えを持ってきた」
 母さんは「ありがとう」と笑った。
「お前はもう、お昼は済ませたのか?」
 父さんが母さんに尋ねる。
「まだですよ」
「そうか。それなら透もまだだから、一緒に何か食べてくるといい」
「あなたは?」
「俺は検査で疲れたから、少し眠いんだ」
 父さんがベッドに横になる。
「それじゃ、透と一度帰ります」
「分かった。気をつけてな」
 誰か残らなくていいのかと思ったが、結局できることなんて何もない。ここにいても仕方ない。
「それじゃ帰ろうかね」
 母さんの言葉に頷いて、俺は病室を出た。

 二時も回って、空腹のはずだったのが、不思議と食欲が湧いてこない。それでも一応母さんに聞いてみる。
「ご飯、どうする?」
 前の車のテールランプが赤く光ったのを見て、俺もブレーキをゆっくり踏んだ。
「そうだね……」
 なぜか母さんが、やたらと疲れているように見える。
「食欲はないけど、少しは食べないと、私が倒れてしまうからね」
 母さんはそう笑ったけれど、全く嫌な冗談だ。
「そこで弁当でも買って食べようかね」
 ちょうど真っ直ぐ行ったところの左手に、弁当屋の黄色の看板が目に入る。
「わかった」
 前の車が動き出して、俺はアクセルを踏む。二百メートルほど進んで、駐車場がないので仕方なく、その弁当屋の横に歩道と車道をまたいで車を着ける。
「何にする?」
「何でもいいよ」
 母さんは少し困った顔して、車を降りた。
 どうやって聞くかな? 多分母さんは、医者から父さんの容態について、いろいろ聞いているはずだ。母さんが話してくるまで待つべきか……。今日もきっといろいろ話があったに違いない。
 車が何台も隣を通り過ぎていく。乗っている車のエンジン音が遠い。
 と、そこであることに気がつく。
 検査をした父さんが病室にいて、母さんはいなかった。どういうことだ? 母さんはどこにいたんだ? 
 一瞬で思い当たるべき、ある事実が頭の中をよぎる。でも、それが何か分かる前に、また分からなくなる。大きく息を吐く。落ち着いてこんがらがった頭をもう一度紐解いていく。
 母さんは……そう――認めたくはない。頭を何かで殴られたような気分だ――医者から説明を受けていた。父さん抜きで説明を……。それがどういう意味なのか。
 心臓が強く胸を叩いているのが分かる。強く握っているハンドルに額を擦りつける。息が止まりそうだ。
 確認すべきか……母さんに問いただすべきなのか? どうしたらいい?
 はーっと息を吐いて、空気を軽く吸い込むと、口の中がカラカラに乾いていた。唇が歯にくっつき、妙な味と臭いが舌を刺激する。強引に唾液を捻り出すが、それも徒労に終わる。
『目の前が真っ暗になった』
 昔、友達だか先生だかが、そう言っていたことを突然思い出す。正にそのとおりだった。けれど、そんなことを思い出している、どこか冷静な自分がいるのもおかしな話だ。そう思ったら、少しだけ落ち着いた。心臓の鼓動が穏やかになったのが分かる。ハンドルから額を離すと、うっすら濡れていた。汗をかいていたようだ。
 そこで母さんが戻ってきた。
「早かったね」
 口の中はまだかさついていた。
「お客さんがいなかったからね。から揚げ弁当で良かっただろ?」
「うん、ありがと」
 そう言おうとしたのに、喉の奥で舌がくっついて、言葉にならなくて、ただ頷くしかできなかった。
「どうかした?」
 じっと見つめてくる母さんに、作り笑いを浮かべることした出来ない。
 俺は気を取り直して、ウインカーをつけて周囲を確認する。
「出すよ」
 俺はアクセルをゆっくり踏む。
 聞くべきか、待つか……頭の中でそのことがグルグルと回っていた。

 家に帰ってから、台所のテーブルで母さんと向かい合って、ただ黙々と弁当を食べる。テレビも点けず、自分の咀嚼する音だけが、聞こえる。味は、よくわからない。不味いとも美味いとも思わない。そもそも食欲さえない。箸を動かす気にもなれない。半分ほど食べたところで、箸を置く。
「ごちそうさま」
「もういいのかい?」
「うん」
 母さんもそこで大きく息を吐いて、箸を置いた。母さんも半分も進んでいない。
「私は少し寝るね」
「昨日寝れなかった?」
 俺の言葉に頷いた母さんの顔は、少し青白かった。俺の方を向いた母さんの背中は、やけに小さかった。
「母さん」
 床の間に行こうとする母さんを呼び止める。
「なんだい?」
「えーと」
 言葉にならない。それを聞いてしまったら、どうしようもない現実に押しつぶされる気がする。
 母さんが何度もまばたきをする。目が赤く充血していた。
「やっぱ、いい」
「そうかい」
 きっと母さんはそれを口にしたら、いけない。俺はそれを聞いては、いけない。きっと溢れ出てくるから――。
 テーブルに突っ伏す。頭の中でちらちらと何かがよぎる。振り切ろうとして、顔をしかめて、頭を軽く振ってみても、それがなくなることはない。全身に残る倦怠感で体が重く熱い。張り詰めていたものが、途切れて、溜まっていた疲労感が一気に吹き出したようだった。そのくせ神経は昂ぶったまま、落ち着いてはくれない。
 俺は明日、帰るべきなのだろうか? 父さんを放っておいて帰ってもいいのだろうか? バイトとはいえこれ以上休むわけもいかない。どうすればいいんだろう?
