第五章

     1

 アパートに着いたのは夜も遅く、すでに十二時を回ろうとしていた。途中でファーストフード店に寄って遅めの昼食を摂ったのが悪かったのか、夕方の渋滞に引っかかってしまって、思った以上に時間が掛かってしまった。
 車をアパートの駐車場に停めると、エンジンを切って大きく息を吐く。
 運転中は父さんのことを考えていた。検査が終わらないと分からないと思いつつも、どこかに『そのとき』を覚悟している自分がいた。俺は父さんに何ができるんだろう? そんなことばかりぐるぐる考えていた。考えることに疲れたら、ラジオをつけて、何も考えないようにして、でもラジオは退屈なものが多くて、結局一時間くらいすると飽きて――結局それの繰り返しだった。
 車から降りると、足が地につかなくてふらついてしまう。渋滞のストレスも手伝って、どっと疲れが噴き出したようだ。後部座席からスポーツバッグを取り出して肩に掛ける。見上げると、光の洩れている部屋が、二階と一階にそれぞれ二つずつあった。学生アパートらしいと、言ってしまえばそれまでだ。明かりの点いている部屋の隣、二階の角部屋が俺の部屋だ。
 アパートの外壁に備えられた電灯がぼんやりと照らす金属の階段を、足音が響かないように上がる。アパートの狭い廊下を歩くと、隣の学生の住む部屋からかすかにテレビの音が洩れているのが聞こえた。点けっ放しで寝てるんじゃないだろうな。自分の学生時代を思い出して笑う。テーブルにつまみと飲み干した発泡酒が何本か転がっていて、カーペットの上でそのままなんてことがよくがあった。
 自分の部屋に入ると、どんよりと重く、底冷えしたような空気がまとわりつく。靴を脱いで、一歩フローリングの床へ踏み出す。靴下越しでも、床の冷たさが伝わってくる。実家の畳との感触の違いを感じながら、真っ先に電気を点ける。部屋の中央にぶら下がった蛍光灯が二度点滅したと思うと、ぱっと柔らかく淡いベージュの壁の九帖のワンルームの隅から隅まで明るくする。玄関横のワンコンロしか置けない小さな流し台に、その横には冷蔵庫と申し訳程度の食器棚が並ぶ。そんなキッチンスペースはアジアンテイストの茶色のカーテンで仕切って、リビングのスペースを確保している。そのリビングには、中央のガラステーブルを挟んで、テレビとベッドがある。枕もとには本棚があり、一番上の段にはミニコンポを置いて、その傍らにヘッドホンがある。キッチンスペースの反対側にはトイレと風呂がある。もちろん別々だ。
 バッグをテーブルの横に置いてベッドに腰を下ろす。一週間ぶりの自分の部屋は、なぜか無性に寂しい。冷たい空気が一段とまとわりついた気がした。静けさが妙に気になる。自分の心臓の鼓動さえ聞こえてきそうだった。父さんが買ってくれた腕時計をテーブルにそっと置く。しばらく秒針が動いているのをじっと見つめた。カチ、カチと音が聞きながら、そのままごろんと、ベッドの上に寝転がる。ぼんやりとした視界に、見慣れた、どことなく青みがかった灰色の天井が見えた。大きく息がこぼれる。と、尻に固い感触がして、パンツのポケットに携帯を入れていることを思い出す。
「そう言えば、母さんに着いたって連絡しないと」
 とはいえ、もう深夜だ。ポケットから携帯を出しながら、電話ではなくメールにする。
“着いたよ。父さんのことが何か分かったら、教えて”
 それだけ打って、母さんの携帯に送信する。『送信完了』を確認して、自分の携帯はコンポの横に置く。大きく息を吐くと、すぐに睡魔が襲ってくる。
「あー電気消さないと。風呂も……」
 そう呟いたところで、体は動いてくれない。疲れているというのもあるけれど、それ以上に虚無感が全身を巣くっているようで、何も考えられない。まぶたを閉じたらもうそのまま眠ってしまいそうだ。
 寝返りをうって、ちらっと風呂場の方を見たが、起き上がる気力なんてが沸いてこない――もういいや。目を閉じるとすぐに意識は落ちていった。

