第六章

     1

 高速に乗って、父さんの運ばれた大学病院に着いたのは、深夜の三時だった。
 時間外受付で、相澤孝道の息子であることを告げて中へ入る。薄暗い病院のロビーにカツカツと、自分の足音が響き渡る。この静けさが、俺の不安を掻き立てる。心臓の鼓動は速く強く脈打っている。待合のソファにぽつんと人影を見つける。隆志だった。
「父さんは?」
 隆志は首を横に振るだけで、何も答えなかった。
「透、来たんだね」
 後ろから母さんの声がした。
「父さんは?」
「今から会いに行こうか、透」
 母さんがそう穏やかに、はっきりと言った。暗くてよく見えなかったけれど、泣き笑っているように見えた。
 俺は間に合わなかったのか? そんなことあるはずが――踵を返す母さんのあとを追う。
 静かで暗い病院は、命の匂いがしない。どこか別の世界にでも来た気分になる。長く続く廊下は、地獄へ続いているかのような錯覚に酔う。歩くたびに、ぼんやり光る緑の非常灯が揺れ、激しく胸を叩く心臓が肺を押し潰し、息苦しさを覚える。
 まだ大丈夫だ、と自分に強く、何度も言い聞かせる。けれど、殆ど確信に近いものが頭のどこかで渦巻いて、消えることはない。強く奥歯を噛み締め、拳を握り締めたけれど、震えが止まらない。はっきりとこの先にある答えを予感しながら、ありもしない希望にすがっていることは分かっている。ただ、まだ覚悟ができていない。
 胸を抑えて、大きく息を吸い、ゆっくり吐き出していく。吐く息と比べて、吸う息はどうしてこんなに冷たいんだろう。肺の中まで白く冒されて、それが血管を通って脳にまで浸透していくかのようで、不意に目の前が白くぼやけて、足が止まる。
 父さん……。
 右手の窓から白く差し込む月光の中に、父さんが、丸い月を頭上に浮かべて佇んでいた。何か言いたいのに、父さんに触れたいのに、金縛りにあったように、体は動かず、言葉が声にならない。父さんは、目を細めて、微笑んで、一度だけ頷いて歩き出す。
 すれ違い様、父さんが俺の右肩にそっと手を置いて――行かないでくれ――俺の言葉の代わりに、父さんは何も言わないで歩いていく。いや、父さんは何か言ったのかもしれない。それを俺が聞き取れなかっただけで……。けれど、それは確かに、この肩の感触は父さんのものだから――俺は振り返る。そこには誰もいない。ただ長い廊下が続く。右肩に優しく置かれた父さんの手の感触が、薄らいでいく。月は流れてくる雲に隠れたのか、辺りは再び深い青に染まる。
「透、行くよ」
 先を行く母さんが振り返って、俺を呼んだ。夢だったのだろうか? 月は再び顔を出して、光が窓から差し込む。
 エレベーターの乗って、集中治療室のある三階へ。三階のロビーから病棟へ入る前に、手を洗い、マスクをする。自分の心臓の音が聞こえる。覚悟は、まだ出来ていない。
 暗く、長く続く廊下に並んでいる病室のちょうど真ん中あたりから、ぽつんと電灯の明かりが洩れていた。ああ、父さんの部屋はあそこか。一瞬そこまで歩くことに戸惑う。見たくない。逃げたい。けれど――先を行く母さんのあとを追って、俺はゆっくり一歩を踏み出す。それはすぐに早足になって、父さんの居る病室に入る。
 父さんは白いベッドの上で静かに眠っていた。チューブが繋がれていることもなく、ややこしそうな機械も液晶もない。ただ枕元のラジカセから父さんの好きだと言っていたサントラが流れていた。母さんが持ち込んだのだろう。CMでも流れていた曲だけれど、俺はその映画を見たことはなかった。
「透が来ましたよ」
 じっと父さんの寝顔を見つめる。涙がこぼれてきそうで、まぶたを閉じると一滴、頬を伝って落ちた。
「肺癌だって。脳にまで転移して、手の施しようがなくて。この前倒れたときにそう言われた」
 それを聞いても、驚かなかった。やっぱりなとしか思わなかった。結局、あのときの予想は当たっていたのだから――。
「でもどうして、教えてくれなかったの?」
「父さんが透にだけは、教えるなって。隆志にも本当に悪くなるまで隠してた」
 母さんが慈しむように父さんを見つめる。父さんは今にも起きてきそうで、ただ眠っているだけにしか見えなくて、静かに流れるサントラが空しくてしかたない。
「あなたたちに心配かけたくなかったのよ。とくに透は就職したんだから、大事な時期だからって」
 どうしてそんなことを――いや、ただただ、父らしい。
「透のことが心配だったよ。きっと会っておきたかったんだろうね」
 それを聞いて、有無を言わせなかった「帰って来い」という、数ヶ月前の電話を思い出す。
「そんなに前から分かってたの?」
 母さんは俺を見て、静かに頷く。
「自覚はあったんじゃないかしらね。今思えばそんな気がするけど、それが本当に分かったのは、初めて倒れた時だから、これじゃ、この人の奥さん失格ね」