 疲れきった体で考えても、思考はぐるぐる回るだけで、思い浮かぶことは何一つ無い。
 顔を上げると家の中が静か過ぎる。冷蔵庫の音でさえ気になる。だからなのか、学校帰りの子どもたちの高い笑い声が、いつも以上に家の中まで入り込んでくる。それが耳障りだと思いながらも、それはすぐに遠く、聞えなくなって、また静かになる。窓に目を向けると、西日が射し込んでいた。
 玄関で音がして、隆志が帰ってきた。
「バイトは?」
 台所に顔を出した隆志に、開口一番そう聞く。
「今日はないよ。それで、父さんは?」
「今日は検査だったらしい」
 わざと言葉を濁した。
「何かわかった?」
「検査もいろいろするみたいだから、まだはっきりとは分からない」
「そう……母さんは?」
 俺じゃ埒があかないとでも思ったのだろうか。隆志はイライラしているように見えた。
「寝てるよ。昨日眠れなかったんだろう。寝かせておいてやれよ」
「分かったよ」
 そう顔を膨らませて、隆志は台所を出て行こうとする。
「あ、隆志」
 それを俺は呼び止める。
「何?」
 やはり疲れてストレスが溜まっているのだろう。半眼の荒んだ眼差しを向けられて、一瞬戸惑う。
「いや……」
 何から言えばいいのか。隆志は何も言わないで、ただじっと俺を見ている。
「明日帰る予定なんだけど」
「ああ、なんだ」
 そんなことか、と言わんばかりに隆志は溜め息を吐く。
「帰ったらいいじゃん」
「いや、そうは言っても」
「仕事あるんでしょ?」
「まぁ、な」
 バイトだけど、と内心付け加える。
「別に今すぐに、どうこうってことはないんでしょう?」
 それは俺に向けられたようでもあるし、隆志が自分に言い聞かせているようでもあって、俺は軽く息を吐く。
「何が言いたいの?」
「なんだろうな。ただこのまま帰っていいのか……」
 隆志が苦笑する。
「別にいいんじゃない。気になるなら電話すればいいんだしさ。大体、帰らないと、父さんがどう思うと思う?」
「……怒る、だろうな」
「でしょ。帰りなよ。何かあったら連絡するし、また帰ってくればいいんだから」
 隆志にそんなことで悩まなくても、笑われているようで、少し安心している自分に気づく。このまま帰ってしまうと、冷たい人間のように自分が思えて、仕方なかったのかもしれない。
「そうだな。明日病院によって帰るか」
 そう返したら、隆志が微笑んだ。
「彼女に言われたよ。『ただじっと待つことが大事なときもある。自分のことをしっかりやっておかないと、いざというとき何もできない』って。だからそれでいいと思うよ」
 隆志が照れくさそうに頭を掻いた。
 良い彼女と付き合ってるんだな。
 会ったこともない、その彼女の言葉が素直に染み込んでいく。
「でも珍しいね。兄貴が俺に愚痴るのは」
「そうか?」
「いつも俺が、何か相談してばかりだったよ」
 隆志はと嬉しそうに口の端を軽く持ち上げる。もっといろんなことを話してきたと思ったんだけど、意外と隆志の話を聞くことのほうが多かったのかもしれない。
「そうすると、愚痴った兄貴としての立場がないな」
 俺は自分に苦笑する。
「そう言わないでもいいじゃん。俺だって少しは成長してるんだよ」
「それもそうだな」
 お互いに苦笑して、隆志はそのまま台所を出て行く。俺は台所のガラス戸が閉まるのを見ながら、ほっと息を吐く。
 予定通り、明日帰ろう。俺が残ったら、父さんはきっと気にして休まらないから、そうするのが一番いい。
 遠く、外から子どもの声が聞こえた。

     3

 翌日の十時過ぎ、父さんのいる病院に着いた。家を出る前に、母さんに一緒に来るか聞いてみたけど、
「私は、あとで行くから気にしなくていいわよ。家のこともしないといけないでしょ? 父さんとゆっくり話したら?」
 母さんは、そう軽く笑った。要するに父さんと二人にさせたかったようだ。母さんの気持ちが嬉しくもあったが、その裏を勘ぐるとなんとも言えなかった。考えるべきことじゃないのも分かってはいるんだけど……。
 母さんは「また帰ってらっしゃいよ」そう笑って送り出してくれた。