     2

 翌日、これまでと同じように、バイト先のジュエリーショップ『REI』で働いていた。ショッピングモールのワンフロアー、カジュアルなものからスタイリッシュなものまで、様々なセレクトショップがひしめく一角、白色の壁が眩しいのが『REI』だ。ブライダルジュエリーを始めとする高級宝石から安価なカジュアルアクセサリーまで幅広く取り扱う。
「いらっしゃいませ」
 白いワイシャツに黒のスラックスという格好で、俺は笑顔を意識的に浮かべて軽く頭を下げる。そんな俺の前を通って、手を繋いだ一組の若いカップルが店の中へ入っていく。平日の昼間から来るのは、フリーターか大学生か。いい加減、慣れたとはいえ、うらやましい。
 入ってきたカップルを目で追うと、ガラスケースの中のシルバーリングを見つめている。俺はすぐに接客する気になれず、ガラスケースを拭く。そのうち他の誰かが、接客に行くだろう。ガラスケースを覗くと、リングやブレスレット、ネックレスの白色灯を反射する光がキラキラと目に刺さる。
「相澤君。どうした?」
 店長の田宮さんが話し掛けてきた。俺よりずっと歳上の三十七歳で、いろいろ俺のことを気に掛けてくれる。
「いえ、何も……」
「そうか? 今朝から暗そうだ」
「暗そうに見えますか?」
「見える。ガラス磨きながら溜め息ばかり吐かれたら、そりゃ苦しく見える」
 田宮さんがあまりにもきっぱりと言うから、俺は思わず作り笑いをしてしまう。
「気をつけます」
 仕事をしてればそれなりに、気は紛れてると思っていたけど……駄目だな、俺。
 さっきのカップルを、女性社員の佐竹さんが人懐っこい笑顔で接客をしているのが、田宮さん越しに見えた。佐竹さんは確か三十くらいだと聞いている。聞いているというのは、単に正確な年齢を教えてくれなかったからで――やっぱり接客に行った方が良かったかな? また溜め息を吐こうとして、何とか堪える。
「ところでだ、腹減ってないか、相澤君?」
 田宮さんが俺の肩を叩いて、いきなり言ってきた。
「いえ……」
「減ってるよな。良し! 飯食いに行こう。飯。俺が奢ってやる」
「えっ? でも休憩はまだ……」
「いいんだよ。平日だから、そこまで客は来ないよ」
 それでいいのかと、思いつつも田宮さんに無理矢理腕を引っ張られる。強引に振りほどくわけにもいかず、「分かりました」と俺は仕方なく田宮さんに従った。目の端で佐竹さんが笑ったのが見えた。
「本当にいいんですか、抜けちゃって?」
 田宮さんを追いかけながら聞く。このショッピングモールは中心街にあるため、休日と比べれば大したことはなくても、平日は平日でそれなりの客足がある。現に、ウインドウショッピングしているような女性客やスーツ姿の男性とすれ違っている。そうそう店を空けていいものでもないはずだ。
「佐竹君がいるから大丈夫だ。それにそろそろ宮村君も来るよ」
「あ、そうなんですか」
 宮村さんは新人の女性社員で、俺よりも一つ上なのだが、彼女は今年入社してきたばかりで、俺のバイト歴の方がずっと長かったりする。
「あ、それで、宮村君はどう?」
 思い出したように、田宮さんが聞いてきた。
「どうと言われても……」
「相澤君のいない間、よくやってくれたんだよ。それで相澤君から見たらどうなのかなと思って」
 ああ、そういうことか。変な話だけど、田宮さんの指示で、宮村さんに細かいことを教えたのは、俺だったりする。そこで俺から見た、宮村さんの仕事ぶりを知りたいのだろう。もっとも、バイトが社員教育みたいなものをやるのも変な話だ――と、俺は未だに首を傾げている。
「研修を受けているだけあって、学生のバイトよりもずっとマシでしたよ。といっても、俺は会社の研修がどういうものか知りませんけど。最近は女性のお客さんとは仲良くなられて、常連になってもらっているみたいです。バイトの俺が、宮村さんにあれこれ言うのも変ですけど」
「そうか」
 田宮さんはうんうんと頷いて、嬉しそうな顔をする。それが妙に気になる。
「どうかしたんですか?」
「秘密だ」
「はぁ……」
「気のない返事だな。聞いてみたいとか思わないのか?」
「いえ、そう言うなら、じゃあ教えて下さいよ」
「飯でも食いながらな。それで何が食べたい?」
 田宮さんは、そう含んだ笑みを浮かべた。
「いや、何でも――」
「まぁ下に行くつもりなんだけど、何でもいいなんか言うなよ。それが一番困るんだから」
 俺の言おうとしたことは、あっさり封じられた。下というのは、ショッピングモールの地下のレストラン街のことだ。そこは大抵のものが食べれる。俺は少し胃に相談して、
「じゃあ、うどんで」
 食欲もないから、あっさりしたものが良い。
「分かった」
 田宮さんはじっと俺を見て、軽く頷いた。
 階段を下りていくと、そこはすぐレストラン街だ。時間は十一時を回ったばかりだけど、早めの昼食を摂ろうとしている人たちで、意外にも客は多い。田宮さんに連れられて、階段から一番近いところの『饂飩・丸や』に入る。
 カウンターしかない店内には、白髪の混じりの店の主人が、カウンターの中で新聞を読んでいるだけで、他の客の姿はない。
「いらっしゃい」