 母さんの目から涙がこぼれる。
「その時計も、本当は就職祝いのつもりだって、言ってた。『俺はいつ死ぬかわからないから、早くに買ってやったんだ』って、このベッドでね」
 左手を持ち上げて、時計を見つめる。銀色に輝く時計がずしりと重い。
「ありがとう、父さん」
 俺は右手で、父さんの左手を握る。まだ温かいけれど、握り返してくれることはない。もうそこに命が無いことは明らかだった。けれど、さっき優しく肩に置かれた手は間違いなく、この手だった。そっと左手で自分の右肩を撫でて、強く強く握った。
「温泉はどうだったの?」
「楽しかったわよ。二人っきりで旅行したのは、本当に久しぶりだったし、家族風呂っていうのがあるじゃない。そういうのにも入ってね。ずっと行きたがってたから、それが叶って良かったわ」
 涙を拭った母さんの左手の薬指に、きらりとリングが光る。
「その指輪さ。父さんがわざわざ俺の店にまで来て、選んだ奴なんだよ。一時間くらい悩んでさ」
「そう。ありがとう」
 母さんが顔を父さんに近づけて、指輪を右手でさすりながら言う。
「温泉から帰ると、父さん、すっかり弱って。どうしていいか分からなくてね。苦しそうで、何度病院に行って、薬もらって」
「入院は?」
「末期患者を受け入れるわけがない。どうせ断られるのが落ちだ、って聞かなかったわ。家に居たいって。新薬の実験体になって、意味のわからない延命なんかごめんだ、とも言ってたわね」
「父さんらしいね」
 俺は苦笑した。きっと家で逝きたかったのだ。確信めいたものがあった。そう考えるのが父さんだから――。
「発作が出るたびに、見てられなかったわ。ここ一週間くらいで食事も出来ないくらいに一気に衰弱して、それでしかたなく入院したんだけど……今日、大きい発作があって、それであっけなく逝っちゃった。透に電話かけて良かったわ」
 母さんは涙を流しながら、語った。
「そんなに酷かったの?」
「透は見たことがないからわからないだろうけど……もう苦しくないよね」
 母さんが父さんの髪を撫でる。母さんがほっと落ち着いている訳が、分かった気がした。
「何か、馬鹿だよね」
 何が馬鹿だったのかわからないけれど、馬鹿だと思った。
「そうね。馬鹿な人ね」
 穏やかな顔をして、父さんは眠っている。
「さぁ帰ろうか。ちょっと先生を呼んでくるから、隆志を呼んできて」
「分かった」
 俺は病室をあとにして、再び青く暗い廊下を歩いて、エレベーターへ。
 一言、帰って来いって言えばいいのに。別に就職したからって、そんなこと……。どうして父さんは最期まで頑なに、俺には教えてくれなかったんだろう。最期なんだから――じっと腕時計の秒針を見つめる。カチカチと音を立てているのが、聞こえてくるようだった。
 エレベーターから降りて、ロビーへ行く。隆志はさっきと同じように、座っていた。
「帰るって」
「分かった」
 隆志はそう頷いたものの、立ち上がろうとしない。
「俺さ、何もできなかったよ。父さんが苦しんでいるのに」
 仕方なく、隆志の隣に腰をおろす。
「それを言い出したら、俺なんて、傍にさえいなかった」
「何度も兄貴に電話しようと思ったけど、出来なかった。父さんが絶対にするなって。なんでかな? 就職したからって、そんなの――」
「何でだろうな。俺にもわからないけど――」
 ああ、そうか。唐突に閃く。
「父さんの中では、俺との別れはもう済ませていたのかもな」
「何で?」
「この時計さ、父さんが買ってくれたんだ。それに、退院してからすぐにうちの店にまできたんだ。だから――」
 根拠なんてないけど、何故かそう思えた。
「お前にも思い当たることがあるんじゃないか?」
「俺?」
 俺はゆっくり頷いて、続ける。
「母さんとは温泉に行ったし」
 隆志は何も答えない。非常口の緑の蛍光灯が、怪しく輝いているのが目に入る。
 隆志は父さんから何をしてもらったのか、思い当たらないのか語らなかった。その代わりに、
「父さんは彼女に会わせろって、あんまり煩いから、家に連れてきたよ。そうしたら、俺のことよろしくお願いしますだって。父さん、頭を下げてさ」
「そっか……」
「でも、父さんが本当にどうして欲しかったのか分からないんだ」
「父さんは自分のやりたいことは、自分でする人だから、やりたいことは全部もう済ませたんだろ。やり残したことなんて、何もないんだから。だから――」
 最期まで父さんは父さんだった。そんな父さんを誇りに思う。
「そんなことは気にするな。それを気にするなら、ちゃんと卒業して、就職しろ。俺みたいにならないのが一番良いさ」
「それもそうだね」
 隆志が力なく笑う。
 こつこつ母さんがやってくる足音が、青く薄暗いロビーに響いた。