 病室に入ると、肝心の父さんの姿が無い。無人の白いベッドの上に窓から陽射しが差し込んでいるだけだった。一体どこに? と、ベッドの脇にある白い小棚に、メモ書きが置いてあるのみつけた。
『ちょっと散歩してくる』
 ちゃんと安静にしていてくれないかな――瞬間、そう思ったけれど、散歩する元気があるだけましなのかもしれない。
 今日の空は抜けるように高く、どこまでも青く広がっている。秋といっても、昼間はまだまだ温かい。こんな日だから、父さんも歩きたくなったのかもしれない。窓を開けると、そっと風が入ってきて、白いカーテンを揺らす。
 外を見渡すと、実家近くの山の緑が目に入る。ここからも見えるんだ。意外な気分にさせられる。目下には病院の駐車場や川向こうのパチンコ屋やホテルが広がる。道路を走る車や自転車が小さく動いていた。
 ここで待ってもいいんだけど――父さんに倣って散歩をしてみたくなった。すぐに戻ってくることもないだろうし、ぶらぶらと歩いてみるか。
 窓を閉めて、父さんの病室を出る。長い廊下を先まで見通すと、看護婦や患者が歩いていた。と、一人の三十代半ばくらいのすらっとした看護婦と目が合う。
「こんにちは。相澤さんのお見舞いですか?」
「ええまぁ。父を見舞いに来たんですけど、何か散歩に行ってるらしくて」
 俺は困ってはにかんでいた。
「相澤さんなら、中庭に行かれましたよ」
「あ、そうですか。それでその中庭って、どこに?」
「中庭は――」
 何となくこの看護婦に笑われている気がしたが、とりあえずエレベーターで一階へ降りて、売店の方へ真っ直ぐ行って、その売店を通り過ぎて、最初の角で右に曲がればいいと、教えてくれた。
「相澤さんにもさっき教えたんですよ」
「ああ。そうですか」
 親子揃って、同じ人に聞いたのか……そりゃおかしくもあるか。笑われるこちらとしては、釈然としないところもあるけど。
「それじゃちょっと行ってみます。どうもありがとうございました」
 お互いに会釈をして別れた。
 俺は病室の続く廊下を歩いて、一階に下りるためにエレベーターへ向かう。エレベーターが三台並ぶ乗り場には見舞いに来た人であろう、五十代くらいの女性や五歳ぐらいの男の子を連れた母親が、エレベーターを待っていた。
 入れ違いにはならないよな。
 そんなことを思ってエレベーターの階数表示を見上げたら、エレベーターの到着を告げるブザーが鳴った。

 右にある売店を横目に見ると、雑誌コーナーで立ち読みしている中年の男性患者や、弁当のコーナーでは女性の見舞い客が、おにぎりや弁当をカゴに入れ、その横で子どもがもの欲しそうにお菓子を見つめていた。他にも店内には、玩具や歯ブラシなどの日用品、パジャマや下着、見舞い用の花まで所狭しと並んでいる。そんな売店を通り過ぎて、直進する。
 もう少し明るく綺麗にならないものだろうか? 少なくともここは病院だというのに、蛍光灯は十分に明るくはなく、床も黄ばんで本来の色からは程遠く、どこか薄汚れているように見える。掃除をしているおじさんやおばさんがいるあたり、掃除はそれなりになされているのだろうから、単に長い月日がそうさせたのだろう。が、初めて来たときも感じたこの重苦しさは、今目の前に広がる光景も関係しているように思える。せめてもっと日の光が入るといいのに――肝心の窓はない。右には無機質で寄りかかると汚れてしまいそうなクリーム色の壁が、左には古く臭さそうなトイレがあるだけである。こんなところで本当に良くなるのだろうか。そんな気になる。医師や看護婦、スーツ姿の若い女性とすれ違いながら角を右に曲がる。
 この廊下には左右には窓があって、明らかにさっきと違って明るくなっていた。右の窓からは、温かい光が射し込んできている。こちらが中庭なのだ。芝生の緑が眩しく映る。左の窓の外へ目を向けると、雨に風に晒されて黒ずんだ病棟の外壁が飛び込んできた。これでは窓の意味がない。すぐ下で枯れてしまった雑草を見ながら、苦笑を浮かべる。見なければ問題ないか――。と、廊下の先で、中庭に出ようとする小学生くらいの男の子が目に入る。点滴を腕にしているから、ここの患者だろう。その点滴のせいでなかなか力を込められないのか、思うようにいかないようだ。その金属製の扉が重いのかも知れない。