 主人は新聞を閉じて、口元に笑いじわを作って、俺たちを迎えてくれる。十席くらいしかないカウンターの真ん中あたりの席に、田宮さんと並んで座る。主人がすぐにお絞りとお冷を出してくれた。お品書きを見ていると、田宮さんが言った。
「好きなものでいいよ」
「はぁ」
 田宮さんがどういうつもりなのか、いまいちよくわからない。つかみ所がない感じで、落ち着かない。
「じゃあ、狐で」
 長々と選ぶのも失礼なので、適当に決める。値段もどれもそこまで変わりはない。田宮さんはちらっと、それでいいのか、という目で俺を見たけれど、何も言わなかった。
「狐と天ぷらを一つずつ。稲荷食うか?」
「あ、頂きます」
「じゃあ、稲荷寿司を二つ」
 主人は「はい、かしこまりました」と店の奥へ――、
「それでさっきの秘密というのは?」
「ああ、社員にならないか、といった話、覚えてる?」
「もちろん覚えてます」
「まだ、相澤君の気持ちは固まっていないのかもしれないけど、俺としては社員になって欲しいわけだよ。それで、俺としてはこれまでと違った、接客以外の仕事というのを任せてみたくなったんだ」
「それで、宮村さんを俺に?」
「そうそう。彼女とどうコミュニケーションを取るかとか、商品の知識とか扱い方をどう教えるかとか、知りたかったんだ。教えるといっても、何も知らないバイトと社員である宮村君を簡単に比べるわけにはいかないだろうけど、まぁ、社員になったら、バイト君を教育しないといけないわけだから。彼女も彼女で、研修やってるから、大体のことは分かっているはずだけど、他の人間から聞くとまた勉強になるだろうし」
「俺も宮村さんに教えたり、教わったり勉強になりました」
 うんうん、と田宮さんは頷いて、
「そうだろう。相澤君は人のことも良く見てるし、自分のことも分かってる。そういうところが良いね」
 改めて誉められると、少し照れくさい。背中がぞわそわとこそばゆくなる。
「それで、俺としてはぜひとも、これからも一緒に働きたいんだ」
 田宮さんが真剣に俺を見つめる。
「今度、新店舗を年末か来年の初めあたりにオープンする予定がある。上の方からそっちへ行ってくれないかと言われてて、相澤君を連れて行きたいんだ」
 俺は何も言えない。田宮さんがそこまで俺に目を掛けてくれていたなんて。嬉しいけど――
「マジですか?」
「本気だよ」
「でも田宮さんがいなくなると、ここはどうなるんですか?」
「佐竹君が店長になって、誰かあと一人社員が来ることになるだろうな」
「そうですか……」
 田宮さんがいなくなる。体から、すっと力が抜けていくのが分かる。
「ゆっくり考えてくれとは言えないが、できるだけ早い返事をくれ。まだ悩んでいるみたいだけど」
「……わかりました」
 そこで、主人が「お待たせしました」とカウンター越しに、黒いどんぶりを乗せた盆を俺に差し出す。盆には稲荷も一緒にあった。それを俺が頭を下げて受け取ると、主人が次に田宮さんに盆を渡した。
 箸をとって、両手を合わせる。
「いただきます」
 ずるずると、麺をすする。コシが強く、出汁が利いて美味い。田宮さんも「いただきます」と食べ始める。
「すまないな。何か落ち込んでいるときに話して」
「いえ……」
 どう答えればいいんだろう? 期待してもらえるというのは、嬉しい。でも俺の道というのは、これなのか? この仕事は、やりがいもあるし、向いていると思う。田宮さんの誘いに惹かれている自分を感じずにはいられない。それならどうして俺は、首を縦に振れないんだろう?
「相澤君は、この仕事好きか?」
「え?」
 突然のことで、田宮さんの真意がわからない。
「どういう意味です?」
「いや、何か、相澤君は就職するっているのを、難しく捉えてないか? いや、難しいっていうのは、なんだろうな……こんな時代だから社会的に難しいっていうのはもちろんあるけど、相澤君は自分で壁を作って、何か決めきれていない気がするんだ。自分で難しくしているっていうかさ。もっと単純に考えたらどうだ?」
 田宮さんの言葉に一言一言が、胸にすっと落ちていく。
「確かに、そうですね。確かに難しく考えているところがあるかもしれません」
「だからさ。もっと単純に聞いてみたんだ」
「単純にですか?」
「そう。もう一回聞くけど、この仕事好きかい?」
 好きかどうか、反芻して考えてみる。が、良く分からない。わからないというより、頭の中の整理がつかない。そのとき、唐突に父さんのことが脳裏をよぎる。と同時に、最悪のことが思い浮かぶ。開こうとした口は重く、うめいたような声が洩れた。
「好きですけど……でも、まだ、何か頭の中の整理が付かなくて……」
「そうか」
 田宮さんが、うどんへ箸を伸ばす。
「父が倒れたんです。まだ詳しいことは分からなくて……。だから、ちゃんと答えるのはもう少し先にさせてください。お願いします」
 俺は箸を置いて頭を下げた。ずるずると田宮さんがうどんを啜る音だけが聞こえる。そして、その音が止まって、
「心配だな。悪かったな。そんなときにいろいろ言って」
「いえ……」
 俺は稲荷をほお張る。酢が効いて美味い。どんぶりを口に近づけて、静かに汁を一口飲むと、口いっぱいに出汁の香りが広がり、喉がかっと熱くなった。