     2

 翌朝、母さんは葬儀の準備で、あれやこれやと忙しく動き回っていた。家の中は朝早くやってきた叔父夫婦と従兄弟を始めとする親戚でいっぱいになった。昨日のうちに母さんが電話を入れたのだろう。隆志は居間で座るその親戚に、お茶を配っている。
「何かすることある?」
 俺は台所で葬儀社との打ち合わせが一段落したのを見計らって、母さんに尋ねた。
「そうね。遺影に使う写真を探してきてくれない?」
「分かった」
 気丈な――いや、感情が動いていないだけかもしれない。どこか事務的な母さんを見ながら、そう思った。悲しんでいる暇などない。
 我が家のアルバムは父さんの部屋にある。玄関を通って、その先にある父さんの部屋へ向かう。ドアを開けて――くるっと椅子が回って父さんが振り向く。そんな記憶が蘇るけれど、椅子が回ることはなくて、そこには、窓から差し込む光に照らされた机が、ただぽつんと寂しそうにあるだけで――ふっと風が頬に触れて、ハッとする。わずか四畳の部屋を前に、俺はただ立ち尽くしていた。もう誰もいないんだ。その事実が、胸から指の先にまでじんわりと染み込んでいく。目の前が涙で潤んで、こぼれないように天井を見上げる。
「写真探さないと……」
 心はバラバラになって、動かない。ただ、何も考えずに動けばいい。
 アルバムは、父さんの机の隣のこげ茶色の大きな本棚に並べられている。几帳面な父さんだから、左から年代順だ。古い物から見ようと思って手を伸ばして、止める。
 意味はない。そう、意味はない。最近のものから、良いやつを見つければいい。そう自分に言い聞かせる。
 俺は一番新しい奴を手に取ると、畳の上に腰を下ろして、アルバムに見入る。
 パラパラと開くと、スーツ姿の俺の写真が出てきた。その下には、俺を中心に家族全員が揃った写真がある。
「成人式のときのやつか。初めて見るけど」
 成人式に出席する姿の俺を家の客間で撮って、その後、『別にいいよ』と反対する俺と隆志を『せっかくだから』と、父さんが強引に家族皆で写真を撮ったんだ。『もう透もそうそう帰って来ないだろうしな』と、父さんは言って――その通り、俺は帰ってこなくなった。
 写真の父さんはいつものように気難しい顔ではなくて、どこか優しく見える。気のせいだろうか?
 さらにめくると、次は隆志の成人式の写真だった。そこに俺の姿は、もちろんない。俺のいない家族写真――ファインダー越しに父さんは何を思ったのだろう?
 そして、母さんと二人で温泉に行っていた写真が出てくる。
「楽しそうだな」
 二人は旅館の前で、肩を並べて笑いあっている。思えば父さんの容態はこの頃にはもうすっかり悪くなっていたのだ。随分と痩せて、弱々しく見える。他にも、橋の上だとか、滝をバックにしたものもあったけど、それが終わるとあとには何もない。ただ空白が続くだけで、ここに父さんは、もう二度と写ることはなくて、そう思うと泣けた。
 顔を上げると、そこには父さんの座っていた机と椅子があった。俺の一番古い記憶が蘇る。
 四歳ぐらいの記憶で、いまいちはっきりしないけれど、仕事をする父さんをこうして見上げている。父さんは差し込む光を背にして、俺を見て笑っていた。ただそれだけ。俺は何をしていたのか、父さんが何を言ったのか、何も覚えていない。逆光で、父さんがどんな顔をしていたのか、かすんでよく見えないけれど確かに笑っていた。そんな父さんに俺は微笑み返した。
 椅子に座って、父さんの机を見る。ここに座って、父さんは何を思ったのだろう? 蛍光灯がつけられているだけで、机の上には何もない。父さんが生前に片付けただろうか? いつもなら、ファイルやら書類が並んでいた。
 引出しを開ける。筆記具やハサミ、のりといった文房具が入っていた。ドライバーまである。次の引出しを開けると、山のように封筒が入っていた。レターボックスとして使っていたようだ。全く整理されていない。読み終えた手紙をぽんぽん放り込んでいたのだろう。父さんのことだから定期的に整理していたのだろうけれど、ちょっと意外だった。ふと、隆志の大雑把さは、父さんのこういう面が悪い方に出たような気がした。
 閉めようと引出しを押すと、奥で何かが引っかかって、上手く閉まらない。仕方なく、もう一度開けて奥を覗き込むと、白い封筒があった。引出しを完全に出して、その封筒を取り出す。引出しを戻しながら封筒を見ると、『相澤孝道様へ』と父さんの名前が丁寧な字で、書かれていた。何気に封筒を裏返して差出人を見て、俺は軽く驚いた。
 ――『神村真実』
 父さんと彼女は、そんなに親しかったのか? 意味が分からない。少しだけ躊躇して、封筒から便箋を取り出した。

“相澤孝道様へ
 
 先日は、私の母、貴子の葬儀に参列して頂きありがとうございました。
 この度、相澤さんに一つお聞きしたいことがありまして、筆を取った次第です。

 私には父がおりません。母が一人で、私を育ててくれました。私の父親については、私が尋ねてもほとんど何も答えてはくれませんでした。いつのことははっきりと覚えてはいませんが、母はただ一度だけある男性の写真を私に見せて、『この人が真実のお父さんよ』と話したことがありました。