「はい」
 その男の子の後ろから軽く扉を押してやる。光がこぼれて、風が中に入ってくる。男の子が俺を見上げて、驚いた顔をする。俺は扉を支えたまま、彼を外へ出るよう促す。
「どうもありがとうございます」
 男の子はにこりと笑って、点滴を片手で引いて中庭へ出た。
 俺も中庭へ出る。太陽が眩しい。そよぐ風を吸って、胸一杯に空気を肺へ送り込み、吐き出す。陰鬱としか言えない廊下を歩いてきたからなのか、重く沈んでいた気持ちが一気に解きほぐされていく。
 中庭は、コの字型に病棟に囲まれて、横の長い長方形の形をしていた。芝生が中庭一面に敷かれ、病棟に沿うように花や木々が植えられ、遊歩道やベンチまである。風に乗って漂ってくる金木犀の甘い匂いが、鼻にくすぐったい。花壇のコスモスも、ピンクや白い花を咲かせ、風に揺れる。つつじのような低木が並んでいる向こうは道路らしく、トラックが走っているのが見えた。そのトラックが走り去ると、コンビニの白い看板が目にとまる。空を見上げる。十階以上もある病棟はやはり高かったけれど、その向こうへ目を向けると、青く空は広がり、白い雲が流れていく。
 俺は一番近くのベンチに腰を降ろして、ぼんやり父さんを探す。医師、看護婦、患者、見舞い客を問わず、誰もがここにいるようだった。医師は患者と談笑し、看護婦が少年の座った車椅子を押す。その少年の顔には笑みがこぼれる。松葉杖の若い男性患者はベンチで休み、その隣には恋人らしき女性が、彼を気遣っている。ある意味、公園だな。ここには病院内の重苦しさが微塵もなく、リフレッシュできる。が、肝心の父さんの姿は見当たらない。降り注ぐ陽光で、体が火照ってくる。軽く汗をかいているのを感じて、黒のジャケットを脱いで、長袖の白いTシャツ姿になる。
「まったくどこにいるんだ?」
 思わずそうぼやいてしまった。やはり、入れ違いになったのかもしれない。ジャケットを膝におきながら、じっと父さんの姿を探す。と、こちらに歩いてくる父さんの姿を見つけた。患者さんは似たよう寝間着の格好の人が多いんだっけ。父さんの格好もそう変わらない。そんな当たり前のことに気がつく。立ち上がって、一歩踏み出そうしたときに、父さんの隣に若い女性がいるのが分かった。看護婦ではない。よくよくその顔を見る。
 神村真実? 何だって彼女が父さんと一緒に歩いているんだ? 俺は出て行ってもいいのか――何故か、次の足が踏み出せない。
 すると、父さんと目が合う。父さんの足が止まり、その眉間に皺が寄る。彼女も立ち止まった父さんの目線の先を見て、俺に気がつく。彼女が息を飲んだのが分かる。が、それも一瞬、どこか作った笑みが浮かび上がる。父さんが彼女に耳打ちする。きっと俺のことでも言っているだろう。
 仕方なく、俺は躊躇った足を踏み出す。芝生の柔らかな感触が足の裏に走る。お互いに歩み寄って、俺は彼女に挨拶をする。
「こんにちは」
「こんにちは」
 彼女も挨拶を返す。
「こちら、神村さん。俺の大学のときの友人の娘さんだ。この病院に親戚が入院されているそうで、中庭でばったり会ったんだ」
 俺は「どうも」と彼女に頭を下げながら、世の中は意外と狭いと、内心驚いていた。彼女も同じなのか、何か含んだ微笑を浮かべている。ふと、神村さんが先日、これから人に会う予定があったと言っていたのを思い出す。きっと、この病院に入院している見舞いだったのだろう。
「それじゃ、私はこれで失礼します」
 彼女の一礼に、父さんも頭を下げた。彼女は踵を返して、歩き出す。父さんは真一文字に口を閉じ、ただ彼女の背中をじっと見つめている。
「父さん?」
 呼びかけても、返事はない。彼女が扉を開けて中庭を後にすると、父さんはゆっくりと目を閉じる。そして、息を吐いて、またゆっくり目を開けた。
「父さん、どうしたの?」
 俺はもう一度呼びかける。すると、父さんは近くのベンチへ歩き出した。俺も仕方なく、その後に続く。
 それにしても、なんだって父さんは大学の時の友達の子どものことなんて知ってるんだ? 