「あ、相澤君だ。お疲れ」
 食事から『REI』に戻ると、俺を見つけた宮村さんが子どもっぽい幼い声を上げた。ちょうど昼食時ということもあって、店内に客はいない。
「お疲れさまです。いないときは、どうもありがとうございました」
 俺はガラスケースを挟んで、宮村さんに頭を下げる。
「いいのよ。今度私が休むときに代わってもらうから」
 にっこり微笑む宮村さんに、俺は引きつった顔を浮かべるしかできない。
「あっ。でも、相澤君が社員になったら、そうも行かないか」
「そ、その話はまだ、考えてて……」
 なんとも居心地が悪い。奥で田宮さんと、佐竹さんがこっちを見ている。
「社員になるんじゃないの?」
「いや、まだ決心がついてなくて……」
 宮村さんからこんな話が出るのは予想外だった。
「相澤君は、この仕事嫌い?」
「え?」
 宮村さんがガラスケースを拭く手を止めて、俺をじっと見つめる。その彼女の瞳がふるふると揺れる。
「だから、嫌いなの?」
「好き、ですけど……?」
 あれ? 何だろう……どちらにも行くことができないように、何も考えられない。
「なら、本格的にやってみてもいいんじゃない?」
 いたずらっ子のように、彼女は笑っている。
 こんがらがっていた頭の中が、一気に鮮明になっていく。薄暗い灰色の靄が晴れていくように――。
「あはは」
 笑いがこぼれた。ああ、そうか。田宮さんは、これを狙っていたのか。頭の中がもの凄く単純なった。
「どうかした?」
 宮村さんが不思議そうな顔をする。そんなことをお構いなしに、俺は笑う。
 何を難しく考えていたんだ、俺は。そりゃ生活することも考えていかないといけないけど、俺はこの仕事が好きなんだよ。
「うん。この仕事好きですよ。はい」
 吹っ切れた。晴れ晴れとした気分だった。田宮さんを見ると、苦笑いを浮かべている。
「田宮さん!」
 俺はすぐに田宮さんのもとに走る。後ろで宮村さんがなにやら呼んだ声が聞こえたけれど、無視する。今を逃すと、またややこしく考えそうな気がした。
「はいはい。何かな、相澤君」
「さっきの話、気持ちは固まりました」
「うんうん。そうみたいだね」
「でも、もうちょっとだけ、待ってください。父の容態のこともあるので」
「分かったよ。でも、急いでくれよ」
「はい」
 きっぱりと言うと、田宮さんが穏やかに微笑んだ。