 葬儀のときあなたにお会いするまで、その写真の男性のことは、忘れておりました。けれど、あなたを一目見た瞬間に、分かりました。
 その写真の男性は相澤さん、あなたであったと。
 葬儀のとき、何一つお話できませんでしたが、私はもう一度あなたに会いたく思います。
 私と会ってくれないでしょうか?
 ただ相澤さんと会って、幼い頃からけじめをつけたいのです。
 相澤さんのご家族には、一切ご迷惑をかけません。
 よろしくお願いします。

 神村真実”

 僅か一枚の便箋の残りに、彼女の連絡先が書かれていた。
 世界が止まった。
 訳がわからない。
 父さんは真面目で、実直で、厳しい人だった。ありえない。なら、この手紙はなんなんだ? 
 消印を確認すると、俺が父さんに言われて帰ってきた頃だった。
「兄貴、写真良いのあった?」
 突然、隆志が入ってきて、ビクッと体が震える。
「どうかした?」
「驚いただけだよ」
 俺は落ち着きを装って、便箋を封筒に入れて引出し返す。隆志がこちらに近付いてくる。
「何してたの?」
「写真が引出しの中にも、あるかなって」
 引出しを戻しながら、苦しい言い訳だと自分でも思う。
「それで何か写真あった?」
「こっちにはなかったけど、とりあえず最近の奴を見てみた。俺の成人式のときとか、この前母さんと温泉に行ったやつとかいいかなって、思ったけど」
 それ以上、突っ込むことなく、隆志はアルバムを手に取る。その様子に、俺はほっと胸をなでおろした。
 写真は結局、「これが一番、父さんらしいわね」という母さんの一言で、俺の成人式のときのやつに決まった。

      3

 斎場での通夜も終わって、葬儀社の出してくれた車で実家に帰った。
 通夜には、生前の父さんの仕事関係者が多く来ていた。市役所勤務だったからなのか、市長からも弔辞が届いていた。通夜の間中、俺はずっと神村さんの手紙が、頭の中をぐるぐる回っていた。
 居間の明かりが、開けっ放しのふすまから薄暗い和室に差し込む。家の仏壇には、父さんの遺影が置かれている。仏壇の横には、父さんの眠る木目の白い棺がある。家には母さんと隆志と俺の三人だけ。親戚はホテルがあるからと、戻っていった。騒がしかった家の中が嘘のように静まり返っている。母さんは棺を前にじっと座って、父さんの遺影を見つめていた。そんな母さんの背は、小さく寂しく見える。
「疲れた?」
 俺はふすまに背中をあずける。
「そりゃね」
 振り向いて、張り詰めていた緊張もほどけたのか、母さんはどこかほっとしたように力なく笑う。
「でも、皆、ホテルに泊まってくれて助かったわ」
「そうだね。叔父さんのとことかまで家に来たら大変だよね」
 母さんが大きく息を吐いた。
「明日も忙しいから、早く寝ないとね。隆志は?」
「お風呂」
「ならその後、入って寝るわ。それでいい?」
「いいよ」
 母さんが立ち上がって、和室の電気を点ける。瞬く間に、和室が明るさを取り戻す。そして母さんは振り返って、棺を覗き込む。何も言わないまま、しばらく父さんを見て、
「今にも起きてきそうなのにね」
 それだけぽつりと、吐いた。俺も棺の傍まで来て、父さんを覗く。白い顔をして、目を閉じた父さんが、そこにいた。
「眠ってるだけにしか見えないね」
 目頭が一気に熱くなるのを感じる。せき止めていたものが、溢れてきそうになる。
「透はここで父さんと一緒に寝てくれない? 母さんがここで寝るのはきつくて。布団はあとで置いておくから」
 母さんの声はどこか震えていた。
「分かった」
 俺が答えると、母さんは頷いて、和室を出て行った。
 棺の中で穏やかに眠る父さんを見つめる。本当に死んだのか怪しくなる。病院で握った父さんの手の感触が蘇る。父さんの手にはすでに血が通っていなかったけれど、自分の手と父さんの手の温かさはほとんど違わないのに、もう魂が宿っていないことが分かるには十分すぎるほどだった。それでも、こうして見る父さんはただ眠っているようにしか見えない。
「父さん……あの手紙は本当?」
 声を掛ければ目を醒ましそうなのに、返事が返ってくることはなく、俺の呟きはただ空しく聞こえた。