「三ヶ月前にな――」
 父さんはベンチに座りながら口を開く。俺も父さんの隣に座る。
「あの子の母親が亡くなってな。葬儀には俺も行ったんだが……」
 そこで父さんは言葉を飲んだ。ああ、それでか。降ってわいたような疑問は消えた。それにしても、もしかして、今度は自分の番とでも思っているのだろうか?
「そんなに弱気でどうするのさ。それじゃ治るものも、治らないよ」
 俺は励ますつもりで言う。
「あぁ。そう、だな……」
 父さんはぽつ、ぽつと返す。父さんの視線の先は宙をさまよって、どこを見ているのかはっきりしない。ぼーっとしているというより、何か考えているようだった。
「透」
「何?」
 俺は父さんの次の言葉を待つが、父さんはただじっと俺を見て、何も言わない。それはほんの一時の間でしかなくて、父さんは俺から目を離して、
「いや、なんでもない」
 俺は父さんの言葉に頷く。そう言えば、この前も父さんが言い淀んでいた。話すことがあるなら、父さんのことだからきっと話すだろう。例え今は決心がつかなくても――。
 ちらっと腕時計を見ると、十一時を回ろうとしていた。
「そうか。今日帰るんだったな」
「うん」
「気をつけて帰るようにな」
「分かってる」
「退院したら、一度お前のところにでも行ってみるかな。引越しのとき以来行ったことがない」
 父さんが目を細める。その声はどこか明るいけれど、ちょっと寂しく聞こえる。
「そうだっけ?」
 俺は父さんのいない逆の方を向いて、しらばっくれた。目の前には金木犀があった。
「母さんも連れて行こう」
「隆志は?」
「隆志が来たいといえば、来ればいい。まぁ、隆志には彼女がいるからな」
「そう言えば、彼女がいたね」
 父さんと一緒になって、笑う。
「会ったことある?」
「ない。一度会ってみたいが、親と会うというのは、やはり難しいんだろう」
「良い子だといいけど」
「それは大丈夫だ。隆志を見てればそれくらい分かる」
 自信満々に言い切るところが父さんらしくて、思わず笑ってしまう。
「それより、お前はどうなんだ?」
「俺?」
 いきなり話題の矛先が、自分に向かって、ドキッとする。
「彼女はいるのか?」
「今はいないよ」
「今は、か」
 父さんのどこか含んだ言い方が、癪に障る。
「別にいいでしょ。俺のことは」
「そうむきになるな」
 楽しそうに父さんが笑う。父さんの少年の部分が顔を出したようでもあった。こういうときの父さんが俺は好きで、なんとなく反論する気も失せて、大きく息を吐く。
「まぁ早く孫の顔は見てみたい」
 父さんの言葉に、がくっと肩を落とす。やれやれだ。
「それじゃ、そろそろ行くよ。さすがにもう出ないと」
 俺は立ち上がって、父さんを見た。
「そうか」
「病室まで送ろうか?」
「いや、まだここにいる。大体、あそこにいると、気まで滅入る」
「わかった」
「事故にだけは気をつけるんだぞ」
 それは父さんが昔から、俺や隆志が出かけるときに必ず言い聞かせていた言葉だ。耳にたこが出来たけれど、煩わしいなどと思ったことは一度も無い。俺は父さんの言葉に大きく頷いて、歩き出す。風に流れてくる金木犀の香りにはっとして、胸いっぱいに吸い込んだ。
 中庭を出るとき、振り返って父さんを見る。父さんはまだベンチに座ったまま、目の前の幼い子どもを見ていた。病のことだろうか、俺のことか、母さんのことか、隆志のことか、いや、仕事のことか――何を考えているのか、俺には窺い知れない。その表情は、もっとどこか遠くの何かを見ているようでもあった。

     4