     3

 その晩、父さんの容態について知りたくて、実家に電話をかけた。三度ほどの呼び出し音のあと「今晩は。相澤です」と母さんが出た。
「もしもし。透だけど」
『透かい? 電話しなきゃいけないと思ってたんだけどね』
「うん。父さん、どんな様子?」
『咳が出るくらいよ。何かあったってことはないわ』
 母さんの声は不思議と明るく聞こえた。
 検査の結果は出たのだろうか? それだけが気がかりだった。
『透? どうかしたの?』
「いや……」
 一瞬だけ、迷った。目を閉じて、静かに息を吐く。
「検査の結果は出た?」
 思い切って尋ねる。
『えーっとね……』
 ほんの僅かな沈黙が長い。自分の心臓の音がバクバクと聞こえる。母さんの言葉がやけに遅く感じられる。
『それで、お前に電話しようって思ってたんだけど、大したことはなかったのよ。ちょっと働きすぎだったみたいね。過労だって。今週末には退院だから』
 それは軽く笑い声さえ混じっていた。ふっと肩の荷が下りる。
「なんだ……」
 張り詰めていたものが途切れたのを感じる。結局、俺の取り越し苦労だったようだ。
「安心した」
 それだけしか今は言えない
『そうかい……』
 向こう側で、静かに母さんが笑ったのが分かる。父さんが退院するなら、俺も言わねばならないことがある。
「あのさ……」
『なんだい?』
 これから言うことに、さっきとは全く別の理由で、胸が鳴っている。
「俺さ、今バイトしてるところで、誘われてて、それでさ、そこに就職しようって思ってるんだ」
 それだけ言い切ると、大きく息を吐く。
『確かアクセサリーとか売っているお店だったわね? 決心したのかい?』
「うん」
 大きく頷く。
「そこの店長さんが、熱心に誘ってくれて」
『そりゃ良かった。父さんも喜ぶだろうね』
「父さんには退院したら、ちゃんと報告する」
『そうしなさいね』
 そして少しだけ会話が止まる。俺が何も言えず、言葉を探していたら、母さんが俺の名前を呼んだ。
『透』
「はい?」
『しっかりやりなさい。それが一番父さん喜ぶから』
「はい。頑張ります」
 俺は力強く言った。そのあとお互いに「おやすみ」と挨拶して俺は電話を切る。
「なんてことは、なかったのか」
 一人で、あれやこれや考えて……自分が馬鹿に思えてくる。
「人騒がせだな、父さんは」
 ほっとしたら涙がこぼれそうになった。退院したら言ってやろう。少しは体を労れと。就職するから、安心しろと。
 俺は翌日、田宮さんに「よろしくお願いします」と頭を下げた。

     4

 父さんが退院して一週間が経った。
 仕事から帰って、ベッドの上でテレビを見ながらくつろいでいたら、携帯が鳴った。実家からだ。
「はい?」
『透か?』
 父さんからだった。
「何?」
『明日、お前のところに遊びに行こうと思うんだ』
「はぁ?」
 あまりにも突然の提案だった。
「父さん、体は大丈夫なの?」
『心配するな。せっかく、時間があるんだ。羽を伸ばす』
 退院した途端、これだ。父さんらしいといえば、父さんらしい。とはいえ、少しは堪えないものか? 年休がたまっているとかで、療養も兼ねて一ヶ月も長期休暇を取った――よく取れたものだけど。
「でも明後日、俺は仕事だけど」
『気にするな。ちょろっと遊びに行くだけだ。用件はそれだけだ』
「ちょっと、待って」
 そういう間もなく、父さんは電話を切った。
 元気な証拠といえばそうだけど、振り回すのは勘弁して欲しい。
「明後日? 早めに上がらせてもらえたりは、しないだろうな……思いっきり休んだばっかりだし」
 ちょっとした不安を感じて、溜め息を吐いた。