 翌朝、親族が実家に集まってお経を読んだあと、郊外にある火葬場へ――。空は青く、冬なのに温かった。
 マイクロバスに父さんの棺を載せて出棺する。「あんたがもっていなさい」と母さんが遺影を渡してきた。母さんが持つべきだと思ったけれど、断る理由は思いつかなくて、俺は遺影を胸に抱えて、助手席に乗った。位牌は隆志が持っていた。
 マイクロバスは座り心地が悪く、少し揺れた。後部座席に乗った叔父と隆志がなにやら話している声が聞こえてきたけど、はっきりとは分からなかった。俺はぼんやり車窓から見える山並みを見ながら、何も考えないようにしていた。いや、考えることさえも、面倒だった。
 バスは、国道を通って市街地を抜ける。きっと誰もこれが、霊柩車だとは気がつかないだろう。金色の派手なものだけが霊柩車だと思っていた。ビルやマンションを見なくなると、窓の外にはのどかな畑が広がり、遠くに住宅地が見えた。走る車の数もまばらになってきた頃、ビニールハウスが並ぶ狭い道に入る。緑の山なみの向こうに、青い空が広がった。バスはそれから三十分ほど走って、山あいにある火葬場に着いた。
 バスから多少疲れたように、誰もが降りてくる。敷地はぐるりと植え込みに囲まれて、外から施設が見えにくいようにしてある。駐車場はやけに広かったけれど、停まっている車はほんの数台しかなかった。高い煙突でもあるかと思っていたら、そうでもなくて、目の前にある施設は旅館を思わせる。
 中に入ると、どこかの高級ホテルのような雰囲気で、天井は高く、床には塵一つ落ちていない。目の前には乳白色の壁がそびえ、横に長く回廊が続く。その壁には正方形の観音開きの金属製の扉が、二、三メートルほどの等間隔で並ぶ。ああ、父さんはここに入るのか――そうすぐに分かった。静かで、何故か人の気配があまり感じられない。
「随分と立派になったもんだ。建て替えたんだろうな。前に来たときはもっとぼろかった。煙突もあったな」
 後ろで感嘆する叔父の声が聞こえた。
 施設の方に連れられて、奥の告別室へと入る。母さんを先頭に俺、その後ろには隆志が、さらにその後ろには叔父夫婦が続く。ここには小さな祭壇があって香炉、生花、燭台、供物が供えられていた。施設の方の指示に従って、祭壇に俺が遺影を、隆志が位牌を置く。燭台の蝋燭が静かに揺れていた。親族が全員入ると、最期に父さんの棺が台車に載せられて、祭壇の前に運ばれた。
「ここで、最期のお別れとなります。ご遺族の皆様、最期のご挨拶をお願いします」
 施設の方が棺を開く。皆で棺を囲んで父さんを覗く。髪は白髪が混じって、土気色の顔には、しわが幾重にもある。それでも穏やかな表情で、父さんはそこにいた。
 案内に従って、母さんから順に焼香をしていく。
 父さんは十分に生きたのだろうか? 後悔はないのだろうか?
 心の内で呟いてみたところで、返事などない。誰彼のすすり泣く声が聞こえただけだった。何もかも淡々と、問題など起こることなく進んでいく。
 別れが済むと、父さんは回廊の火葬炉の前に運ばれる。
「相澤孝道様の最期の旅立ちでございます。一同合掌、礼拝」
 両手を合わせて、目を閉じ頭を下げる。ゴトゴトと音が聞こえて、父さんが火葬炉に入っていったのが分かった。燃える音でも聞こえると思ったが、意外なほど静かだった。
 火葬には九十分ほどかかるらしく、ガラス張りの広い待合ロビーに案内された。待合ロビーには、テーブルをぐるりとソファが囲んだスペースがいくつもある。俺も含めて親族は、そこに窓際の一角に案内された。先に来ていた他の遺族が少し離れて、お茶を飲んでいた。ソファに腰を下ろすと、張り詰めていた糸が少し緩む。大きな窓を覗くと、芝生が敷かれ、木々の手入れの行き届いた中庭が広がっていた。
「透君は、もう就職を?」
 隣に座った叔父が親しげに聞いてきた。父さんと歳の差があるせいか、兄弟というには、あまりにも似ていない。叔父は父さんと比べて丸顔であるし、垂れ目でどこか愛嬌があった。
「ええ。なんとか」
 自嘲気味に俺は答えた。
「そうか。それなら兄貴も、安心しただろうな」
「そうだと良いんですけど」
「兄貴はああいう人だから、なかなか顔には出さないけど、内心はほっとしてるよ。きっと」
 そう思いたい。考えてみれば、大学を卒業してから、俺はどれだけ父さんを心配させたんだろう? 父さんは本当に安心してくれたのだろうか?
「就職してから逝くのか、しないまま逝くのかってことだよ」
「それもそうですね」
 叔父に言われて、ちょっと楽になった気がした。
 母さんがやって来てテーブルにお茶を置いていく。喉が渇いていたことを思い出す。
「どうしたの、それ? ここの?」
「うちからもってきたんだよ。お湯は給湯室があったからね。透は要る?」
「俺はいいや」
 母さんは「そう」と頷いて、忙しくお茶を振る舞う。相変わらず、喉は渇いたままだけど、ここにいると母さんは、俺にまで気を遣いそうだったから、俺は立ち上がって、窓を開けて中庭に出た。
 冬の寒さのせいか、中には出ているのは俺だけだった。冷たい空気が頬を差す。白い雲が空高く流れていく。靴底に芝の感触を感じる。遠くにスズメの鳴き声が聞こえた。すぐ目の前にある背もたれのないベンチに座る。植え込みのおかげなのか、風が吹き込んでくることもなく、降り注ぐ太陽に黒いコートも手伝って、五分も経たずに寒さはそこまで感じなくなる。
 窓越しに中を覗くと、母さんが茶菓子を振る舞っていた。
 母さんは、あの事実を知っているんだろうか? いや、多分知らない。
 時折覗かせる疲れきった母さんの表情が、胸に切ない。
 そう言えば、神村さんは、父さんが亡くなったことを知っているのだろうか? 伝えるべきだろうか……だけど、伝えてどうする? 何もしない方がいいのか?
 大きく息を吐いて、俺は考えるのを止めた。足下に目を向けると、一匹の黒い蟻が芝生の間を、忙しそうに走り回っていた。