 病院の廊下に戻る。最初の廊下は中庭からの光が入ってくるからまだいい。それが、左に曲がった瞬間どうだろう。小汚く薄暗い廃墟に入ったような感覚に襲われる。この落差は一体なんだろうな。思わず息が洩れた。
 エレベーターを待つ医師や看護婦、見舞いといった人々を横目に、売店に差し掛かる。ちらりと売店を覗くと、神村さんの姿があった。一瞬、声を掛けようかと、足を止める。彼女は弁当コーナーで、立ち止まっていた。
 彼女は父さんと何を話した? そんなことが気になった。いや、父さんが彼女に何を語ったのか、か――父さんは彼女の母親が亡くなったのだと言った。「今度は自分の番かもしれない」などと弱音を吐いたのだろうか? そんな父さんの姿などこれまで一度も見たことはない。風邪をこじらせたときでさえ、「大丈夫だ」と気丈に振る舞い、残業までこなしてくるのが常だった。家族には見せることのできない弱みを、彼女には見せたのだろうか?
 彼女が弁当コーナーからドリンクコーナーへ動く。
 だけど、俺はそれを聞いてどうするのだろう? 聞いたところで、何も変わりはしない。それにそれは父さんのプライドを傷つけるのではないだろうか? 
 そう思ったら一気に興味がしぼんでいった。どうでもよくなった。
 歩き始めようとしたら、振り返った彼女と目が合う。ほんの一瞬の間の後、俺は軽く頭を下げる。それで十分と思ったら、彼女はこっちに歩いてくる。どうかしたのだろうか? こうなると俺としても、中へ入らざるを得ない。
「もうお話はいいんですか?」
「あー……」
 一瞬、父さんのどんなことを話したのか、聞いてみたい気持ちが、再び膨らんできたけれど、それは言葉にはならなかった。彼女が不思議そうに首を傾げたので、落ち着いて言い繕う。
「ええ。明日から仕事なので、帰らないといけないんですよ」
「そうですか……」
 彼女はどこか残念そうな表情を浮かべる。
「お父さん、大事にされてくださいね」
 彼女は真っ直ぐ俺を見据えて言う。
「あ……はい」
 まさか、彼女からそういう言葉が出てくるとは思っていなくて、少し返答に困る。あぁそうか、母親が亡くなったから――。内心そう納得する。
「それじゃ」
「呼び止めてすいません」
「いえ。それでは」
 軽く頭を下げて、俺は彼女と別れた。患者や見舞い客とすれ違いながら、真っ直ぐ歩くと、ガラス張りの玄関が辿り着く。外の光がやや黄ばんだガラスを通って注ぎこまれて、床を白く見せる。外に出たばかりの所は喫煙している人で溢れているのが見えた。自動ドアを抜けると、煙草の煙と匂いが立ち込めている。『スクエア』のレストランで、父さんが顔をしかめたのを思い出して、思わず顔をしかめる。別に煙草が駄目と言うわけでもないのだが、このときに限っては不快だった。
 足早にスロープを降りて、駐車場へ向かう。車に乗り込む前に、ポケットから携帯を取り出して、電源を入れる。
“今から帰る。杉原にもよろしく言っておいてくれ”
 石川に短くそれだけ打って、携帯を仕舞う。父さんが入院したことは、伏せておいた。石川のことだ、変な気を遣いかねない。
 車に乗り込むと、車内は少しばかり暑くなっていた。秋とはいえそれなりに、陽射しは強い。エンジンをかけて、窓を開ける。しばらくすれば、涼しくなるだろう。アクセルをゆっくり踏む。目の前を一台のタクシーが横切っていく。目の前には、黒く汚れた上に、所々にひびの走った白い外壁の病院が、太陽の光を浴びてそびえていた。

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