 客の少ない昼下がりの時間帯、店の片隅にある接客ブースで、俺と田宮さんは客の注文票を整理していた。接客ブースにはテーブルにソファが唯一置かれているので、客がいないときはこうして利用している。
「今日、父がこっちに来るらしくて」
 溜め息混じりに、田宮さんに愚痴を言う。
「昨日の晩に、いきなりですよ。いくら退院したからって、ちょっと元気すぎます」
「まぁ、そう言うものでもないだろう。元気ならいいことじゃないか」
「そうなんですけどね。でも複雑なものは、複雑ですよ。何て言っていいのか分からないですけど」
「親が来るというだけで、変に身構えることもないだろう? ちゃんとやってるなら」
 言われてみれば、それもそうだ。何に困っていたんだろう?
「それでその相澤君のお父さんは、いつ来るんだい?」
「それが、今日来るってだけで、電話が切れて」
 そこまで言ったときに、佐竹さんが「相澤君」と俺を呼んだ。
「はい?」
 俺はソファから立ち上がる。
「お客さんよ」
 佐竹さんが手で指し示した先を見て、言葉を失った。そこには父さんがいた。ノーネクタイの紺のスーツ姿で、旅行鞄を持って、父さんはいた。
 どうしてこんなところにいるんだ? いや、そんなことより、とりあえず父さんのところに行って、ああ、それよりこういうときって、「いらっしゃいませ」って頭をさげる方がいいんだろうか?
 体は自然と動いて、店先に立つ父さんの前へ行く。
「えーと、い、いらっしゃいませ」
 結局、半ば反射的にいつものように頭を下げた。父さんはそんな俺をじっと見て、大きく頷いて、中に入る。
 接客を代わってもらおうと、ぐるっと見渡す。田宮さんは思いっきり、目を逸らす。佐竹さんは姿も見えない。宮村さんに限っては、若い女性客を接客中だ。
「透」
 指輪の並ぶガラスケースを覗き込んでいた父さんが呼ぶ。
「はい」
 結局、俺がやるしかないのか……。
「母さんに指輪をプレゼントしたいんだが、何か良い物はないか?」
「母さんに? なんで?」
「結婚記念日が来月だ」
「あ、そう言えばそうだったね」
 とはいえ、父さんが指輪をプレゼントするとは、かなり意外だった。
「一応、先に聞いておくけど、指のサイズは?」
「十一だ」
「知ってるんだ……」
「当たり前だ」
 父さんの違った一面を見た気分だ。父親ではなく、夫としての一面を。
「こんなのはどう? 母さんがつけるならシンプルな奴がいいでしょ」
 ガラスケースを開けて、中からいくつか見繕う。捻りのあるもの、小粒のダイヤが一つ埋め込まれているもの、少しふっくらした幅を持たせた柔らかみのあるデザインのものをトレイに出す。
「この辺が似合うと思うけど」
「そうか……」
 父さんはじっとその三つの指輪を見つめる。あれこれと想像を働かせているに違いない。
「ちょっとそこにある奴も出してくれ」
 言われるまま父さんの指し示すホワイトゴールドの指輪を出す。細いシンプルなリングだ。
「これは安いな」
「これはホワイトゴールドだからね。さっき出したのはプラチナになるからね。四、五万は軽く違ってくるよ」
「見た目じゃ分からないな」
 唸る父さんが何か子どもっぽくて、息子の俺からすると見ていて楽しい。
「これなんかも良いんじゃない?」
 少し幅のあるリングの中央に、ラインがすっと入っているものを出す。
「これは母さんには似合わない。もっと柔らかい感じのものがいい。これは若者向けだろう」
 一発で却下されてしまった。俺はしぶしぶ、「なら、これは除外」と、その指輪をトレイの隅に追いやる。
 こんな感じで、出しては却下され、却下されなくても父さんは迷い、目の前には十個近いリングが並んだ。
「この辺りから、決めようか」
「そうだな」
「それで印象の良い奴を残していこうか?」
 絞り込まないと決まりそうにない。
「そうだな……これとこれはいい」
 これでデザインの太いリング二つが、隅に追いやられる。
「印象がいいのはこれなんだが……」
 父さんが選んだのは、細いシンプルなものと、俺が選んだ小粒のダイヤが慎ましやかに埋め込まれているものだ。
「しかし、他のもな……捨て難いんだ」
 ここまで優柔不断になる父さんも珍しい。腕組みをしたまま、指輪を睨みつづける。こういう客はよくいるから、見慣れた光景ではあるけど。
「似合いそうなのはこれで、デザインだとこれで」と、それから三十分くらい、父さんは迷い続けた。
「あ、この細いの、プラチナにもできるよ」
 そう伝えると、父さんは少しむっとして、
「それを先に言え。これじゃ安すぎるだろう」
 値段を気にしてたのか? 高い物を贈りたい気持ちもわかるけど、ホワイトゴールドでも三万はする。この前の時計といい、どういう金銭感覚なんだろう……? 
「プラチナになるといくらだ?」
「えっと、九万円くらいだね」
「それでも、お前に買った時計よりも安いのか?」
「そういう問題じゃ……別に高ければいいってわけでもないよ」
「それもそうだな。よし。これのプラチナやつにしよう」
 口の端をあげて、少し目を大きく開いた父さんは満足そうに見える。何だ、意外とあっさり決まったな。値段を気にしてたのか、安すぎるって……。
「ありがとうございます。それではこちらに」
 俺は父さんを店の奥にある、接客ブースに案内する。ブースにいた田宮さんが父さんが来たのを見て、「どうぞこちらへ」と立ち上がる。
「しばらくお待ちください」
 俺はそのまま注文票を取りに、隣にあるスタッフブースに行く。中では姿の見えなかった佐竹さんが、客のアクセサリーをクリーニングしていた。
「素敵なお父さんね」
「あれで、この前まで入院してたんですけどね」
「そうなんだ。元気になって良かったわね」
「ええ」
 俺はプラスチックケースに入っている領収書と注文票を取って戻ると、父さんは田宮さんと談笑していた。田宮さんは俺が戻ってきたのを見て、席を立つ。すれ違いざまに「じゃあ、よろしく」と、さっきまで整理していた伝票を持ってスタッフブースへ入っていった。
「何を話してたの?」
「お前のことを少し聞いて、よろしくお願いしますと頭を下げた」
 田宮さんが父さんに俺のことをどう話したのか、気にはなったけれど、そこまで聞く気にはなれなかった。
 父さんに事務的に注文票に住所、氏名、電話番号などを記入してもらう。それが終わると俺が、指輪のコードや材質、出来上がり予定日を書き込んでいく。ちらりと父さんを見ると、父さんは革製のこげ茶色の財布を開いて、札を数え始めた。きっと全部一万円札に違いない。カードはあまり好きではないのだろうな、と。
「一ヵ月後のお渡しとなります。結婚記念日までには間に合わせるよ。金額は八万八千円に、消費税を入れて――」
 俺はテーブルに置いてある電卓を叩く。そこに出た金額を父さんに伝え、その額を伝票に書き込む。
「十万円ある。確かめてくれ」
 父さんから渡された一万円札を数える。分割にもできたり、受け渡し時支払ってもいいのだが、この場で一括で払う辺りが父さんらしい。
「確かに十万円。お預かりしました。お釣りをお持ちしますので、しばらくお待ちください」
「ところで、これは郵送してもらえるのか?」
 立ち上がった俺を父さんが呼び止める。
「そうだね。なら、俺が送るよ」
「そうしてくれるとありがたい」
 嬉しそうに父さんが大きく頷くのを見て、俺は何かむずがゆい気持ちになる。仕事とは言え、父さんの助けになれているのが、嬉しい。
 スタッフブースに行くと、田宮さんから、
「今日はもういいよ。お父さんと何か美味い物でも食べて来るといい。せっかく退院されたんだから」
 と言われた。その田宮さんの声は明るい。
「いいんですか? 俺この前休んだばっかりですよ」
「いいよ。ただし、社員になったらこき使ってやるから、覚悟しとけよ」
 いたずらっ子のように田宮さんが笑う。
「ありがとうございます」
 俺は田宮さんに大きく頭を下げた。