     4

 葬式は無事に終わった。通夜以上に多くの参列者がいた。父さんの人柄というか、徳というものを見た気がした。葬儀には石川も杉本も来てくれた。
「わざわざ、ありがとう」
 俺は居間に並んで座る二人に頭を下げた。
 参列者の多くは斎場で帰ってしまったけれど、これから実家で精進揚げをするということで、石川と杉原にも斎場から来てもらった。母さんはとりあえず、ひと段落ということで、親戚と居間でお茶を飲んでいる。隆志は彼女と何か話している。彼女も葬儀に来てくれた。背が高く、すらりとして、思いの外、美人で少し驚いた。名前は坂田明美といった。
「気にするなって」
 石川が言う。
「寿司でも食べていってくれ」
 俺の言葉に石川はバツの悪そうな顔をする。
「気持ちだけでいいよ。少しでも相澤と話せるかと思ったんだけど、そろそろ仕事があるから、行かないと」
「私もお店、手伝わないといけない時間だから」
 申し訳なさそうな顔を二人が浮かべて立ち上がる。よくよく見れば、二人ともすでに似たような黒のコートを着ていて、引き止めるが躊躇われた。
「そうか……無理行ってうちまで来てもらったのに悪いな」
 残念だが仕方ない。実家にまで付き合ってもらえただけでもありがたかった。
「ちょっと歩けないか? そこまででいいんだ」
 俺の申し出に二人は少し顔を見合わせて、頷いてくれた。母さんに「ちょっと二人を送ってくる」と断って、俺たちは家を出た。
 沈んでいく太陽が、空を赤く焼いていた。冬の寒さが一気に体温を奪っていく。肩を並べて、俺たちは団地の中を歩く。
「俺さ、就職が決まったんだ。バイト先の上司の人から誘われて。話すのが遅れて悪いけど」
「そうか。良かったな。おめでとう。親父さんはそのことを?」
 石川が嬉しそうに祝福してくれる。
「ああ。知ってる。決まったら、わざわざ俺の店まで来たよ。うちの店まで押しかけてさ」
 俺は苦笑を浮かべる。
「それで、結婚記念日だからって、母さんに指輪を買っていたよ」
 そんな父さんが、どうしてなんだろうな……。頭の中がぐちゃぐちゃで、考えがまとまらない。
「何かいいな。そういうのって、素敵だと思う」
 杉原が笑う。素敵……本当にそうだろうか?
「母さんのことはちゃんと考えてたみたいで、温泉にまで行ったんだって。俺のところで指輪買ってからさ。本当に病気だったのか、今でも怪しいよ」
 言葉とは裏腹に、あの神村さんのことが脳裏を離れない。父さんは俺たちを裏切ったのか? 神村さんに父さんの死を、俺は言うべきなのだろうか?
「そのくせ、就職したばかりだからって、俺にだけ病気のことを隠してたんだ」
 俺は溜め息を吐いた。夕陽が目に染みて、涙が出そうになる。
「悪いな。何か愚痴ばっかり言ってさ」
「愚痴くらいいつでも聞いてやるって」
 石川が俺の肩をポンと叩く。
「コーヒーが飲みたくなったら、いつでも来るといいよ」
「そうだな……」
 本当に話したかったことは、こんなことじゃない。本当は別のことを……。
 俺は立ち止まる。二人が振り返って、俺を見つめる。
「相澤?」
「どうかした?」
 突然強い風が吹いて、俺のコートの先が揺れる。
「寒いな……」
 俺はぽつりとそう吐いた。二人には聞こえないくらいの声で――。どこからか子どもたちの声が聞こえてくる。それが公園からだということに気がつくまで、一瞬、間があった。
「そこの公園までいいよ。付き合ってくれて、ありがと」
 二人は困惑した顔を浮かべたけれど、俺は気にしなかった。神村さんのことを話したいけど、結局、この二人に相談したところで何の解決にもならない――軽く息を吐く。
 公園が見えてくると、十歳くらいの子どもたちが六、七人でサッカーをしていた。この寒い中でも、家に閉じこもっていないんだな。子どもたちは以前と変わらず、元気良くボールを追いかけている。
「相澤……、何言っていいのかわからないけど、あんまり無理するなよ」
「そうだな」
「元気出してね」
「ああ」
 俺は二人と別れた。肩を並べて歩く二人の後姿がどことなくうらやましく、二人が見えなくなると無性に寂しさが込み上げてくる。サッカー少年たちを観ながら、公園に入って、ゆっくりベンチに腰を下ろそうとして、向いのベンチに見知った顔を見つけて、息が止まる。神村さんだった。
 なぜ、ここに? 声を掛けるべきだろうか? いや、そんなことより、手紙の意味を……。
 彼女も俺に気がついて、目を見開いていた。
 俺は座るに座れず、どうしていいのかも分からずに、ただ互いに向き合ったまま――突然後ろから強い風が吹いて、俺は前に二、三歩よろめく。俺は何故か苦笑した。サッカーをしていた男の子たちの方で歓声があがった。振り向くとどうやら、得点したらしい。といってもゴールなんてないので、端から見ていても、そうそう分かるものでもなさそうだった。
 腹を決めて、俺は彼女に向かって歩き出す。ほんの数メートル先の彼女を中心に、一気に視界が開けていく。団地の家々も、コンクリートの塀も、庭先の木々の緑も、クリーム色のアパートも、広がる空も、そこに浮かぶ雲も、沈んでいく夕陽に赤く染められて、一気に目に飛び込んでくる。
 何から言えばいいんだろう? 何から……。
 ぐるぐると頭の中が回り、心臓の鼓動が早くなる。
 ――父さんは亡くなりました。……手紙読みました。
 決まらないまま、俺は彼女の前に立った。
「こんばんは」
 俺の口から出てきたのは、ありふれた挨拶だった。
「こんばんは」
 俺を見上げて、彼女が少しだけそう微笑んだように見えた。
 何を話せばよいのだろう? 頭の中は真っ白で――。
「どうぞ」
