三周年コメント
物書きとして

 うん。三周年です。何か不思議な感じです。単にちびちびとやってるだけなんですけどね、こういう節目というのは大事だなと、思います。

 ちょっと二周年コメントを斜め読み。それなりのこと書いてるじゃないか……一年前の自分に負けられませんね。といっても今年って、それほど作品を書いてないというのが一番の問題なんですが。新作は近いうちに、必ず書き上げますので、今しばらくお待ちいただければ幸いです。

 さてと、去年はライトノベルの愚痴っぽい話が殆どだったので、物書きとしての自分についてでも語りましょう。

 小説を書くということをぼんやりと考えだしたのは、中一くらいだったような気がします。空想するのが好きな子どもで、将来の夢で作家とか考えてました。もう一つのその頃の夢は、天文学者だったりします。星は今でもたまに見上げるくらいですけど、宇宙に憧れがあったのは確かですね。
 小学生の頃から他の子よりも本が好きだったのは確かですね。童話とかは結構読んでましたし、小学生向けの本もとかかなり読んでました。ミヒャエル・エンデの「モモ」はよく覚えてます。あとは、ムーミンとか読んでました。今でもムーミンは好きですね。あとは良く覚えてないけど、大きな帽子をかぶった小人(妖精だったかも)が冒険する奴も好きでした。帽子がベッドの変わりになったり、ボートの代わりになったりするんですよね。
 で、肝心の小説を読むようになったのは、十歳くらいでした。ライトノベルという言葉が無い頃、ライトノベルを少し読んでいたのを覚えてます。それまでにも、小説を読んできたと思うんですけど、自分の中で意識したのは、多分そのくらい。中二くらいになるとライトノベルを乱読しはじめました。中三の夏休みに読んでたライトノベルで、本当に小説を書きたいと思うようになりましたね。

 別にライトノベルとか童話にしか触れてないわけではないですよ。他にもいろいろな作品に触れているのは確かです。小説に限らず、エッセイ、考察文、説明文、論評なども入れて、ですけどね。というのも、私が通っていた塾で相当な数を国語の問題で読んでるんですよ。小説で言えば、太宰治とか夏目漱石とか志賀直哉あたりもありましたね。古文もそれなりに読んできました。触れるというのは、国語の問題という意味で、一つの作品として読んできたわけでもないので、多少の誤解もあるでしょうけど、それらの文章には相応に触れてきたつもりなんですよね。国語は好きでしたし、問題ということ以前に楽しく読んでまし、問題を解かないと帰れないから、真剣でした。

 こう考えると、子どもの頃の童話に始まって、好きで読んできたライトノベルと、勉強しながら読んできた様々文章のるつぼが、私の文章の根底にあるのだろう、そう思います。

 実際に小説を書き出すようになったのは、高校に入ってから。原稿用紙にちまちまと書いてました。パソコンなんてなかったですから。原稿用紙を買ってました。未だに白紙の奴が残っています。当時書いていたの原稿とともに。どんな内容を書いていたのかは、あまり覚えてません。読み返すつもりもないです。一応、それなりに考えて書いていたんですけど、所詮は勢い任せです。七十枚か八十枚くらいでだんだん書かなくなって挫折しました。舞台はファンタジーなんですが、何かよくわからない有り様でしたね。それでも多分、文章作法だけはしっかり守ってましたよ。一マスずつに「・・・」とは書かないだろうと、手元の小説を見て調べましたから。「?」「!」とかもね。
 このころっていうのは、とにかく自分勝手に、読者のことなど考えずに書いてました。読み返したくもないな。それでも原稿は燃やさずに取っていますけどね。それで初めて作品を完成したのは、高校三年の晩秋、丁度、今の時分ですね。夏休みとか、受験そっちのけで書いてました。高校二年のときにパソコンを買ってもらっていたので、執筆自体が大分楽で、設定とかもそれなりに作ってようやく。枚数は三百枚ほど。未だにこの作品が一番長かったりします。ごく一部の私が小説を書いていることを知っていた友人にだけ読んでもらいました。公開はできません。したくない。

 こうやってみると、高校時代というのは、原稿用紙に書いたり、完成できなかったりと、読者のことなど考えない書くことが純粋に楽しかった時期ですね。書いている作品を疑うこともしなかったし、頭の中だけで面白がっていたかな。青い時期です。ちなみに、前述の塾は高校三年まで行ってました。