     5

 秋の空気はいつのまにか冷たく、冬の足音を感じさせる。
「いいのか仕事は?」
「うん。せっかくだから休んでいいって」
 父さんと肩を並べて、アーケード街を歩く。プリクラやクレーンゲームが入り口に置かれたゲームセンターに、学校帰りの女子高生が四、五人で入っていく。騒がしい声と店内のスピーカーkら流れる男性アイドルの新曲を横に聞きながら、通り過ぎる。
「父親が来たくらいで休ませてもらえるのか? 大した仕事は任せてもらえていないんだな」
「どうしてそういうこと言うかな。ただの好意だよ」
「好意でも、休んではいけないだろうよ。就職する人間がそんなことでどうするんだ?」
「確かにそうだけど……」
 それで好意を断ると、人間関係が――言おうとしていた言葉を飲み込む。どう反論しても、父さんには通じそうもない。というか言い訳がましいだけだな。
 ティッシュ配りの若者から、父さんがティッシュを受け取る。
「認めてもらえるように頑張りなさい」
「分かってるよ」
 白衣姿の眼鏡をかけた中年男性が、派手に書かれた段ボールを持って、オレンジの看板の薬局から出てくる。
「これよりタイムサービスを始めます。ガム各種、五十円です! その他――」
 そう大きな声で道行く人々にアピールする。それにしてもなんだって、ガムなんだろう? 他の物の方がよくないか? 「いらっしゃいませ! いらっしゃいませ!」と繰り返す店員の前を通り過ぎる。
「お前にはああいう仕事はできないだろう」
「できるもの何も、やらないよ。うちは薄利多売ってわけじゃないし」
「そういう意味じゃない。ああいう仕事が任されたら、できるかということだ」
 ちょっと振り返って、頭を下げてはまた声を上げる店員を見る。
「ちょっと想像できないね」
 俺は自嘲気味に笑う。
「やれと言われたらやるだろうけど、あそこまで吹っ切ってやれる自信はないよ」
「そういうことだ」
「で、それが一体なんなの?」
 横のラーメン店の扉が開いて、中へ大学生らしき客が四、五人入っていく。豚骨の匂いが俺の鼻を刺激する。
「仕事と言うのは、嫌なことでもやらないといけないということだ」
「そりゃ、まぁ、当たり前じゃない?」
 意味が分からず父さんを見る。すると父さんはちらりと俺を見て、すっと目を細めて言う。
「それが口で言うほど楽でもないんだ」
「そんなもん?」
「そういうものだ」
 そして、父さんは「しっかりやりなさい」と俺の肩を軽く叩いた。その肩に残る感触に温かさを感じる。
「頑張るよ」
 父さんは俺の言葉に大きく頷く。
 そのときだった。父さんは大きく咳き込んだ。そのまま、歩みを止めて、胸元を抑えこむ。
「大丈夫?」
 うめくような声が父さんの口から洩れる。どうしていいか分からず、俺は父さんの顔を覗き込む。これでもかというほど眉間にしわがより、目をぎゅっと閉じている。そして、息を止めていたのか、堰を切ったように大きく肩で息をし始める。
「ほんとに大丈夫?」
 額に脂汗を滲ませて、父さんは呼吸をゆっくり整えようと、不規則に息をする。
「どこかで休む?」
 父さんは胸を抑えたまま無言で首を横に振る。大丈夫だと言わんばかりに――。
「心配するな」
 そう言う父さんは息も絶え絶えで、苦しそうなのは変らないけれど、少し落ち着いてきたようだ。
「病み上がりなんだから、無理はしない方がいいよ」
「ただの副作用だ」
 父さんは一度大きく息を吐いて、体を起こす。それでもまだ息は完全に整っていない。
「もう大丈夫だ」
 父さんの額に滲んでいた脂汗が、滴になって頬を伝って落ちていく。
「でも――」
「医者から説明を受けているから、気にするな」
 父さんは大きく息を吐く。呼吸も大分元に戻って、先ほどより幾分かは楽そうだ。俺はほっと安堵する。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫だと言ったら、大丈夫だ」
 そう吐いて、父さんは歩き出す。一度言い出したら聞かない人だから、そこが父さんらしい。苦笑を浮かべて息を吐くと、すっと肩の力が抜けていくのが分かった。俺はゆっくり父さんの背を追う。
「それで今日はどうするの?」
 トラックが脇道から入ってきて、先に歩みを止めた父さんと俺は肩を並べる。
「そうだな。お前の家に泊まるつもりだったが――」
 そこで父さんは言葉を止める。目の前をトラックが通り過ぎていく。さらに白い軽自動車があとに続く。
「こう心配されてはかなわないからな」
「苦しそうにされれば、そりゃ……」
「我が子から心配されては、親として立つ瀬がない」
 この親父は……。そんなプライドどこかに捨ててくれ。どれだけ心配をかければ気が済むんだろう?
「そんな顔するな。それとも泊まった方がいいか?」
 そう言われると、躊躇してしまう自分がいる。
「本当に大丈夫だから、気にするな。お前が仕事を真剣にやっていることが分かって良かった。安心できた」
 そう笑った父さんの顔を見ると、俺は認められた気がして、嬉しい。俺が一番認めて欲しかったのは、父さんなのかもしれない。
「わかった。じゃあ駅まで送るよ。それくらい、いいでしょ?」
「ああ、頼む」
 他の歩行者と一緒に、父さんと一緒に、俺は一歩踏み出した。