 突っ立っている俺に、彼女がベンチに座るように、促してくれた。俺は静かに彼女の横に腰を下ろす。赤かった空が、薄く紫に色づき始めていた。
「貴方が父に宛てた手紙を読みました」
 俺が先に口を開いた。彼女が息を飲んだのが、音で分かる。俺は構うことなく続ける。
「父の机の引出しから、偶然見つけて……なんと言ったらいいのか。読んで驚きました」
 そこで静かに沈黙が下りた。スズメの鳴き声が聞こえる。サッカー少年たちは、「これでラストな」とそろそろプレーを終えるらしい。
「私の母と相澤さんは、高校の同窓会で出会ったそうです。その一晩だけの関係もったのだと、相澤さんが」
 一言一言、区切るように彼女が話し始める。
「高校のころ、二人は付き合っていたそうです。お互いに気持ちが高ぶって……それで私が……」
「何をやってるんだ……」
 たった一晩で……いや、一晩でさえも……一晩だからなのか? 俺は髪を掻き揚げてうめいた。
「母はその晩以来、亡くなるまで相澤さんには会いませんでした」
「ど、どうして?」
 父さんのことだ。そんなことが分かれば、それなりにことはしたはずだ。
「わかりません。ただ母がそう決心したんだと思います。一つだけ思い当たることがあるとしたら、困らせると思ったのかもしれません。当時相澤さんは結婚して子ども、あなたがいたそうですから」
 父さんはどうしただろう。家族を捨てる人でもない。かといって――。
「それで良かったのか? 何て言うかさ、その父親を知らなくても」
「子どもの頃はそれなりに、考えましたけど、今は全然。母がいましたから」
 どうしてそんなに淡々としていられるのだろう。
「でも――」
 そこで言葉をやめた。俺は彼女に何を言える? 父さんは信じたのか? ただの与太話じゃないのか? 
 静かに彼女は続けた。
「私は相澤さんとは母の葬儀で初めてお会いしました。私は一目で相澤さんだと分りました。母が写真を見せてくれていましたから。相澤さんは私を見て、驚かれました。そのときはそのまま言葉を交わすことはありませんでした。それであの手紙を書いて、会っていただきました」
「それはいつ?」
「こっちにサークルで来たのは良かったんですけど、本当に会えるのか不安で、酔った勢いで、飲み会を抜け出して一人でここまで来たんですけど……」
 彼女がちょっと苦笑する。
「ちゃんと会ってお話ができたのは、夕方にこの公園で貴方と会ったあとです」
 そこまで言ったときに、脳裏に「けじめをつけておきたい」と言った彼女の言葉を思い出す。きっとこのことだろう。
「病院で父と会っていたのは?」
「私にはこちらの病院に入院している従兄弟がいて、それで他のメンバーとは別に一人でこちらに残っていたんです。相澤さんにはそのことを話していたら、連絡があって――」
「それであの病院で、父と会ったわけか」
 頭の中で一つに繋がる。筋は通っている。けれど――。
「はい、そうですかと信じることもできない」
「信じてくださいなんて、私も言えません」
 信じてもらわなくても構わない、そんな思いがこめられているようで、俺は何も言えない。
 サッカーをしていた少年たちはゴール前で密集していたが、結局誰もシュートを決めることが出来ずに、ボールはラインを割る。そこでキーパーをしていた男の子が「もう帰らないと」と言ったのが撤収の合図になった。
「相澤さんは、亡くなったんですね」
「どうしてそれを……?」
「入院している親戚が、新聞で見たと教えてくれました。それに、相澤さんからも聞いてましたから。随分前から悪くなっていたと」
「随分前から?」
「もう長くはないと。覚悟されていたようでした」
 やはり倒れる以前から自覚症状があったのか……。それにしても一体いつから、父さんの体は病と闘っていたのだろう。それが分かったところで、父さんは帰ってこない。結局、最期まで病のことを知らなかったのは、俺だけか……。
 吹いてくる風が、やたらと冷たい。公園の外から「明日、学校じゃ絶対決めてやる」と子どもの声が聞こえる。
「そろそろ行かないと」
 そう彼女が立ち上がる。
「貴方はどうしてこんな時間に、ここに――」
 振り返った彼女を見て気がついた。彼女にそんなことを聞いてはいけない。彼女は――喪服を着ていたから。
「いや、父に線香でもあげていきませんか?」
 そう自然と出てきた。けれど、彼女は寂しそうな表情を浮かべて、無言で首を横に振る。俺には「どうしてもですか?」と強く言うことは出来なくて、その代わりのように彼女が口を開いた。
「私はそちらに、行ってはいけないと思うから」
 ぐさりと突き刺さる一言だった。
 何を思ってここまで来たのだろう? ここから何を思ったのだろう……。俺は何と言えばいい? 彼女はきっとずっとここに居たに違いない。不意に「ありがとう」と言おうとして、それを必死に飲んだ。そんなこと言おうとした自分を恥じる。結局、俺が言えることなど、何一つない。
「そう、ですか……」
 そう言うのが、やっとだった。
「ごめんなさい」
「あやまらないで下さい。きっと父は、貴方がこうして来てくれたことを喜んでいるから」
 確かに、そう、確かに父さんは喜んでいるに違いない。
「ありがとう」
 そう噛み締めるように言った彼女の目の端が、夕陽に光ったのを、俺は見逃さなかった。俺とは違った意味で、彼女もいろんな思いが今巡っているに違いないから。
「また、会えますか?」
 彼女は少し首を傾げて、微笑んで、
「それじゃ」
 彼女は俺の問いに答えることなく、背を向けた。
 縁があれば、きっとそのうちまた会うだろう。ここで偶然会ったように――。
 彼女の姿が往来する車の中へ消えていくのを、俺はただ黙って見ていた。すっかり日も暮れて、辺りは薄く青く染まっていた。