 大学に入ると、意外と忙しくてバイトとかレポートに追われていた気がします。そんな中、友人から頼まれて書いたのが「MEMORY SNOW」だったりします。それについては、「一万ヒットありがとうございました」に詳しいので省きます。それから二ヶ月くらいしてから、「Moon Leaf」を書きました。これについては、結構失敗してますね。ストーリーが破綻してしますから。ネタ自体はバイト中に浮かんだものですね。「ほんの少しの未来」は書き上げるのに、間があった奴です。途中で書くのをやめて、半分くらい書き上げるのをあきらめてました。それでも、構成を考え直したりしながら、なんとか書き上げてた奴ですね。大学二年の夏くらいに、自習室でいろいろ修正してました。

 ここまでがサイトを作る以前になります。「ほんの少しの未来」以降、サイトを作るまでは完全に筆を置いている状態でした。何で置いたのかは、良く分かりません。ただ、この三作は私にとっては初期の作品で、今読み返すと、他から持ってきた借り物のイメージのように思えます。ちゃんと書いたんだけど……。でも、この三作が、私にとってはスタートのような気がします。そういう意味では、一つ大事な区切りですね。

 そして、「Summer Rain」から「この道を行くように――」までが第三期くらいあたると思ってます。この頃は、サイトも立ち上げたばっかりで、感想がもらえるのがやたらと嬉しかった時期ですね。そのわりには、結構おざなりだったと思います。誤字・脱字は未だにあるし。でも自分のイメージで作品を書いている。そういう意味では大きく違うかなと。

 さらに、「静かに消えていく」から「あなたが幸せであるように――」までは、それなりに自分なりに文章というをのを意識してたりします。それまでストーリーとかは意識してたけど、文章というのをあまり意識してなかった。というか、人それぞれに、文章が違うということの意味を、あまり考えて来なかったんだろうなと、そう思います。表現するということをしっかり考えるようになったな。

 ダイジェストに私の小説がどんなものかという部分を通して、物書きという自分を見つめてみました。実際、文章だけを取り上げれば、子どもの頃に触れていたものが大きく左右してると思いますね。無意識に取り入れてきたものが大きい。それにしても、ちびちびとやりながらも、それなりに成長してきたと思うな。

 でも、何だかんだで変わってないところもあります。小説に思うところなんて全然変化ないです。「小説なんて、ぱらぱらっと読んで、あー面白かった」でいいと思う。他に何がいるのだろうと。やっぱり面白いことが前提であるべきだと思う。小説としてつまらないのに、「ここを読んでくれ」などというのは論外かなと。だって、つまらないのは、読むのが苦痛ってことでしょ。少なくとも、読んだ人が、読んでよかったと思えるものが、良い。テーマとかは二の次。分かる人が分れば、それでいい。

 読書というのは、日常の一ページに過ぎないんだけど、読んできたものというは形を変えて蓄積されるものだと思います。そうやって蓄積しながら、幸せに繋がるものがあって、それに自分の作品が関われるとしたら、嬉しい。作品から感じてもらえたものが、形を変えてその人に何かを「いいこと」もたらしてくれれば、嬉しい。トップページにあるように「少しでもいいことがあれば」と思う。別に読んだ作品を覚えていなくても(覚えてもらえたほうがもちろん嬉しいんだけど)、無意識の片隅に残って、少しでも前を向けたり、気分が楽になったり、ちょっと考えてみたり、大事な何かに気がついたり――。幸せみたいなのに繋がっていけばいいな。最近はなんかそう思うようになりました。

 以前は、一つの作品でどんな人にも面白いと言われたいと思ってたところがあったんだけど、今は、それで駄目でも他の作品が面白いと言ってもらえるなら、それでいいかなと思う。誰かにはつまらなくても、他に誰かにとって価値があるなら。誰かにつまらなかったとしても次の作品が、その人にとって価値があればいいんだと。別に普遍的な価値が無くてもかまわない。今、その瞬間に価値があればいい。何か形を変えながらその人の中に残ればそれでいい。人は生きている間にたくさん本を読むから、その中に私の作品が一つでも何かしらの形で残ればいいな。

 小説なんて「あー面白かった」でよくて、それが何かしら心に残って、「いいこと」がもたらせれば――。
 これからはそういうのを目指したいと思います。

(別にトップページの言葉は、開設当時、こんなことまで思ってたわけじゃないんだけどね。要するに小説を読んで、「あー面白かった」でいいんだ。それが何かしら形を変えながらでも残って、生きる糧にでもなって、その人が幸せになるように作用してくれればねぇ)

(目指すのはいいんだけど、ちゃんと作品書かないと、意味が無い)

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