 それから一ヶ月ほどして――その間、履歴書を送り、面接を受けて――仕事から帰ってくると、正社員の合格通知が舞い込んでいた。季節もいつのまにか冬らしくなって、やけに冷えた部屋の中で、俺はその封筒を開けた。
 正直なところ、あまり実感がわかない。田宮さんが動いてくれたのだろうから、自分の力という気がしないというのもある。それでもとりあえず、実家に電話をかける。
「もしもし?」
『こんばんは。相澤です』
「母さん? 透だけど」
『どうかしたのかい?』
「うん。とりあえず、就職が正式に決まったから」
 そう自分で言って、意外と大したことがないことに気がつく。受験のときの喜びとは相当違う。こんなものなのだろうか?
『ああ。それは良かったねぇ。お父さんも喜ぶよ。何かお祝いしないと』
 その一方で、母さんの声は明るく、心底喜んでいるのがそれだけで分かる。
「うん。ありがとう。それで父さんは?」
 とにかく、父さんには真っ先に伝えたい。心配していてくれたのだから。
『それがねぇ、もう寝ちゃってるんだ』
「早いね。まだ九時だよ」
『疲れたが溜まってるんだろうね。この前も二人で温泉に行ったから』
「ああ。それはよかったね。隆志も行ったの?」
『留守番だよ。二人で言った方が気が楽だし、彼女と一緒にいたいだろうし』
「なるほど」
『父さんには私から言っておくよ。しっかりやりなさい』
「うん。じゃあね」
『はい。おやすみ』
「おやすみ」
 俺は携帯を切った。なんだかんだ言ってもほっとした。

 それから二ヶ月経たない頃、年末も近づいて、仕事もすっかり忙しくなった。帰ったのは今日も、十時間近――のんびり焼酎でも呑もうかと考えながら、テレビを点けたときだった。突然携帯が鳴った。母さんからだった。『今すぐ帰ってきなさい。父さんが倒れて……』――何故かあまり、驚かなかった。

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