     5

 精進揚げは十時頃に終わり、ようやく家の中が穏やかになったのは、時計が十二時を指す頃だった。隆志はいつのまにか、彼女共々いなくなっていたし、母さんは早々と寝てしまった。しんと静まり返った家の中で、俺は仏壇に飾られている父さんの遺影の前に座る。遺影をじっと見つめる。思えば、父さんは俺に何かを言おうとしていた。何を言おうとしていたのだろう。
 就職のことだろうか?
 自分の病のことだろうか?
 それとも、彼女のことだろうか?
 どれだけ見つめても、答えが返ってくるわけもなく、そんなことは分かりようもない。
 それでも知りたい。彼女の話を反芻してみる。本当に父さんは彼女のことを、最近まで知らなかったのだろうか? 俺も彼女も知らない、父さんと彼女の母親とだけが知っているようなものがあるような気がした。あるいは、彼女は何かを隠したのかもしれない。
 焼酎を飲みながら、父さんは俺に何を言おうとしていた?
 病院のベッドの上で何を言おうとしていた?
 なんだってわざわざ俺の店まで来た?
 歯を食いしばる。拳を固く握る。
 何だってこんなに悔しいんだ? 何も分かりはしないし、分かったところで、今更何も変らない。
 ふと小学生の頃に父さんと行った県北の渓谷を思い出す。
 秋の頃だった。渓谷には緑の苔に覆われた原生林が生い茂り、その間を大きくうねりながら渓流が流れていた。木々の葉は赤く色づき、その葉は渓谷を流れる碧く透き通った川へ、ひらひらと舞い落ちる。あるものは流れのない浅い瀬へ、あるものは激しい流れに巻き込まれて――。林道は赤や黄の落ち葉で敷きつめられて、歩くたびにサク、サクと音がして気持ちよかった。
 渓流の岩はコケの緑に包まれて、清流の飛沫に輝く。俺はそんな岩の上でしゃがみ、腕を伸ばして、清流に触れると冷たかった。舞い落ちた無数の葉は逆らうことなく流れていく。滝の横にある窪みに小さな渦ができて、落葉はそこをしばらくぐるぐると廻り、再び本流へ戻っていく。
 そんな自然に目を奪われていると、一緒だったはずの父さんの姿が見えなくて、無性に心細くなった。他の観光客を見上げながら、父さんを探した。細い砂利道に足をとられないように、早足で歩いた。
 轟々とする音にはっと顔を川へ向けると、大きな滝があった。その滝の前にはコンクリートの橋が架かっていて、俺は滝に吸い寄せられるように橋を渡る。橋の真ん中まで来ると、滝の水飛沫が顔にかかった。
『透。凄いな』
 見上げると、木漏れ陽の中に父さんがいた。赤や黄に色づいた木々の向こう側に、青い空を垣間見る。
 父さん……父さんはいつもそうだ。肝心なときに待ってはくれない。好き勝手にやってしまう。黙って行かないでくれ。
 涙が溢れる。
「明日戻るよ。就職したばかりで、仕事を休むわけにもいかないからさ。母さんは寂しがると思うけど」
 父さんはきっと俺がここにいるよりも、働いていることを望んでいるように思うから――。

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